FX自動売買
禁断のケーキ
じゃらん♪
恋活

c

「欧露別館」トップ・ページへ   別館サイト・マップへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   本館サイト・マップへ

◆◆資源戦略
<◆戦略
ロシアFAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「FT」◆(2010/02/24)Putin threatens energy-sector oligarchs

「VOR」◆(2012/01/24)ガスプロム 日本はガスの消費市場

「VOR」◆(2012/02/03)日本 サハリンで代替エネルギーを発展

「VOR」◆(2012/02/05)ガスプロム 20%-30% 採掘を増加

「VOR」◆(2012/02/16)択捉島沖浅瀬でタンカー座礁 石油製品1275トン積載
「VOR」◆(2012/02/16)択捉島沖 座礁タンカー 環境汚染の脅威
「VOR」◆(2012/02/17)択捉島沖事故 3隻の船が派遣 処理作業で
「VOR」◆(2012/02/19)「カラクムネフチ」号の座礁事故 燃料抜き取り進む

「VOR」◆(2012/03/11)ベーリング海 大規模な石油流出か 専門家予測
>昨年11月にチュコト半島で付近で炎上,座礁した韓国の貨物船「オリエンタル・エンジェル」号から石油製品が流出恐れがある,と地域の情報政策局が伝える.
>同号には重油942t,ディーゼル燃料116t,機械油52tが残っているとされてるが,船体が損傷しており,もし流出が発生した場合には海域で深刻な環境被害が広がるとしている.

「VOR」◆(2012/03/19)ロシア 北極の石油ガス田開発に民間企業を誘致

「VOR」◆(2012/04/03)北京 ロシア特殊型の新原子炉を発表
>露国営グループ企業「アトムエネルゴマシュ」は北京で開催中の中国国際原子力工業展覧会では世界初の最新型原子炉BN-800の計画案を展示.

「VOR」◆(2012/04/09)ロシア 石油パイプライン用の飛行ロボット製造

「VOR」◆(2012/04/13)ロシアと日立 知的エネルギーの分野で協力へ

「VOR」◆(2012/05/02)ウラジオストク 露日極東フォーラム開幕

「VOR」◆(2012/05/03)ウラジオストクで露日極東フォーラム開幕
>フォーラムの参加者達はエネルギーおよび環境問題の協議に着手している.

「VOR」◆(2012/05/03)日本 ロシアからガスパイプラインを敷設する可能性を検討

「VOR」◆(2012/05/18)日本から ロシア原発使用済み燃料保存施設へ器機譲渡

「VOR」◆(2009/12/30)東シベリア-太平洋戦略石油パイプライン,充填の問題は起こらない ――プーチン

「VOR」◆(2011/05/30)ウクライナもロシアもガス協定は守るべき メドベージェフ言明

「VOR」◆(2011/05/31)ウクライナとのガスの新協定,9月までに調印の可能性あり

「VOR」◆(2012/06/04)ガスプロム 二つのルートで同時にサウスストリーム建設へ

「VOR」◆(2012/06/04)ロシアは原発のコントロールが可能

「VOR」◆(2012/06/18)ガスプロム 日本へのLNGは優先課題

「VOR」◆(2012/06/23)「ガスプロム・ネフチ」とJOGMEC 東シベリアで油田の共同調査
「JOGMEC」◆(2012/06/23)ニュースリリース(PDF)
http://www.jogmec.go.jp/news/release/docs/2012/newsrelease_120622.pdf

