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◆戦史
ロシアFAQ 目次


 【link】

Герои страны(英雄の全リスト)

 ソビエト連邦における最高の名誉称号であり,最優等の栄誉等級であったソ連邦英雄を受賞した人達の全リストが挙げられている.
 その記念碑の画像もアップされている

 空挺軍の伝説的司令官マルゲロフ将軍のページはこちら.

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月24日19:43

"КзСВУ, военное образование-военная история -и др."

 ソ連軍事史に関するサイト.
 何やらコサックに関する話もあるような?
http://www.kz44.narod.ru/86_90.htm

"Морская пехота в Великой Отечественной войне 1941-1945 г.г."
http://www.kz44.narod.ru/Epa1.htm

 あーーーーーーー! 私が購入した本が,全文掲載されている!

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2008年09月15日03:18

O.Gorin(Горин Олег) の一般公開ギャラリー
 アフガーン紛争・第二次チェチェン紛争・コソボ派遣の画像を取り扱った公開アルバム.
 コソボ紛争の頃の画像は珍しいと思います.

Russian Anthems museum
 帝政ロシア~ソ連~ロシア連邦までの国歌・行進曲など

「You Tube」:ロシアンマスターズ!EX
「ニコニコ動画」:ロシアンマスターズ!EX

「You Tube」:ロシアンマスターズ!EXの比較動画
 元ネタが分からない人のために

「VOR」◆(2012/11/04)ロシア 民族統一の日
>1612年にクジマ・ミーニンやドミトリー・パジャールスキーが率いる国民軍がポーランド軍からモスクワを解放した事に因み,2005年に制定されている.
「VOR」◆(2012/11/04)民族統一の日 大統領 400年前の民族解放の英雄らを追悼

「アイマス教養講座wiki 」:アイマスで分かるソ連権力闘争

「朝目新聞」(2013/07/19)●ロシア史の暗さは異常

「ストパン」■(2010/06/19)ヨーロッパでもなく,アジアでもなく――ユーラシア主義者たちの夢

「ストパン」■(2013/05/10) [読書][歴史][ロシア]ロシア史をより深く知るための2冊――『ロシア史研究案内』と『新史料で読むロシア史』

中世ロシア歴史辞典

洞窟修道院(ロシア史)

朝目新聞」●クリミア戦争で2つの銃弾が正面衝突しペチャンコに融合した写真  (of らばQ)

洞窟修道院

同志スターリンと語らい合うスレ過去ログ保管庫(仮)

れきしのおへや(ロシア史メイン)

「ワレYouTube発見セリ」:Soviet/Russian wars throughout history

『新史料で読むロシア史』(中嶋毅編,山川出版社,2013.4?)

『地図で読む世界の歴史 ロシア』(ジョン・チャノン著,河出書房新社,1999/11)

 ロシアはただでさえ広いし,年代によって場所の呼び名も変わるから,ロシア史を勉強するのって大変よね.
 でもこの本は,年代ごとの詳しい地図つきで,わかりやすいと思うわよ.

------------ロシア語たん in twitter◆(2013/03/27)

 【質問】
 ロシアの歴史を4行で教えてください.

 【回答】
 862年,ノルマン人であるヴァリャーグの長リューリクが,大ノヴゴロドの公となり,これが支配者層を含めてスラヴ化,キエフ大公国となる.
 13世紀初頭にモンゴルによって征服され,キプチャク・ハン国の支配下に入るが,15世紀にモスクワ大公がキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱し,イヴァン3世のときからツァーリ(皇帝)の称号を名乗り始める.
 1613年にロマノフ朝が成立,17世紀末~18世紀初頭に,ピョートル1世(大帝)が出てロシア帝国の基盤を築いた.
 しかし19世紀末には帝国は衰退し,ロシア革命を経てソビエト連邦となるが,これも衰退すると,20世紀末にロシア連邦にとってかわられた.

 21世紀にはプーチン朝が成立し(一部ウソ)

【ぐんじさんぎょう】,2011/10/06 20:10
を加筆改修

「ロシアの歴史を1ツイートで教えてください」

Bernoulli@ゼネコン in mixi,2011年10月02日 13:40

 ロシアを四文字で:恐ロシア

遠吠犬 in mixi,2011年10月02日 13:57


 【質問】
 旧ソ連首脳部の最高機密を教えてください.

 【回答】
 これを書くと,Wikipediaとは少し異なり,書いた本人も消されたそうです.

ピョートル大帝:204cm(≒1.31hyde)
レーニン:164cm(≒1.05hyde)
スターリン(=岡田真澄):162cm(≒1.04hyde)
フルシチョフ:166cm(≒1.06hyde)
ブレジネフ:170cm(≒1.09hyde)
ゴルバチョフ:175cm(≒1.12hyde)
エリツィン:188cm(≒1.21hyde)
プーチン:170cm(≒1.09hyde)

元諜報員@FreeTibet in mixi,2008年05月18日18:35

 ピョートルでかっ!


 【質問】
 キエフ・ルーシって何?
 3行以上で教えて!
Mi Kijevi Rusz?
Kérem, mondja meg a három vagy több sorban.

 【回答】
 キエフ・ルーシは9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家.
 正式名称は只の「ルーシ Русь」だが,現代では学術用語として「キエフ・ルーシ Ки́евская Русь」と呼ばれる.
 「キエフ大公国」と呼ばれることもある.

 オレグ Олег が882年頃,ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされる.
 オレグはルーシ・カガン国 Русский каганат を建設したといわれるリューリク Рюрикъ の一族で,リューリクの子,イーゴリを擁して,キエフ・ルーシを建国した.

 歴史家クリュチェフスキイによれば,8世紀にドニエプル川沿岸に住み着いた東スラヴ人は,川の沿岸部に貿易拠点として幾つかの商業都市を築き,それがキエフ・ルーシ創設に繋がったという.
 こうして成立した国家は,外敵から商業路を守るために武装しており,その意味で早くから軍事的性格を有していた,とクリュチェフスキイは述べている.

 11世紀には大きく発展したが,12世紀以降,大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退.
 1240年,蒙古襲来によってキエフは落城し,キエフ・ルーシは事実上崩壊した.

 ただし,その地方政権の一つであったハーリチ=ヴォルイニ公国は,ウクライナ西部の現在のガリツィア地方において1340年代まで存続した.

 【参考ページ】
横手慎二『現代ロシア政治入門』(慶応義塾大学出版会,2005),p.3-4
http://www.y-history.net/appendix/wh0601-125.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/arasuji.html
https://kotobank.jp/word/キエフ・ルーシ-1297013
http://russia.iroirobest.com/entry4.html

wikipediaにおけるリューリク朝(祖家)系図

【ぐんじさんぎょう】,2016/10/15 20:00
を加筆改修


 【質問】
 イヴァン雷帝って誰?
Ki Rettenetes Iván ?

 【回答】
 イヴァン雷帝ことイヴァン4世 Иван IV Грóзный は,ロシア史上最大の暴君.
 1533年,モスクワ大公に3歳で即位したが,少年時代からクレムリン宮殿の塔から猫や犬を突き落として遊んでいた,松原潤みたいなやつ.
 その上,彼の周辺では常に貴族たちの陰謀が渦巻いていたので,彼自身も猜疑心の強い君主に育った.

 1547年,自らツァーリを称し,1549年頃より改革者として親政を開始.
 1552年に蒙古系のカザン=ハン国,1556年にはアストラハン=ハン国を征服し,シベリア進出への道を切り開いた.
 1558~1583年,バルト海制圧をめざしてスウェーデン王国およびポーランド=リトアニア合同君主国との間でリヴォニア戦争を戦ったが,リヴォニアはスウェーデンを奪われる結果となった.

 思うようにならない戦争への焦り,側近たちへの不信感に加え,1560年,イヴァン4世の妻アナスタシアが死去したことから,次第に彼は暴君に変わった.
 1564念,絶対的権力を行使する手段として,下級貴族の子弟から成る「オプリーチニキ Опричники/ Oprichniki」という親衛隊を組織.
 隊員は黒装束に身を包み,ツァーリに反対する裏切り貴族を「掃き出して,かみ殺す」ため,鞭の柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ,馬の首に犬の頭を結びつけていた.
 当時政治の実権を握っていた大貴族を初めとして,反対者は次々に逮捕され,拷問され,殺害された.
 1570年,ノヴゴロド市が敵に通じていると疑ったイヴァンは,オプリーチニキに同市を襲撃させ,市民3万人以上を拷問して虐殺.

 1581年,イヴァン雷帝は,彼自身が最も信頼していたお気に入りの次男イヴァンを殺してしまう.
 息子の嫁エレナ・シェレメチェヴァが,妊娠してお腹も目立ち始めたというのに,軽いドレス一枚しか着ていなかったのを,イヴァンが目ざとく見つけたのが,そのきっかけ.
 ツァーリは,「公妃たるものが何ごとか!」と一括するや,錫杖でエレナを激しく打ち据えた.
 それを制止しようとした次男イヴァンをも,雷帝は滅多打ちし,この息子は数日後に死亡.
 エレナもやはり死亡した.

 以後,イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続け,1584年,チェスの最中に突然失神して死亡した.

 雷帝死後は帝位を3男フョードルが継承したが,知的障害があって統治能力が無く,しかも早く死んだため,リューリク朝は断絶.
 貴族同士の激しい内紛が起こり,ボリス=ゴドゥノフが一時皇帝になるなど偽帝(偽物の皇帝)があいついで動乱の時代となった.

