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◆◆19世紀以降 19. század
◆戦史 Háborús történelem
ロシアFAQ 目次 Oroszorság GYIK Index


 【link】


 【質問 kérdés】
 チャイコフスキー団って何?
Mi az Csajkovszkij-kör?

 【回答 válasz】
 チャイコフスキー団(チャイコフスツィ,Чайковц,Tchaikovsky Circle)は,1870年代ロシアにあったナロードニキの秘密結社.
Az Csajkovszkij-kör (oroszul Чайковц, angolul Tchaikovsky Circle) a Narodnyiki titkos társasága, amely az 1870-es években Oroszországban volt.
 ナロードニキ運動弾圧後,1871年ペテルブルグにおいて,M.A.ナタンソンのグループと S.L.ペロフスカヤのグループが合体して創設された.
 N.V.チャイコフスキーは創設メンバーでも指導者でもなかったが,合法活動の面を代表する人物だったので,彼の名前がつけられた.
 約 60人のメンバーを擁し,代表的メンバーとして,P.A.クロポトキンや S.M.クラブチンスキーがいた.

 設立当初は読書会,書籍配布の為の組織だったが,中期には啓蒙目的で集団農場や工場を作るようになり,そこでは貴族や富豪の子弟が農民や労働者と共に労働を行った.
 「ヴ・ナロード」(人民の中へ)を実践したわけだ.

 弾圧を受けると秘密の連絡網を作り,ピョートル・クロポトキンなど逮捕された同志の脱走を計画・実行した.

------------
 1872年3月,彼(クロポトキン)の2つの面における情熱が,賞賛と精神的打撃(トラウマ)の両方をもたらした.
 氷河時代の起源についての論文を発表した後,それを評価する人々が彼を帝国ロシア地理学協会の自然地理学部門の部長になるよう推薦した.
 その数時間後,チャイコフスキー・サークルの他のメンバーとともに逮捕され,ペテルスブルク要塞に投獄された.
 チャイコフスキー・サークルには皇帝派のスパイが入り込んでいたのだ.
 協会内の有力な友人が,クロポトキンが牢獄内で科学的研究を継続するために必要な書物や論文を入手できるよう許可をとってくれた.
 彼は獄中で1876年に『氷河時代の研究』を書き上げた.
 その同じ年に監獄病院から脱出し,イギリスへ身を隠すことになる.

------------トーデス『ロシアの博物学者たち』(工作舎,1992), p.249

 後期になるとモスクワやオデッサ等に支部を作り,官憲に見つかるとその支部は廃して,メンバーはよその都市へ移動,または国外亡命した.
 そして革命的文書の配布やプロパガンダを行なったが,大部分が1874年に逮捕,投獄.
 1878年,「193人裁判」にかけられ,有罪とされた.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/チャイコフスキー団
http://mek.oszk.hu/04200/04230/fulszoveg.html
http://afro.s268.xrea.com/cgi-bin/concept.cgi?mode=text&title=%83i%83%8D%81%5B%83h%83j%83L
ピョートル・クロポトキン『ある革命家の手記』(岩波文庫,1979)
http://www.tufs.ac.jp/common/archives/TUFShistory-russian-3.pdf
http://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/42515_22731.html

【ぐんじさんぎょう】,2017/10/31 20:00
を加筆改修


 【質問】
 日露前後からWW2終了後くらいまでのロシア(ソ連)将校について知りたいのですが(伝記・戦史等),和書で良書はないでしょうか?

 【回答】
 とりあえず,バイアスが掛かっているけど,ノビコフ・ブリボイの「ツシマ -バルチック艦隊の壊滅-」が,日露戦争の海軍提督など上層部をよく観察している.
 後,セミョーノフ著「壊滅~バルチック艦隊の最後~」とか.

 戦中~戦後なら,ゴルシコフの「戦時と平時の海軍」とかは如何.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2003/09/14
青文字:加筆改修部分

 学研のムックは読んだね?
 後,トロツキーのロシア革命史と,世界を揺るがした十日間.
 その上でなら,「赤軍ー草創から粛清までー」E・ヴォレンベルグ 鹿砦社(絶版) が良いと思う.