「VOR」◆(2012/06/28)南ウラル 日本の技術を学んで新しいゴミ捨て場作り

「VOR」◆(2012/07/04)ロスアトム社長 「福島の悲劇はロシア原発の優位性を世界に示した」

「VOR」◆(2012/07/16)ロシア初の太陽光発電ATM 運用開始

「VOR」◆(2012/08/17)サヤノ・シューシェンスカヤ水力発電所事故から3年 地元で追悼慰霊式

「VOR」◆(2012/09/07)ロスネフチ,イルクーツク州の6油田の共同開発に日本を誘う

「VOR」◆(2012/09/08)ロ日 ウラジオに液化天然ガス工場を建設

「VOR」◆(2012/09/09)露日液化天然ガスプロジェクトは「世界的にも巨大な」規模となりうる

「VOR」◆(2012/09/26)日本,ロシアの石油・ガス生産への関与を強める

「VOR」◆(2012/09/26)北極油田の開発に始めて石油会社が反対
> フィナンシャル・タイムズ紙によると仏のトタル社は大手石油会社としては初めて,北極での石油開発の為のボーリング反対する立場を表明.
> 同社のデ・マルジェリ代表は環境リスクが大きすぎるとしているが,石油漏れよりガス漏れへの対処の方がずっと簡単だとして,ボーリング自体に反対する訳ではないと述べている.

「VOR」◆(2012/10/08)ロシアの「ガスプロム」 ガスパイプライン「ノルド・ストリーム」の第2ラインの稼働開始

「VOR」◆(2012/10/29)ロシア産石油 ブレント石油に代わる価格指標になるか

「VOR」◆(2012/11/03)モスクワ郊外のガスパイプライン火災 死傷者なし

「VOR」◆(2012/11/19)日本に対するLNG輸送 初めて北極海航路で

「VOR」◆(2012/12/06) 北極航路によるLNG輸送第一便,日本で積み下ろし

「VOR」◆(2012/12/07)ガスパイプライン「サウス・ストリーム」敷設にプーチン大統領が「スタート!」

「VOR」◆(2012/12/10)日ロのエネルギー協力 いままでとこれから

「VOR」◆(2012/12/12)プーチン大統領教書演説:資源依存脱却と東への転換

「VOR」◆(2012/12/27)水上原子力発電所

「VOR」◆(2013/01/01) 太陽エネルギー:展望と問題

「VOR」◆(2013/03/17) 露日の企業,LNGの共同生産へ

「VOR」◆(2013/03/19) ロシア産ガスの対中国輸出交渉,困難ながらも続行

「VOR」◆(2013/05/23) ロシア産石炭を必要とするアジア太平洋諸国

「VOR」◆(2013/05/29) ロ日 オホーツク海で石油の共同採掘開始へ

「VOR」◆(2013/06/11) ロシア シェールオイル埋蔵量で世界一

「VOR」◆(2013/07/09) ロシア 石油採掘で25年ぶりの記録的数字

「VOR」◆(2013/08/27) ロスネフチ,サハリンでの石炭採掘に着手

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/06/07)ロシア  極東・シベリアからの原油・天然ガスの日本への輸出 ロシア社会の腐敗体質に問題も

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/12/19)シェールガス革命へのロシア・プーチン大統領の苛立ち

「産経」●(2013/03/03) ロシアが北極圏開発を加速 国家の収入源,石油・ガス狙い

「地政学を英国で学ぶ」:ロシアがベラルーシへの石油供給ストップ

「日経」◆(2012/11/12)ガスプロム,シェールガス革命が脅威に

「六課」ACS◆(2012/12/16) バルト工場は水上原子力発電所の建造を再開する

●書籍

『ガスプロム ロシア資源外交の背景』(酒井明司著,東洋書店,2007.10)

『石油大国ロシアの復活』(本村眞澄著,アジア経済研究所,2005.3)


 【質問】
 ロシアは意図的に資源を戦略兵器として使っているのか?

 【回答】
 実態は,
「単なる,不当に安く売りすぎていたから,適正価格に戻すよ,という話だったはずが……」
ということ.

 以下引用.

 〔略〕

 〔そんな見方をされる〕理由は,ウクライナが値上げ交渉に応じず,ロシアが今年1月1日から同国へのガス供給をストップしたこと.
 しかし,ロシアはウクライナに今まで,市場価格の5分の1(!)でガスを供給していました.
 ですから,ロシアの要求は,例えば「原油バレル70ドルを350ドルにします」というような無茶な要求ではありません.
 今までバレル14ドルで売っていたのを,他の国と同様70ドル払ってくださいとう話.

