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◆戦史
<ロシアFAQ 目次

ソビエト連邦における最高の名誉称号であり,最優等の栄誉等級であったソ連邦英雄を受賞した人達の全リストが挙げられている.
その記念碑の画像もアップされている
空挺軍の伝説的司令官マルゲロフ将軍のページはこちら.
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月24日19:43
"КзСВУ, военное образование-военная история -и др."
ソ連軍事史に関するサイト.
何やらコサックに関する話もあるような?
http://www.kz44.narod.ru/86_90.htm
"Морская пехота в Великой Отечественной войне 1941-1945 г.г."
http://www.kz44.narod.ru/Epa1.htm
あーーーーーーー! 私が購入した本が,全文掲載されている!
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年09月15日03:18
Russian Anthems museum
帝政ロシア〜ソ連〜ロシア連邦までの国歌・行進曲など
アイマスで分かるソ連権力闘争
「ニコニコ動画」:アイマスで分かるソ連権力闘争
アイマスはよくわからんが,うp主はセンスがある,
ここら辺の歴史はカオスだから,細かい所まで気にを配らんとわからなくなるが,キャラを使ってうまく話を進めているのが好印象だ.
時々出てくるソ連流のブラック話も上手くぼかしている・・・
――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年05月19日22:53
「ワレYouTube発見セリ」:Soviet/Russian wars throughout history
【質問】
旧ソ連首脳部の最高機密を教えてください.
【回答】
これを書くと,Wikipediaとは少し異なり,書いた本人も消されたそうです.
ピョートル大帝:204cm(≒1.31hyde)
レーニン:164cm(≒1.05hyde)
スターリン(=岡田真澄):162cm(≒1.04hyde)
フルシチョフ:166cm(≒1.06hyde)
ブレジネフ:170cm(≒1.09hyde)
ゴルバチョフ:175cm(≒1.12hyde)
エリツィン:188cm(≒1.21hyde)
プーチン:170cm(≒1.09hyde)

元諜報員@FreeTibet in mixi,2008年05月18日18:35
ピョートルでかっ!
【質問】
シベリアから東って,いつからロシアが占領してたの?
北北東アジアに国家がなかったり,古代中国が進出しなかったのはなぜ?
【回答】
1558年にイヴァン雷帝が商人のストロガノフ家にシベリアの植民開拓を義務づける領有証書を交付.
この商人は,ロシア特にウクライナの逃亡農奴カザークを用い,彼らは首領(アタマン)を選出して,
ソトーニャと呼ばれる自立的軍事共同体を形成して広野に居住.
ツァーリは,彼らに辺境守備の役割を担わせた.
1581〜84年に掛けて,ストロガノフはアタマンの一人イェルマークにシベリア開拓を託し,彼は「馬のない800人」を率いて西シベリアをイルティシュ川まで征服し,シビル汗国を征服.
以降,シベリアに黒貂などの毛皮の交易所と交通路確保のための簡単な要塞であるオストロクが設置され,
後にこれが都市化する.
1604年にトムスク,1619年にイェニセイスク,1628年にクラスノヤルスク,1652年にイルクーツクが建設される.
1610年,カザークたちはイェニセイ河口に到達,1640年までにレナ川,ヤナ川,インディギルガ川の線に到達し,中央シベリアの征服完了.
1632年にヤクーツク,1638年にヴェルホヤンスクを建設する.
1648年にこれらの都市を拠点に探検隊を出し,S.デジネフにより,1648年に東北シベリア,1645年にオホーツク海に進出,ハバロフにより,1653年にアムール盆地,1679年にカムチャツカ半島に進出.
北北東については,清が勃興していたけれども,資源と人口が少ないので,権力が集中するような国家を打ち立てるのが難しかったのと,清(前身の女真とか金)の権力が強大だったために,統一国家を作るのが出来なかったと思われ.
【質問】
ストロガノフとは?
【回答】
ビーフ・シチューにその名を残す(もっとも,その因果関係については良く分かっていない)ストロガノフ家は,イワン3世時代から皇帝の信任を得,広大な土地を所有した裕福な商家.
酒井裕によれば,1574年,西シベリアの土地までストロガノフ家はイワン雷帝から賦与され,この開拓地防衛と,帝国の領土拡大のため,コサックを雇い入れてシベリアへ派遣することになったという.
これがロシアによるシベリア征服の始まりだった.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.70-71を参照されたし.
【質問】
エルマークとは?
【回答】
イラン雷帝とストロガノフ家の命を受け,エルマーク・チモフェービチは,ロシア人として最初にウラルを越えた人物.
酒井裕によれば,エルマークはボルガの盗賊であったとも,皇帝に使えていたコサックの首領だとも言われるという.
1578年10月(異説もあり),エルマークはコサック軍500〜800名を率いて,シベリア遠征開始.
河川を彼らは利用して東進.
トゥーラ川でタタール軍と遭遇して,これを小銃射撃で度々撃退しながら,1581/10/26,シベリア汗国首都イスケルを占領するに至った.
1584/8/5,ブハラ(現ウズベキスタン)の商隊をイルトゥイシ川上流で待ち伏せしていたが,彼らを尾行してきたタタール軍部隊に夜襲され,甲冑の重みから川で溺死したという.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.71-74を参照されたし.
【質問】
なぜコサックは,トボリスク(1587年設営)からオホーツク(1649年設営)まで60年あまりで到達できたのか?
【回答】
酒井裕によれば,オビ,エニセイ,レナという大河の無数の支流を水路として利用する「連水陸路」を利用することで,シベリア東進をスピーディに続けることができたという.
ウラルからオホーツク海まで,たった3回だけ船を引き揚げ,隣の支流に移動することで到達できたという.
仮にコサックが陸路を行けば,大河に阻まれ方向を失っただろうし,草原ルートを進めばモンゴル系遊牧民の襲撃を受けること必至だっただろう,と酒井は推測している.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.81-82を参照されたし.
【質問】
ヤクーツク征服までの過程は?
【回答】
1628年,コサックの百人隊長ペトル・ベケトフがエニセイスクから船を漕ぎ出し,レナ川に到達.
ヤクート族を次々と征服しながら北上を続け,32年にヤクーツク城塞を建設.
38年にはヴェルホヤンスクに町を建設.
40年,最初の軍政官ゴロウィンがヤクーツクに着任,独立した軍政部が設けられたという.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.105-106を参照されたし.
【質問】
デジニョフとは?
【回答】
セミョン・イワノビッチ・デジニョフは,1605年,北ロシアの貧農の生まれ.
詳しい生い立ちは不明.
トボリスクでコサック兵として働き,やがてヤクーツクへ移住.
1648/6/20,北極海から太平洋へ抜ける冒険のため,7隻の船で出発.
航海,上陸,食料調達とそれに伴うチュクチ人との戦闘を繰り返しながら航海を続けるが,船は河川用の小型のものだったため,行方不明や難破が続出.
10/1には最後の船も座礁してアナドゥイリに近い海岸に投げ出され,同地に要塞を建設.
アナドゥイリ川を遡って,その周辺の地図を作成し,その功により1664年,アタマンの称号を与えられる.
しかし,その最期は不明.
酒井裕によれば,新たな遠征の途上で死亡したのだろうという.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.122-124を参照されたし.
【質問】
エロフェイ・ハバーロフとは?
【回答】
コサックの首領.
1649年,アムール川探検に出発.
ブリヤート・モンゴルによって苦戦を強いられたため,一時ヤクーツクへ撤退した後,翌年,兵力を百数十人に増強して再度アムールへ.
ブリヤート・モンゴルの奇襲や,ラフカイ指揮の満州軍との激戦の後,アムール川河口までの征服を果たした.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.140-141を参照されたし.
【質問】
アルバジン城の攻防について教えられたし.
【回答】
ベケトフが1665年に同城を建設したのが,ことの始まり.
当時,アムール川周辺は清国の領土と考えられており,1685年,清兵1万がアルバジン城に立て篭もるコサック兵450人を包囲し,同城を破壊.
これに対して軍政官アレクセイ・トルブジンは,すぐに同城を再建.
これに対して清軍は1686年,再度,同城を兵力8千で包囲するも,トルブジン指揮下のコサック兵736人は,かろうじて防衛に成功.
1689年,ネルチンスク条約により,国境の確定とアルバジン城の破壊などが取り決められた.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.141-142を参照されたし.
【質問】
ステンカ・ラージンとは?
【回答】
17世紀のドン・コサックの首領.
1667〜68年,下層コサックたちの困窮を救うため,ラージンは軍団を率いてカスピ海沿岸のペルシャ領を襲い,膨大な戦利品を持ち帰る.
1670年には再び遠征を計画するが,ラージンの旗揚げに呼応してドンやボルガ流域の農民・都市下層民が次々と合流,それにつれて遠征は農民戦争へ発展した.
ラージン軍はツァリツィン(現ボルゴグラード)やアストラハン要塞を陥落させた後,ボルガ川を北上して中部ロシアへ迫ったものの,10月のシムビルスク(現ウリヤノフスク)近郊の戦いで,ロシア政府の討伐軍に敗北.
酒井裕によれば,軍隊としての規律や組織力に欠けていたことが敗因だという.
ラージンはドンに逃げ帰ったが,彼の暴挙に反感を持っていたコサックのアタマン(首領)たちに捕らえられて政府に引き渡され,1671/6/6,両手両足を斧で断ち切られて処刑された.
以下はコサックに伝わるラージンの唄.
――――――
明け方,私は夢を見た
東からの強い風に馬はおののき
私の帽子を吹き飛ばした
少佐にこの夢の話をしたら
お前の首が飛ぶ,と言った
私は夢を見た
東からの強い風に馬はおののき
私の帽子を吹き飛ばした
――――――
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.63-65 & 237を参照されたし.
【質問】
ピョートル1世とは?
【回答】
外国人(ヨーロッパ人)達から数学や技術,機械や軍事・造船などの技術を学び,それを生かし,強制的にロシアのヨーロッパ化を進めたロシア皇帝.
1696年,河川艦隊と呼ばれるロシア最初の海軍を組織.
オスマン帝国から黒海の北部アゾフ要塞を攻略し,地中海への窓口を確保.
1700年にはスウェーデンへ侵攻するも敗北.
しかし統治にミスったカール12世の隙をついて,農民達の徴兵令を出し,軍隊を再編.
またバルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め,ここを拠点とする.
1709年には,スウェーデン・ウクライナ軍を撃破.
さらに,ロシア海軍のバルチック艦隊は1714年にスウェーデン海軍を破る.
その後も戦いが続くが,カール12世の死後,
1721年に結ばれたニスタット講和でロシアはバルト海沿岸の大部分を確保.
また既にシベリアまで領土が広がっていた為,清とネルチンスク条約を結び,国境を確定している.
【質問】
アトラソフとは?
【回答】
コサックの50人隊長.
1697年,ユカギール人60人を率い,先住民から毛皮をとりたてながら,カムチャッカ半島ほぼ全域を征服.
皇帝に謁見を許され,ヤクーツクのコサック長に任命されたが,その後,ツングース川で商船を略奪して投獄される.
1706年,カムチャダール人の反乱に際し,ヤクーツク軍政部はアトラソフを釈放してカムチャッカに派遣,鎮圧に当たらせる.
しかし横暴さゆえに,仲間のコサックからも反感を持たれて遂に再投獄.
その後脱獄し,再起を図るが,1709年,自宅で睡眠中に斬殺された.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.131-132を参照されたし.
【質問】
ベーリングとは?
【回答】
ヴィトゥス・ベーリングは1681年,ホルセンスに生まれたデンマーク人.
1703年,ロシア・バルチック艦隊の少尉に任官.
1725/2/14,探検行のためペテルブルグを出発し,ユーラシア大陸東端の発見の報告書を携えて1930年春にペテルブルグに帰還.
しかしロシア元老院は,
「北緯66度18分で引き返したのは不充分.その以北でチュコト半島がアメリカ大陸と接していないとは断言できない」
と彼を非難.
そのため1733年,第2次探検に彼は出発するが,船が難破して絶海の孤島に取り残され,1741/12/8,彼は死亡した.
同島は後にベーリング島と名づけられた.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.126-130を参照されたし.
【質問】
エリザヴェータとは?
【回答】
女帝.
七年戦争にてロシア軍はベルリンへ侵攻.プロイセン王フリードリヒ2世を敗北寸前にまで追込んだ.
しかし彼女が死去した為,フリードリヒ2世信奉者のピョートル3世が即位し,プロセインは命拾いをした.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
エカチェリーナ2世とは?
【回答】
女帝.
積極的な外交政策を推進し,オスマン帝国との露土戦争や3回のポーランド分割などを通じて,ロシア帝国の領土を大きく拡大.
オスマン帝国との露土戦争(1768〜74年,1787〜92年)に勝利して,ウクライナの大部分やクリミア汗国を併合,バルカン半島進出の基礎を築いた(南下政策).
第1次ロシア・スウェーデン戦争で,ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗れたりもしているが,後に第2次,第3次のポーランド分割を主導し,ポーランド王国及びリトアニア大公国を消滅させている.
【質問】
エカチェリーナ2世には確か,愛人が6人くらい(人数は自信なし)いて複数の愛人との銅像も建っていたと思いましたが,画像は無いでしょうか?
【回答】
おそらくこれではないでしょうか.
http://petersburgcity.com/city/photos/memorials/catherine/
サンクトペテルブルクのオストロフスキー公園にある銅像だそうです.
ただ,銅像には愛人だけではなく,側近のダーシュコヴァ夫人なども混じっています.
http://www5a.biglobe.ne.jp/~SE3Q/travel/russia/petersburg2.html
【質問】
なぜロシアは18世紀半ば以降,中央アジアを主な進出方向としたのか?
【回答】
威信回復の手段であると共に,英国領インドの国境に軍事的脅威を作りだし,ロシアの黒海沿岸地域に対する英国海軍の脅威と相殺させようとしたためだという.
以下引用.
ロシアは1850年代から1880年代までの間に中央アジアを征服したが,これは地域との交易を増やしたり,保護したりするためであった.
征服からずっと遡れば,ピョートル一世は西ヨーロッパと中央アジア,さらにアジアを結ぶ国際的な一大交易ルートを開設し,独占することを夢見ていた.
その後,ニコライ2世の蔵相を務めたセルゲイ・ウィッテも,シベリア横断鉄道によってロシアは東西の交易における主要な仲介者,運搬者になれると考えていた.
しかし,中央アジアを実際に征服するとなると,商業よりも地政学のほうが重要な動機だった.
1830年代から1900年代まで,ロシアの主なライバルはイギリスだった.
イギリスは,ロシアのパワーを削ごうとして,1854〜56年のクリミア戦争に参戦したが,パーマストン卿は黒海やカフカスからロシアを押し戻し,さらに18世紀半ば以降,ロシアが獲得してきた領土の殆どを奪うつもりだった.
だが,イギリスが一国だけでこの目標を達成するには陸軍を欠き,ナポレオン三世も,こうした壮大な軍事目標を達成するのに必要な,途方もない軍事的努力を払うつもりはなかった.15
それにも関わらず,1856年のパリ条約によって,ロシアは,黒海の沿岸と河口を艦隊あるいは適当な要塞で防衛する権利を奪われると,イギリス海軍によるその後の攻撃に対して非常に脆弱になった.
このような事態を受けたロシアの対応は,中央アジアで前進していくことだった.
これは一つに,威信を回復する手段であり,さらにイギリス領インドの国境に,黒海でロシアが味わっているのと同等の脅威を作り出すためでもあった.
現実には,少なくとも1880年代まで,インドに対するロシア軍の脅威よりも,ロシアの黒海の基地に対するイギリス海軍の脅威のほうが,遥かに大きかった.
それでも,インド統治の脆弱性に対するイギリス人の過敏な懸念のおかげで,ロシアは中央アジアからの脅威という便利なカードを握ったのだった.
〔原注〕
15 A.Lambert, The Crimean War. Britain's Grand Strategy against Russia 1853-1856, Manchester University Press, Manchester, 1990の随所に描かれている.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.34-35
【質問】
ロシアの鉄道建設の始まりは?
【回答】
ロシアに於て,レールを用いた運搬手段は1760年代にアルタイ地方西部の鉱山に於て,水力を利用した装置(ドイツなどで時々見かける,水力利用のケーブルカーみたいなもの?)を用いて,鉱石を搭載した貨車を工場内に走らせたのが最初と言われています.
1780年代には,ペトロザヴォーツクの鋳鉄・兵器工場で工場内馬車軌道が誕生しています.