 『世界を揺るがした十日間』はジョン・リードだから.一応書いとく.
 リード伝は「レッズ」って映画にもなってたな.

 「赤軍」は,1930年代後期に共産主義者が書いた本なので,微妙にアジビラチックだけど(特に序文),気にせず読め.
 いい本だから.
 ただし,相当入手難だと思う.
 図書館で頼め.

 後,ソノラマの「出撃! 魔女飛行隊」もいい.
 絶版だが.

軍事板,2003/09/14
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 18~19世紀のロシア兵は弱兵だったのか?

 【回答】
 過酷な待遇にも関わらず,兵士は自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いており,そのために多くの点でロシア軍は最も優れていたという.
 以下引用.

 軍の場合,大衆が国家と一体感を持つための源泉としては,もっと曖昧な存在だった.
 軍がロシアの領土を防衛し,拡張させたのは間違いないが,ロシアの農民は長期間の軍務を非常に恐れていた.
 それはピョートルの時代に始まり1874年の軍改革に至るまで,つまり,少なくとも原則的には軍務が一律に短縮されるまで続いた.
 農民達は徴兵されると死ぬまで家族や村から引き離され,しかも多くの新兵が連隊入りする前に,ショックや酷い仕打ちのために死亡した.
 軍務は過酷で,将校や下士官の振る舞いは乱暴な上,19世紀になるまで医療サービスもなかった.

 それでも,ロシアで数十年軍務に就いたフランス人移住者のランジュローン将軍は,ロシア軍の勤務状態は旧体制のヨーロッパの中では最悪だが,おそらく多くの点でロシア軍は最も優れていると述べている.
 何故ロシア軍が最も優れていたかという引用に関して,ロシアの同時代人達は,(18世紀にしては)軍の独特な民族的同質性と兵士の強い民族的忠誠心があったからだ,と説明した.
 たしかに,兵士が自分の連隊,一部の司令官,正教会,君主に対して深い一体感を抱いていたことについては,どの識者も疑問視はしなかった.
 ロシアの兵士や水兵達が繰り返し示してきた驚くべき軍規や自己犠牲の能力は,こうした要因を抜きには説明できない.
 その上,1874年以前の兵士達はかなりの程度,市民社会から切り離されてきたとはいえ,数百万人もの文字通り一般のロシア人達は忠実で,時には英雄的でもある行為を示してきた.
 このことが18,19世紀のロシア人大衆の政治的アイデンティティーに何のインパクトも与えなかったとは考え難い.
 スボロフやクトゥーゾフといった英雄達,1812年の軍事作戦やセバストーポリ防衛のような非常に愛国的なドラマは,当時ロシアの大衆に多大な影響を与えたのは間違いなく,後の時代には民族主義的な政治家や知識人がそれを利用するところとなった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.102-103

 ロシアの軍事力の中核をなしていたのは,大ロシアの気候や大地での田園生活と農業で鍛えられた農民兵だった.
 徴兵制が1775年以降,バルト地方やウクライナへと拡大されるまで,正規の歩兵の殆どが大ロシア人で,その後も彼らが大多数を占めていた.
 7年戦争でフリードリヒ2世のプロイセンと戦った際,ロシアの歩兵は勇気,忍耐力,軍規の面でヨーロッパ中に名を轟かせ,その名声は失われなかった.
 18世紀後半までには,騎兵隊もピョートルの時代より遥かによく組織され,砲兵隊は他のどのヨーロッパ諸国にも引けをとらず,革新的な兵器や戦術を展開できた.
 エカテリーナ時代の戦争では,ロシアの将校は最終的に,広大で住む人のないステップ地帯を超えて大規模なヨーロッパ型軍隊を移動させるための補給に熟達できた.
 これによってロシア軍は始めて,クリミア半島や黒海沿岸,ドニエプル,ドニエストル両川の河口を奪取し,支配を確立することが可能になったのである.
 1762年には軍の高級将校402人の40%がロシア人以外(そのうち4分の3が,バルト出身のドイツ人)だったが,エカテリーナ時代の軍の指導的な英雄は,矢張りロシア人だった.
 スボロフの率いた部隊は1799年,イタリアでフランス革命軍を破ったが,1805年から07年には,ロシアの軍高官の指揮をもってしてもナポレオンには勝てなかった.
 それでも,ロシア軍は1812年から14年までの同盟軍によるナポレオン打倒で最大の役割を果たし,その過程でロシア軍もロシア自身も大きな威信を獲得したのだった.