 【参考ページ】
http://www.y-history.net/appendix/wh0904-116.html
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_3/works/works_4_j.html
http://bushoojapan.com/tomorrow/2016/03/18/72045
http://www11.atpages.jp/te04811jp/page1-1-2-10.htm

肖像画
(wikipediaより)

mixi, 2016.10.21


 【質問】
 ロシアの農奴制は,なぜ出来たのですか?
Miért Orosz jobbágyság kialakult?

 【回答】
 土地への緊縛を本質的特徴とする狭義のロシア農奴制は,15世紀末に始まったとされる.

 15世紀までは原則として自由に移動できた農民は,15世紀後半~17世紀半ばにかけての社会的混乱期に直面すると,貴族の領地から逃げ出すようになった.
 国土拡大により,そうした逃亡が容易になっていた.
 南ロシアの草原地帯に広く見られるコサックは,このころ自由を求めて逃亡してきた人々の後裔と考えられている.
 ツァーリを支えて軍務を担った貴族・士族層は,これをそのまま放置すると軍務が不可能になることから,ツァーリに農民の逃亡を禁止する措置を求めた.
(別に,貴族経営の拡大が,農民の移動禁止措置を生み出したとする説もある)

 この結果,農奴制が成立した.
 まず,モスクワ大公イワン3世の〈1497年法典〉は,全国的に農民の移転を〈ユーリーの日〉(ロシア暦11月26日)前後2週間のみと定め,移転料を強制した.
 16世紀のイヴァン4世(雷帝)の時代には,法令として農民の移動の禁止や逃亡農奴をかくまうことが罰せられるようになった.
 また,1723年,ピョートル一世(ピョートル大帝)は,税収入をあげるために人頭税を導入.
 この制度では,農奴の人数分は地主の責任で徴収するとされたので,地主は農奴の掌握を強める必要があり,農奴は地主の許可なしにその土地を離れることができなくなった.
 このようにして,年代が下がるにしたがって農奴制はむしろ強化され,
「帝政末期のロシアは農奴にとって,とても住めた国ではなかったのです」
(司馬遼太郎「ロシアの特異性について」『ロシアについて 北方の原形』文春文庫)
という有様となった.

 【参考ページ】
横手慎二『現代ロシア政治入門』(慶応義塾大学出版会,2005),p.12
http://www.y-history.net/appendix/wh0601-156.html
https://kotobank.jp/word/ロシア農奴制
http://www.stakaha.com/?p=1190

 【関連リンク】
B.O.クリュチェフスキー『ロシア農民と農奴制の起源』(未来社,1982)

mixi, 2016.10.14


 【質問】
 シベリアから東って,いつからロシアが占領してたの?
 北北東アジアに国家がなかったり,古代中国が進出しなかったのはなぜ?

 【回答】
 1558年にイヴァン雷帝が商人のストロガノフ家にシベリアの植民開拓を義務づける領有証書を交付.
 この商人は,ロシア特にウクライナの逃亡農奴カザークを用い,彼らは首領(アタマン)を選出して, ソトーニャと呼ばれる自立的軍事共同体を形成して広野に居住.
 ツァーリは,彼らに辺境守備の役割を担わせた.
 1581~84年に掛けて,ストロガノフはアタマンの一人イェルマークにシベリア開拓を託し,彼は「馬のない800人」を率いて西シベリアをイルティシュ川まで征服し,シビル汗国を征服.
 以降,シベリアに黒貂などの毛皮の交易所と交通路確保のための簡単な要塞であるオストロクが設置され, 後にこれが都市化する.
 1604年にトムスク,1619年にイェニセイスク,1628年にクラスノヤルスク,1652年にイルクーツクが建設される.
 1610年,カザークたちはイェニセイ河口に到達,1640年までにレナ川,ヤナ川,インディギルガ川の線に到達し,中央シベリアの征服完了.
 1632年にヤクーツク,1638年にヴェルホヤンスクを建設する.
 1648年にこれらの都市を拠点に探検隊を出し,S.デジネフにより,1648年に東北シベリア,1645年にオホーツク海に進出,ハバロフにより,1653年にアムール盆地,1679年にカムチャツカ半島に進出.

 北北東については,清が勃興していたけれども,資源と人口が少ないので,権力が集中するような国家を打ち立てるのが難しかったのと,清(前身の女真とか金)の権力が強大だったために,統一国家を作るのが出来なかったと思われ.

世界史板


 【質問】
 ストロガノフとは?

 【回答】
 ビーフ・シチューにその名を残す(もっとも,その因果関係については良く分かっていない)ストロガノフ家は,イワン3世時代から皇帝の信任を得,広大な土地を所有した裕福な商家.
 酒井裕によれば,1574年,西シベリアの土地までストロガノフ家はイワン雷帝から賦与され,この開拓地防衛と,帝国の領土拡大のため,コサックを雇い入れてシベリアへ派遣することになったという.
 これがロシアによるシベリア征服の始まりだった.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.70-71を参照されたし.

消印所沢

▼ ロシア料理はフランス料理に大きな影響を与えています.
 ロシア料理と言えば,ボルシチ,ピロシキ,それにビーフストロガノフくらいしかありませんが,そもそもロシア料理の食べ方としては,最初にザクースカと呼ばれる前菜から始まります.
 上流階級の宴では,各種冷菜を中心とした「軽い」食事を別室で出し,それを肴に酒を飲み,それから食堂に入って具だくさんのスープ,そして,パンを手にとって,やっとメインディッシュと言う形になります.
 これ,何かと言えば,フランス料理のコース料理と同じで,ザクースカとはフランス料理で言う所のオードブルとして取入れられている訳です.

 フランス料理でのオードブルとは軽めの料理を指しますが,ロシア料理のザクースカとは,宴会料理の主役となり,これを食べないで程々に済ますと言う事は,逆に言えば酒を控えめにすると言う事に繋がります.
 ロシアに行って,コースを頼むと,最低でも5~6皿のザクースカが出て来ますが,この量たるや半端ではありません.
 蒸したタンなら大きな切り身が20枚くらい並び,馬鈴薯をベースに,鶏や鰊を入れるロシアサラダだったら丼1杯分あります.
 で,これを息も絶え絶えに食べると,次に出て来るのは酢漬け茸やピロシキ,更にメインディッシュ…とてもじゃないですが,ものを大切にする日本人の考えを表に出すと後悔すること請け合いです.

 そんなロシア料理のメインディッシュの中で,日本で最も有名なのがビーフストロガノフです.
 ただ,日本のビーフストロガノフとは,日本人の嗜好に合わせ,ドミグラスソース,トマトソースをベースにした茶色のものですが,ロシアのそれは,ベースがスメタナなので,普通は白かったりします.

 ビーフストロガノフのストロガノフとは人の名前で,エカテリーナII世治下で政府顕職を歴任した人で,大富豪ですが,晩年,年を取って歯が抜けてしまったので,大好きなビフテキが食べられなくなりました.
 そこで,細切りの牛肉を使って牛肉の味と香りを保とうとしたのがこの料理とか.
 実際はこの料理の出現は19世紀末で,その名はストロガノフ家最後の人物の名を取ってこう名付けられたそうですが….

 細切りにした玉葱をよく炒め,牛肉を加え,そのあとスメタナを加えて味を調えますが,肉は事前にワインを加えた湯で蒸し,必ずマッシュルームとケイパーを加える必要があります.

 因みに,ストロガノフ伯爵,様々なエピソードがある人で,ペテルブルグの中心,ネフスキー通りにある邸宅の食堂には,毎日100名以上の客を招いて食事をした…招待状も不要で,きちんとした服装をしていれば誰でも入れたとか.
 そのメニューは,最初のザクースカとして,キャビア,二十日大根,プラム,塩漬け鰊,皿を入換えて第2回目のザクースカにはヘラジカの肉(偉い人にはそのタン),よく煮た熊の掌,大山猫の焼き肉,蜜とバターで焼いた郭公,大鮃の肝,更に皿が変わって第3回目のザクースカには,生牡蠣,胡桃と鮭を詰めた野鳥,塩漬けの桃に酢漬けのパイナップル等々….

 またある時はザクースカの一皿に,塩漬け鰊の頬肉(!)を出した事もあります.
 それを1人前用意するのに1樽分の鰊が必要だったりするわけで….
 その時の客も100名を超えていたと言います.

 他に,ナイチンゲール(野鳥の方ですよ!)の舌を集めたソースを出してみたり,祝日の度に別荘で花火を上げ,楽団を呼んで舞踏会を催し,通りがかりの人にもお茶と軽食を振舞い,更には貧乏人にも片端から食料や金を施したので,エカテリーナII世曰く,「此の男は破産したくてあらゆる事をするのだが,どうしても破産出来ないのだ」と冗談めかして言ったと言う逸話も残っています.

 一方,エカテリーナII世の寵臣だったポチョムキンも負けては居ません.
 彼が宴席で出した料理は,「トロイの馬」と言う題が付けられました.
 これは,豚を胡桃と干し無花果だけで育て,殺す前に最高のマジャールワインを酔うまで飲ませます.
 殺して,血抜きをした後,ワインでよく洗い,腹は裂かずに内臓は喉を通して取出し,代わりにソーセージをソースと共に詰め込みます.
 豚の半身をワインとバターで捏ねた粉で覆い,天日で焼いた後に衣を取り去ると,半身は焼き肉に,半身は蒸し肉になっていたりするので,人々は非常に驚いたそうです.