以後は,主に鉱山や工場内を中心に,馬車鉄道が利用されました.
蒸気機関車が誕生したのは,1834年2月の事.
ウラル中部のニージニー・タギルと言う町の工場で,農奴出身の技術者であるE.A.チェレパーノフ,M.E.チェレパーノフの親子が,重量2.4tながら煙管の数は英国標準の25本を上回る80本を使用して製作したもので,性能的には優れていました(あくまでもロシア基準なので本当かどうかは定かではありませんが).
この機関車は,工場内に敷設された400サージェン(約854m)のレール上を,鉱石3.3tを搭載した貨車を牽引して時速13〜16kmで走ったそうな.
積荷がなければ,約40名の旅客を運べたとか.
軌間は2アルシン5ベルショーク(約1,645mm),レールは1本1サージェン(約2.134m),重量は4プード(約65.5kg)であり,メートル換算では30.7kgのレールを用いていました.
これは,中央では顧みられる事はありませんでした.
以後,話だけは様々に浮かんでは消えていきます.
これは既存輸送機関の経営が圧迫されるとか,厳冬期に安全が確保されるのかとか,各種の懸念事項がありましたが,最大の懸案は資金調達の問題でした.
そんな折,ウィーンで総合技術大学の教授をやっていたチェコ人のフランツ・ゲルストネルがロシアにやってきます.
彼は教授の傍ら,鉄道技師としてもウィーンの馬車鉄道を建設した実績のある人であり,ロシア政府に対しても,モスクワ〜サンクト・ペテルブルクの鉄道などいくつもの案を打診します.
今までは,これだけで終わっていたのですが,彼には政治力がありました.
有力筋のコネを造り,利権をちらつかせ,執拗な嘆願を繰り返して,遂にペテルブルク〜パヴロフスク間25ヴェルスタ(26.7km)の建設許可を得る事に成功しました.
因みにパヴロフスクと言う町は,帝室の離宮や貴族の別荘地がある所です.
こうしてツァールスコエ・セロー鉄道会社が発足し,1837年10月30日,ペテルブルク(今のヴィテプスク駅)とツァールスコエ・セロー(今のジェーツコエ・セロー駅)の間23kmが開通しました.
ゲルストネル自らが機関士を務めた列車は,8両の客車を引いて時速60ヴェルスタ(約64km/h)で走り,両地点を35分で結んだのでした.
この鉄道は全線単線で,軌間はゲルストネルの主張で,6フィート(1829mm)が採用されました.
レールや車輌始め,多くを輸入に頼った為,建設費用は予算300万ルーブルを大きく上回る500万ルーブルに達します.
こうした状況にも関わらず,1838年4月4日にはパヴロフスクにまで到達し,全線が開業しました.
このパヴロフスク駅には,この鉄道会社により,「バクサール」と言う娯楽施設が建設されました.
元々,この地は保養地であったために,離宮に行く人間とか帝室関係者とか,貴族くらいしか需要を見込めなかったので,乗客を呼び寄せる為の施設を建てた訳です.
事業的には小林一三の大先輩ですね.
このバクサールでは,連日の様にコンサートとか舞踏会が催され,時にはワルツ王ヨハン・シュトラウスII世も招かれ,10年間夏のシーズンを送っています.
ツァールスコエ・セロー鉄道会社は其の後,1899年にモスクワ=ヴィンダワ=ルィビンスク鉄道に買収され,ペテルブルグとヴィテプスク(現在はベラルーシ領)を結ぶ路線の一部に組み込まれました.
さて,この鉄道が開業し,ロシアの厳冬期にも支障なく運行できることを証明した事で,ロシアでは鉄道建設ブームが訪れます.
時の皇帝ニコライI世は,ペテルブルク〜モスクワ間鉄道建設の是非について,委員会を設置して検討を行わせました.
また,P.P.メーリニコフとN.O.クラフトの2名を米国に派遣し,米国の鉄道経営と建設について学ばせています.
それでも,政府部内には資金の問題を始めとして,馬車や水運業者の反発,燃料に薪を使う事による森林資源の枯渇を憂えたり,運賃さえ払えば,どんな社会階級の人間でも乗れる事に対し,社会秩序を乱すと言った珍論?まで有りと有らゆる反対がありました.
1842年,ニコライI世は,遂にペテルブルク〜モスクワ間鉄道建設を決意しました.
2月1日に布告が出され,1843年より工事が始まりました.
軌間は米国人技師の助言により5フィート(1524mm)となり,以後近年に至るまで採用されていました(現在は公称1520mm).
この路線は可能な限り真っ直ぐ結ぶ事を優先した為,ノヴゴロドすら経由していません.
両地点の距離は604ヴェルスタ(644.5km)で,地図上の両地点を直線で結んだ距離598ヴェルスタ(638.1km)と殆ど変わらなかったりします.
因みに,鉄道開通前のモスクワ街道はノヴゴロドを経由している事もあり,674ヴェルスタ(719.2km)なので,如何に真っ直ぐかが判ります.
一説には,ニコライI世が地図上に直線を引き,「この様に敷設せよ」と命じたと言いますが,本当にそうなのかは判っていません.
1851年11月1日,両地点を結ぶ鉄道は開通し,両地点を21時間45分で結ぶ事になります.
これは複線鉄道であり,初年度には78万人の乗客と1,000万プード(163,800t)の貨物を運んでいます.
建設費用は6,466万ルーブルを全て外国借款によって賄い,必要資材や車輌の大半も輸入だった為,利権により莫大な利益を上げた者が大勢いたとされています.
他方,建設には50,000人を越える農奴が動員されましたが,農奴,流刑囚,抑留者達が強制的に建設に従事させられると言うパターンは既にこの頃から萌芽が見られていたりします.
建設当初は,皇帝に因みニコライ鉄道と呼ばれていましたが,革命後は十月鉄道と呼ばれてきました.
今は,両都市の間は所要時間8時間に縮まり,赤い矢号を始めとする特急街道となっています.
こうして鉄道ブームに一旦沸いたロシアですが,冷や水を浴びせたのがクリミア戦争でした.
これと国家予算の窮乏で一時的に鉄道建設は下火となり,1856年までの鉄道総延長は1,045kmに過ぎませんでした:.
ニコライI世の急死後,跡を継いだアレクサンドルII世は,国家の改革に着手します.
この中でも重視したのがクリミア戦争の戦訓から,迅速な軍隊の国内輸送が勝敗の鍵である事に鑑みて行った鉄道建設でした.
政府主導で建設は民間でも,資金は政府からの融資とか政府保証付の外債を調達するなどで賄いますが,開通後の利益保証や資材の輸入を無税とするなど,鉄道建設という名の利権制度が確立され,その結果,民間で次々と新しい鉄道会社が誕生し,1860〜70年代に掛けて年平均2,000kmの鉄道が敷設され,1870年代後半には総延長が2万kmに達します.
露土戦争で一旦其の成長は鈍りますが,政府はドイツに範を取った鉄道国有化政策に転じ,放漫経営や投機で危機に瀕していた鉄道会社を安く買い叩く事で,次々にそれらを国有化していきます.
1890年代以降は,国家主導の鉄道建設が推進され,それに伴う諸産業の発達により,19世紀末にはレールの国産化を達成しています.
1904年末,ロシア鉄道の総延長は59,533kmに達していました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/08 22:23
【質問】
18〜19世紀,ロシア軍の巨大な兵力を支えたものは何か?
【回答】
・ほぼ経済的に独立した国防産業
・ヨーロッパ最大の鉄鋼業
・農業生産と地方の繁栄
・比較的単価の安い軍事費用
によるという.
以下引用.
ロシアの軍事力の背後には,18世紀の段階でほぼ経済的に独立した国防産業と,ヨーロッパ最大の鉄鋼業があった.
肥沃な黒土地帯への領土拡張によって,ロシアの農業生産と地方の繁栄も加速した.
1800年の段階で既にロシアの国土は最大で,しかも最も人口が多かったが,19世紀には人口の爆発的増加に差しかかり,新たに征服した地域で入植を進めることも可能だった.
エカテリーナ二世の34年に渡る治世では100万人が徴兵されたが,これにはどのヨーロッパの君主も叶わなかった.
アレクサンドル一世の時代になると,ナポレオンの脅威に直面したこともあって,僅か24年間に200万人が徴兵された.19
当時の諸条件において,これだけの規模で軍の将兵を徴集し,装備を持たせ,訓練を積ませ,養っていけるような国家は,例え不安定であったり,その役割が非常に限られていたりしても,手強い存在であるはずだった.
18世紀前半には軍自身が採用制度や人頭税の徴収を殆ど一手に引き受けていたが,1775年の改革で文民の地方政府が強化された後は,一般の文民機関がこの仕事を担うようになった.
ピョートル時代以降の1世紀の間,税収の80%以上は4つの財源,すなわち塩とアルコールにかかる税,人頭税,国有地農民からの税だった.20
だが,その数十年後になると,塩にかかる税は殆ど重要性を失い,国有地農民からの貢献がなおさら重要になった.
1750年代のロシアの歳入はフランスの僅か5分の一に過ぎなかった21が,そのままの比較は危険である.
ロシアでは各連隊が徴集兵をかなり支え,支給品を賄った.
また,ナポレオン時代を例に挙げれば,戦場に騎兵一人を送り出すのにかかる費用は,ヨーロッパのどこと比べてもロシアのほうが遥かに安く済んだ.
〔原注〕
19 J.P.Le Donne, Absolution and Ruling Class, Oxford University Press, Oxford, 1991, p.105.
20 Ibid., p.144.
21 Fuller, Strategy and Power, p.105.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.123-124
【質問】
1808-09年のフィンランドは,なぜロシアによる併合に抵抗しなかったのか?
【回答】
フィンランドが対露軍事行動の拠点にされるよりは,ロシア帝国のもたらす平和のほうがマシだったためだという.
以下引用.
当時,スウェーデンの一地方だったフィンランド国境はサンクトペテルブルクに近く,あまりに脅威だった.
18世紀に露西亜が他の大国と戦争状態にあった時,スウェーデン軍は幾度も帝国の首都サンクトペテルブルクを威嚇した.
したがって,フィンランドを併合することで,国境線を遠ざけるのは理に叶っていた.
当時,フィンランド人の多くはロシアによる併合を残念とは思わなかった.
なぜなら,<北方戦争での>ポルタワの敗戦の復讐をしようと躍起になっていたスウェーデンの君主によって,フィンランドが軍事行動の拠点にされるよりは,ロシア帝国のもたらす平和のほうがましであり,しかも19世紀にロシア皇帝は,フィンランド人に類のない自治を認め,内政問題にも殆ど干渉しなかったからである.
これが可能だったのは,ロシアのフィンランドにおける利益がひとえに戦略的だったからだ.
占領した領土に自国の農民を入植させたり,あるいはその地に送り込んだ貴族を通じて現地の農民を搾取したりしようとする帝国は,直接的でしばしば容赦ない統治手段を採用する以外,選択肢を持たないものである.
帝国の利益に叶うよう,その領土の商業を操作する事は,さほど厳しくないやり方でも可能であるが,それでも帝国による介入が現地の利益に対してあまりに混乱や損害をもたらせば,その結果,政治的不満が高まり,おそらく帝国も権力をもって厳しく臨まざるをえなくなるだろう.
しかし原則的に,純粋に戦略的な目的で支配下に置かれている領土では,強力な軍隊を駐留させておく必要はあるかもしれないが,それ以外の内政問題に関しては大きな自由が許される場合が多い.
もっとも,そのような自由が,帝国駐留軍が現地の民族にとって耐え難い屈辱とならない限り,という条件付きであるが.
19世紀の大半を通じて,ロシア皇帝は,フィンランドについてこの点を理解していたようだ.
一時期,フィンランドの自治の水準を下げるよう進言されたニコライ一世は,次のように応じた.
「フィンランド人には平穏でいさせよ.
余の治世において,我が支配地域の中でほんの一瞬たりとも余に懸念や不満を呼び起こさなかったのは,フィンランド人の地だけである」22
とはいえ,19世紀末になると,ロシア政府はフィンランドを支配している本質的な理由をかなり忘れてしまい,フィンランド人への支配を強化し,フィンランド人を徴兵し,ロシアの法や言語を強制しようとした.
これが裏目に出て,初めてフィンランドは潜在的な反乱を抱える地となり,ロシアの弱点となった.
〔原注〕
22 T.Polvinen, Imperial Borderland. Bobrikov and the Attempted Russification of Finland 1898-1904, Duke University Press, Durham, NC, 1995, p.22.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.40-41
【質問】
帝政ロシアにおける将校の地位は?
【回答】
官等表では将校は,必ず同等の文官よりも上に位置付けられ,官僚より貴族の位を手にするのも簡単だった.
ロマノフ王朝の男の皇帝は,とりわけ軍に愛着を抱いており,また,近衛部隊の将校の軍団は,貴族だけでなく,ロシアの文芸・音楽といった高度な文化の聖域でもあった.
以下引用.
1721年にピョートル一世は,自ら作り上げた西洋型の軍と政府機構に務める軍人,役人の権限と地位を公式化するため,いわゆる官等表を作成した.
この表によれば,陸海軍の将校は必ず同等の文官よりも上に位置付けられ,官僚より貴族の位を手にするのも簡単だった.
最高位は近衛階級に従事する貴族の将校で,もしあえて単なる前線の連隊に移ろうとすれば,自動的に2階級昇進できた.
18,19世紀の地方の地主貴族は一般的に,少なくとも数年間は将校として務めるものとされたが,もし金銭的余裕とコネがあれば近衛部隊の将校に,さもなければ連隊の将校になった.
ロシアの貴族は,上流階級にありがちな血統に異常なほど固執し,祖先や自分達自身が仕えてきた国家の軍事的な栄光,伝統に大きな誇りを抱いていた.
この点でロシア人エリートは,中国よりもローマに近く,18世紀になると,汎ヨーロッパのモデルや軍人の伝統的な英雄的行為というイメージに躊躇せずに馴染んでいった.
ピョートル一世以降,ロマノフ王朝の男の皇帝は,とりわけ軍に愛着を抱いた.
19世紀まで皇帝達は,少なくともロシアにいる間は,軍服を着用していない姿を人目に晒すことはなかった.
しかし,中でも近衛部隊の将校の軍団は,貴族だけでなく,ロシアの文芸・音楽といった高度な文化の聖域でもあった.
貧しく,殆ど読み書きできない18世紀の地方社会で,指定を近衛部隊に送る金銭的余裕のあった豊かな地主達は,きちんとした教育を受けさせるために金を払うこともできた.
ロシア文学が概ね,官僚よりも将校達に好意的だったのも偶然ではない.18
〔原注〕
18 Lotman, Besedy, 特に9-43ページ<邦訳は20〜27ページ>
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.84-85
【質問】
18〜19世紀のロシア兵は弱兵だったのか?
【回答】
過酷な待遇にも関わらず,兵士は自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いており,そのために多くの点でロシア軍は最も優れていたという.
以下引用.
軍の場合,大衆が国家と一体感を持つための源泉としては,もっと曖昧な存在だった.
軍がロシアの領土を防衛し,拡張させたのは間違いないが,ロシアの農民は長期間の軍務を非常に恐れていた.
それはピョートルの時代に始まり1874年の軍改革に至るまで,つまり,少なくとも原則的には軍務が一律に短縮されるまで続いた.
農民達は徴兵されると死ぬまで家族や村から引き離され,しかも多くの新兵が連隊入りする前に,ショックや酷い仕打ちのために死亡した.
軍務は過酷で,将校や下士官の振る舞いは乱暴な上,19世紀になるまで医療サービスもなかった.
それでも,ロシアで数十年軍務に就いたフランス人移住者のランジュローン将軍は,ロシア軍の勤務状態は旧体制のヨーロッパの中では最悪だが,おそらく多くの点でロシア軍は最も優れていると述べている.
何故ロシア軍が最も優れていたかという引用に関して,ロシアの同時代人達は,(18世紀にしては)軍の独特な民族的同質性と兵士の強い民族的忠誠心があったからだ,と説明した.
たしかに,兵士が自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いていたことについては,どの識者も疑問視はしなかった.
ロシアの兵士や水兵達が繰り返し示してきた驚くべき軍規や自己犠牲の能力は,こうした要因を抜きには説明できない.
その上,1874年以前の兵士達はかなりの程度,市民社会から切り離されてきたとはいえ,数百万人もの文字通り一般のロシア人達は忠実で,時には英雄的でもある行為を示してきた.