(同,121-122)


 【質問】
 アレクサンドル1世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 秘密委員会を組織し,若い友人達と共に国内の改革を実施.
 しかし第3次対仏同盟に参加した為にナポレオンの侵攻を受けフリートラントの戦で敗北.
 ティルジット条約を結び,イギリスに対抗してナポレオンに与する羽目に成るも,オスマン・トルコ帝国からベッサラビアを,イランからグルジアを獲得.
 1815年のウィーン会議&その後のウィーン体制で,ロシアは,主導的な役割を果たすことに成功.
 第二次ロシア・スウェーデン戦争にてフィンランドとオーランド諸島をすべてスウェーデンより割譲される.
 またこれに先立ち1741~43年には南カレリアを取得している.

世界史板


 【質問】
 デカブリスト蜂起とは?

 【回答】
 1825/12/14,青年将校達による帝政ロシアに対する反乱事件.
 彼らはナポレオン戦争の間に,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
 ナポレオン戦争以後,ヨーロッパの自由主義に触れ,農奴制廃止と立憲君主制を目標とする秘密結社「北方結社」を結成していた.(南方結社も別に存在).
 ニコライ1世は反乱軍への砲撃を命じてこれを鎮圧し,ペステリ,ルイレーエフら首謀者6人が絞首刑,トゥルベツコイ,ウルコンスキイら121人がシベリアに追放された.
 酒井裕によれば,この追放されてきたデカブリストによって初めて,シベリアに文化が根付いたという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.90-93を参照されたし.


 【質問】
 ニコライ1世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 南進政策を進め,オスマン・トルコ帝国と戦い,特にオスマン領のギリシャで反乱が起きると, 1827年,イギリス,フランスと艦隊を組織, ナバリノの海戦でオスマン帝国艦隊を撃破.
 引き続き1828~29年のロシア・トルコ戦争(露土戦争)でも勝利を収め,オスマン・トルコ帝国にアドリアノープル条約を結ばせ,
・ロシアによるドナウ川の河口とカフカスの領有
・ロシアが,モルダヴィア自治州とワラキアを実質的に保護国とすること
・ギリシャの独立とセルビアの自治も保証させること
に成功.

世界史板


 【質問】
 ドストエフスキーの軍歴は?

 【回答】
 フョードル・ミハイロビチ・ドストエフスキー(Fjodor Mihailovich Dostojevskii,1821~1881)は,モスクワで医者の三男四女のうちの次男として生まれる.

 慈善救済病院の院長だった父ミハイルは妻マリヤの死後,領地にひきこもって酒びたりとなり,彼が17歳の時,領地の農奴たちに対する専横により,彼らの恨みを買って領地で殺害される.

 その後,彼はペテルブルクの中央工兵学校入学.
 卒業後,22歳のときに工兵局製図課へ勤務したがなじめず,1年後,中尉昇進後に退役,処女作『貧しき人々』作家デビューするも,その後,ぱっとせず.

 1846年革命事件に荷担して逮捕され,銃殺刑を宣告されるも,処刑場で銃殺直前,皇帝の特赦の勅命が処刑場に到着して,間一髪で銃殺を免れた.
 だが代わりにシベリアへ流刑となり,4年余り服役した後,5年近く一兵卒としてシベリア国境を警備.