 エカテリーナII世の息子,パーヴェル帝の時代には,こうした入れ子人形的な料理が流行りました.
 大きなオリーブの実から種を取出して,代わりにアンチョビーの破片を入れ,オリーブを雲雀の腹に詰め,その雲雀を然るべく調理した後,脂の乗った鶉の腹に入れ,その鶉を,雉科の鳥である鷓鴣に入れ,それを雉に入れ,それを更に鶏に入れ,その鶏は更に子豚の腹に詰めて丸焼きにする,と言う具合.

 ツァーの宴会ともなると,大変なものです.
 16世紀末,クレムリンがオーストリア大使を迎えた時の記録では,8種類のワインと20種類の蜜酒が出され,料理は白鳥の丸焼き8皿,鶴の野菜添え8皿,サフランをかけた羊の胸肉,鴨の直火焼き,鴨と胡瓜,黒雷鳥の李添え,蝦夷雷鳥の李添え,牛の腿ロース直火焼き,羊の腎臓直火焼き,羊の足,羊の肩肉直火焼き,若鶏の生姜味浸し焼き,ウハー4種類,肉饅頭,スープの一種であるカリヤ3種類,ピロシキ,兎4皿,大鹿5皿,鶏料理6種類,干した鵞鳥肉,レモン,各種パン,ピロギ,ブリヌィ,甘いクッキーなど…勿論,当時はコースではなく一時に出され,着席の宴席と言っても今の立食パーティ形式ですから,偉い人は好きなものが選べましたが,普通の人にはお仕着せ的なもの,位が低ければ,限られた料理を少しだけと言った感じになっています.

 エカテリーナII世の普段のメニューも,七面鳥,テリーヌ,野菜のピューレ,鴨,若鶏のマリネ,オークニ(鯛に似た淡水魚)とハム,トリュフ入りパテ,蝦夷雷鳥のスペイン風…此処までが前菜,以後,海亀のスープ,小鴨のオリーブ添え,12種類のサラダ,7種類のソース,イタリアパン,ケーキなどが続きます.
 彼女,意外に健啖家だったようです.

 時代が下るほどに西洋式が導入され皇帝の食事は簡素化されていきます.
 アレキサンドルIII世は,ボトヴィニヤ(冷たいスープ),海亀のスープ,ピロシキ,鮭のフライ,七面鳥,トリュフ入りフォアグラのスフレ,焼いた鶉,サラダ,カリフラワーにアイスクリーム,とこれだけのメニューしかありません.
 尤も,高価な食材は使っていますが….

 更にニコライII世は質素で,それこそ,「シチーとカーシャ」,所謂,一汁一菜でも苦にならなかっただろうと言われています.
 ただ,皇妃アレクサンドラはそれでは満足出来ず,家族だけのディナーでも,様々な種類のピロシキとチーズ付きスープから始まり,メインは何かの魚料理,続いて鶏か野鳥の焼き肉,野菜,果物,デザートで,飲み物は大抵マデイラ・ワインであり,最後にリキュールを垂らしたコーヒーと,結婚披露宴のコース料理と大して変わり有りません.

 こうした食事の簡素化は,西欧文明導入の影響ですが,これは西欧の進歩した文明を積極的に採り入れようとした人々と従来からのロシアの伝統を守ろうとした人々との対立を引き起こしました.

 食文化での西欧派,民族派の対立は,麺類の世界で土着のラプチャーとマカロニの対決になっていきます.
尤も,両方ともイタリアが発祥の地ではありますが,片や饂飩のような長い麺,片や19世紀にイタリアから入ってきたスパゲッティと我々が呼んでいる所のマカロニ,これらを称してマカロニと呼ばれていました.
 ラプシャーとマカロニの対決は熾烈を極め,其処此処で対立しています.

 因みに,ゴーゴリは思想的にはスラブ派ですが,麺類だけは熱烈なる西欧派でした.
 彼の大好物はスパゲッティであり,旅行の際はスパゲッティの束を持ち歩き,宿屋の調理人を信用せず,自分で茹でたそうです.
 で,彼が好んだのはただ,茹でただけのスパゲッティを何もかけずに食べることだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/27 23:30


 【質問】
 エルマークとは?

 【回答】
 イラン雷帝とストロガノフ家の命を受け,エルマーク・チモフェービチは,ロシア人として最初にウラルを越えた人物.
 酒井裕によれば,エルマークはボルガの盗賊であったとも,皇帝に使えていたコサックの首領だとも言われるという.
 1578年10月(異説もあり),エルマークはコサック軍500~800名を率いて,シベリア遠征開始.
 河川を彼らは利用して東進.
 トゥーラ川でタタール軍と遭遇して,これを小銃射撃で度々撃退しながら,1581/10/26,シベリア汗国首都イスケルを占領するに至った.
 1584/8/5,ブハラ(現ウズベキスタン)の商隊をイルトゥイシ川上流で待ち伏せしていたが,彼らを尾行してきたタタール軍部隊に夜襲され,甲冑の重みから川で溺死したという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.71-74を参照されたし.


 【質問】
 なぜコサックは,トボリスク(1587年設営)からオホーツク(1649年設営)まで60年あまりで到達できたのか?

 【回答】
 酒井裕によれば,オビ,エニセイ,レナという大河の無数の支流を水路として利用する「連水陸路」を利用することで,シベリア東進をスピーディに続けることができたという.
 ウラルからオホーツク海まで,たった3回だけ船を引き揚げ,隣の支流に移動することで到達できたという.
 仮にコサックが陸路を行けば,大河に阻まれ方向を失っただろうし,草原ルートを進めばモンゴル系遊牧民の襲撃を受けること必至だっただろう,と酒井は推測している.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.81-82を参照されたし.


 【質問】
 兵糧の確保には,いつどこの軍隊でも苦労すると思うんですが,ロシアのコサック兵がシベリアを東に進んでいた時は,どうやって大量の兵糧を確保していたんですか?
 ウラルの西から兵糧を持ってくるのは遠すぎですよね.
 当時のシベリアに食えるものなんかあったんですか?

 【回答】
 ロシア&ソ連が国内に軍組織を派遣するときの常套手段,つまり現地調達が大部分で,兵糧として持っていったのは最小限.
 現地調達の具体的な方法は狩猟という手段もあったが,なにより徴用という名の略奪が主体だった.

 シベリアというと一年中,雪と氷に閉ざされた世界を想像するかもしれないが,あのだだっ広い地域がそんな単純な気候帯だけで占められてるはずもなく,実は豊かで手付かずの大自然が広がってる場所がかなり多い.

 そもそもロシアがなぜシベリアの方まで領土を拡張したかといえば,あそこの大地と海がいわゆる「柔らかい黄金」,極上の毛皮の宝庫だったわけで.
 当然だけどそんな豊かな生態系があるってことは,豊かな動植物と豊かな土壌が存在するのが前提なわけ.

 だから土地が広大すぎて人口密度こそ低いものの,ちゃんとその土地で暮らしてる人々がいたし,口に糊する事が可能だった.
 ついでに言えばロシアもソ連も,軍組織が自分達の同胞を蹂躙し略奪し殺害し餓死させる事に,驚くほど抵抗がない文化があった上に,上層部は将兵の餓死を含む損耗を全く気にしない風潮があった.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 そもそもシベリアを東進していた頃のコサック兵は,正規軍の組織系統からは外れた集団だったわけだし.


 【質問】
 ヤクーツク征服までの過程は?

 【回答】
 1628年,コサックの百人隊長ペトル・ベケトフがエニセイスクから船を漕ぎ出し,レナ川に到達.
 ヤクート族を次々と征服しながら北上を続け,32年にヤクーツク城塞を建設.
 38年にはヴェルホヤンスクに町を建設.
 40年,最初の軍政官ゴロウィンがヤクーツクに着任,独立した軍政部が設けられたという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.105-106を参照されたし.


 【質問】
 デジニョフとは?

 【回答】
 セミョン・イワノビッチ・デジニョフは,1605年,北ロシアの貧農の生まれ.
 詳しい生い立ちは不明.
 トボリスクでコサック兵として働き,やがてヤクーツクへ移住.
 1648/6/20,北極海から太平洋へ抜ける冒険のため,7隻の船で出発.
 航海,上陸,食料調達とそれに伴うチュクチ人との戦闘を繰り返しながら航海を続けるが,船は河川用の小型のものだったため,行方不明や難破が続出.
 10/1には最後の船も座礁してアナドゥイリに近い海岸に投げ出され,同地に要塞を建設.
 アナドゥイリ川を遡って,その周辺の地図を作成し,その功により1664年,アタマンの称号を与えられる.
 しかし,その最期は不明.
 酒井裕によれば,新たな遠征の途上で死亡したのだろうという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.122-124を参照されたし.


 【質問】
 エロフェイ・ハバーロフとは?

 【回答】
 コサックの首領.
 1649年,アムール川探検に出発.
 ブリヤート・モンゴルによって苦戦を強いられたため,一時ヤクーツクへ撤退した後,翌年,兵力を百数十人に増強して再度アムールへ.
 ブリヤート・モンゴルの奇襲や,ラフカイ指揮の満州軍との激戦の後,アムール川河口までの征服を果たした.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.140-141を参照されたし.


 【質問】
 アルバジン城の攻防について教えられたし.