このことが18,19世紀のロシア人大衆の政治的アイデンティティーに何のインパクトも与えなかったとは考え難い.
スボロフやクトゥーゾフといった英雄達,1812年の軍事作戦やセバストーポリ防衛のような非常に愛国的なドラマは,当時ロシアの大衆に多大な影響を与えたのは間違いなく,後の時代には民族主義的な政治家や知識人がそれを利用するところとなった.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.102-103
ロシアの軍事力の中核をなしていたのは,大ロシアの気候や大地での田園生活と農業で鍛えられた農民兵だった.
徴兵制が1775年以降,バルト地方やウクライナへと拡大されるまで,正規の歩兵の殆どが大ロシア人で,その後も彼らが大多数を占めていた.
7年戦争でフリードリヒ2世のプロイセンと戦った際,ロシアの歩兵は勇気,忍耐力,軍規の面でヨーロッパ中に名を轟かせ,その名声は失われなかった.
18世紀後半までには,騎兵隊もピョートルの時代より遥かによく組織され,砲兵隊は他のどのヨーロッパ諸国にも引けをとらず,革新的な兵器や戦術を展開できた.
エカテリーナ時代の戦争では,ロシアの将校は最終的に,広大で住む人のないステップ地帯を超えて大規模なヨーロッパ型軍隊を移動させるための補給に熟達できた.
これによってロシア軍は始めて,クリミア半島や黒海沿岸,ドニエプル,ドニエストル両川の河口を奪取し,支配を確立することが可能になったのである.
1762年には軍の高級将校402人の40%がロシア人以外(そのうち4分の3が,バルト出身のドイツ人)だったが,エカテリーナ時代の軍の指導的な英雄は,矢張りロシア人だった.
スボロフの率いた部隊は1799年,イタリアでフランス革命軍を破ったが,1805年から07年には,ロシアの軍高官の指揮をもってしてもナポレオンには勝てなかった.
それでも,ロシア軍は1812年から14年までの同盟軍によるナポレオン打倒で最大の役割を果たし,その過程でロシア軍もロシア自身も大きな威信を獲得したのだった.
(同,121-122)
【質問】
アレクサンドル1世は,どんな皇帝だったか?
【回答】
秘密委員会を組織し,若い友人達と共に国内の改革を実施.
しかし第3次対仏同盟に参加した為にナポレオンの侵攻を受けフリートラントの戦で敗北.
ティルジット条約を結び,イギリスに対抗してナポレオンに与する羽目に成るも,オスマン・トルコ帝国からベッサラビアを,イランからグルジアを獲得.
1815年のウィーン会議&その後のウィーン体制で,ロシアは,主導的な役割を果たすことに成功.
第二次ロシア・スウェーデン戦争にてフィンランドとオーランド諸島をすべてスウェーデンより割譲される.
またこれに先立ち1741〜43年には南カレリアを取得している.
【質問】
デカブリスト蜂起とは?
【回答】
1825/12/14,青年将校達による帝政ロシアに対する反乱事件.
彼らはナポレオン戦争の間に,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
ナポレオン戦争以後,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
ニコライ1世は反乱軍への砲撃を命じてこれを鎮圧し,ペステリ,ルイレーエフら首謀者6人が絞首刑,トゥルベツコイ,ウルコンスキイら121人がシベリアに追放された.
酒井裕によれば,この追放されてきたデカブリストによって初めて,シベリアに文化が根付いたという.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.90-93を参照されたし.
【質問】
ニコライ1世は,どんな皇帝だったか?
【回答】
南進政策を進め,オスマン・トルコ帝国と戦い,特にオスマン領のギリシャで反乱が起きると,
1827年,イギリス,フランスと艦隊を組織,
ナバリノの海戦でオスマン帝国艦隊を撃破.
引き続き1828〜29年のロシア・トルコ戦争(露土戦争)でも勝利を収め,オスマン・トルコ帝国にアドリアノープル条約を結ばせ,
・ロシアによるドナウ川の河口とカフカスの領有
・ロシアが,モルダヴィア自治州とワラキアを実質的に保護国とすること
・ギリシャの独立とセルビアの自治も保証させること
に成功.
【質問】
ドストエフスキーの軍歴は?
【回答】
フョードル・ミハイロビチ・ドストエフスキー(Fjodor
Mihailovich Dostojevskii,1821〜1881)は,モスクワで医者の三男四女のうちの次男として生まれる.
慈善救済病院の院長だった父ミハイルは妻マリヤの死後,領地にひきこもって酒びたりとなり,彼が17歳の時,領地の農奴たちに対する専横により,彼らの恨みを買って領地で殺害される.
その後,彼はペテルブルクの中央工兵学校入学.
卒業後,22歳のときに工兵局製図課へ勤務したがなじめず,1年後,中尉昇進後に退役,処女作『貧しき人々』作家デビューするも,その後,ぱっとせず.
1846年革命事件に荷担して逮捕され,銃殺刑を宣告されるも,処刑場で銃殺直前,皇帝の特赦の勅命が処刑場に到着して,間一髪で銃殺を免れた.
だが代わりにシベリアへ流刑となり,4年余り服役した後,5年近く一兵卒としてシベリア国境を警備.
1862年,そのシベリア流刑を題材とした小説「死の家の記録」で文壇に返り咲いたのだから,人生は分からない.
その後,「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」など大作を残すことになったのは,周知の通り.
【質問】
アレクサンドル2世は,どんな皇帝だったか?
【回答】
クリミア戦争では敗北しているが,1877〜78年のロシア・トルコ戦争では大勝利を収め,オスマン・トルコ帝国を屈服,サン・ステファノ条約が調印される.
【質問】
シベリア鉄道建設までの経緯を教えられたし.
【回答】
モスクワとペテルブルグを結ぶ鉄道が出来,しかも,こうした鉄道は莫大な利権を生み出す事が判ると,お金のある人間は挙って,鉄道に投資したがります.
であれば,帝国の領土であるシベリア地方とモスクワを結ぶ鉄道を考えたとしてもおかしくありません.
1839年,N.N.ムラヴィヨフと言う人物は,モスクワからウラルを越え,オムスク,トムスクを経てイルクーツクに至る路線の建設を,時の皇帝ニコライI世に進言しています.
彼の提案は未だ夢物語であり,従ってこれが採用される事はありませんでした.
1856年,シベリアを旅していた米国人実業家ペリー・マクドノー・コリンズと言う人物は,ペテルブルクからイルクーツクを経てアムール川流域を実地見分して,アムール川からオホーツク海に航路を開設する事で,この流域を通商路とすることに気がつきました.
彼は,東シベリア総督府に対し,アムール川を大型貨物船がさかのぼれる最奥部のチタからキャフタを経てイルクーツクに結ぶ路線を建設すべきであると言う手紙を認めました.
更に,この手紙には,資金調達や労働力の確保の方策について述べ,この鉄道を運行する為に,「アムール鉄道会社」と言う会社を設立するのが良いなど,事細かに書かれていました.
時の東シベリア総督N.N.ムラヴィヨフ=アムールスキーも,同様にアムール川下流域に鉄道を敷設する事を考え,コリンズの書簡とアムールスキーの計画書は首都に送られますが,これまた相手にされずに終わります.
1857年,英国人鉄道技師のダルは,ニージニー・ノヴゴロドからシベリアを横断してアムール川に至る「馬車鉄道」の計画を提案しました.
彼の計画は,「シベリアには400万頭野生馬が生息している」と言う仮定に依るもので,先ずは馬を訓練させて車輌を牽引させ,資金蓄積が出来たら蒸気機関車を導入すれば良い,と言うものでした.
こうした有象無象の提案が幾度も行われますが,中央には一顧だにされていません.
1862年に現在のシベリア鉄道の一部区間に組み込まれているモスクワとニージニー・ノヴゴロド間の鉄道が開通し,1870年には同じくモスクワとヤロスラヴリ間の鉄道が開通します.
此処で初めて政府は,シベリアへの鉄道敷設を検討しますが,資金的な問題から二の足を踏んでしまいました.
1877年にモスクワからウラル南方の都市オレンブルクまでが開通し,1878年にはウラル山脈西方の町,ペルミとエカテリンブルクを結ぶ路線が開通します.
工業の発達で,豊かな資源を誇るシベリア地域との連絡の必要性が次第に叫ばれる様になり,政府としても無視出来ない状況になってきました.
1881年,アレクサンドルII世が暗殺され,アレクサンドルIII世が即位します.
彼は政治的には専制主義的な思想を示すものの,経済は積極的に投資を行う事とし,1885年,政府を動かしてやっとウラル越えの鉄道として,サマラからウラル山脈南部を越え,ズラトウストに至る路線を認可し,この路線は1890年に開通,シベリアへの道が拓けました.
1892年にはズラトウストからチェリャビンスクまで延長され,モスクワ〜チェリャビンスク間2,058ヴェルスタ(2,195.9km)の路線が開通しました.
当時のロシアは,1861年の農奴解放で農民は自由に移住できるようになったものの,移住の為の条件が過酷だった為,土地を失い,都市に流入する元農民による人口増に悩まされていました.
シベリアへの鉄道敷設は,この農民達をシベリアへと入植させ,シベリア開発に充当する政策の基礎でもあった訳です.
日露戦争でロシアのアジア侵略構想が露わになったとか,そう言った事は実は日清戦争後に真の弱体化が明らかになってから後の話で,先ずは国内対策の為に必要としたものでした.
1887年,アレクサンドルIII世は,シベリア鉄道の建設ルートを検討する委員会を設置し,その結果,ウラジオストクとハバロフスク間の鉄道を最優先に建設すべしと言う報告が為されました.
ハバロフスクからはアムール川を用いる事でチタの近くまで進む事が出来ますので,この路線を建設する事は,ウラジオストクとチタの交通路を確立する事となります.
1891年2月,フランスでの外債募集に目処が立ち,チェリャビンスクからシベリアを横断してウラジオストクに至る路線を政府直轄で建設する事を決定します.
実はこの鉄道と言うのは,海外の投資家の間では余りにも夢想的な話として,笑い話のネタになっていました.
其処でアレクサンドルIII世は,息子のニコライ皇太子に,アジア諸国歴訪後,ウラジオストクでウスリー鉄道の起工式に出席する事を厳命します.
皇太子の出席により,ロシア政府の本気度を示した訳です.
5月31日,3週間前に大津で巡査に斬りつけられ重傷を負いますが,その傷を押して起工式に出席し,式は滞りなく執り行われました.
いよいよシベリア鉄道のプロジェクトが動き始めたのですが,時の蔵相I.A.ヴィシネグラツキーは,こうした巨大プロジェクトに対する支出は,国家財政破綻を避ける為にも慎重であるべきだと言う思想の持ち主で,彼によって財布が握られていましたから,進捗は中々進みませんでした.
1892年8月,ヴィシネグラツキーは病気の為大臣を辞職し,後任に就いたのが,民間鉄道会社出身の前運輸大臣ヴィッテでした.
彼は後のポーツマス講和の際,ロシア全権として,小村寿太郎と丁々発止の遣り取りをした人です.
ヴィッテは前任者とは打って変わって積極策に出,彼の提案で,シベリア鉄道建設委員会を組織し,委員長にはニコライ皇太子を推しました.
委員会は,次期皇帝を頭に戴いた事で絶大な権限を持ち,建設資金としてはニコライ皇太子のお陰で,フランスからの新たな借款にも成功しました.
こうして,1892年にはチェリャビンスクで西シベリア線の起工式が行われ,苦心惨憺の末,1897年にウスリー線ウラジオストク〜ハバロフスク間が全通,1899年にはチェリャビンスク〜イルクーツクが全通し,シベリア鉄道の骨格が姿を現しました.
バイカル湖は地勢が険しく,難工事が予想されるので,当面,湖上を船で結ぶ事にし,これも建設が困難なアムール線に変わっては,清国の領土を横切る東清鉄道を建設し,これは1903年に開通の見込みとなりました.
モスクワ〜イルクーツク間は特急列車が走る事となり,国産もしくはワゴン・リー社の製造した豪華寝台列車が運行されていました.
しかし,光には影が付き物.
計画段階から桁外れの資金が必要だった事は重々承知していた為,計画段階の予算はトコトン切り詰められていました.
レールの重さも,欧米の規格の半分近い軽便鉄道並のメートル当り25〜30kg程度,路盤も軟弱で,重量のある鉱石などの貨物輸送には堪えられるものではありませんでした.
また,全線が単線であり,本数増もまま成りませんでした.
これが後の日露戦争では軍隊輸送上のネックとなったのですが,兎にも角にも,開通させる事が第一義だったので,こうした弱点には目を瞑った訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/09 21:25
【質問】
ロシアの「10月革命」は10月に起きたの?
【回答】
いわゆる「10月革命」とか「赤い10月」とか「偉大なる10月」の「10月」は、「旧暦(ユリウス暦)」なので、現在だと11月になります。
(ロシアは、ボリシェビキ革命までユリウス暦を使っていた)
ちなみに、旧ソ連の「10月革命記念日」は、11月7日です。
(ロシア連邦になってからも祝日「和解の日」として残っていたが、2005年に廃止)
シア・クァンファ(夏光華) in FAQ BBS
なお,本サイトにおける「レッド・オクトーバー・フェスティヴァル」ですが,「オクトーバー」を10月の意味だと知っている人はそれなりにいても,本項目のような知識まで知っている人は少数と考え,2006年度も10月7日前後から開始して,11/7まで続けるものとします.
「核実験近しか?」の報がそのときには既にあったので,11月実施も考えたのですが,毎日1項目ずつのupなら,現状でも可能と判断した次第.
【質問】
ロシア革命時のロシア帝国軍の編成について調べています.
第1近衛騎兵師団(1-ya Gvardeyskaya Kavaleriyskaya
Diviziya)に
Her Sovereign Majesty Empress Maria Theodorovna's
Chevalier Guards Regiment
という連隊があるようですが,Maria Theodorovnaって誰ですか?
ロシア皇太后はマリア・フョードロヴナだし…
どなたかお教えください.
なんか他にも同じ名前を冠した胸甲騎兵連隊と槍騎兵連隊があるんですよ.
だから皇太后マリアの近衛連隊かなと思ったんですが,彼女は
Maria Fyodorovna
であって
Theodorovna
ではない.
父親の名前はクリスチャンだから,父称でもないし…
Maria Theodorovnaでググると「パーヴェル1世の妻だよ」とかいうのも出てくるし…
いや,確かにパーヴェル1世の妃は「マリア・フョードロヴナ」だけど….
ロシア語だと,TheodorovnaはFyodorovnaと同じなんですかね.
【回答】
ロシアのwikipediaを探したら,あった.
『Кавалергардский лейб-гвардии
полк(なんとか護衛連隊)』
のページに
『Шефы полка(連隊長)』
『2.03.1881-4.03.1917 гг. - Императрица
Мария Фёдоровна
(1881年2月3日〜1917年4月3日 マリア・フョードロヴナ皇后)』
とあった.たぶんこれなんじゃなかろうか..
その『Theodorovna』は『Фёдоровна』の誤訳だと思う.
ロシア語の『Ф』は英語の『F』に相当し,『Fyodorovna』と訳すのが正解なんだろうが,どっかで間違って『Theodorovna』としちまったんじゃないだろうか?
時期からして,アレクサンドル3世の嫁のマリアさんだろう.
【質問】
ロシア革命後のロシア経済はどんな状況だったのか?
【回答】
1914年7月に第一次大戦が勃発した時,ロシア国立銀行では金兌換を停止しました.
それと同時に,国立銀行は政府短期証券の購入が義務づけられ,銀行券の保証準備外発行限度を3億から15億ルーブルに引上げました.
これは年々引上げられ,帝政崩壊時には65億ルーブルにまで達しています.
ロシアが第一次大戦で使用した戦費は541億ルーブルで,1913年の経常歳出の17.6年分.
帝政時代は,政府短期証券と国債の発行,海外からの資金調達などが行われていましたが,臨時政府は長期国債の他,主に紙幣発行に依存しました.
ロシアの場合,英国などと違って,税収の割合が極めて少なく,しかも,開戦と同時に酒類販売を禁止(!)したため,専売収入も大きく後退しました.
このため,先ずは国債に頼ることになります.
内国債は,1914年10月に第一回が発行され,5%利付,満期まで49年間,発行価格は額面の94%,銀行の引受価格は額面の92%と言う条件で,5億ルーブルが発行されました.