 しかも,ガスプロムは値上交渉を10ヶ月も前からつづけていました.

 さらにいえば,ロシアはCIS諸国への供給価格(ベラルーシ以外)をウクライナと同時期に引き上げています.
 ですから,「ロシアは資源を武器として使った」というのが正しいのか...

 正確にいうと,「ロシアはウクライナへのガス供給価格を市場価格並にひきあげるよう10ヶ月前から交渉をつづけていたが,ウクライナが条件に同意しなかったため,供給を停止した」となります.

 ところが,ライスさんやチェイニーさんが,繰り返し繰り返し同じことをいっていると,世界中の人が
「ロシアはなんて危険な国なんだ!」
となっちゃうのです.
 これは私がロシアに住んでいるからフォローしているわけではありません.
 事実関係をきっちり調べるとこういうことになるのです.

 アメリカの例ばかりをあげましたが,それは,この国が世論誘導にもっとも長けているから.
 ロシア・中国・イラン等々は,この方面が甘く,常に悪役に仕立てられています.

 〔略〕

ロシア政治経済ジャーナルNo.407,2006/7/21号

 これの信頼性だが,事実に裏打ちされている以上,特に疑う理由はないと愚考する.


 【質問】
 なぜロシアからウクライナへのガス供給停止がヨーロッパにも影響するのか?

 【回答】
 NHK論説委員,石川一洋によれば,ヨーロッパにガスを供給しているパイプラインは,ウクライナを経由しているため,
 ロシアは天然ガスの安定供給を,ウクライナはウクライナ領内のパイプラインを使ってのガスの輸送を保障すると,それぞれヨーロッパに約束していたが,それは守られず,ロシアは「ウクライナがパイプラインを閉鎖した」,ウクライナは「ロシアがガスを止めた」と非難し合っているという.

 では,なぜ2009/1/1にガスが止められたのかと言えば,ロシアがヨーロッパの半値以下だったウクライナへのガス価格を大幅に引き上げようとしたこととウクライナのガス代金未払いが直接の原因だが,その他に,ロシア側には親欧米路線のユーシェンコ大統領の政権基盤をさらに崩したい,ユーシェンコ大統領にはロシアとの対立を煽ることで支持率を回復したいと言う思惑がそれぞれあるのだろうと,石川は推測している.

 詳しくは
おはようコラム 「ロシア・ウクライナガス供給停止」

を参照されたし.


 今のところ大手メディアでは,NHKのロシア特派員組(ダブル石川)が一番中立だ.

日経 欧州揺るがすガス紛争の早期解決を(1/9)
これは双方の原因を指摘してまともなのに,他紙がひどい

読売 露ガス輸出停止 欧州のもろさが露呈した

朝日 ロシアの責任は重い

「仲のいいAには家賃滞納猶予して,散々大家に刃向かったBに出てけと言うのは,周辺国の疑念を招く」
とか言うのかと.
 何で代金払わないウクライナも問題であるがの1行でスルーなんだ.
 朝日もほんと中国とロシアで態度完全に変えるよね.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 まぁ,どっちもどっちだな.
 にしてもウクライナの虫のよさには呆れるけど.

 前回のガス紛争でも,政治的・外交的にはロシア離れを進めていたのに,天然ガス購入関しては,CIS加盟諸国並みの低価格でお願いと主張.
 これに対してロシアは,虫のよい身勝手さにマジ切れして,ガス供給停止.
 ところがどっこいウクライナは,自国を経由してEU諸国へ移送されるガスを抜き取って対抗.
 EU諸国は,本来ならばウクライナに向けるべき非難を,ガスの元栓を締めたロシアへ向けた.
 慌てたロシアは3日後にガスの元栓を開きましたが・・・

 今回は例の南オセチア紛争や世界的な金融危機の余波を受けて,あまりウクライナに加担する傾向は見られず,そしてウクライナ自身もヤバいという状況に.

 ちょっと暗雲が立ち込めてきたウクライナ情勢でした.

CRS@空挺軍 in mixi,2009年01月13日09:43


 【質問】
 なぜロシアは,中国にパイプラインを引くことを嫌がる傾向にあるのか?