 【回答】
 ベケトフが1665年に同城を建設したのが,ことの始まり.
 当時,アムール川周辺は清国の領土と考えられており,1685年,清兵1万がアルバジン城に立て篭もるコサック兵450人を包囲し,同城を破壊.
 これに対して軍政官アレクセイ・トルブジンは,すぐに同城を再建.
 これに対して清軍は1686年,再度,同城を兵力8千で包囲するも,トルブジン指揮下のコサック兵736人は,かろうじて防衛に成功.
 1689年,ネルチンスク条約により,国境の確定とアルバジン城の破壊などが取り決められた.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.141-142を参照されたし.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ピョートル大帝の西欧化政策について3行以上で教えてください.
Kérem, mondja el a 1. (Nagy) Péternek nyugatias politikája a három vagy több sorban.

 【回答】
 云わばピョートル版「富国強兵」.

 1613年に成立したロシア・ロマノフ朝は,スウェーデン王国,ポーランド王国に圧迫され,東ヨーロッパでは弱小勢力にすぎなかった.
 国内には依然として農奴制を基盤とした有力貴族が存在し,産業も未熟であり,近代的な軍隊の創設が急がれていた.
 そこでロマノフ朝のツァーリは,西ヨーロッパ諸国に習った国家の創出をめざし,制度・産業の西欧化を進めた.

 特に急速に進めたのがピョートル1世(大帝)であった.
 ピョートル1世の時代に,産業・軍事・税制・官僚制などで特にプロイセンを手本とした改革が行われた.
 彼は,武力において諸外国と互角に渡り合うことができる国家を創り出すため,抵抗をものともせずに,それまでの社会を根底から編成し直そうとしたのである.

 彼は西欧視察団を組織し,イギリス・オランダ・ドイツなど見学した.
 彼自身も身分を隠し,視察団に加わった.
 そして,西欧風の砲術・造船などの技術を習得した.

 一方,1700年のナルヴァでの敗北は,彼にロシア陸海軍の装備・訓練の不足を痛感させ,本格的な軍事改革に着手させた.
 まず海軍省と砲兵学校を創設し,小銃・大砲・軍艦の増産を急ピッチで進めた.
 1705年には終身型の徴兵制度も導入,新設軍隊の兵士は西欧式の訓練を施された.

 1718年には行政区分が改革され,50以上存在し,役割の重複していた官庁制度を廃止し,役割ごとに分けた9つの参議会制度に再編された.
 地方行政では1708年,国内を8つの県に分けたが,1719年にさらに45の州に分けて統治した.
 そして,各種の機構を運営できる人材を育成するため,海軍兵学校や算術学校で学ぶことを貴族の子弟に強制した.

 さらに1722年には,スウェーデンやドイツの制度にならって官等表を定め,国家官僚を文官と武官に分けて14等に格付けし,官僚制度を確立した.
 これにより,貴族の出自でない者も,貴族の身分を得ることができるようになった.
 ピョートルの時代には,まだ名門の世襲貴族が上層ポストを独占していたが,結果として,19世紀には官等表を順に登り詰めた官僚貴族が,そこに就くようになった.
 これはピョートルの合理主義を支えていたのが,ヨーロッパ列強に伍する強力な国家の建設という目標であったからで,そのため,家柄や出自ではなく,国家に対する功労と年功に基づいて昇進させる制度を制定したのである.

 経済政策にも積極的で,官営工場の設立や工業への保護育成政策も採られた.

 たとえば1699年には,ピョートルはネヴャンスクに溶鉱炉と鋳造所の設立を命じ,もともとロシアの製鉄業をになっていたトゥーラの熟練鉄砲鍛冶ニキータ・デミドフを,建設監督および施設の管理人に任命した.
 これはエカテリンブルク県のネヴァ川で良質の鉱石が発見され,周りは森林地帯であり,当時の製鉄の燃料となる薪も豊富に入手可能ということからであった.
 デミドフは短期間のうちに,1プード80コペイカで生産されていた砲弾と炸裂弾を,1プード13コペイカで生産することに成功.
 これはカール12世との北方戦争に大いに貢献した.
 さらにデミドフは自らトゥーラに製鉄所を設立し,ナルイシキン家の経営になるトゥーラの帝国武器製作所よりも安く豊富に武器を生産することに成功した.
 ピョートルはいたく感激し,デミドフ経営の製鉄所と付近の土地をデミドフに与え,年に3000プードの鉄を国家に納める以外,課税をすべて免除した.
 これにより,デミドフ家は莫大な富を築いた.

 また,1700年,同じウラルのエカテリンブルクの近くのカーメンスクに製鉄所を建設し,こちらは建設・作業の管理をドイツ人に任せた.
 1711年には,独立のシベリア鉱山局が置かれ,ドイツ生まれの砲兵士官ヘニングが初代長官となった.
 ヘニングはエカテリンブルクを建設し,1723年,この町にあらゆる種類の鉄工場が置かれ,シベリアの鉄鋼業,ひいてはロシアの鉄鋼業の中心となった.

 効率の良い人頭税制度が,1718年から実施された.
 国家は最初から多方面に渡って機能するものとなったので,機能を支える多額の資金を必要としたし,また,長く大規模な戦争や,新首都建設を支える莫大な費用を捻出するため,様々な物品に税をかけた.
 ピョートルは「新しい税」を考案させることにし,名案を出したものには報奨が与えられた.
 その結果,土地税・枡目税・重量税・ショール税・帽子税・薪炭税・大鎌税・皮革税・蜜蜂税・風呂税・洗濯税・煙突税・すいか税・キュウリ税・クルミ税……等々の新税が課されることになった.
 物品への課税のたねが尽きると,こんどは職業や宗教,さらには思想にまで税金がつくことになった.

 しかし,社会の根幹にある農奴制には基本的には手をつけず,「上からの改革」にとどまり,「ロシアの後進性」をぬぐい去ることはできなかった.
 農奴制は,国家に安定的に兵隊を供給し,税収入をもたらすシステムとして評価されたため,命運を保ち続けた.
 そのため,農奴制が廃止されるまでは,ロシアの工業化においては労働力供給がネックとなった.
 また,重い税負担や抜本的な組織改革は,一般民衆の反発をもって迎えられ,「髭税」など,多くのばかばかしい税目が,人民のあいだに大きな不満をまきおこした.
 しかも,政府を担う官僚の教育不足や汚職によって,徴税や中央と末端との意思伝達がうまく進まないのが常だった.
 結果,ドン・コサックや農民一揆などの反乱が相次いだ.

 ピョートルの改革は,持続的経済成長を生み出さなかったのである.

 【参考ページ】
横手慎二『現代ロシア政治入門』(慶応義塾大学出版会,2005),p.17-19
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-148.html
http://www.kobemantoman.jp/sub/2.htm
http://www11.atpages.jp/te04811jp/page1-1-4-4.htm
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/06_kindai/06-16_petr.html

mixi, 2016.10.17


 【質問】
 ステンカ・ラージンとは?

 【回答】
 17世紀のドン・コサックの首領.
 1667~68年,下層コサックたちの困窮を救うため,ラージンは軍団を率いてカスピ海沿岸のペルシャ領を襲い,膨大な戦利品を持ち帰る.
 1670年には再び遠征を計画するが,ラージンの旗揚げに呼応してドンやボルガ流域の農民・都市下層民が次々と合流,それにつれて遠征は農民戦争へ発展した.
 ラージン軍はツァリツィン(現ボルゴグラード)やアストラハン要塞を陥落させた後,ボルガ川を北上して中部ロシアへ迫ったものの,10月のシムビルスク(現ウリヤノフスク)近郊の戦いで,ロシア政府の討伐軍に敗北.
 酒井裕によれば,軍隊としての規律や組織力に欠けていたことが敗因だという.
 ラージンはドンに逃げ帰ったが,彼の暴挙に反感を持っていたコサックのアタマン(首領)たちに捕らえられて政府に引き渡され,1671/6/6,両手両足を斧で断ち切られて処刑された.

 以下はコサックに伝わるラージンの唄.

――――――
明け方,私は夢を見た
東からの強い風に馬はおののき
私の帽子を吹き飛ばした
少佐にこの夢の話をしたら
お前の首が飛ぶ,と言った
私は夢を見た
東からの強い風に馬はおののき
私の帽子を吹き飛ばした
――――――

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.63-65 & 237を参照されたし.


 【質問】
 ピョートル大帝って誰?

▼ 【回答】
 ピョートル大帝ことピョートル1世は,ロシアの「ロシア帝国」化の基礎を築いた皇帝(1672~1725)
 カウンター・クーデターによる摂政ソフィア幽閉後,1694年,国政を任せていた実母ナターリアが1694年に死去すると,親政を開始.

 外国人(ヨーロッパ人)達から数学や技術,機械や軍事・造船などの技術を学び,それを生かし,強制的にロシアのヨーロッパ化を進めた.

 1696年,河川艦隊と呼ばれるロシア最初の海軍を組織.
 オスマン帝国から黒海の北部アゾフ要塞を攻略し,地中海への窓口を確保.
 1700年にはスウェーデンへ侵攻するも敗北.
 しかし統治にミスったカール12世の隙をついて,農民達の徴兵令を出し,軍隊を再編.
 またバルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め,ここを拠点とする.
 1709年には,スウェーデン・ウクライナ軍を撃破.
 さらに,ロシア海軍のバルチック艦隊は1714年にスウェーデン海軍を破る.
 その後も戦いが続くが,カール12世の死後,
 1721年に結ばれたニスタット講和でロシアはバルト海沿岸の大部分を確保.
 また既にシベリアまで領土が広がっていた為,清とネルチンスク条約を結び,国境を確定している.