こういったものが都合6回発行されています.
中期国債は,満期4年,4%利付の国庫債券が1914〜15年に8.5億ドル発行され,1916年11月に米国で5.5%利付国庫債券が5000万ドル発行されました.
他に,米国,英国,フランス各国政府や外国銀行団などから69億ルーブル借り入れています.
短期証券は,満期6ヶ月割引率5%で,帝政崩壊まで16回,173億ルーブルが発行され,国立銀行の他,軍需品を納入した会社に見返りとして引き渡され,会社は民間銀行にそれを割り引いて貰う様になっていました.
ちなみに,短期証券は,英国と日本でも13回に渡って発行され,17.6億ルーブル分が両国で売却されています.
短命に終わった臨時政府も長期国債を40億ルーブル発行しています.
こうして,国債発行額が急増した結果,1917年度の財政赤字は226億ルーブルに達し,そのうち164億ルーブルは紙幣で賄われました.
1918年11月の小売物価は,1913年平均に比べ,独で2.45倍,仏で3.65倍,伊でも4.37倍だったのに対し,ロシアでは113倍に上昇しました.
ソビエト体制になると,インフレは益々増進します.
当時の経済学者は,
「紙幣の印刷はブルジョア制度を背後から攻撃する,財務人民委員部の機関銃である」
と指摘していました.
1917年の10月革命から,1921年3月のNEP導入までに,小売物価は2700倍に上昇します.
1913年に比べ,27,600倍.
1921年末には,それが13.8万倍.
1922年末になると1,722万倍,
1923年末には23億倍,
1924年2月には171億倍に達し,Nikolai Ivanovich
Bukharinが予言した,
「プロレタリア革命後,正常な市場は廃止され現物経済化する」
という状態になっていきます〔笑〕.
これは,民間銀行を国有化して人民銀行とし,企業の国有化,農産物の挑発によって,全ての物資を政府が掌握することになり,物資の唯一の供給先が政府となった事が原因.
彼らは,価格,販売数量,販売相手を決定し,紙幣の利用は,小企業による自由価格市場にのみ許容されるものとされました.
但し,それは厳しく監視された上,最終的には小企業,商店も1920年に国有化されてしまいます.
こうした経済統制を強制するための装置,即ち,反革命,サボタージュ,そして投機取り締まりの為に創設されたのがChekaでした.
ソヴィエトの財政は,赤軍に物資を供給することが最優先とし,農村から強制挑発する物資を赤軍兵士と都市住民に配布することが基本でした.
税収についても一応,税制改革を行いましたが,税収そのものが国内混乱で徴収出来ず,1920年の税収の9割は穀物や用役と言った現物税だったりします.
加えて,10月革命直後にソヴィエト政府は,従来帝政ロシアが発行してきたり,ケレンスキー政権が発行してきた国債のデフォルトを宣言してしまったので,海外から資金を調達出来なくなり,結局,紙幣発行に頼らざるを得ず,干渉戦争や白軍との戦闘で戦費を調達しなければならないので,更に紙幣を発行すると言う悪循環に陥り,インフレが亢進した訳です.
Bolshevikにとっては,こうした戦時共産体制では,経済の非貨幣化と言う考えもあった訳で.
1921年11月にソ連国立銀行が創設され,Chervonetz紙幣が発行され始めますが事態は改善せず,1922年10月に1万ルーブルを1単位とする「1922ルーブル」を発行してデノミを実施します.
これでも,インフレの亢進は止まらなかったので,翌年に100ルーブルを1単位とする「1923ルーブル」を導入して,100万旧ルーブルを1ルーブルとなってやっと落ち着きを見せ始め,財政健全化の為,ライ麦を担保とする国債や砂糖を担保とする国債が発行されると共に,貿易による関税収入によって漸く,財政基盤は安定し始めます.
最後の仕上げとして,1924年4月10日の法律により,政府紙幣1ルーブルは,10分の1Chervonetz,即ち1923ルーブルで5万ルーブル,旧ルーブルでは500億旧ルーブルと定められ,市場に出回っていた81.3京相当の旧ルーブルが市場から引上げられました.
最終的には500億分の1のデノミ.
1920年代のドイツよりはマシかも知れませんが,お陰で国債は紙屑状態になったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月28日22:11
【質問】
ロシア革命後,帝政ロシア時代の外債はどうなったのか?
【回答】
10月革命で成立したBolshevikは,帝政ロシアやケレンスキー政権の債務不履行を宣言します.
しかし,意外なことに,帝政ロシア時代の外債は南軍の国債の様に暴落することもなく,また金利の急騰も無く,緩やかな上昇をしているに過ぎません.
10月革命まで,英国国債との金利差は3%でしたが,1918年のデフォルト宣言で一時的に11.6%まで拡がったものの,1919年までは8〜14%差で推移しています.
価格面では,1918年4月末に額面の43%に下落しますが,1918年11月末には60%以上まで回復します.
それが紙屑に近い20%を割り込むのは,1920年5月末になってからです.
ちなみに,彼の国は80年後にも同じようにルーブル切り下げと実質的なデフォルトを宣言しています.
この時は,2003年6月満期11.5%利付ドル建てロシア国債の金利が86.4%にまで急騰しました.
何故,1920年まで帝政ロシア国債の暴落が無かったか,と言うと,国内の赤軍と白軍,更に連合軍がロシアの支配権を巡って戦う,所謂内戦があったからです.
これにより,Bolshevikが敗退すれば,反革命は成就し,ロシア国債の価値が復活する,またはデフォルトが撤回される,と投資家が考えたこと,それに,ブレスト・リトフスク条約によって,ロシア帝国を継承する国家が多数成立したことで,ロシア債務の分割され承継されると考えていたことが挙げられます.
後者に関しては,露土戦争の結果,バルカン半島からオスマン・トルコの勢力が後退した際,成立した国家には,トルコ債務の衡平な分割が承認された事が背景にありました.
また,当時帝政ロシアを背後から支援していたのが,フランスでした.
1914年末時点で,フランスの対露債券は25億ドルに達し,ドイツのそれが5億ドルに対して遙かに上回っていました.
更に1887年から1917年の間に,フランスの対露投資は160億フランを超え,銑鉄生産の60%,石炭生産の50%はフランス資本によるものでした.
これだけフランスが関与しているのであろうから,フランス政府による部分的な償還が期待されたのもあります.
これは,1867年にメキシコの帝政が倒れ,後継政府が当時の債務をデフォルトした際,フランスが50%の支払を履行したことや,1918年のBolshevikのデフォルト宣言の後でも,フランス政府は帝政ロシアに替わって利払いを実施し,1918年4〜12月分のロシア国債の利札を1918年11月発行フランス国債の購入代金の50%まで充当することを認める法律を制定したり,1919年7月には,戦争に従軍した者もしくは戦争で荒廃した地域の住民で,ロシア国債を保有する者を対象に,フランス国防証券の50%までロシア国債の利札を充当することを定めていました.
こうした諸々の状況から,投資家達は先ず,Bolshevikの崩壊,次いでBolshevikが白軍に圧迫されることによって,デフォルトを撤回する,それが叶わないなら,ウクライナなどの継承国家が一部債務を引き継ぐ,それも駄目ならフランスが責任を持って一部債務の償還もしくは自国国債との交換を見極めようと考えた訳です.
ちなみに,フランスと同じように日本でも日露同盟に基づき,帝政ロシアの外債が発行されており,武器を売却した業者に渡されていましたが,その回収の見込みが無くなったことから,日本政府が2%利付国庫証券を発行して,それら業者に渡したこともありました.
最終的に,Bolshevikは内戦を勝ち抜き,白軍や干渉軍は結局敗退することになり,投資家の夢は無惨に打ち破られることになります.
こうなると,南軍の時と同じく,価格下落に歯止めが掛からず,最後には紙屑になってしまった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月01日22:42
【質問】
1918〜1922年のロシア内戦による死者数は?
【回答】
歴史家ヴィクトル・トポリャンスキイによれば,少なく見積もっても3500万人が死亡.
他に700万人が戦闘で負傷し,1400万人が各種伝染病に感染,浮浪児が550万人発生したという.
トポリャンスキイはこれらを,ロシア共和国保健人民委員部の報告などから推計している.
詳しくは『不死身のKGB』(ナターリヤ・ゲヴォルキャン Natalija Geworkjan
著,エディションq,1998.9.10),p.34-35を参照されたし.
1917-1922年のロシア軍の軍装

(画像掲示板より引用.原出典不明)
【質問】
ニコライ2世の最期は?
【回答】
ウラル派のスヴェルドロフの画策により,1918年春,皇帝一家は「ウラルの赤い首都」エカテリンブルグに連行されたが,7月,エカテリンブルグに白軍が迫ったため,17日深夜,銃殺された.
遺体はトラックで郊外に運ばれ,廃校に突き落とされた.
顔と体を識別不能にするため,上から多量の硫酸がまかれたが,1991年,ロシア保険省から依頼を受けた英国内務省のDNA鑑定によって,遺体の真偽を特定することができた.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.76-77を参照されたし.
なお,巻末の参考文献を見るに,この部分の元ソースは,『皇帝ニコライ処刑』(エドワード・ラジンスキー著,日本放送出版協会,1993.6)である模様.
【質問】
カルミコフとは?
【回答】
20世紀初頭の極東コサックの,アムール・ボイスコ(軍管区)のアタマン(首領).
ロシア革命後の内戦において,白軍側に味方するが,赤軍有利の戦況のため,部下のコサック兵1200人と共に,凍結したアムール川を渡河してハルピンに逃れたが,同地でチェーカーの女性諜報員によって殺害された.
現在でも,彼らの末裔であるコサック4500人ほどが,中国東北部で暮らしているという.
詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.142-143を参照されたし.
【質問】
ロシア革命にかこつけて,日本はシベリア出兵を行いましたが,
「どこまで行くか,どこで止まるか,最低どれだけ占領するか」
を定めてロシアに赴いたのでしょうか?
なんだかずるずるとイルクーツク辺りまで行った様ですが……
当時から陸軍は暴走し始めていた?
【回答】
元々,第一次大戦時点では,第三次日露協商を締結して日ロは同盟関係にありました.
当時,日本は武器の供与や接収軍艦の返還などを行い,間接的にロシア政府を支援しています.
また,貿易面でもロシアは欧州側航路が殆ど使えない為,アジア側の貿易航路を使わないと駄目で,
しかも,内陸輸送費をさっ引くと,輸送距離が一番近い工業国は日本ですので,日本との貿易額が急増していました.
その政体が引っ繰り返って,新たに出来たのは,「人民が主体となる」政体の所謂「過激派」が中心の政権でした.
その思想は,皇帝を中心とする権力の否定であり,天皇を中心とする国家運営を行っている日本にとっても,脅威となる政体で,それがドイツと単独講和したことで,「ドイツの傀儡である」と規定しました.
そのため,日本としては,こうした過激な政権を膺懲し,加えて,元々併合した朝鮮と,進出しつつあった中国東北部の安全確保の為の緩衝地帯設定ならびに空白化した資源地域を確保すべく,進出したのがシベリア出兵です.
但し,バイカル以東を領土にすべきという主張は,マスゴミを含め一部の過激派だけで,政府としては米国含めた連合国との共同歩調を取ると言う姿勢に終始しています.
(自由出兵の余地は残してありますが)
英仏伊が日本に要求した条件としては,ロシアの領土主権は認め,ロシア内政に干渉しない,ドイツ軍と会戦のため,出来るだけ西に進軍すると言うものだったりします.
つまり,この案を日米が受け入れれば,日本はドン河まで進軍できる訳.
対して米国は,7000名の兵力に限り,チェコ軍の救援に限定すること,と保留を付けてきます.
すったもんだの挙げ句,日米英の合意で,兵力をシベリアに派遣することになりましたが,既にチェコ軍は崩壊したため,大義名分は無くなってしまいました.
ここで日本は方針を転換し,ロシア白軍(ウラル・コサック軍と特にコルチャック軍)を支援し,彼らを日本の影響下に置いて,ソ連との緩衝国家とし,沿海州に自国の拠点を設ける,出来れば,沿海州を日本の勢力範囲と規定したいと考えた.
なので,当初方針では,ウラル方面でチェコ軍と合流する為にイルクーツクくんだりまで行った訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ソ連って何?
【回答】
ソビエト連邦(ソ連)とは,約30年前までアメリカを初めとする西側陣営と対立していた,ロシアを中心とする社会主義国連合.東側陣営.現在は無い.
ウクライナやウズベキスタン,アルメニアなど10数カ国で構成されていた.
東西冷戦とよく聞くだろうと思うけど,それは東側(旧ソ連,ワルシャワ条約機構)と,西側(欧米,北大西洋条約機構[NATO])の軍拡競争の事.
旧ソ連の最大兵力

【質問】
ソ連はロシア人を中心とする帝国で,ウクライナ人,グルジア人などの少数民族は弾圧されていたのでは?
【回答】
佐藤優によれば,そういう見方は間違いだという.
何故ならば,ロシア人の血が流れておらず,ロシア語もそれほど上手でなかったスターリンが,ソ連帝国の指導者として君臨し,多数のロシア人を銃殺したり,強制収容所に送り込んだという事実が説明できないからだという.
ソビエト人が忠誠を誓う対象は,特定の民族ではなく,ソ連共産党中央委員会であり,この力の中心に抗(あらが)う者は,ソルジェニーツィンのようなロシア大国主義者であっても弾圧されたという.
ちなみにロシア語では,「ルスキー」が肌の色や体型を基準にしたロシア人概念であるのに対して,「ロシヤーニン」はロシア国家に対する忠誠を誓う者を指すロシア人概念であり,スターリンはロシヤーニンだった,そして現在も,グルジア人,ウクライナ人,リトアニア人であっても,ロシア国家の利益のために尽力する者は,すべてロシア人「ロシヤーニン」なのだ,と佐藤は説明している.
詳しくは,『佐藤優の「地球を斬る」』,2008/8/13付を参照されたし.
【質問】
ソ連が共産主義思想を,コミンテルンを組織してまで世界に広めようとした理由がよく分かりません.
世界で自国と同じように共産主義革命が起これば,ソ連が主導権を握り,世界を支配できると考えた上での行動だったのでしょうか?
だとしても,極端な話,米国を共産化したところで,ソ連の共産党本部の意のままになるとも思えないのですが
.
【回答】
元々,共産主義の究極の理想は世界革命で全世界が共産化して国家が不要になること(永久革命論).
そうすることで初めて資本家を根絶し,社会主義体制が建設できると考えていた.
コミンテルンはこれにのっとって組織された.
だがスターリンはこれを無視して一国社会主義を採用し,世界革命を唱えるトロツキーらを追放・暗殺した.
しかしソ連にとって,資本主義国家が敵であることに変わりはなく,資本主義諸国(国家社会主義諸国を含む)もソ連を脅威と考え敵視していたため,他国の共産主義化=親ソ化のための努力は続けられた.
特に冷戦が始まってからはそれが激しくなる.
この辺がイデオロギーの必然的衝突なのか,大国同士の必然的衝突なのか,明確に区別するのは難しいと思われる.
とにかく互いに,相手を滅ぼさねばならない,そうしないと自分が滅ぼされる,と考えていた.
(互いにそう考えているということは,それが事実だということでもあるが)
実際のところ,共産中国は後に共産主義の路線の違いから,ソ連と袂を分かって米国に接近した.
米国が共産化しても,ソ連の僕であり続けたかは疑問だな.
ユーゴやアルバニアすら統制出来てないし.
【質問】
スターリンはベリヤによって暗殺されたとの見解もあるけど,本当でしょうか?
軍事板
青文字:加筆改修部分
【回答】
ガセである可能性が非常に高い.
以下は,『スターリンの死』(ジョルジュ・ボルトリ著,ハヤカワ文庫,1979.5)より.
――――――
彼ら(マレンコフ,ベリア,ブルガーニン,フルシチョフ)は眼をさまし,3月1日が一日中,スタ−リンのスの字もなく過ぎてゆこうとするのに驚いた.
彼らのボスは,日曜日に彼らに電話をかけたり呼びつけなかったことは今まで一度も無かった.
孤独にはまりこんだスターリンは,1人でいることが恐ろしかったのである.
スヴェトラーナはスヴェトラーナで日曜のこの日,クンツェヴォに電話をかけた.
父に話すことはできず,
「行動はございません」
という当直将校の声がはね返ってきた.
これは,スターリンがこの別荘の奥にある厳しく簡素な部屋のひとつに引きこもって,出てくる様子がないということを意味した.