 【回答】
 本村眞澄によれば,要するにパイプラインというものは,一旦引いてしまうと,資源の買い手が売り手に対し圧倒的に優位に立つ仕組みなのだという。
 ロシアがトルコに引いた天然ガスパイプライン・ブルーストリームがその良い例で,トルコは経済不振を理由に大幅な価格の引き下げを要求し,ほかに売り先の無いロシアはやむなく値下げを飲まされた.
 これが「悪しき前例」となって,「中国なんかにパイプライン引いてみな,原油も天然ガスもタダで取られてそれっきりになるぞ」とロシアは恐れているのだという.

 詳しくは
http://www.bk1.jp/review/0000465356
を参照されたし.


 【質問】
 サハリン2とは?

 【回答】
 将来世界生産の10%を占めるようになると予想される大型ガス田.
 戦略的に極めて重要.
 外資とサハリン・エナジーの合弁会社で開発を進めている.

 以下引用.

 サハリン2には油田とガス田があります.
 石油埋蔵量は推定10億バレル,天然ガスは4080億立方メートル.
 事業主体は,サハリンエナジー.
 ロイヤルダッチシェル・三井物産・三菱商事の合弁会社.
 出資比率は,シェル55%・三井25%・三菱20%.
 1995年にロシア政府とサハリンエナジーは生産物分与(PS)契約を結んでいます.

 サハリン2の際立った特徴は,液化天然ガス(LNG).
 皆さんこれから,「燃料電池の時代だ!」なんて考えていませんか?
 実はそうではないのですね.
 これから数十年間は天然ガスの時代になるのです.
 米エネルギー省によると,2000年の時点で世界のエネルギー需要に占める割合がもっとも多かったのが石油(39%).
 これが,2020年には37%になる.
 天然ガスは,2000年の22%から,2020年には29%まで増加します.

 サハリン2の特徴はLNG.
 将来世界生産の10%を占めるようになる.
 LNGは年間960万トン生産される予定で,既に東京電力・東京ガス・九州電力・東邦ガスなんかが,購入契約をしています.

ロシア政治経済ジャーナルNo.418,2006/9/26号


 【質問】
 ロシア天然資源省が2006年9月18日,サハリン2プロジェクトについて,03年に出された同事業第2段階への事業許可承認を取消す決定を下したのは,本当に環境破壊が原因なのか?

 【回答】
 ロシア事情に通じたメール・マガジンによれば,それは口実でしかないという.
 同誌によれば,
・ガスプロムを事業主体とさせようと,ロシア政府が画策していること
・事業予算超過により,ロシアの分け前が減るのを嫌がっていること
が要因であり,その背景には
・エネルギーの石油⇒天然ガス・シフト
・米露新冷戦
がからむという.

 以下引用

 あるロシア人がコメントしていました.
「新興財閥はみんな脱税していたよね?
 でもつかまったのは,プーチンに反逆した(ユコス社長の)ホドロコフスキーだけだった.
 環境破壊も同じさ.
 皆,多かれ少なかれ環境を破壊している.
 でもサハリン2が狙われたのには,他の理由があるってことさ!」

 どんな理由があるのでしょうか?

▼サハリン2に入りたいガスプロム

 既述のように,世界は天然ガスの時代に入ります.
 で,サハリン2は世界のLNG生産の10%を占める.
 ここを外国企業が牛耳っている.
 これは全く合法ですが,ロシアとしてはムカつきますね.
 天然ガス世界最大手ガスプロムのミレル社長は,プーチンさんのお友達.
 それで,プーチンはミレルさんに命令しました.
「サハリン2に参加しろ!」

 ガスプロムはシェルと,「資産スワップ」に関する交渉を開始しました.
 で,05年7月に基本合意します.
 ガスプロムは,シェルからサハリン・エナジー株25%を取得.
 シェルは,ガスプロムから西シベリア・ザポリャルノエ・ガス田の権益を得る.
 こういう合意だったのですが,ガスプロムは9月19日,「サハリン2の先行きに不透明感が高まった」ことを理由に,交渉打ち切りを発表しています.
 「25%ではイヤです,もっとください」ということでしょうか?