▼ 他にもトルコ,モルダヴィア,プルートと,遠征を繰り返す一方,国内工業発展に力を注いだが,過労のために死去した.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ピョートル大帝の怪力ぶりについて教えてください.

 【回答】
 片手で銀貨を曲げたり,兵士の髪の毛を掴んで,吊るす事ができたほどの怪力だったといわれている.
 身長も2m12cmあり,クレムリン武器庫(博物館)には,彼の巨大な礼服や靴が陳列されている.
 ピョートル大帝vsプーチンなら,良い勝負になりそう.

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/27 21:00
に加筆


 【質問】
 アトラソフとは?

 【回答】
 コサックの50人隊長.
 1697年,ユカギール人60人を率い,先住民から毛皮をとりたてながら,カムチャッカ半島ほぼ全域を征服.
 皇帝に謁見を許され,ヤクーツクのコサック長に任命されたが,その後,ツングース川で商船を略奪して投獄される.
 1706年,カムチャダール人の反乱に際し,ヤクーツク軍政部はアトラソフを釈放してカムチャッカに派遣,鎮圧に当たらせる.
 しかし横暴さゆえに,仲間のコサックからも反感を持たれて遂に再投獄.
 その後脱獄し,再起を図るが,1709年,自宅で睡眠中に斬殺された.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.131-132を参照されたし.


 【質問】
 ベーリングとは?

 【回答】
 ヴィトゥス・ベーリングは1681年,ホルセンスに生まれたデンマーク人.
 1703年,ロシア・バルチック艦隊の少尉に任官.
 1725/2/14,探検行のためペテルブルグを出発し,ユーラシア大陸東端の発見の報告書を携えて1930年春にペテルブルグに帰還.
 しかしロシア元老院は,
「北緯66度18分で引き返したのは不充分.その以北でチュコト半島がアメリカ大陸と接していないとは断言できない」
と彼を非難.
 そのため1733年,第2次探検に彼は出発するが,船が難破して絶海の孤島に取り残され,1741/12/8,彼は死亡した.

 同島は後にベーリング島と名づけられた.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.126-130を参照されたし.


 【質問】
 エリザヴェータとは?

 【回答】
 女帝.
 七年戦争にてロシア軍はベルリンへ侵攻.プロイセン王フリードリヒ2世を敗北寸前にまで追込んだ.
 しかし彼女が死去した為,フリードリヒ2世信奉者のピョートル3世が即位し,プロセインは命拾いをした.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エカチェリーナ2世とは?

 【回答】
 女帝.
 積極的な外交政策を推進し,オスマン帝国との露土戦争や3回のポーランド分割などを通じて,ロシア帝国の領土を大きく拡大.
 オスマン帝国との露土戦争(1768~74年,1787~92年)に勝利して,ウクライナの大部分やクリミア汗国を併合,バルカン半島進出の基礎を築いた(南下政策).
 第1次ロシア・スウェーデン戦争で,ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗れたりもしているが,後に第2次,第3次のポーランド分割を主導し,ポーランド王国及びリトアニア大公国を消滅させている.

世界史板


 【質問】
 エカチェリーナ2世には確か,愛人が6人くらい(人数は自信なし)いて複数の愛人との銅像も建っていたと思いましたが,画像は無いでしょうか?

nullpo in FAQ BBS

 【回答】
 おそらくこれではないでしょうか.
http://petersburgcity.com/city/photos/memorials/catherine/

 サンクトペテルブルクのオストロフスキー公園にある銅像だそうです.
 ただ,銅像には愛人だけではなく,側近のダーシュコヴァ夫人なども混じっています.
http://www5a.biglobe.ne.jp/~SE3Q/travel/russia/petersburg2.html

アンスラサクス in FAQ BBS


 【質問】
 なぜロシアは18世紀半ば以降,中央アジアを主な進出方向としたのか?

 【回答】
 威信回復の手段であると共に,英国領インドの国境に軍事的脅威を作りだし,ロシアの黒海沿岸地域に対する英国海軍の脅威と相殺させようとしたためだという.
 以下引用.

 ロシアは1850年代から1880年代までの間に中央アジアを征服したが,これは地域との交易を増やしたり,保護したりするためであった.
 征服からずっと遡れば,ピョートル一世は西ヨーロッパと中央アジア,さらにアジアを結ぶ国際的な一大交易ルートを開設し,独占することを夢見ていた.
 その後,ニコライ2世の蔵相を務めたセルゲイ・ウィッテも,シベリア横断鉄道によってロシアは東西の交易における主要な仲介者,運搬者になれると考えていた.

 しかし,中央アジアを実際に征服するとなると,商業よりも地政学のほうが重要な動機だった.
 1830年代から1900年代まで,ロシアの主なライバルはイギリスだった.
 イギリスは,ロシアのパワーを削ごうとして,1854~56年のクリミア戦争に参戦したが,パーマストン卿は黒海やカフカスからロシアを押し戻し,さらに18世紀半ば以降,ロシアが獲得してきた領土の殆どを奪うつもりだった.
 だが,イギリスが一国だけでこの目標を達成するには陸軍を欠き,ナポレオン三世も,こうした壮大な軍事目標を達成するのに必要な,途方もない軍事的努力を払うつもりはなかった.15
 それにも関わらず,1856年のパリ条約によって,ロシアは,黒海の沿岸と河口を艦隊あるいは適当な要塞で防衛する権利を奪われると,イギリス海軍によるその後の攻撃に対して非常に脆弱になった.

 このような事態を受けたロシアの対応は,中央アジアで前進していくことだった.
 これは一つに,威信を回復する手段であり,さらにイギリス領インドの国境に,黒海でロシアが味わっているのと同等の脅威を作り出すためでもあった.
 現実には,少なくとも1880年代まで,インドに対するロシア軍の脅威よりも,ロシアの黒海の基地に対するイギリス海軍の脅威のほうが,遥かに大きかった.
 それでも,インド統治の脆弱性に対するイギリス人の過敏な懸念のおかげで,ロシアは中央アジアからの脅威という便利なカードを握ったのだった.
〔原注〕
 15 A.Lambert, The Crimean War. Britain's Grand Strategy against Russia 1853-1856, Manchester University Press, Manchester, 1990の随所に描かれている.

――――――Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.34-35


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ロシアの鉄道建設の始まりは?

 【回答】
 ロシアに於て,レールを用いた運搬手段は1760年代にアルタイ地方西部の鉱山に於て,水力を利用した装置(ドイツなどで時々見かける,水力利用のケーブルカーみたいなもの?)を用いて,鉱石を搭載した貨車を工場内に走らせたのが最初と言われています.
 1780年代には,ペトロザヴォーツクの鋳鉄・兵器工場で工場内馬車軌道が誕生しています.
 以後は,主に鉱山や工場内を中心に,馬車鉄道が利用されました.

 蒸気機関車が誕生したのは,1834年2月の事.
 ウラル中部のニージニー・タギルと言う町の工場で,農奴出身の技術者であるE.A.チェレパーノフ,M.E.チェレパーノフの親子が,重量2.4tながら煙管の数は英国標準の25本を上回る80本を使用して製作したもので,性能的には優れていました(あくまでもロシア基準なので本当かどうかは定かではありませんが).
 この機関車は,工場内に敷設された400サージェン(約854m)のレール上を,鉱石3.3tを搭載した貨車を牽引して時速13~16kmで走ったそうな.
 積荷がなければ,約40名の旅客を運べたとか.
 軌間は2アルシン5ベルショーク(約1,645mm),レールは1本1サージェン(約2.134m),重量は4プード(約65.5kg)であり,メートル換算では30.7kgのレールを用いていました.
 これは,中央では顧みられる事はありませんでした.

 以後,話だけは様々に浮かんでは消えていきます.
 これは既存輸送機関の経営が圧迫されるとか,厳冬期に安全が確保されるのかとか,各種の懸念事項がありましたが,最大の懸案は資金調達の問題でした.

 そんな折,ウィーンで総合技術大学の教授をやっていたチェコ人のフランツ・ゲルストネルがロシアにやってきます.
 彼は教授の傍ら,鉄道技師としてもウィーンの馬車鉄道を建設した実績のある人であり,ロシア政府に対しても,モスクワ~サンクト・ペテルブルクの鉄道などいくつもの案を打診します.
 今までは,これだけで終わっていたのですが,彼には政治力がありました.
 有力筋のコネを造り,利権をちらつかせ,執拗な嘆願を繰り返して,遂にペテルブルク~パヴロフスク間25ヴェルスタ(26.7km)の建設許可を得る事に成功しました.
 因みにパヴロフスクと言う町は,帝室の離宮や貴族の別荘地がある所です.

 こうしてツァールスコエ・セロー鉄道会社が発足し,1837年10月30日,ペテルブルク(今のヴィテプスク駅)とツァールスコエ・セロー(今のジェーツコエ・セロー駅)の間23kmが開通しました.
 ゲルストネル自らが機関士を務めた列車は,8両の客車を引いて時速60ヴェルスタ(約64km/h)で走り,両地点を35分で結んだのでした.

 この鉄道は全線単線で,軌間はゲルストネルの主張で,6フィート(1829mm)が採用されました.
 レールや車輌始め,多くを輸入に頼った為,建設費用は予算300万ルーブルを大きく上回る500万ルーブルに達します.
 こうした状況にも関わらず,1838年4月4日にはパヴロフスクにまで到達し,全線が開業しました.