その場合,スターリンの邪魔をすることは禁じられていたのである.
こういうとき,スターリンは昔からのくせで,夜と昼をとりちがえて,長椅子に横になってずっと眠っているのかもしれなのである.
前夜食卓をともにしたマレンコフ,ベリア,ブルガーニン,フルシチョフのダーチャに電話がかかってきたのは,その夜もかなり遅くなってからのことだった.
電話してきたのはスターリンではなく,護衛隊の将校だった.
至急来られたいと言った.
何かがあったのだ.
4人とも大急ぎで仕度し,人影のない,ほんのひとまたぎの"政府専用路"を高速で飛ばしてかけつけた.
(中略)
邸内には混乱と不安に満ちた慌しさが感じられた.
スターリンは夕方になっても,食事の用を命じるベルを鳴らさなかったのだった.
しかしチェキストどもは,スターリンへの畏怖から何時間もの間ただ待ち,主人の篭っている神聖な場所に敢えて足を踏み込もうとしなかった.
(中略)
彼が着のみ着のままで絨毯の上に横たわり,重く異常な眠りを眠っていたのはすでに翌朝の3時であった.
――――――(引用ここまで)
この記述のベースになているのは,フルシチョフとスヴェトラーナ(スターリンの娘)のようです.
また,『KGB極秘文書は語る』(アンドレイ・イーレシュ著,文芸春秋,1993.4)には,
「第六章 スターリンは謀殺されたか」
と題する1章があり,内容は上記とほぼ同じ.
もしかしたら元ソースが同じなのかもしれない.
一方,ベリヤ陰謀説の側に立つものとしては,『スターリン謀殺』(アブドゥラフマン・アフトルハノフ著,中央アート出版社,1991.4)があるようだが,編者未読につき,念のため.
【質問】
ベリヤを追放したのは誰?
【回答】
フルシチョーフ.
★★★同志スターリンと語らいあうスレ【24】★★★
http://island.geocities.jp/sutasure/dijest/digest24.html
土工
149 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/05/14(日)
15:19:14 ID:???
,,.-―― - 、,
, ''´ `ヾ、
/ミ' ‘ii
lミ゛ ll
_ fl ニ _ ,, ニ |、 いろいろと偉そうなことを言う奴がいるようだが,
〈 rヽ '' -・= -・=` ,l7 お前らにベリヤ処刑のイニシアチブがとれるのかぁ?
. マゞ'  ̄7 ヽ ̄ |'
. `'l /ゝ‐v‐' ヽ l 当時俺や他の幹部の護衛隊は全てベリヤの直属,
. | ト‐ェェェ‐イ | モスクワには内務省軍の部隊が進駐していたんだぞ.
! ヽ `=='' ,ノ ,/, しかも数年前に党の最高幹部が一人処刑されたばかりだ.
,, :::''´/\ ヽ -一 .::/ハ`:::、, 誰かが裏切れば俺自身が殺されていたんだ.
´::::::::::/::::::::ヽ 、 _:::;;/
/::::::ヽ:::::
ダイジェスト 21スレ
★★★同志スターリンと語らいあうスレ【21】★★★ より
http://island.geocities.jp/sutasure/dijest/digest21.html
サヴェツカヤ・ペースニャ「ドン河の歌」他3曲
729 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/04/23(日)
23:11:33 ID:???
フルシチョフ回想録といえばやはり一番の山場はベリヤ逮捕の陰謀でしょう.
個々の高官達の護衛隊すら指揮するベリヤ内相を打倒すべく,
恐怖する党幹部達に密かに連携を持ちかけていく描写は素晴らしいものです.
___ __________
∨
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[,,|,,,,★,|,] || || [,,|,,★,,|,,] / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(,*´∀`) 目 目 ( ・∀・,,) < ジューコフ以下の元帥や将官に拳銃で武装させ,
( つ )つ ⊂ NKVD,) | 幹部会の会議で突然「ベリヤ問題」を提起.
┃レ __ | ̄ ̄ ̄ ̄ | ___,ノ┃ | すでにベリヤ以外の幹部達とは話をつけてあり,
┗━┳┳\ | ̄ ̄ ̄ ̄|,/━┳┳┛ | フルシチョフの論難が終わるとマレンコフ首相が
┃┃ |_____,,| ┃┃ |
机のボタンを押して「部隊」を引き入れる…
___∧________________
地下に監禁されたベリヤは必死で助命嘆願の手紙を皆に書き送りますが
当然の如く無視され,ペンと紙をとりあげられてしまいます.
後の秘密裁判で死刑を言い渡されたとき,その場に崩れ落ちたといいますから
やっぱり死ぬのは怖かったんでしょうね.(以上の出典は別の本ですが
730 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2006/04/23(日)
23:12:55 ID:???
男なら一度はこういう国家的規模の大陰謀を
組織してみたいですね.
___ __________
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[,,|,,,,★,|,] || || [,|,★,,,|,,]
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`) 目 目 (・∀・;,)
< 同志,陰謀は帝国主義者のそれで十分だ.
( つ )つ ⊂ NKVD,) | つか俺らは陰謀を粉砕するのが仕事だろうが.
┃レ __ | ̄ ̄ ̄ ̄ | ___,ノ┃ | そりゃそういうことをしないわけでもないが…
┗━┳┳\ | ̄ ̄ ̄ ̄|,/━┳┳┛ | そろそろ次の曲にいこうか.
┃┃ |_____,,| ┃┃ |
___∧________________
CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月18日22:28
【質問】
最近,史学科でソ連について調べていたんですが,70年代から80年代後半まで,日本にとってソ連はどれぐらい存在感があったんでしょうか?
86年生まれなので,物事が分かるようになった頃にはソ連が崩壊してしまったので,よくわからないのです.
今の北朝鮮のような感じでしょうか?
【回答】
1990年代になって冷戦が終わるまで,日本人は皆,
「明日にも核戦争になるかもしれない」
「明日にもソビエトとアメリカが戦争を始めて日本は戦争に巻き込まれるかもしれない」
という恐怖の中で生きていた.
今の中国と北朝鮮を足したような感じ(というか,今の中国と北朝鮮に対する恐怖感は,対ソビエト恐怖がそのまんま移ったものだ)だが,アメリカとタメを張って世界の支配者の座を争ってただけに,批判的な人でもある種の畏敬の念を持っていた.
「立ちふさがる巨大な敵」という感じか.
ヲタク・ネタだが「愛国戦隊大日本」っていう戦隊もののパロディがあって,これは当時の「ソ連脅威論」を茶化したものだが,概ね世間一般の認識はそんなものだったと思う.
「世界征服を企む強大な悪の秘密組織」みたいな感じね.
あの頃は全てが単純だったな.
全てが善と悪の二元論で,人によってどちらかにアメリカを,どちらかにソビエトを入れればいいだけだったから.
ミリヲタ的視点で言うなら,ソビエトの軍事関係はほとんど情報公開がされなかったので,イメージが先行し,みんな「脅威の超兵器」みたいな扱いだった.
ヘリ空母(ソビエト的名称は重航空巡洋艦)が日本海に回航されて来た時には,国内の新聞社は総出でチャーター機を繰り出して追い掛け回し,接近しすぎて自衛隊と米軍に怒られたほど.
「ニホンジンはマスコミ関係者ですらカミカゼだな」
と,アメリカ海軍の偉い人に呆れられた.
Mig-29が初めてフィンランドに飛来した時には,国内の航空雑誌と模型雑誌が大々的に特集を組み,即座に模型が出た(情報不足で酷い出来だったけど・・・).
ある種「輝ける悪のヒーロー」だったね.
現実的にも1980年代には,毎日のようにソビエトの領空侵犯機が日本海側から飛来して来ていて,存在感は大きかった.
【質問】
チェルノブイリ原子力発電所で石棺を作る作業に,ソ連兵が借り出されましたが,その際,
「アフ【ガ】ーニスタンで2年間」
か
「チェルノブイリで2分間ガレキ撤去」
を兵士に選ばせたそうですが,兵士的にはどちらが割に合うんでしょうか?
【回答】
何するか分かっているなら,アフ【ガ】ーニスタンに行くほうがマシじゃねえのかな.
何しろチェルノブイリでは防護服もマスクも無で,原子炉の爆発現場を処理するんだから.
Wikipediaでは,
・アフガニスタン侵攻時のソ連軍兵士の戦死者数
1986年1333人
1987年1215人
1988年759人
1989年53人
一方,チェルノブイリでは事故発生直後,原発作業員や消防士の他に,事故処理のために多数の軍人や労働者がソ連各地から投入された.
これらをリクヴィダートルという.
事故直後は,原発付近で決死隊的な住民誘導,発電所の消化・清掃,「石棺」の建設作業,などに携わった.
全体で60 万人〜80 万人が参加し,うち20
万人は放射線の強い1986〜87 年に参加.
具体的な死亡者数は不明な点が多いが,これまで把握されている死者から推定すると,20年間で数万人が死んでいても不思議ではない.
なにしろ放射能防護服どころか,簡単なマスクやヨウ素剤の事前投与,汚染除去用のシャワールーム,放射線から隔離された休憩室や着替えの服,きちんとした事前の指示や安全教育があるか,そういったレベルすら怪しかったのだから.
唯一豊富にあったのはウオッカだけ,という話も.
どんな作業をやったかについては,以下引用.
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/GN/GN9206.html
[quote]
しかしこの頃,現場では難題が持ち上がっていた.
地上の除染はかなり進行し,石棺の建設もぼちぼち屋根を乗せる段階に入っていたが,3号炉の屋上と排気塔のプラットフォームには,事故当時のまま原子炉の破片が散らばっていたのである.
石棺の屋根が出来上がる前に,それらを集めて石棺の中に投げ入れねばならなかった.
そこの放射線量は500〜800レントゲン/時に達していた.
初めに,ソ連製や日本製のロボットが投入されたが,全く役に立たなかった.
現場にはパイプが走っていたり段差があった上,強い放射線でロボットのエレクトロニクスが壊れたという.
作業を遅らせるわけには行かなかった.
チェルノブイリ事故処理政府委員会は結局,人海戦術による除染,すなわち兵隊を「バイオロボット」として投入することを決定した.
まず偵察隊により放射線量の測定が行われ,さらに上空から写真をとったりして調べた結果,屋上に散らばっている破片の量は140〜150トンと判明した.
建設中の5,6号炉建屋を用い,ダミーの黒鉛や燃料棒片を用いてモックアップ訓練が行われた.
被曝線量のめやすは20レントゲンとされた.
現場の線量を500レントゲン/時とすると,2.4分の作業時間である.
兵隊たちが身に付けた装備の重さは20〜25kgにもなった.
1人当りのノルマは,黒鉛で50kgか燃料片で10〜15kgとされた.
9月19日より作業が始まった.
バイオロボットには,35才以上の頑健で精神的にもしっかりした兵隊から志願者が選ばれたという.
チェルノブイリを描いた映画に,この作業の様子が出てくるので,記憶にある方も多いであろう.
兵士たちがシャベルを使って,破片を投げ降ろしているシーンである.
作業の様子をテレビカメラでモニターし,ストップウオッチで時間を測り,時間になるとサイレンで知らせた.
何人のバイオロボットが動員されたかは定かでないが,1人50kgのノルマで総量150トンとすると,3000人ということになる.
平均被曝線量は,12〜20レムであったという.
10月1日,屋上の除染が終了し,兵隊たちは,戦いの勝利の証として排気塔の上にソ連国旗を掲げた.
しかし,この旗は,それを見て驚いた上司の命令によって,すぐに地上から撃ち落とされた
[/quote]
そんで,被曝でなにが一番やばいかって言うと,体に直接放射線が当たる一時被曝よりも,放射性同位体を体の中に取り込んで起こる二次被曝のほう.
厳重に粉塵を吸い込まないようマスクやら口元にタオルを覆うかして,現地の飲食物を取らないようにすれば大丈夫だが…….
事実,石棺をつくる作業に携わった労働者は放射線の危険など一切知らされず,長期間普段着のまま作業をして放射線障害で亡くなってる.
正確な死者数は公式には発表されてないんだったかな?
この辺はうろ覚えなんだが,数千とか数万人規模だったかと.
●要約
私も基本的に現解説に同意.
ただ,「チェルノブイリで2分間ガレキ撤去」でも,その内容によって早期死亡率や急性放射線障害等の有無が大きく異なるため,早々簡単には比較できない.
ただ,「チェルノブイリで2分間ガレキ撤去」の当時の実際の記録映像を見る限り,簡単に言っても以下の大きな問題点がある.
1. 作業服に大きな問題がある.
防護服とのことで20kg弱の鉛のエプロンは有ったが,あれでは無いよりかはマシ,と言う程度.放射線を完全に遮蔽できる物ではないし,顔や手足は全面マスクをした程度で,無防備に近い.
そもそも,放射能(放射線)防護に用いる個人用被服(装備)は,余程特殊な場合で効果が期待できる物でない限り,人体内部に放射性物質を取り込む内部被曝を防止するための物で,外部に飛び交う放射線から被曝する外部被曝を防止できるわけではない.
2. 放射線被曝量(以下,単純に被曝もしくは被曝量とする)の管理が信用できない.
どうやらフィルムバッチやポケット線量計などの直接測定ではなく(ただし映像を見る限り有るべき所にないと言う程度であり,文献などでの明確な裏付けはない),「時間管理」という緊急時とはいえ,かなり問題のある手法である.
おまけにホットスポットの存在を考えると,大変危険.
そのため,目安値が有り,平均値も出されているが,どこまで信用できるかは疑問.
以上より,「チェルノブイリで2分間ガレキ撤去」ではその場で急性放射線障害を起こさなかっただけマシであり,後々の障害(ガンの発生リスクなど)の恐怖に死ぬまでおびえることを考えると,「アフ【ガ】ーニスタンで2年間」の方がまだマシと考える.
ただし,現在の日本に於いて,同じような状況となった場合――考えたくもないが,覚悟し備えはしている――の装備において,同様の処理を行う場合,注意点さえ厳守すれば,被曝量は問題のないレベルに抑えることが出来るため,評価は逆転する.
●解説
まず,緊急時作業として,現在どれくらいの被曝量が許容されているのか理解していないと,全くもってその深刻さが分からなくなるため,まずはその紹介から.
分かりやすい例として,ICRP(国際放射線防護委員会)新勧告と現勧告から
ICRP新勧告案(2006.6)の特徴
「2006年新勧告案(第2次ドラフト)」では
(213)職業上被ばくし,緊急時の状況に関与する作業者は特殊な条件に従うべき人命救助を含む救助作業を行う最初の対応者については,他の者に対する便益が救助者のリスクを明らかに上回る場合に限り,基本的に拘束値は勧告されないそれ以外に、重大な傷害または破局的状態の進展の防止を伴う救助作業については,約1000mSv(旧単位では100rem)以下,理想的には100mSv(同10rem)以下に維持する
多くの人々がこうむる傷害または多量の線量を防止する救助活動については100mSv(同10rem)以下に維持する復旧活動については,通常の職業線量限度を適用
「1990年勧告*1」(現在の日本の法令規制値のベースとなった物)では
(225)事故の制御と即時かつ緊急の救済作業における被ばく線量は,人命救助を例外として約0.5Sv(同50rem)を超える実効線量とならないようにすべき
皮膚の等価線量は,人命救助を除き,約5Sv(同500rem)を超えることは許されるべきでない
緊急事態がいったん制御されたならば、救助作業における被ばくは,職業被ばくの一部として扱われるべき
とりあえず,難しい事を抜きにすると,このような破局的事故の場合,新勧告案では約1000mSv(旧単位では100rem),現勧告案では約500mSv(旧単位では50rem)が最大限界という事になる.
ただ,これは最悪の状態を想定しているのであって,いくら破局的な場合でもこれ以上の被曝は許容できない(すなわち,これ以上では安全は保証できない./なお,1000mSvが一般には急性放射線障害(悪心,嘔吐など)の閾値とされている.
)という事に注意する必要がある.
詳しくは
被曝 - Wikipedia
を参照.
ただし,今中哲二氏の記述には直接の証言,測定値を引用している部分以外,基本的に過大な信用は禁物である.
なぜなら,反原子力の立場を取る氏が,被曝量をつり上げようという意図が満々であり,影響を過大に評価するための仮定を積み重ねているため,数量的には当てにならず,一次資料の部分のみを検討すべき事に注意が必要.