 この点,ちゃっかり者のロシュコフ駐日ロシア大使がいっています.
 ロシュコフさんは9月20日,東京で記者会見しました.
 曰く「ガスプロムは政府系の会社で,政府系の会社が参加すればプロジェクトが早く実施できるかもしれないね〜」.(^▽^)
 同じ記者会見で
「ロシア政府は何かをたくらんでいるわけではない」
「ロシア政府が誰かを追い出すつもりはない.サハリン2のプロジェクトは実施されて完了される」
と自己フォローしましたが...

 これが一つ目の理由.

▼事業予算とPS契約の問題

 もう一つの問題は,事業予算と契約に関する問題.
 サハリンエナジーは当初,事業予算を100億ドル(約1兆1500億円)としていた.
 それが後に,120億ドル(1兆3800億円)まで増えた.
 ところが,05年の秋に「200億ドル(2兆3000億ドル)まで増やす必要がある」と発表.
「別にどっちでもいいじゃないか? どうせ払うのはサハリンエナジーなわけだし」
と思うでしょ?
 そうじゃないんですよね.
 契約によると,サハリンエナジーはかかった費用を,石油・ガスの取り分として回収できることになっているのです.
 事業予算が100億(1兆1500億円)増えたということは,ロシア側の取り分がそれだけ減るということになります.
 1兆1500億円...
 結構なお金です.

 この点トルトネフ天然資源相がブツブツいっています.
「ロシア,サハリン2停止求める提訴は超過コストが原因と主張
[モスクワ 12日 ロイター]
(中略)
 シェルは昨年,サハリン2の事業コストを当初の2倍に相当する200億ドルに修正.
 サハリン2は生産分与契約に基づいているため,コスト高はロシアにも影響を与える.
 トルトネフ天然資源相は「シェルの意図が実現すれば,ロシア連邦は100億ドルを失うことになる.合意内容は双方を拘束している.ロシアは自国の利益を守らざるをえない」と述べた.」

(ロイター)-9月13日10時16分更新
 もう一つ,ロシアのPS法.
 PS法というのは,国が投資家に対して一定の鉱区開発・生産の排他的権利を与え,採取物(生産物)が投資家と国で分与される制度.
 ロシアのPS法は,経済がどん底だった1995年末,外資導入のために作られた.
 ところがここ数年の石油高で,オイルマネーが洪水のように流れ込み,別に外資を呼び込む必要がなくなってきた.
 それで,「サハリン2のPS法の条件を,ロシアが儲かるように改定しよう」という活動が活発化しています.
 今回の出来事も,そういった圧力の一環でしょう.
 三井・三菱としては,「今さらそんなこと言われてもね〜」(怒)というところでしょう.

▼もっと本質的な理由

 ここまで,サハリン2にかぎった話をしてきました.
 しかしもっと本質的な理由は,世界的潮流です.
 つまり,石油枯渇時代が近づいていること,
 米一極主義対多極主義.
 もう一つ米ロ冷戦.

 つまり,ホドロコフスキー逮捕→グルジア・ウクライナ・キルギスのカラー革命→上海協力機構強化による反革命運動・ベラルーシでの革命阻止・ウクライナでの親ロ政権復活→ロシア石油のルーブル取引を開始.
 今回の出来事も,この流れの一環と見るべきでしょう.(シェルは米系ではないが...)

 つまりどういう結論か?
 サハリン2だけでなく,他の油田でも問題が起こってくるということです.

 この手の問題について触れる機会が,これから増えることでしょう.(涙)

(おわり)

ロシア政治経済ジャーナルNo.418,2006/9/26号

 というわけで,サハリン2.
 予想どおり,ロシアの国営・天然ガス世界最大手ガスプロムが,サハリン2の事業主体「サハリン・エナジー」の過半数株を取得しました.
 ガスプロム・ロイヤル・ダッチ・シェル,三井物産・三菱商事は12月21日,株式売買に関して最終合意,文書に署名しました.
 取引額は74億5000万ドル(8720億円).
 この取引の結果,同社への出資比率は,ガスプロム50%プラス1株・シェル27.5%・三井12.5%・三菱10%となります.