 このパヴロフスク駅には,この鉄道会社により,「バクサール」と言う娯楽施設が建設されました.
 元々,この地は保養地であったために,離宮に行く人間とか帝室関係者とか,貴族くらいしか需要を見込めなかったので,乗客を呼び寄せる為の施設を建てた訳です.
 事業的には小林一三の大先輩ですね.
 このバクサールでは,連日の様にコンサートとか舞踏会が催され,時にはワルツ王ヨハン・シュトラウスII世も招かれ,10年間夏のシーズンを送っています.

 ツァールスコエ・セロー鉄道会社は其の後,1899年にモスクワ=ヴィンダワ=ルィビンスク鉄道に買収され,ペテルブルグとヴィテプスク(現在はベラルーシ領)を結ぶ路線の一部に組み込まれました.

 さて,この鉄道が開業し,ロシアの厳冬期にも支障なく運行できることを証明した事で,ロシアでは鉄道建設ブームが訪れます.
 時の皇帝ニコライI世は,ペテルブルク~モスクワ間鉄道建設の是非について,委員会を設置して検討を行わせました.
 また,P.P.メーリニコフとN.O.クラフトの2名を米国に派遣し,米国の鉄道経営と建設について学ばせています.
 それでも,政府部内には資金の問題を始めとして,馬車や水運業者の反発,燃料に薪を使う事による森林資源の枯渇を憂えたり,運賃さえ払えば,どんな社会階級の人間でも乗れる事に対し,社会秩序を乱すと言った珍論?まで有りと有らゆる反対がありました.

 1842年,ニコライI世は,遂にペテルブルク~モスクワ間鉄道建設を決意しました.
 2月1日に布告が出され,1843年より工事が始まりました.
 軌間は米国人技師の助言により5フィート(1524mm)となり,以後近年に至るまで採用されていました(現在は公称1520mm).
 この路線は可能な限り真っ直ぐ結ぶ事を優先した為,ノヴゴロドすら経由していません.
 両地点の距離は604ヴェルスタ(644.5km)で,地図上の両地点を直線で結んだ距離598ヴェルスタ(638.1km)と殆ど変わらなかったりします.

 因みに,鉄道開通前のモスクワ街道はノヴゴロドを経由している事もあり,674ヴェルスタ(719.2km)なので,如何に真っ直ぐかが判ります.
 一説には,ニコライI世が地図上に直線を引き,「この様に敷設せよ」と命じたと言いますが,本当にそうなのかは判っていません.

 1851年11月1日,両地点を結ぶ鉄道は開通し,両地点を21時間45分で結ぶ事になります.
 これは複線鉄道であり,初年度には78万人の乗客と1,000万プード(163,800t)の貨物を運んでいます.
 建設費用は6,466万ルーブルを全て外国借款によって賄い,必要資材や車輌の大半も輸入だった為,利権により莫大な利益を上げた者が大勢いたとされています.
 他方,建設には50,000人を越える農奴が動員されましたが,農奴,流刑囚,抑留者達が強制的に建設に従事させられると言うパターンは既にこの頃から萌芽が見られていたりします.

 建設当初は,皇帝に因みニコライ鉄道と呼ばれていましたが,革命後は十月鉄道と呼ばれてきました.
 今は,両都市の間は所要時間8時間に縮まり,赤い矢号を始めとする特急街道となっています.

 こうして鉄道ブームに一旦沸いたロシアですが,冷や水を浴びせたのがクリミア戦争でした.
 これと国家予算の窮乏で一時的に鉄道建設は下火となり,1856年までの鉄道総延長は1,045kmに過ぎませんでした:.

 ニコライI世の急死後,跡を継いだアレクサンドルII世は,国家の改革に着手します.
 この中でも重視したのがクリミア戦争の戦訓から,迅速な軍隊の国内輸送が勝敗の鍵である事に鑑みて行った鉄道建設でした.
 政府主導で建設は民間でも,資金は政府からの融資とか政府保証付の外債を調達するなどで賄いますが,開通後の利益保証や資材の輸入を無税とするなど,鉄道建設という名の利権制度が確立され,その結果,民間で次々と新しい鉄道会社が誕生し,1860~70年代に掛けて年平均2,000kmの鉄道が敷設され,1870年代後半には総延長が2万kmに達します.

 露土戦争で一旦其の成長は鈍りますが,政府はドイツに範を取った鉄道国有化政策に転じ,放漫経営や投機で危機に瀕していた鉄道会社を安く買い叩く事で,次々にそれらを国有化していきます.
 1890年代以降は,国家主導の鉄道建設が推進され,それに伴う諸産業の発達により,19世紀末にはレールの国産化を達成しています.
 1904年末,ロシア鉄道の総延長は59,533kmに達していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/08 22:23


 【質問】
 18~19世紀,ロシア軍の巨大な兵力を支えたものは何か?

 【回答】
 ・ほぼ経済的に独立した国防産業
 ・ヨーロッパ最大の鉄鋼業
 ・農業生産と地方の繁栄
 ・比較的単価の安い軍事費用
によるという.

 以下引用.

 ロシアの軍事力の背後には,18世紀の段階でほぼ経済的に独立した国防産業と,ヨーロッパ最大の鉄鋼業があった.
 肥沃な黒土地帯への領土拡張によって,ロシアの農業生産と地方の繁栄も加速した.
 1800年の段階で既にロシアの国土は最大で,しかも最も人口が多かったが,19世紀には人口の爆発的増加に差しかかり,新たに征服した地域で入植を進めることも可能だった.
 エカテリーナ二世の34年に渡る治世では100万人が徴兵されたが,これにはどのヨーロッパの君主も叶わなかった.
 アレクサンドル一世の時代になると,ナポレオンの脅威に直面したこともあって,僅か24年間に200万人が徴兵された.19
 当時の諸条件において,これだけの規模で軍の将兵を徴集し,装備を持たせ,訓練を積ませ,養っていけるような国家は,例え不安定であったり,その役割が非常に限られていたりしても,手強い存在であるはずだった.

 18世紀前半には軍自身が採用制度や人頭税の徴収を殆ど一手に引き受けていたが,1775年の改革で文民の地方政府が強化された後は,一般の文民機関がこの仕事を担うようになった.
 ピョートル時代以降の1世紀の間,税収の80%以上は4つの財源,すなわち塩とアルコールにかかる税,人頭税,国有地農民からの税だった.20
 だが,その数十年後になると,塩にかかる税は殆ど重要性を失い,国有地農民からの貢献がなおさら重要になった.
 1750年代のロシアの歳入はフランスの僅か5分の一に過ぎなかった21が,そのままの比較は危険である.
 ロシアでは各連隊が徴集兵をかなり支え,支給品を賄った.
 また,ナポレオン時代を例に挙げれば,戦場に騎兵一人を送り出すのにかかる費用は,ヨーロッパのどこと比べてもロシアのほうが遥かに安く済んだ.
〔原注〕
 19 J.P.Le Donne, Absolution and Ruling Class, Oxford University Press, Oxford, 1991, p.105.
 20 Ibid., p.144.
 21 Fuller, Strategy and Power, p.105.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.123-124


 【質問】
 1808-09年のフィンランドは,なぜロシアによる併合に抵抗しなかったのか?

 【回答】
 フィンランドが対露軍事行動の拠点にされるよりは,ロシア帝国のもたらす平和のほうがマシだったためだという.
 以下引用.

 当時,スウェーデンの一地方だったフィンランド国境はサンクトペテルブルクに近く,あまりに脅威だった.
 18世紀に露西亜が他の大国と戦争状態にあった時,スウェーデン軍は幾度も帝国の首都サンクトペテルブルクを威嚇した.
 したがって,フィンランドを併合することで,国境線を遠ざけるのは理に叶っていた.

 当時,フィンランド人の多くはロシアによる併合を残念とは思わなかった.
 なぜなら,<北方戦争での>ポルタワの敗戦の復讐をしようと躍起になっていたスウェーデンの君主によって,フィンランドが軍事行動の拠点にされるよりは,ロシア帝国のもたらす平和のほうがましであり,しかも19世紀にロシア皇帝は,フィンランド人に類のない自治を認め,内政問題にも殆ど干渉しなかったからである.
 これが可能だったのは,ロシアのフィンランドにおける利益がひとえに戦略的だったからだ.

 占領した領土に自国の農民を入植させたり,あるいはその地に送り込んだ貴族を通じて現地の農民を搾取したりしようとする帝国は,直接的でしばしば容赦ない統治手段を採用する以外,選択肢を持たないものである.
 帝国の利益に叶うよう,その領土の商業を操作する事は,さほど厳しくないやり方でも可能であるが,それでも帝国による介入が現地の利益に対してあまりに混乱や損害をもたらせば,その結果,政治的不満が高まり,おそらく帝国も権力をもって厳しく臨まざるをえなくなるだろう.

 しかし原則的に,純粋に戦略的な目的で支配下に置かれている領土では,強力な軍隊を駐留させておく必要はあるかもしれないが,それ以外の内政問題に関しては大きな自由が許される場合が多い.
 もっとも,そのような自由が,帝国駐留軍が現地の民族にとって耐え難い屈辱とならない限り,という条件付きであるが.