 1862年,そのシベリア流刑を題材とした小説「死の家の記録」で文壇に返り咲いたのだから,人生は分からない.

 その後,「罪と罰」「白痴」「カラマーゾフの兄弟」など大作を残すことになったのは,周知の通り.


 【質問】
 アレクサンドル2世は,どんな皇帝だったか?

 【回答】
 クリミア戦争では敗北しているが,1877~78年のロシア・トルコ戦争では大勝利を収め,オスマン・トルコ帝国を屈服,サン・ステファノ条約が調印される.

世界史板


 【質問】
 シベリア鉄道建設までの経緯を教えられたし.

 【回答】
 モスクワとペテルブルグを結ぶ鉄道が出来,しかも,こうした鉄道は莫大な利権を生み出す事が判ると,お金のある人間は挙って,鉄道に投資したがります.
 であれば,帝国の領土であるシベリア地方とモスクワを結ぶ鉄道を考えたとしてもおかしくありません.
 1839年,N.N.ムラヴィヨフと言う人物は,モスクワからウラルを越え,オムスク,トムスクを経てイルクーツクに至る路線の建設を,時の皇帝ニコライI世に進言しています.
 彼の提案は未だ夢物語であり,従ってこれが採用される事はありませんでした.

 1856年,シベリアを旅していた米国人実業家ペリー・マクドノー・コリンズと言う人物は,ペテルブルクからイルクーツクを経てアムール川流域を実地見分して,アムール川からオホーツク海に航路を開設する事で,この流域を通商路とすることに気がつきました.
 彼は,東シベリア総督府に対し,アムール川を大型貨物船がさかのぼれる最奥部のチタからキャフタを経てイルクーツクに結ぶ路線を建設すべきであると言う手紙を認めました.
 更に,この手紙には,資金調達や労働力の確保の方策について述べ,この鉄道を運行する為に,「アムール鉄道会社」と言う会社を設立するのが良いなど,事細かに書かれていました.

 時の東シベリア総督N.N.ムラヴィヨフ=アムールスキーも,同様にアムール川下流域に鉄道を敷設する事を考え,コリンズの書簡とアムールスキーの計画書は首都に送られますが,これまた相手にされずに終わります.

 1857年,英国人鉄道技師のダルは,ニージニー・ノヴゴロドからシベリアを横断してアムール川に至る「馬車鉄道」の計画を提案しました.
 彼の計画は,「シベリアには400万頭野生馬が生息している」と言う仮定に依るもので,先ずは馬を訓練させて車輌を牽引させ,資金蓄積が出来たら蒸気機関車を導入すれば良い,と言うものでした.

 こうした有象無象の提案が幾度も行われますが,中央には一顧だにされていません.

 1862年に現在のシベリア鉄道の一部区間に組み込まれているモスクワとニージニー・ノヴゴロド間の鉄道が開通し,1870年には同じくモスクワとヤロスラヴリ間の鉄道が開通します.
 此処で初めて政府は,シベリアへの鉄道敷設を検討しますが,資金的な問題から二の足を踏んでしまいました.

 1877年にモスクワからウラル南方の都市オレンブルクまでが開通し,1878年にはウラル山脈西方の町,ペルミとエカテリンブルクを結ぶ路線が開通します.
 工業の発達で,豊かな資源を誇るシベリア地域との連絡の必要性が次第に叫ばれる様になり,政府としても無視出来ない状況になってきました.

 1881年,アレクサンドルII世が暗殺され,アレクサンドルIII世が即位します.
 彼は政治的には専制主義的な思想を示すものの,経済は積極的に投資を行う事とし,1885年,政府を動かしてやっとウラル越えの鉄道として,サマラからウラル山脈南部を越え,ズラトウストに至る路線を認可し,この路線は1890年に開通,シベリアへの道が拓けました.
 1892年にはズラトウストからチェリャビンスクまで延長され,モスクワ~チェリャビンスク間2,058ヴェルスタ(2,195.9km)の路線が開通しました.