「ふざけるな!」(怒)
 気持ちわかります.
 しかし,怒っても状況は変わりません.
 怒りつつ,「なんでこんなことするのだろう?」と考える必要があるでしょう.

【ロシア政治経済ジャーナル】NO432,2006/12/25号

 ただし,このメール・マガジン,イラク戦争石油陰謀論などに悪影響されている面もあるので,その情報には慎重な扱いが必要.
 本サイトでも,特に疑問の生じない部分(,かつ重複でない部分)だけを抜粋した.

 まあ,ロシアは現在もまだ法治主義ではなく人治主義の傾向が強いそうなので,この程度の「ロシアの方針変更」に対して一々怒っても始まらない,という点において,上述の記述は納得できる.


 【質問】
 以下の記事だが,なぜロシアはガスプロムを優遇するのか?

サハリン1のガス独占狙う ロシア,一括売却を要求 【共同通信 2007/4/28】

【モスクワ28日共同】ロシアが,日本政府,日本商社などが出資し,開発を進めるロシア極東サハリン沖の石油・天然ガス事業「サハリン1」で生産される天然ガスを,政府系独占企業ガスプロムに一括売却させ,ガスの輸出独占を狙っていることが明らかになった.
 ガスプロムのメドベージェフ副社長が27日,共同通信に明らかにした.
(後略)

 【回答】
 これはユコス石油の国有化のときから明確な,共産主義政権の資源国有化の動きなのだけれどSTRATFORが,プーチンの資源国有化に走る背景を解説した記事を書いている;

Global Market Brief: Gazprom's Moves to Stay Above 'E' April 26, 2007 19 09 GMT

 この記事の中に2020年までのGazpromの油田別の生産見通しのグラフがあって,生産量は下降に向かう.
 このデータはIEAのものを使っているので信用できると思える.
 単純に,ロシアはGazpromに新たなガス田を追加しない限り現在の収入を維持できない.
 ロシアは欧州その他への天然ガス供給基地になる計画をもつので,資源確保は必須;
 Gazpromは供給源,パイプライン其他を独占し,価格支配権を獲得しようとしている.
 また,ロシアは国内電力を原子力発電に切り替え,天然ガスの国内価格を上げて輸出用供給の確保を図ろうとしている.

Gazprom's problem is simple. Its investment into bringing new fields on line is absolutely abysmal. As of 2000, only three major fields in Western Siberia --
Urengoy, Yamburg and Medvezhye, with reserves of 16 trillion cubic meters of natural gas among them -- accounted for about 70 percent of Gazprom's total natural gas production. All are past maturity, and efforts to replace them are middling and lagging

 このSTRATFORの記事は,国内メディアの書いていないような,Gazpromの天然ガス事業の基本的な問題点を指摘していて,参考になる.
(むしろ,こういう基本的なデータをおさえずに分析,解説記事を書くほうが無責任と思える)

 ロシアは欧州などに天然ガス供給基地になる戦略を打ち出しているが,Gazpromの新規油田開発はまったく上手くいっておらず,古いガス田は次第に枯渇しつつある.

 新規ガス田の探索や開発におけるGazpromの技術には疑問がある.

 さらにロシアの天然ガス販売は,国内用の政府補助金による安価なものが全体の三分の二を占め,これはGazpromの利益にならない.

 Gazpromにとっては新規供給の確保,国内利用削減が緊急の課題である等;

ニュース極東板

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ロシアの資源戦略上の陥穽は?

 【回答】
 ロデリック・ラインによれば,国営部門を拡大する現在の戦略は,資源探査,生産,輸出能力改善の点で,十分な投資を呼ぶことができないでいるという.
 2001-2004年,石油の90%を独立系の民間企業が生産していた時代には,多くの多国籍企業がロシアの民間企業や国営企業と提携して,石油市場に投資し,最優良の民間石油会社は生産量を9割も増やしたが,同時期の国営石油会社のそれは2割弱の増加に過ぎなかった.
 国営部門拡大方針転換後,2005年の原油生産の増加率は2.5%に過ぎなかった.