 19世紀の大半を通じて,ロシア皇帝は,フィンランドについてこの点を理解していたようだ.
 一時期,フィンランドの自治の水準を下げるよう進言されたニコライ一世は,次のように応じた.
「フィンランド人には平穏でいさせよ.
 余の治世において,我が支配地域の中でほんの一瞬たりとも余に懸念や不満を呼び起こさなかったのは,フィンランド人の地だけである」22

 とはいえ,19世紀末になると,ロシア政府はフィンランドを支配している本質的な理由をかなり忘れてしまい,フィンランド人への支配を強化し,フィンランド人を徴兵し,ロシアの法や言語を強制しようとした.
 これが裏目に出て,初めてフィンランドは潜在的な反乱を抱える地となり,ロシアの弱点となった.
〔原注〕
 22 T.Polvinen, Imperial Borderland. Bobrikov and the Attempted Russification of Finland 1898-1904, Duke University Press, Durham, NC, 1995, p.22.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.40-41


 【質問】
 帝政ロシアにおける将校の地位は?

 【回答】
 官等表では将校は,必ず同等の文官よりも上に位置付けられ,官僚より貴族の位を手にするのも簡単だった.
 ロマノフ王朝の男の皇帝は,とりわけ軍に愛着を抱いており,また,近衛部隊の将校の軍団は,貴族だけでなく,ロシアの文芸・音楽といった高度な文化の聖域でもあった.
 以下引用.

1721年にピョートル一世は,自ら作り上げた西洋型の軍と政府機構に務める軍人,役人の権限と地位を公式化するため,いわゆる官等表を作成した.
 この表によれば,陸海軍の将校は必ず同等の文官よりも上に位置付けられ,官僚より貴族の位を手にするのも簡単だった.
 最高位は近衛階級に従事する貴族の将校で,もしあえて単なる前線の連隊に移ろうとすれば,自動的に2階級昇進できた.
 18,19世紀の地方の地主貴族は一般的に,少なくとも数年間は将校として務めるものとされたが,もし金銭的余裕とコネがあれば近衛部隊の将校に,さもなければ連隊の将校になった.
 ロシアの貴族は,上流階級にありがちな血統に異常なほど固執し,祖先や自分達自身が仕えてきた国家の軍事的な栄光,伝統に大きな誇りを抱いていた.
 この点でロシア人エリートは,中国よりもローマに近く,18世紀になると,汎ヨーロッパのモデルや軍人の伝統的な英雄的行為というイメージに躊躇せずに馴染んでいった.
 ピョートル一世以降,ロマノフ王朝の男の皇帝は,とりわけ軍に愛着を抱いた.
 19世紀まで皇帝達は,少なくともロシアにいる間は,軍服を着用していない姿を人目に晒すことはなかった.
 しかし,中でも近衛部隊の将校の軍団は,貴族だけでなく,ロシアの文芸・音楽といった高度な文化の聖域でもあった.
 貧しく,殆ど読み書きできない18世紀の地方社会で,指定を近衛部隊に送る金銭的余裕のあった豊かな地主達は,きちんとした教育を受けさせるために金を払うこともできた.
 ロシア文学が概ね,官僚よりも将校達に好意的だったのも偶然ではない.18
〔原注〕
 18 Lotman, Besedy, 特に9-43ページ<邦訳は20~27ページ>

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.84-85


 【質問】
 日露前後からWW2終了後くらいまでのロシア(ソ連)将校について知りたいのですが(伝記・戦史等),和書で良書はないでしょうか?

 【回答】
 とりあえず,バイアスが掛かっているけど,ノビコフ・ブリボイの「ツシマ -バルチック艦隊の壊滅-」が,日露戦争の海軍提督など上層部をよく観察している.
 後,セミョーノフ著「壊滅~バルチック艦隊の最後~」とか.

 戦中~戦後なら,ゴルシコフの「戦時と平時の海軍」とかは如何.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2003/09/14
青文字:加筆改修部分

 学研のムックは読んだね?
 後,トロツキーのロシア革命史と,世界を揺るがした十日間.
 その上でなら,「赤軍ー草創から粛清までー」E・ヴォレンベルグ 鹿砦社(絶版) が良いと思う.

 『世界を揺るがした十日間』はジョン・リードだから.一応書いとく.
 リード伝は「レッズ」って映画にもなってたな.

 「赤軍」は,1930年代後期に共産主義者が書いた本なので,微妙にアジビラチックだけど(特に序文),気にせず読め.
 いい本だから.
 ただし,相当入手難だと思う.
 図書館で頼め.

 後,ソノラマの「出撃! 魔女飛行隊」もいい.
 絶版だが.

軍事板,2003/09/14
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 18~19世紀のロシア兵は弱兵だったのか?

 【回答】
 過酷な待遇にも関わらず,兵士は自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いており,そのために多くの点でロシア軍は最も優れていたという.
 以下引用.

 軍の場合,大衆が国家と一体感を持つための源泉としては,もっと曖昧な存在だった.
 軍がロシアの領土を防衛し,拡張させたのは間違いないが,ロシアの農民は長期間の軍務を非常に恐れていた.
 それはピョートルの時代に始まり1874年の軍改革に至るまで,つまり,少なくとも原則的には軍務が一律に短縮されるまで続いた.
 農民達は徴兵されると死ぬまで家族や村から引き離され,しかも多くの新兵が連隊入りする前に,ショックや酷い仕打ちのために死亡した.
 軍務は過酷で,将校や下士官の振る舞いは乱暴な上,19世紀になるまで医療サービスもなかった.

 それでも,ロシアで数十年軍務に就いたフランス人移住者のランジュローン将軍は,ロシア軍の勤務状態は旧体制のヨーロッパの中では最悪だが,おそらく多くの点でロシア軍は最も優れていると述べている.
 何故ロシア軍が最も優れていたかという引用に関して,ロシアの同時代人達は,(18世紀にしては)軍の独特な民族的同質性と兵士の強い民族的忠誠心があったからだ,と説明した.
 たしかに,兵士が自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いていたことについては,どの識者も疑問視はしなかった.
 ロシアの兵士や水兵達が繰り返し示してきた驚くべき軍規や自己犠牲の能力は,こうした要因を抜きには説明できない.
 その上,1874年以前の兵士達はかなりの程度,市民社会から切り離されてきたとはいえ,数百万人もの文字通り一般のロシア人達は忠実で,時には英雄的でもある行為を示してきた.
 このことが18,19世紀のロシア人大衆の政治的アイデンティティーに何のインパクトも与えなかったとは考え難い.
 スボロフやクトゥーゾフといった英雄達,1812年の軍事作戦やセバストーポリ防衛のような非常に愛国的なドラマは,当時ロシアの大衆に多大な影響を与えたのは間違いなく,後の時代には民族主義的な政治家や知識人がそれを利用するところとなった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.102-103

 ロシアの軍事力の中核をなしていたのは,大ロシアの気候や大地での田園生活と農業で鍛えられた農民兵だった.
 徴兵制が1775年以降,バルト地方やウクライナへと拡大されるまで,正規の歩兵の殆どが大ロシア人で,その後も彼らが大多数を占めていた.
 7年戦争でフリードリヒ2世のプロイセンと戦った際,ロシアの歩兵は勇気,忍耐力,軍規の面でヨーロッパ中に名を轟かせ,その名声は失われなかった.
 18世紀後半までには,騎兵隊もピョートルの時代より遥かによく組織され,砲兵隊は他のどのヨーロッパ諸国にも引けをとらず,革新的な兵器や戦術を展開できた.
 エカテリーナ時代の戦争では,ロシアの将校は最終的に,広大で住む人のないステップ地帯を超えて大規模なヨーロッパ型軍隊を移動させるための補給に熟達できた.
 これによってロシア軍は始めて,クリミア半島や黒海沿岸,ドニエプル,ドニエストル両川の河口を奪取し,支配を確立することが可能になったのである.
 1762年には軍の高級将校402人の40%がロシア人以外(そのうち4分の3が,バルト出身のドイツ人)だったが,エカテリーナ時代の軍の指導的な英雄は,矢張りロシア人だった.
 スボロフの率いた部隊は1799年,イタリアでフランス革命軍を破ったが,1805年から07年には,ロシアの軍高官の指揮をもってしてもナポレオンには勝てなかった.
 それでも,ロシア軍は1812年から14年までの同盟軍によるナポレオン打倒で最大の役割を果たし,その過程でロシア軍もロシア自身も大きな威信を獲得したのだった.

(同,121-122)


 【質問】
 アレクサンドル1世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 秘密委員会を組織し,若い友人達と共に国内の改革を実施.
 しかし第3次対仏同盟に参加した為にナポレオンの侵攻を受けフリートラントの戦で敗北.
 ティルジット条約を結び,イギリスに対抗してナポレオンに与する羽目に成るも,オスマン・トルコ帝国からベッサラビアを,イランからグルジアを獲得.
 1815年のウィーン会議&その後のウィーン体制で,ロシアは,主導的な役割を果たすことに成功.
 第二次ロシア・スウェーデン戦争にてフィンランドとオーランド諸島をすべてスウェーデンより割譲される.
 またこれに先立ち1741~43年には南カレリアを取得している.

世界史板


 【質問】
 デカブリスト蜂起とは?

 【回答】
 1825/12/14,青年将校達による帝政ロシアに対する反乱事件.
 彼らはナポレオン戦争の間に,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
 ナポレオン戦争以後,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
 ニコライ1世は反乱軍への砲撃を命じてこれを鎮圧し,ペステリ,ルイレーエフら首謀者6人が絞首刑,トゥルベツコイ,ウルコンスキイら121人がシベリアに追放された.
 酒井裕によれば,この追放されてきたデカブリストによって初めて,シベリアに文化が根付いたという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.90-93を参照されたし.