その上で,厳密には異なるが,おおざっぱには「1レントゲンの放射線被曝=1レム(rem)」となるので,読み解いてみると,
>被曝線量のめやすは20レントゲンとされた.
換算すると200mSvとなるため,上記のICRP勧告値(新1000mSv/現行500mSv)と比較して,それほど無謀な値とは言えない.
>平均被曝線量は,12〜20レムであったという.
同じく換算すると120〜200mSvとなるため,非常に大きな被曝量(ちなみに通常,私のような職業人の年間最大は50mSv,5年平均で20mSvだが,私自身の場合それより1〜2桁以上低いのが普通)とは言えるが,上記のICRP勧告値(新1000mSv/現行500mSv)と比較して,それほど深刻な値とは言えない.
ただし,この「数値の計測,集計がまともであれば」との制限が付くが.
また,初期段階では25レントゲン(250mSv)の被曝基準が設定との情報だが,これもこの基準自体はさほど無謀な物ではない.
ただし,現地の放射能による汚染の程度は,照射された核燃料(つまり文字通り致命的な放射能の固まり)が飛び散っているため,当然一様ではないのは容易に想像が付く事.
本来なら放射線量の測定をして,特に危険な地域を特定すべきであるが,そのようなことをすれば,あっという間に大量の被曝をし,急性放射線障害を起こしてしまい,重要な技術を持つ測定員が失われてしまうのは必至.
そのため,やむを得ず
>作業の様子をテレビカメラでモニターし,ストップウオッチで時間を測り,時間になるとサイレンで知らせた.
との「時間管理」の手法がとられた.
よって,厳密な個々人の被曝量管理を行わない限り,これらの基準を容易に超えることがあるのは必然であり,その基準の4倍以上の放射線を浴びて,急性放射線障害(悪心,嘔吐など)が現れても全く不思議ではない.
また,今中哲二氏が知識としては理解できても,分析として根本的に理解できていない事は,
「放射能は時間とともに減衰する.」
と言う事.
「何を当たり前の事を」と思われるかも知れないが,チェルノブイリ事故の場合,運転中の原子炉が爆発したため,長期的に問題となる長い半減期の放射性物質以外に,短い半減期の放射性物質も大量に放出された事が指摘できる.
つまり,事故直後に最大値を迎え,その後,かなりの勢いで下降するということ.
(ただし,元々があまりにも高すぎるのは言うまでもないが)
すなわち,
「事故直後から,現地に着いて活動を始めたのが早ければ早いほど,同じ場所,同じ長さの同じ作業をしたとしても,被曝量は跳ね上がる.つまり,その平均値の議論にはあまり意味が無く,個々人の被曝量の分布,とくに急性放射線障害発生の閾値を超えたかどうか,が重要となる.」
と言う事になる.
そして,放射性物質による汚染が一様ではなく,局所的に高いところ(ホットスポット・今回は照射された核燃料も含むため文字通り致命的)もある事から,相当厳密な個々人の被曝量管理を行われていない限り,特に事故直後に現場に入った消防士や兵士などに,報道されるような急性・晩性の放射線障害が発生しても不思議ではない.
なお,この場合の被曝形態として,以下の2つが挙げられる.
<ちなみに一次/二次被曝と言う言葉は,「元々放射能の汚染のあるところなどで,直接,放射線を浴びたり,放射性物質が付着,もしくは内部取り込みをしてしまい被曝」/「本来は放射能の汚染などないはずところで,よそから持ち込まれた放射性物質で被曝」との意味合いの方に取られかねない(むしろ普通はこちら).そのため普通は使わずに,外部被曝/内部被曝というのが通常.
1.外部被曝:主にγ線の被曝が問題となる.
このような場合,常時,放射線の線量計(もしくはフィルムバッチなどの測定機器)を携帯していないと,正確な被曝量の評価ができなくなります.そのため,先述の値が本当に正しいのかどうか,よほどしっかりしていなければ疑いの目で見られる事となる.
なお,注意しなければならないのは,汚染現場を離れれば,確かに放射線量は減るはずだが,放射性物質が身体や衣類・靴に付着していた場合,そのまま被曝し続けるという事.
これは後述の内部被爆にも関連し,放射性物質による汚染を広げ,被害を拡大する事になるため,大変に重要となる.
また,兵隊たちが身に付けた装備の重さは20〜25kgというが,この程度で全身を覆えるはずが無く,現在までにリリースされている事故当時の映像を見る限り,胴体部分程度しか防護できていない状況.この状況では「ないよりマシ(下手をすれば,かえって動きを阻害しかねないため逆効果)」としか言いようがない.
そもそも,「放射線防護服」というのは,後述の内部被爆を防ぐため,放射性物質を身体の中に取り込まないように,また汚染拡大を防ぐため,汚染の可能性のある衣服を管理すべき区域内にとどめるための物であり,外部被曝を抑えるのは非常に困難.
<もし,効果的に外部被曝(全身)を抑えようとするなら,その所要重量は100kgを軽く超えてしまうだろう.これではモビルスーツに乗るような物である.
すなわち,普段着のまま作業しても,管理すべき区域から外に出るときに脱ぎ捨ててしまえば,外部被曝という点ではほとんど差は無いと言える.
むしろ,住居等に戻る前に,作業の際に付着した放射性物質を中に持ち込んで汚染を広げないようにするため,また,作業服に付着した放射性物質からの被曝及び体内への取り込みを防ぐため,作業が終わり避難したらすぐに靴を履き替え,服を脱ぎ捨て,シャワーを浴びて汚染を持ち出さない事が何より重要となる.
ちなみに,このことは対NBC兵器対策でも全く同じ事が言えるわけでして.自衛隊の化学科や大都市の消防のごく一部ではシャワーなどの除染設備は備えているが,肝心の着替えはせいぜい自衛官分+αぐらいと愚考する.
国民保護計画などではこの点などのケアも必要となるはずだが,除染(服を脱ぎ捨て,シャワーを浴びさせる)は急を要するため,一時たりとも躊躇できない.すると,衣類や靴などをどこかで調達できるまで,除染のみ先に行い,その後は緊急処置として男女別に裸のまま,どこか体育館にでも収容しておくのだろうか?
2.内部被曝:全ての放射線が問題となるが,放射性物質そのものと放射性物質を取り込んだ位置により大きく左右される.
放射性物質を呼吸等で身体の中に取り込んでしまうと,放射性物質が減衰するか,排泄するまで,放射線を浴び続ける事となるため,放射線防護として最も気をつけ,防護の対象とする物.いわゆる活性炭フィルタの入ったマスクや,防護服を着る等は全てこのためと考えて構わない.
そのためには,厳重に粉塵を吸い込まないようマスクをする例がありますが,放射性物質には気体(ガス)状の物もあるため,最悪の場合,厳重な防護服とともに非常に重い空気ボンベを背負って作業する事となる.
<実際に配備されている物では約10kg以上のものばかり.訓練で装着したことがあるが,これで作業をするのは大変厳しく,また種類にもよるが,数十分しか持たないのが普通.
まあ,無防備に吸い込むより,タオルでも何でも構わないので,手持ちで用意できる物で厳重に鼻や口を覆うのは当然ですが,目の粘膜に付着したり,身体に付着してしまえば大量の水で洗い流さない限り,どうしようもないわけで.
「着替えとシャワー」が重要なのは,内部被曝の方がウェイトは高いのですが,先述の通り外部被曝でも重要な事は言うまでもない.
なお,内部被爆に関連してヨウ素剤の事前投与が良く取り上げられるが,これはヨウ素を集積しやすい甲状腺の防護を狙った物.原理はあらかじめ安定なヨウ素過多にしておき,放射性ヨウ素を取り込む余地がないようにしておくもの.
よって,放射性ヨウ素はガス状でもあり,その影響を受ける甲状腺は重要な器官であることから,内部被爆に対して重要な要因であることは変わりないが,あくまでもヨウ素剤の事前投与はこの放射性ヨウ素対策であって,他の放射性物質の内部取り込みには全く効果がないことには注意が必要.
で,話がかなり脱線したが,放射線障害で亡くなった人間というのは,正直なところどの程度になるのか,詳細なデータ等がないため見当が付かない.
ましてや,明らかなる急性放射線障害の症状ならともかく,ガンや白血病などは放射線被曝による物か,そうでないのかは症状からは一切分からない.そのため,正確な被曝量(特に作業当時の外部被曝線量<内部被爆は後からでも分析可能)が分からなければ,どうしようもない.
まあ,通常の死亡率と対象集団との死亡率を比較するぐらいしか方法がないが,これも結果論であって,相当数の死者が出なければ比較も何もあったものではないと愚考する.
これらの意味から疫学的調査が重要となるが,これもまたなかなかの難物.
ただでさえ大規模に追跡調査をするのが物理的に難しいのに,どこで線を引くかさえ議論になると言えば,その難しさを理解していただけるのでは.
以上,回答になっておりませんが,ご参考まで.
【関連リンク】
「カジ速 」:【おそロシア】チェルノブイリで放射線を食べる菌が見つかる.宇宙で育てて食料にすればコロニー時代へ
【関連動画】
ハイになってしまったチェルノブイリ事故作業員(うそ)
【質問】
チェルノブイリ原発事故の死の灰は,大都市には降らなかったのか?
【回答】
降らせなかった.
「Gigazine」,2007年04月23日付によれば,同事故では,10トン前後と推定される原子炉内の放射性物質が大気中に放出されたが,この放射性物質からモスクワなどの大都市を守るため,人工降雨弾を放射能雲に撃ち込んだという.
都市へ達する前に雨を降らせて,放射性粒子を雨と共に洗い流したという.
その結果,大都市は守られたものの,降雨をうけたベラルーシの大地は4000平方マイル(約1万平方km)にわたって犠牲になったという.
この降雨について,ベラルーシの人々に対しては注意喚起や警告が一切無かった,と同記事は述べている.
詳しくは同記事や,その原ソース
'How we made the Chernobyl rain' | International
News | News | Telegraph
を参照されたし.
【質問】
ゴルバチョフの「新思考外交」とはどのようなものか?
また,ソビエトの崩壊にどのような影響を与えたのか?
【回答】
まず,「新思考外交」には2つの側面がある,
1つめは,集団安全保障的な枠組みの構築により,安全保障のジレンマを解消しようというもの,
2つめは,拡張主義の破棄.
以下に,それぞれについて説明してみる.
1.集団安全保障的な枠組みの構築による,安全保障のジレンマ解消
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ゴルバチョフと彼の側近は,相互依存が進む世界では安全保障はゼロサムゲームではなく,全ての国は協力によって利益を得ることができると主張した.
核の脅威の存在は,対立の歯止めが外れた時,全てが壊滅することを意味していた.
ゴルバチョフは,できるだけ多くの核兵器を製造するのではなく,防衛に必要最低限の量を保有するという「十分性」の方針を打ち出した.」
2.拡張主義の放棄
ゴルバチョフは,拡張主義について「利益よりも損失を生み出す」と考えた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
東欧の勢力圏に対するソ連の統制は百害あって一利なしで,アフガニスタン侵攻は手痛い大失敗であった.
ソ連の国境を防衛するために共産主義の社会制度を強制することは,もはや必要なかった.
次に「新思考外交」が,ソ連,ひいては共産主義の崩壊を招いた影響を以下に説明.
「新思考外交」の2つの側面によって,1989年夏には,東欧ではより多くの自由が与えられるようになり,ハンガリーでは,東ドイツ人を自国を通じて,オーストリアに逃がすことを許可した.
この「東ドイツ人の大量流出」は東ドイツ政府にとって,巨大な圧力となった,
東欧では,既にソ連の支援を受けられる状況ではなかったため,非常に短期間の間に「ベルリンの壁崩壊」が実現した.
しかし,これは「新思考外交」が目指した結果ではなかったようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
これらの出来事は,ゴルバチョフの誤算から生まれたと言える.
彼は共産主義を立て直すことが出来ると考えていたが,実際はそれを立て直すうちに風穴を開けたのである.
そして,ダムに開いた小さな穴のように,鬱積された圧力が一度解放されると,穴を押し広げ,体制を崩壊させたのである.
短く纏めると
「ゴルバチョフは,共産主義を立て直そうして,崩壊させてしまった」
ということかな?
少なくとも「ソ連の共産主義」とは,上からの厳格な統制を行うことによって,かろうじて体制を維持してきたんだと思う.
その「統制」がなくなった時点で,「ソ連の崩壊」は決まっていたのかも.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
ゴルバチョフが書記長にならなかったら,ソ連は崩壊しなかったか?
【回答】
(・ω・)<ゴルバチョフが書記長にならなかったら,ソ連は崩壊しなかったの?
(ーー)<まぁ・・・10年くらいは持ったかも・・・
以下ナイ教授の文章を引用
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1985年に共産党政治局員がゴルバチョフの強硬な対抗者の一人を選んでいれば,衰退しつつあったソ連はもう10年存続しえたであろう.ソ連が急速に崩壊する必要はなかった.
ゴルバチョフの個性は,冷戦終結のタイミングに大きく関わっている
--------------------------------------------------------
(・ω・)<それでも,やっぱり10年くらいしかもたないんですね?
(ーー)<ええ,ソ連とアメリカは,1980年代にはそれなりに交流がありましたから,ソ連の中の人にも
「アメリカっていいなー,俺らもアメリカみてーに自由に音楽聴いたり,マック行ったりしたいのじゃよー!」
という声もありましたし,そもそも,経済が「もうだめぽ」な状態でしたから.
(・ω・)<じゃぁ,いずれにしろ崩壊してたんですね.
(ーー)<ほぼ確実に
【珍説】
「SDI計画は,それへの対抗策という形でソ連に負担を強いた点では効果があったと言われている」
というのはウソ.
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20060607
参照.
「結果論としてソ連を疲弊された」は誤りなんです.
まあ,なんというか,カール・セーガンをソースとして出されても聞く耳を持たない,自分で答えを出して自己完結しているような人については,それはそれでよろしいのでしょう(笑).
amo ◆bb6OCCHf8E
【回答】
核弾頭は,量産化を確立した国でも生産,維持に莫大な費用が掛かるんだが.
矛と盾のチキンレースになれば最後に勝つのは体力の多いほうなのは自明の理.
経済学者でも軍事専門家でもソビエト研究家でもないカール・セイガンを,そこまで神格化して絶対視する必要性はない気がするが.
SDIが結果としてソ連を疲弊させたと説く書籍ならそれこそ山のように.
俺の手元にもS・ソンタグの本が有る.
ただ,費用対効果としては疑問.
それに相手がゴルバチョフなら,やはりペレストロイカは進めていただろうし,ゴルバチョフ以外の人間が書記長に就いていたなら,SDIに対抗しようとして,国内がさらに疲弊しても体制を維持しようとしただろう.
物理的にはどれだけ金が無くなって国内が混乱していても,体制を維持することが可能と言うことは,北朝鮮が現在進行形で示している.
軍事的な側面から考えたら,アフガン侵攻のほうが,SDIよりも遥かにソビエト崩壊に貢献しているのでは?
【質問】
ソ連が,自己崩壊を食い止めるために軍事的手段に打って出なかったのは何故か?
【回答】
・1970年代末まで、西側と比べてソ連の没落は自明ではなかったこと
・ ブレジネフ時代の長老政治は,あまりに現状に満足し,年を取り過ぎ,居心地が良過ぎたために,西側との衝突に全てを危険に晒すことはできなかったこと
・核の時代における戦争の危険性
に起因するという.
以下引用.
ソビエト体制が膨大な資源を軍事力につぎ込み、指導者も地政学的・軍事的な傾向を持っていたことを考慮すれば、資本主義の敵を前にして没落の悪循環を食い止めるために軍事的手段に打って出る妥当性はなかったのだろうか.
実際には、そうした戦略を採用しない充分な理由が沢山あった.
第1に、1970年代末まで、西側と比べてソ連の没落は自明ではなかった.ソ連は第三世界で前進を重ね、さらに1973年以降の石油価格の劇的な高騰は,西側資本主義に対しては脅威だったが,ソ連にとってはエネルギー輸出を通じて莫大な利益を手に入れ,それによって,不安定化を招く市場改革の必要性を回避できるという素晴らしいチャンスであるかに見えたのだった.
他の要素,特に支配的エリートのメンタリティも極めて重要だった.ブレジネフ時代の長老政治は,あまりに現状に満足し,年を取り過ぎ,居心地が良過ぎたために,西側との衝突に全てを危険に晒すことはできなかったのである.