 当時のロシアは,1861年の農奴解放で農民は自由に移住できるようになったものの,移住の為の条件が過酷だった為,土地を失い,都市に流入する元農民による人口増に悩まされていました.
 シベリアへの鉄道敷設は,この農民達をシベリアへと入植させ,シベリア開発に充当する政策の基礎でもあった訳です.

 日露戦争でロシアのアジア侵略構想が露わになったとか,そう言った事は実は日清戦争後に真の弱体化が明らかになってから後の話で,先ずは国内対策の為に必要としたものでした.

 1887年,アレクサンドルIII世は,シベリア鉄道の建設ルートを検討する委員会を設置し,その結果,ウラジオストクとハバロフスク間の鉄道を最優先に建設すべしと言う報告が為されました.
 ハバロフスクからはアムール川を用いる事でチタの近くまで進む事が出来ますので,この路線を建設する事は,ウラジオストクとチタの交通路を確立する事となります.
 1891年2月,フランスでの外債募集に目処が立ち,チェリャビンスクからシベリアを横断してウラジオストクに至る路線を政府直轄で建設する事を決定します.

 実はこの鉄道と言うのは,海外の投資家の間では余りにも夢想的な話として,笑い話のネタになっていました.
 其処でアレクサンドルIII世は,息子のニコライ皇太子に,アジア諸国歴訪後,ウラジオストクでウスリー鉄道の起工式に出席する事を厳命します.
 皇太子の出席により,ロシア政府の本気度を示した訳です.
 5月31日,3週間前に大津で巡査に斬りつけられ重傷を負いますが,その傷を押して起工式に出席し,式は滞りなく執り行われました.

 いよいよシベリア鉄道のプロジェクトが動き始めたのですが,時の蔵相I.A.ヴィシネグラツキーは,こうした巨大プロジェクトに対する支出は,国家財政破綻を避ける為にも慎重であるべきだと言う思想の持ち主で,彼によって財布が握られていましたから,進捗は中々進みませんでした.
 1892年8月,ヴィシネグラツキーは病気の為大臣を辞職し,後任に就いたのが,民間鉄道会社出身の前運輸大臣ヴィッテでした.
 彼は後のポーツマス講和の際,ロシア全権として,小村寿太郎と丁々発止の遣り取りをした人です.

 ヴィッテは前任者とは打って変わって積極策に出,彼の提案で,シベリア鉄道建設委員会を組織し,委員長にはニコライ皇太子を推しました.
 委員会は,次期皇帝を頭に戴いた事で絶大な権限を持ち,建設資金としてはニコライ皇太子のお陰で,フランスからの新たな借款にも成功しました.

 こうして,1892年にはチェリャビンスクで西シベリア線の起工式が行われ,苦心惨憺の末,1897年にウスリー線ウラジオストク~ハバロフスク間が全通,1899年にはチェリャビンスク~イルクーツクが全通し,シベリア鉄道の骨格が姿を現しました.
 バイカル湖は地勢が険しく,難工事が予想されるので,当面,湖上を船で結ぶ事にし,これも建設が困難なアムール線に変わっては,清国の領土を横切る東清鉄道を建設し,これは1903年に開通の見込みとなりました.
 モスクワ~イルクーツク間は特急列車が走る事となり,国産もしくはワゴン・リー社の製造した豪華寝台列車が運行されていました.

 しかし,光には影が付き物.
 計画段階から桁外れの資金が必要だった事は重々承知していた為,計画段階の予算はトコトン切り詰められていました.
 レールの重さも,欧米の規格の半分近い軽便鉄道並のメートル当り25~30kg程度,路盤も軟弱で,重量のある鉱石などの貨物輸送には堪えられるものではありませんでした.
 また,全線が単線であり,本数増もまま成りませんでした.
 これが後の日露戦争では軍隊輸送上のネックとなったのですが,兎にも角にも,開通させる事が第一義だったので,こうした弱点には目を瞑った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/09 21:25


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