 【質問】
 ニコライ1世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 南進政策を進め,オスマン・トルコ帝国と戦い,特にオスマン領のギリシャで反乱が起きると, 1827年,イギリス,フランスと艦隊を組織, ナバリノの海戦でオスマン帝国艦隊を撃破.
 引き続き1828~29年のロシア・トルコ戦争(露土戦争)でも勝利を収め,オスマン・トルコ帝国にアドリアノープル条約を結ばせ,
・ロシアによるドナウ川の河口とカフカスの領有
・ロシアが,モルダヴィア自治州とワラキアを実質的に保護国とすること
・ギリシャの独立とセルビアの自治も保証させること
に成功.

世界史板


 【質問】
 ドストエフスキーの軍歴は?

 【回答】
 フョードル・ミハイロビチ・ドストエフスキー(Fjodor Mihailovich Dostojevskii,1821~1881)は,モスクワで医者の三男四女のうちの次男として生まれる.

 慈善救済病院の院長だった父ミハイルは妻マリヤの死後,領地にひきこもって酒びたりとなり,彼が17歳の時,領地の農奴たちに対する専横により,彼らの恨みを買って領地で殺害される.

 その後,彼はペテルブルクの中央工兵学校入学.
 卒業後,22歳のときに工兵局製図課へ勤務したがなじめず,1年後,中尉昇進後に退役,処女作『貧しき人々』作家デビューするも,その後,ぱっとせず.

 1846年革命事件に荷担して逮捕され,銃殺刑を宣告されるも,処刑場で銃殺直前,皇帝の特赦の勅命が処刑場に到着して,間一髪で銃殺を免れた.
 だが代わりにシベリアへ流刑となり,4年余り服役した後,5年近く一兵卒としてシベリア国境を警備.

 1862年,そのシベリア流刑を題材とした小説「死の家の記録」で文壇に返り咲いたのだから,人生は分からない.

 その後,「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」など大作を残すことになったのは,周知の通り.


 【質問】
 アレクサンドル2世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 クリミア戦争では敗北しているが,1877~78年のロシア・トルコ戦争では大勝利を収め,オスマン・トルコ帝国を屈服,サン・ステファノ条約が調印される.

世界史板


 【質問】
 シベリア鉄道建設までの経緯を教えられたし.

 【回答】
 モスクワとペテルブルグを結ぶ鉄道が出来,しかも,こうした鉄道は莫大な利権を生み出す事が判ると,お金のある人間は挙って,鉄道に投資したがります.
 であれば,帝国の領土であるシベリア地方とモスクワを結ぶ鉄道を考えたとしてもおかしくありません.
 1839年,N.N.ムラヴィヨフと言う人物は,モスクワからウラルを越え,オムスク,トムスクを経てイルクーツクに至る路線の建設を,時の皇帝ニコライI世に進言しています.
 彼の提案は未だ夢物語であり,従ってこれが採用される事はありませんでした.

 1856年,シベリアを旅していた米国人実業家ペリー・マクドノー・コリンズと言う人物は,ペテルブルクからイルクーツクを経てアムール川流域を実地見分して,アムール川からオホーツク海に航路を開設する事で,この流域を通商路とすることに気がつきました.
 彼は,東シベリア総督府に対し,アムール川を大型貨物船がさかのぼれる最奥部のチタからキャフタを経てイルクーツクに結ぶ路線を建設すべきであると言う手紙を認めました.
 更に,この手紙には,資金調達や労働力の確保の方策について述べ,この鉄道を運行する為に,「アムール鉄道会社」と言う会社を設立するのが良いなど,事細かに書かれていました.

 時の東シベリア総督N.N.ムラヴィヨフ=アムールスキーも,同様にアムール川下流域に鉄道を敷設する事を考え,コリンズの書簡とアムールスキーの計画書は首都に送られますが,これまた相手にされずに終わります.

 1857年,英国人鉄道技師のダルは,ニージニー・ノヴゴロドからシベリアを横断してアムール川に至る「馬車鉄道」の計画を提案しました.
 彼の計画は,「シベリアには400万頭野生馬が生息している」と言う仮定に依るもので,先ずは馬を訓練させて車輌を牽引させ,資金蓄積が出来たら蒸気機関車を導入すれば良い,と言うものでした.

 こうした有象無象の提案が幾度も行われますが,中央には一顧だにされていません.

 1862年に現在のシベリア鉄道の一部区間に組み込まれているモスクワとニージニー・ノヴゴロド間の鉄道が開通し,1870年には同じくモスクワとヤロスラヴリ間の鉄道が開通します.
 此処で初めて政府は,シベリアへの鉄道敷設を検討しますが,資金的な問題から二の足を踏んでしまいました.

 1877年にモスクワからウラル南方の都市オレンブルクまでが開通し,1878年にはウラル山脈西方の町,ペルミとエカテリンブルクを結ぶ路線が開通します.
 工業の発達で,豊かな資源を誇るシベリア地域との連絡の必要性が次第に叫ばれる様になり,政府としても無視出来ない状況になってきました.

 1881年,アレクサンドルII世が暗殺され,アレクサンドルIII世が即位します.
 彼は政治的には専制主義的な思想を示すものの,経済は積極的に投資を行う事とし,1885年,政府を動かしてやっとウラル越えの鉄道として,サマラからウラル山脈南部を越え,ズラトウストに至る路線を認可し,この路線は1890年に開通,シベリアへの道が拓けました.
 1892年にはズラトウストからチェリャビンスクまで延長され,モスクワ~チェリャビンスク間2,058ヴェルスタ(2,195.9km)の路線が開通しました.

 当時のロシアは,1861年の農奴解放で農民は自由に移住できるようになったものの,移住の為の条件が過酷だった為,土地を失い,都市に流入する元農民による人口増に悩まされていました.
 シベリアへの鉄道敷設は,この農民達をシベリアへと入植させ,シベリア開発に充当する政策の基礎でもあった訳です.

 日露戦争でロシアのアジア侵略構想が露わになったとか,そう言った事は実は日清戦争後に真の弱体化が明らかになってから後の話で,先ずは国内対策の為に必要としたものでした.

 1887年,アレクサンドルIII世は,シベリア鉄道の建設ルートを検討する委員会を設置し,その結果,ウラジオストクとハバロフスク間の鉄道を最優先に建設すべしと言う報告が為されました.
 ハバロフスクからはアムール川を用いる事でチタの近くまで進む事が出来ますので,この路線を建設する事は,ウラジオストクとチタの交通路を確立する事となります.
 1891年2月,フランスでの外債募集に目処が立ち,チェリャビンスクからシベリアを横断してウラジオストクに至る路線を政府直轄で建設する事を決定します.

 実はこの鉄道と言うのは,海外の投資家の間では余りにも夢想的な話として,笑い話のネタになっていました.
 其処でアレクサンドルIII世は,息子のニコライ皇太子に,アジア諸国歴訪後,ウラジオストクでウスリー鉄道の起工式に出席する事を厳命します.
 皇太子の出席により,ロシア政府の本気度を示した訳です.
 5月31日,3週間前に大津で巡査に斬りつけられ重傷を負いますが,その傷を押して起工式に出席し,式は滞りなく執り行われました.

 いよいよシベリア鉄道のプロジェクトが動き始めたのですが,時の蔵相I.A.ヴィシネグラツキーは,こうした巨大プロジェクトに対する支出は,国家財政破綻を避ける為にも慎重であるべきだと言う思想の持ち主で,彼によって財布が握られていましたから,進捗は中々進みませんでした.
 1892年8月,ヴィシネグラツキーは病気の為大臣を辞職し,後任に就いたのが,民間鉄道会社出身の前運輸大臣ヴィッテでした.
 彼は後のポーツマス講和の際,ロシア全権として,小村寿太郎と丁々発止の遣り取りをした人です.

 ヴィッテは前任者とは打って変わって積極策に出,彼の提案で,シベリア鉄道建設委員会を組織し,委員長にはニコライ皇太子を推しました.
 委員会は,次期皇帝を頭に戴いた事で絶大な権限を持ち,建設資金としてはニコライ皇太子のお陰で,フランスからの新たな借款にも成功しました.

 こうして,1892年にはチェリャビンスクで西シベリア線の起工式が行われ,苦心惨憺の末,1897年にウスリー線ウラジオストク~ハバロフスク間が全通,1899年にはチェリャビンスク~イルクーツクが全通し,シベリア鉄道の骨格が姿を現しました.
 バイカル湖は地勢が険しく,難工事が予想されるので,当面,湖上を船で結ぶ事にし,これも建設が困難なアムール線に変わっては,清国の領土を横切る東清鉄道を建設し,これは1903年に開通の見込みとなりました.
 モスクワ~イルクーツク間は特急列車が走る事となり,国産もしくはワゴン・リー社の製造した豪華寝台列車が運行されていました.

 しかし,光には影が付き物.
 計画段階から桁外れの資金が必要だった事は重々承知していた為,計画段階の予算はトコトン切り詰められていました.
 レールの重さも,欧米の規格の半分近い軽便鉄道並のメートル当り25~30kg程度,路盤も軟弱で,重量のある鉱石などの貨物輸送には堪えられるものではありませんでした.
 また,全線が単線であり,本数増もまま成りませんでした.
 これが後の日露戦争では軍隊輸送上のネックとなったのですが,兎にも角にも,開通させる事が第一義だったので,こうした弱点には目を瞑った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/09 21:25


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