ゴルバチョフ時代に権力を掌握した,改革派の若い世代は,純粋に人間的な社会主義のビジョンに染まり,少なくともソ連の改革と再生の可能性をはっきり信じていた.
例えば,1991年に反乱を起こしたような,改革派と敵対した勢力は,概ねそれほど人間的でもなかった.
しかし,その反乱そのものが示したように,彼らは用心深い官僚であり,第3次世界大戦を引き起こすほどの恐ろしい瀬戸際政策はもちろん,クーデターを成功させようとする貪欲さや冷酷さすら持ち合わせていなかった.
もちろん重要な点は,核の時代における戦争の危険性が,1914年時点とは比べモノにならないほどだったことだ.
1914年であれば,短期間の戦争とその勝利によって,帝国の国際的な重みも支配的エリートの立場も強化できると信じる事は,誤りであったとしても可能だった.
たとえば,帝国がどの程度没落しているかを理解していたとしても,あるいは帝国の衰退を封じ込める国内の戦略がないことを理解していたとしても,NATOに直面し,核兵器の世界に生きる中で,1914年当時のオーストリアと同じ選択をするという危険な賭けができたのは,とてつもなく邪悪で無責任な指導者だけだったろう.
全面戦争という形での帝国同士の伝統的な競争は,もはや時代遅れになった.
その重要な理由の一つは,少なくとも当面は大量破壊兵器が存在していることである.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.212-213
ブレジネフ

【質問】
なぜソ連は崩壊したのか?
【回答】
基本的な理由は,帝国の核となっていたイデオロギーが破綻したため.
また, ゴルバチョフによる新思考外交のおかげで,ソ連の安全保障に対する西側の脅威という意識が撃ち砕かれた.
経済改革の失敗に加え,グラスノスチでソ連の過去が暴露されたことで,共産主義とモスクワのどちらの正統性も粉砕された.
さらに,他の共和国を支援したり,超大国としての野望を支えたりするのに資源を使うことを,ロシア人は望まなかった.
第4に,新たな役割や運動が舞台に登場し,様々な事態が互いに目も眩むような速さで発生したために,無秩序が発生し,崩壊に至ったのだという.
以下引用.
ソ連が衰退し,滅亡したもっとも基本的な理由は,極めてシンプルだ.帝国の核となっていたイデオロギーが破綻したのである.
マルクス・レーニン主義に基いて構築された経済システムは,資本主義より効率的ではなかった.
資本主義経済が崩壊するとか,主な資本主義国の間で戦争が終わることなく続くといった予言も,少なくとも1945年から91年までは誤りだった.
この理由が全てではないにせよ,ソ連のイデオロギーとソ連の政治・経済システムは,人々や支配的エリートの大部分から信頼も正統性も失ってしまった.
ソ連の自信が失せていくにつれて,ナショナリズムや西側の個人主義,資本主義といった他のイデオロギーが,その間隙を埋めていった.1991年にソビエト体制が最終的な危機に陥ったときも,体制のためなら自ら進んで苦労を味わったり,断固たる行動に出たり,やむを得ない場合,その防衛のために人を殺すことさえ厭わないほど心から献身的だった支持者は,驚くほど少なかった.
ソビエト体制の崩壊において,イデオロギーの破綻は最も重要な要因ではあったが,それが唯一というわけではなかった.
また,それだけでは,共産党体制の崩壊が,なぜソ連という国家と領土上の同盟の解体に繋がったのかを十分説明しきれない.
他の多くの要因も重要だったのであり,その一部は,他の帝国の衰退と滅亡に共通したものだった.
帝国とは外敵の脅威を餌に育つものである.その脅威こそ,帝国の主な存在理由の一つである.
7年戦争(1756〜63)でイギリスがフランスを北米から排除すると,アメリカの入植者はもはや大英帝国に守ってもらう必要性を失った.カナダからフランスを排除することを承認したパリ条約から13年後には,アメリカ独立が宣言されている.
また,ハンガリーのエリートも,ロシアという脅威を恐れたこともあって,ハプスブルク帝国を受け入れたが,1918年にロシアの脅威が薄れたかに見えた後は,ハプスブルク帝国への関心をある程度失った.
ゴルバチョフによる健全で実に称賛すべき新思考外交のおかげで,ソ連の安全保障に対する西側の脅威という意識が撃ち砕かれた.
ソ連の古参軍事指導者は,国防や安全保障の観点から連邦の必要性を擁護しようと,1989年から91年にかけてテレビを利用した.
おかげで,クリル諸島<北方4島>への主権回復を主張する日本以上に恐ろしい脅威はないことを思い起こさせることもできた.
しかし,もはやそのような脅威は,ラトビア人をソビエト権力と和解させるものではなかった.
共産党のイデオロギーと経済が破綻していたことを考慮すれば,ドイツの脅威だけが東・中央ヨーロッパでのソ連の支配を正当化できた.
とはいえ,ブラント<1913〜92.西ドイツの首相・外相を歴任.71年にノーベル平和賞受賞>の東方政策(オスト・ポリティーク)が,この恐怖感を和らげるのに貢献した他,もともと1945年以降の西ドイツ国内の発展も,さらに単なる時代,記憶,世代の移り変わりも,それと同じ役割を果たしていた.
〔略〕
これら全ての土台が,ゴルバチョフの改革によって突き崩されてしまった.
経済改革の失敗に加え,グラスノスチでソ連の過去が暴露されたことで,共産主義とモスクワのどちらの正統性も粉砕された.
民主主義の原則が1989年3月の各共和国で実施された<人民代議員大会の>選挙で部分的に導入され、1990年3月に各共和国で実施された<連邦制度維持の是非に関する>投票で、さらに完全に近い形で導入された.
これによって,各共和国指導者の命運は、もはやそれまでのようにモスクワの党中央の権威ではなく,各共和国の有権者達の手に委ねられた.
アルギルダス・ブラザウスカス率いるリトアニア共産党が、最初に民主主義改革の意味を理解し,1989年にソ連共産党から分離した.
他の党指導者もブラザウスカスの例に倣い,1990年から91年の状況で,共産主義に代わる正統性としてはナショナリズムが共和国の殆どの有権者に受け入れられる選択肢であると理解した.
モスクワは力を失い,経済が崩壊し,徴税基盤が縮小していく中で、共和国指導者は共和国住民に対する支配力を固め,その有権者の必要を満たす可能性を高めるため,地方の資産を分捕ろうとした.
全連邦的省の支配下にあった地方の資産の大部分は,共和国エリート個人にとっても魅力的で,政治的にも不可欠だったのである.
このプロセスで見られた沢山の要素――例えば,国有財産を巡る争奪戦――は,もちろんソ連独特の現象だった.
それでも,例えばジュディス・ブラウンは,モスクワと各共和国の補佐役の関係が崩壊したのを目撃した者にとって馴染み深い観点から,18世紀インドにおけるムガール帝国の解体を分析している.55
結局,アメとムチの政策は,特に洗練されていたわけでもなければ,社会主義の概念でもない.
地域の指導者が帝国の中央に資源を引き渡すのは,それを強制あるいは説得されるか,その代わりに何か具体的なものを受け取るか,あるいは地方の権力基盤が弱過ぎて中央からの援助がなければ支えきれないかの,いずれかの場合だけだ.
1990年代には,連邦制度のおかげで,ペレストロイカのもたらす挑戦や機会に,共和国指導部が十分なスピードと賢明さをもって適応する限り,大半の共和国には中央から独立して生き続けていくための手段が既にあることが明らかになった.
そのためソ連崩壊後,新たに独立した15の共和国の内,以前の共和国指導者が共和国のトップに留まったケースは9に上り,その指導者達は1990年代の殆ど,あるいは全期間を支配したのだった.
これが示しているのは,ソ連崩壊は民主主義の単なる勝利でもなければ,歴然たる勝利でもない,ということである.
もっとも,限定的であれ,民主化がソ連崩壊に大きく貢献したのは確かだ.
1990年3月の選挙によって,自立的な共和国政府は権力を手に入れ,当の共和国政府はソビエトの法的観点から見て合法的で,ソ連から離脱する法的権利があると主張できた.
ある意味で,それより重要だったのは,民主主義がロシア共和国に与えたインパクトだった.
殆どの帝国が存続できるのは,帝国の核を構成している人々に,帝国の大きな目標のための犠牲を強いることができるからである.
1880年代に大衆民主主義が生まれて以来,イギリスの政治家は,本国の社会福祉と帝国の防衛という,財政的に相反する要求を巧みにやりくりし56,有権者が徴兵制に反対するのは遺憾だと決まって嘆いてきた.
一方,ポルトガル帝国が20世紀後半まで,他の帝国よりも長続きしたのは,一つにはポルトガルが民主主義国ではなく,そのため,帝国の大きな目標のためにポルトガル人が税を払ったり,息子が兵に徴兵されることを望んでいるかどうかを聞く必要がなかったからである.
しかし結局は,帝国の防衛という負担が,1974年のポルトガル本国での革命に大きく寄与した.
1988年から91年のロシアにも,イギリスとポルトガルが味わった経験の兆候が見られた.
1990年にソ連当局が帝国周辺での平和維持活動のため,ロシア・北カフカス軍管区の予備役兵を動員しようとしたが,予備役兵は召集を拒否すると,既に弱体化していた国家は強制できなかった.
エリツィンがロシア共和国で鬱積していた憤りをソ連中央の政府やエリートに向けることができたのも,他の共和国を支援したり,超大国としての帝国独特の野望を支えたりするのに資源を使う(ロシア人はこのように見ていた)のではなく,自分達の福祉のために使うようロシア人が望んでいたからだった.
1917年に帝政が崩壊した一因も,人民が帝国の負担(この場合,第1次大戦を続ける莫大な戦費)に反対したことであり,半ば読み書きできない人々にとって,戦争を続ける理由は殆ど意味がなかったのだった.
1991年にも,帝国を維持するという法外な負担に対するロシア人の憤りが,ソ連崩壊に大きく貢献したのである.
しかし,歴史を比較することで明らかに危険なのは,あまりに比較を重視してしまうことだ.
他の帝国の崩壊を基準としても,ソ連崩壊には独特の,唯一とも言うべき理由があった.
だからこそ,ソ連崩壊を予測できた専門家は殆どいなかったのである.
帝国が崩壊するのは通常,戦争で敗北するか,あるいは戦争で著しく弱体化するからだ.
前者はオスマン,ハプスブルクの辿った運命であり,後者はイギリス,それ以上に1945年以降のフランスとオランダが東南アジアで直面した運命だ.
アンドレイ・アマルリクが,ソ連は1984年以降,存在できないだろうと有名な予測をしたとき<『ソ連は1984年以降も生き延びるか?』《邦訳は原子村二郎訳,時事通信社,1970》を著した>,その理由の一部として,中国との間で将来発生するであろう戦争の結果を挙げていた.
しかし,アフガニスタンでの限定的な衝突57を除いて,戦争はソ連崩壊を招いた要因ではなかった.
むしろ,ソ連の場合,極めて重要だったのは,帝国の終焉が共産主義の政治経済システムの崩壊と同時に発生し,しかも,後者を著しく複雑にしたことである.
もっとも,そうしたシステムの以降の危険性を引き合いに出したところで,ソ連崩壊の完璧な説明からは程遠い.
実際には,1985年から91年までの機会,誤解,政治家個人の資質,状況が,顕著な役割を担ったのだった.
あらゆる革命と同様に,1985年から91年に,歴史の歩みは速まった.
新たな役割や運動が舞台に登場し,様々な事態が互いに目も眩むような速さで発生した.
指導者達は疲れ果て,途方に暮れるばかりで,そうした事態をコントロールするどころか,理解さえできなかった.
何がしかの行動をとれば,予期せざる一連の結果がもたらされた.
当時は,事情通の専門家でさえ,将来の事態を予測する事はおろか,今何が起きているのかを理解することでさえ困難だったのである.
振り返ってみると,時には主な役者の力を借りてでも,無秩序な一連の事態を説明しようと,数々の試みがなされたが,そうした説明の全てに必ずしも説得力があったわけではない.
色々な説明よりも,実は無秩序が本当の姿だということもあるのだ.
しかし,それほど騒然とした最終段階にも関わらず,ソ連崩壊において1つだけ際立った要素がある.
それはミハイル・ゴルバチョフという個人の資質である.
1985年当時,急進改革は避けて通れない事態ではなかった.
しばしば言われるように,もしソ連を支配していた長老政治が全く独善的であったならば,変革を行う明らかな必要性も,いまだ取るに足らない短期的な個人的利益に従属させられただろう.
また,急進改革の戦略が採用されたときでも,必ずしもゴルバチョフの選んだ道を歩む必要はなかった.
ソ連とその衛星国を除いて,1980年当時,世界で指導的な共産主義国家は中国とユーゴスラビアだったが,両国の指導部は,ゴルバチョフの選んだ戦略とは全く異なる戦略を選んだ.
もしユーリー・アンドロポフが生きていたら,共産党官僚による権威主義的支配の下で,漸進的な中国型の経済改革の道を歩んでいただろう,と,まことしやかに主張されることがある.
とはいえ,中国型の戦略がソ連で上手く機能しなかっただろうと考えられる充分な理由もあった.
たとえば,スターリンは特にスラブ系共和国における農民階級を壊滅させてしまった.
したがって,中国のように単に農民の活力へのコントロールを取り除いただけでは,ソ連の農業生産高は増加しなかっただろう.
また,同じく経済特区の創設も,ソ連の多民族的性質と連邦制のために複雑になっただろう.
いったん中央が外縁地域への支配力を弱めれば,経済的自主性が民族主義者の目標のために「悪用」される恐れもあった.
さらに,ロシアには,中国のように自国経済へ投資してくれる華僑のような存在もなく,例えあったとしても冷戦が続いている限り,西側諸国の政府はソ連に対する大規模投資に猛然と反対しただろう.
加えて,証明はできないが,ソ連の官僚は中国の官僚よりも,変革に対して遥かに強硬に反対しただろう.
その場合,経済再生に向けて何らかの具体的な行動に着手する前に,急進的な政治改革を通じて,官僚の基盤を突き崩さなければならなかっただろう.
それでも,中国の戦略に近い政策がソ連でも採用された可能性もあれば,現実にゴルバチョフが採用した経済政策ほど,ものの見事に失敗に終わらなかった可能性もある.
ロシア人のナショナリズムをソビエト体制の基盤にする試みと,権威主義的な経済改革とを結びつけられたかもしれない.
スロボダン・ミロシェビッチの戦略はセルビア人にとって破局的であったが,ミロシェビッチ個人の成功には寄与してきた.つまり,ミロシェビッチは過去10年間に渡って権力を掌握し,その過程で自らと家族を豊かにしてきた,東・中央ヨーロッパで唯一の共産主義指導者だった.
ここにも,ミロシェビッチ型の戦略がソ連ではあまり「うまく」いかなかったであろうと考えるのに十分な根拠がある.
セルビア人の民族主義指導者だったミロシェビッチによって,セルビア民族主義の怒りをぶつける対象を見出すのは,ソ連の場合より遥かに簡単だった.アルバニア人,クロアチア人,ユーゴ連邦政府は全てその条件を満たしていたのである.
さらに,ユーゴスラビアの政治はソ連政治より,長年に渡って開放的でもあった.
ユーゴの人々も政治的目的のために動員されるのには慣れていて,ユーゴの民族同士の戦いも,ソ連より遥かに大っぴらに行われていた.
この理由からも,ロシア人はユーゴの人々より,ずっと政治的に不活発で,大衆のロシア人ナショナリズムを動員するのも困難だっただろう.
加えて,チトーが多大な時間を割いて非常に巧妙に,セルビア人を増長させないよう努力したユーゴの場合と比べ,ソビエト体制はロシア人のナショナリズムを取り込む直前までいった.
とはいえ,「セルビアの戦略」あるいは「中国の戦略」がおそらくソ連では効果的ではないからといって,その戦略を採用すらしないことが正当化されるわけでもなかった.
実際,当時のソ連には,そうした戦略を試みると見られていた政治的エリートが大勢いた.
しかし,ゴルバチョフとその同志達は,ロシアのインテリゲンチアの中でも西側寄りだったため,中国の権威主義的な政治モデル,あるいはユーゴ型の民族的ナショナリズムよりも,むしろ西側の社会民主主義や自由主義に近付いていこうとした.
しかし,ゴルバチョフとその同志達の基本的な目標を考慮に入れたとしても,1987年から90年までに見られたように,経済改革よりも政治改革を優先する必要性は自明ではなかった.
どんな経済改革の戦略に対しても,官僚が常に効果的に抵抗すると見なすことはできなかった.
それは,殆どのノーメンクラトゥーラ(特権階級)がその後,積極的に民営化に乗り出したことからも分かる.
その一方で,フルシチョフを追放することになった共産党の寡頭支配層によるクーデターを絶対繰り返させないためにも,急進改革派が自分達のために,機構上の一層の権力基盤と正当性を固めておくのは有益だった.
とはいえ,1989年に基本的に従属的な全連邦規模の議会を創設し,その議会でゴルバチョフを国家元首に選ばせることと,1990年に各共和国で,昔と比べて遥かに民主的な選挙の実施を認める事は,別問題だった.
後者の場合,しばしば反ソ的な民族主義者に合法的な権限を認めたが,それは明らかに危険を伴うものであった.
経済改革のプログラムそのものにも,矛盾や欠点が沢山含まれていた.
ソ連の指導者だったゴルバチョフは,改革を党エリートに認めさせる上で目覚しい戦術的な技能と自信を示し,共産党体制の安定と正当性については過度の自信を持っていたようだ.
これら全ての点について,あるいはその一部であれ説明できるのは,ゴルバチョフの自伝だけである.
ゴルバチョフのエリツィンに対する扱いも同様であるが,エリツィンとゴルバチョフの関係は,ロシアがソ連を破壊する上で非常に重要だった.
いまだ極めて興味深いのは,ソ連共産党書記長だったゴルバチョフが何故,党・連邦をあれほど明らかな危険にまで陥れる政策を追求したのか,また,なぜソ連の一体性を維持するために必要な程度の武力の行使さえ差し控えたのかという問題である.
〔原注〕
55 J.Brown, modern India. The Origins of an Asian Democracy, Oxford University Press, Oxford, 1994, pp.38-39.
56 A.L.Friedberg, the Weary Titan(特に第3章).
57 例えば,Mark Galeotti, Afghanistan. The Soviet Union's Last War, Frank Cass, London, 1995を参照.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.217-228
また,当時ロシアにいた人物の話しによれば,経済はどうにもならないところまで来ていたようだ.
以下引用.
その後,私はベルリンの壁崩壊前のロシアにいった.
首都モスクワについた途端「これがアメリカと天下を二分している国の首都か?」と愕然とする思いがした.
こんな貧しい国が,あの豊かで豊穣で優れた文化を世界に発信し続けるアメリカに勝てるわけがないじゃないか.
どうしてNHKや朝日新聞は当時のモスクワの,あの貧しさ,悲惨さ,重苦しさを我々日本人に発信しなかったのかと怒りを覚えた.
モスクワのタクシードライバーが何より欲したのはドル札であり,アメリカのタバコ「マルボロ」だったのである.
デパートに商品は一切並んでいなかった.「キャビア下さい」というと「鍵のかかったレジの下の棚」からこっそりキャビアを出してきた女性店員は髭を生やしていた.
そして支払いはドルのみでルーブルの受け取りは拒否されたのである.
塩津計 in 「bk1」 in 2007/05/27 9:09:46
▼ちなみに直接の原因の一つに,1970年代後半から80年代にかけて北半球が寒冷化の傾向にあったため農作物の収穫量が悪化し,食糧事情が悪化して政府の屋台骨が揺らいだから,というのがある.
387 :名無し三等兵:2007/08/28(火) 21:35:43 ID:???
小麦,アメリカからも輸入してたよね.
388 :名無し三等兵:2007/08/28(火) 21:51:52 ID:???
がばっ!
はあはあはあ.
「どうなさいました同志ブレジネフ!?」
「せ,世界中の国々が共産主義国家になった夢を見たのだ」
「それは素晴らしい夢ではありませんか!」
「馬鹿者! そうなったら我が国は一体どこから穀物を買えばいいのかね!?」
【質問】
クーデター未遂事件は,どのように人々に伝えられたのか?
【回答】
国営全国テレビ局の会長は,クーデター支持を表明したが,その記者は「イソップの言葉」を用いてエリツィン大統領の周りに群集が集まっていることを報道.
それを見た視聴者はエリツィン大統領のいるホワイトハウスの周りに駆けつけ,クーデターを失敗させる要因を作ったという.
以下引用.
ロシアのマスメディアにとって,歴史的に切っても切り離せないのが検閲です.
検閲は,帝政ロシア時代にも,そしてソビエト時代も変わることなく続けられました.
しかし,厳しい検閲から,ジャーナリズムに限らず文学もそうですが,検閲の目を巧くごまかしつつ,自らの本当に言いたいことを読者に伝える「イソップの言葉」※という特殊な技法が発展しました.
また読者のほうも,この記事が表向きの表現とは別に真意はどこにあるのか,常に裏読みするようになりました.この生地は何のために書かれたのか,その意図は何か.書いてある事実のみでなく,その行間と背景を読み解く,良くも悪くも,今も残るロシア・ジャーナリズムの読者とのコミュニケーションにおける伝統と言えましょう.
〔略〕
1991年の連邦崩壊と前後して,公的機関による検閲は廃止されました.
しかし今でも,マスコミは管理するものという意識はロシアの公権力の間では強く,ジャーナリストは,個別に様々な形で圧力を受ける場合もまだ数多くあります.
〔略〕
国家と全てを支配した共産党は,当然のようにマスメディアを規制しました.
「『イズベスチヤ』(政府機関紙で,ロシア語でニュースという意味です)にニュースなし,
『プラウダ』(ソビエト共産党機関紙で,真実と言う意味です)に真実なし」
と言われたように,公式発表や,一方的にプロパガンダに彩られた記事が並んでいました.
〔略〕
その一つの例をお話しましょう.
連邦崩壊の前に,保守派が権力を奪取して,独裁体制を復活させようとしたクーデター未遂事件がありました(1991年8月).
いち早く会長がクーデター支持を表明した国営全国テレビ局の記者が,
「エリツィン大統領のいるホワイトハウスの周りでは,人が集まってクーデターに反対している」
というリポートを流しました.
コメントは平凡で,むしろクーデターの側から見て,エリツィン側を非難しているとも読める内容でしたが,多くの視聴者は直ちに記者の真意を理解しました.
そして記者の狙い通り,大群衆が民主派の砦だったホワイトハウスの周りに駆けつけ,クーデター失敗の一つの要因となりました.
※ イソップの「寓話」のように,表面に語られていることではなく,比喩や暗喩を用いて,作者の意図を知らせること.表向きは,皇帝なり書記長を賛美しているように見えても,その中に,鋭い批判を織り交ぜることも多々あった.ロシア帝国時代から,こうした技法が発達し,それがイソップの言葉と言われた.
小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.165-167
【質問】
ソ連崩壊って,内部から見た感じではどのようだったんでしょうか?
崩壊のまさにその時瞬間ソ連に滞在していた人もいるのでしょうから,実体験の感想なんか聞きたいです.
国の崩壊する瞬間ってどういう風なんですか?
【回答】
315:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:05:030
うちの教授がまさしく崩壊時にソ連に滞在してた.
その先生はロシア文学が専門なんだが,当時他の日本人学者と一緒にウラジオストクに滞在していた.(そのあとモスクワに行く予定だった)
んでホテルに泊まって,崩壊の前日までは本当に普段どおり平穏な日々を過ごしていた.
ある日の朝ロビーに行くと,どんなに悪天候でも必ず来るプラウダが無い.
支配人に聞くと,
「なぜか今日は来ないんだ」
と困惑している.
仕方なく部屋に戻ってテレビを点けると,全部の番組が砂嵐!!!
ぽちぽち回してると,国営テレビだけが,おそらく録画物であろう静かなクラシックを延々流している.
この不気味なクラシックを見たとき,教授はサッと血の気が引いたとか.
もう一度ロビーに行くと,ホテルの従業員も困惑気味でオロオロしている.
外は車一台通らず,静まり返っている.
続く
316:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:13:480
+ +
∧_∧ +
(0゚・∀・) ワクワク
oノ∧つ⊂)
( (0゚・∀・) テカテカ
∪( ∪∪ +
と__)__) +
318:315:2006/08/17(木)23:19:270
テレビが駄目ならラジオはどうだ?と言うことで,従業員がラジオを持ってきた.
もうその頃は,ホテルの客がほとんどロビーに集まっていた(外人が多かったらしい)
点けてみると・・・
やはり砂嵐.たまに聞こえるのは例の不気味なクラッシク.
んでガチャガチャ色んなところに回していると,なにやらほとんど叫び声に近い男の声が聞こえてくる.何か怒鳴り散らしているようだ.
しかし果たして,これは正規の放送なのか? それとも混乱に乗じた海賊放送なのか?
この怒鳴る男の情報は本当の事を言っているのか判断できず,ラジオは切った.
今後どうするか,外人たちと話し合うと,やはり各自大使館に電話して保護してもらうのが妥当であると合意し,まず教授が代表して日本大使館に電話してみる.
・・・繋がらない.
こりゃもうたまらん,と外人たちと一丸となって雪道を徒歩で,一番近くにある日本大使館に駆け込んだそうな.
従業員は,俺たちも連れてってくれと懇願していたらしいが・・・
以上が教授のソ連崩壊体験記.なんか聞いたときはゾクゾクした.
320:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:40:530
今某大学に勤めてる俺の友人(まあ当たり前だがロシア史専攻)も,8月クーデターの時モスクワにいた.
ちょっと変わってる人なんで,
「本物の戦車さわっちゃったよう」
なんて喜んでたけど(笑).
まあ実はけっこうやばかったようで,留学先の教授から
「何が起こるかわからないから,私の息子を連れてレニングラードへ行っていてくれ」
とか言われちゃったらしい.
大学関係,結構目をつけられてたみたい.
ってなことで,エリツィンの演説最中はレニングラードにいたそうで,すごくがっかりしてた(笑).
【質問】
ソ連崩壊時に経済難民って出たの?
白系ロシア人とかは聞いたことがあるのですが.
【回答】
ソ連崩壊時にロシア人が大量に流出したか?
こたえはイエス.
もっともロシア共和国の全人口は,1億5千万ぐらい.
これは中国の10分の1.
アメリカ,カナダ,オーストラリア中心に,わずかのカネを持って逃げ出したロシア人が数百万以上.
極貧の農民や都市労働者はそのまま残ったが,プーチンのときに生活保護制度が拡充され,住宅と年金が有利な条件で支給されるようになり,かなり安定してきている.
経済難民とは違うかも知れんが,当時のニュースでモスクワでホームレスが急増,冬にはバタバタ死んでいくとかやってたなぁ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
>ハイパー・インフレ時代のロシア
あの当時のロシアで取材活動をしていた,ロシアン・ジョーク
(学研新書 9) (新書)の著者酒井 陸三氏のエピソード.
――――――
P47 ●ハイパー・インフレの頃
そこで,現金つながりで思い出すのが,いまから15年前,あの経済混乱期のど真ん中で経験したいくつかのエピソードです.
そのひとつに-.約3週間の取材を終えて帰国しようとしたある日,私は当時,常宿にいていた
クトゥーゾフ通りにあるウクライナホテルのフロントで,チェックアウトしようとインボイス(請求書)を請求しました.
すると,なんと,ゼロがズラズラズラッ・・・・と並んだ「1400万ルーブル」(だったか?)
とんでもない金額の請求書を手渡されたのです.
「こ,これはなにかの間違いだろ!?」
と驚いた私は,当時まだ二人目のヨメさんで落ち着いていたセルゲイの顔を眺めました.
(注 セルゲイ;著者のロシア人の友人 ちなみに結婚離婚を繰り返し,5人目で落ち着いた様子)
1400万ルーブルというと,東京出発時のレートで,それは確か200万円近くにもなる金額だったのです.
(中略)
ようやく,その金額は当日のレートで25万円程度のものとわかり,ホッとしました.
なんでも,その前夜にまたルーブルの大暴落があったとかで,レートも大きく変わっていたのです.
結局,この年,ロシア経済の年間インフレ率はなんと2600パーセント.
つまり,一年間に物価が26倍にも跳ね上がったハイパー・インフレの年でした.
しかしその後,100ルーブル札を使って1400万ルーブルもの宿泊料を支払うのは大変な作業でした.
当時まだ5万ルーブルなど,現在の高額紙幣は発行されていなかったため,フロントのカウンターの上にルーブル札をうず高く積み上げ,指をなめなめ,汗をかきかきしながら,帰国便の出発時間ぎりぎりまでかかって支払いを終えたという,今は昔の一席でした.
――――――
CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月22日15:40
【質問】
社会主義が崩壊してからソ連をはじめ旧社会主義圏などでは,土地など生産手段が公有されていたのが
,再び私有化されるようになっていったそうですが,どんな基準で私有化を進めたんですか?
不平等なら不満が出るだろうし,過去の所有者とかも勘案されたんですか?
ブルジョアとして既に殺されたりメチャクチャになってそうな感じですが,過去の土地台帳とか記録参照したり,くじ引きとかもあったんでしょうか?
【回答】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%88%88%E8%B2%A1%E9%96%A5
http://www.takeuchikeizai.jp/bestron/best12rakuna.htm
市場経済になったロシアで大成功して富豪になった人達の多くは,決して,正当な方法でそうなったわけではない.
彼等は国有企業の民営化の時,巧く立ち回った.ゴルバチョフ政権の時,まず,協同組合の設立と営業の自由化が認められた.
その際に巨額な利益を上げた例がある.
国有企業の従業員は何人かで協同組合を作って,国有企業から製品を安く仕入れ,数倍の価格で売り,その利益は企業の幹部で山分けした.
ゴルバチョフ政権の末期に,公営企業が民営化された.民営化のために,私有化証券が従業員等に配布された.
折から,激しいインフレが発生していたので,私有化証券の額面は目減りし,多くの人は2足3文で売ってしまった.
目先の利いた人は,それを買い集めて,新しく発足した民営企業の支配権を握り,やがて富豪になった.
また,国有企業や共産党の幹部がそのまま新民営企業の幹部に居座った場合も多かった.
ソ連時代には日用品以外は私有財産がなかったので,自分の住宅や自動車等は国有財産であるにも拘わらず,私有物のような気がし,また世間でもそう認めていた.
高額な国有財産が何の抵抗もなく党幹部のものになった.
目敏い人は,例えば,日本の中古車を安く輸入して,莫大な利益を上げた.
ぼんやり暮らしたり,生真面目だったりした人,つまり社会主義国に相応しい人達は,90年代始めの大インフレと,その直後のIMF大不況によって最低生活に追いやられ,その後気が抜けない市場経済の中に置かれて,戸惑うばかりだ.
国民の過半数がそうである.
彼等は憤懣やる方ない.
市場経済の社会は,才能やチャンスに恵まれた人にとっては素晴らしい社会であるが,社会主義経済に慣れきった人がいきなりに市場経済社会に投げ出されると,死ぬほど辛いものだ.
生活環境の激変,権力者の不正・汚職に耐えられず,自殺,麻薬,アルコールに走る人が増えた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
最高会議ビル砲撃事件はなぜ起こったのか?
【回答】
エリツィン大統領と,人民代議員大会や最高会議との間の主導権争いに起因する.
以下引用.
新生ロシアでは,エリツィン大統領と,ソビエト体制から引き継がれた人民代議員大会と最高会議の間で主導権を巡る綱引が始まります.
エリツィン大統領が進める急進的な経済改革で社会的な混乱が起きると,人民代議員大会と最高会議がエリツィン批判の急先鋒に回ります.
1993年9月,エリツィン大統領は人民代議員大会と最高会議の廃止を決定します.
これに対して最高会議がエリツィン解任を決議すると,エリツィン大統領は白昼,戦車を投入して,議員や副大統領など反対派の立て篭もった最高会議ビルを砲撃し,武力で制圧しました.
この模様はCNNなどを通じて世界に生中継され,権力のためには手段を選ばないエリツィン大統領の本質を天下にさらけだしました.
そして12月,下院議会の解散,非常事態令の導入など大統領の権限を強化する内容を盛り込んだ新憲法が国民投票で採択され,世界に例を見ない独裁的な権限を持つ大統領が誕生しました.
小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.18-19
つまり,2006年現在,ロシア大統領に与えられている強権は,この事件の結果の産物.
消印所沢
▼ 追記.
Мировые События в Фотографиях
- 15-летие расстрела Белого
дома: как это было.
もう15年後年前か・・・
時が経つのは早いなぁ.
事件当時のTVキャプチャー画像や文献など