 ガスプロムは自らの独占的支配力を利用して,他の企業の進出を妨げてきたという.
 独立系のガス会社は相当な埋蔵量を持っていても,パイプライン使用権がないため,市場にそれを出せず,漏れ出すガスをその場で燃やすことしかできないでいるという.
 また,ガスプロムは施設維持・改良に必要な投資をしてこなかったため,パイプラインは老朽化して劣悪な状況にあり,ガス漏れが報告されているという.
 国内の供給網さえ,非効率で頻繁に故障しているという.
 さらに,輸出契約をこなす能力も,ガスプロムには明らかに不足しているという.
 その上,経営形態も非効率で無能の烙印を,専門家によって押されているという.

 他方,IAEA推計によれば,ロシアのエネルギー産業を維持するだけで,2030年までに1兆ドル弱の投資を必要としているという…….

 詳しくはロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.99-107を参照されたし.


 【質問】
 東芝とロスアトムって技術提携をしたんでしたっけ?

とのり in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 正確にはロシア国営原子力会社ロスアトム傘下の「アトムエネルゴプロム」との協力検討開始なのですが,昨今の原子力業界再編によって様々に変化してきており,検討結果は正式発表までふたを開けてみないと分からない状況です.

<もちろん,本職として張り巡らした情報網に基づく,+αの分析による将来見通しまで立てることができますが,これは業務上知り得た完全な商業秘密であり,社外秘になりますのでお話しできません.
 以下は全て公知の情報ベースです.>

 ロシア周りの出来事を時系列的に整理すると以下の通りです.

0.2008/3/20:東芝と露アトムエネルゴプロムと協力検討開始

東芝:プレスリリース (2008.3.20)
原子力産業分野におけるロシア国営企業との相互協力推進の検討開始について
http://www.toshiba.co.jp/about/press/2008_03/pr_j2001.htm

1.2008/3/31:ノーボスチ・ロシア通信社が仏AREVAを「煽る」

 ノーボスチ・ロシア通信社 - 主なニュース - ロ日関係 - 「アトムエネルゴプロム」と東芝の同盟はフランスにとって脅威
http://jp.rian.ru/news/rusjap/20080331/102545788.html

2.仏AREVAに参加していた独シーメンスが,予告なしに突如分離独立.
 宮廷クーデターと仏AREVAは激怒.
 合弁で行っていた各種事業が宙ぶらりんとなる.

3.2009/3/3 独シーメンスがロシア国営原発会社ロスアトムと合弁設立へ「正式発表」.

NIKKEI NET(日経ネット):独シーメンス,ロシア国営原発会社と合弁設立へ
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090304AT2M0401304032009.html

4.2009/3/19 Bloombergがアトムエネルゴプロムと東芝の間で「日本でのウラン濃縮検討」と「煽る」

Bloomberg/日本でのウラン濃縮検討 東芝と露企業が建設計画 - FujiSankei Business i./Bloomberg GLOBAL FINANCE
http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200903210046a.nwc

と言う具合です.

 では,その間,一体東芝は何をしていたのかというと,

5.2008/6/20 東芝は,カザフスタン共和国国営カザトムプロム社と覚書締結

東芝 投資家情報(IR):カザフスタン国営企業との原子力産業分野における協力推進に関する覚書締結について
http://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/news/20080620.htm

 これでも明らかなように,カザフスタンにおけるウラン鉱山開発プロジェクトに参画.天然ウラン権益をしっかり確保していたわけです.
 つまり,煽り報道は無視して,事実関係を整理すると以下のようになります.

A. 仏AREVAから独シーメンスが離脱.AREVA-Siemens同盟崩壊

B. フリーハンドとなった独シーメンスが露ロスアトムと合弁
 シーメンス製発電機他電気機器・制御機器をロスアトムへ供給(新たな同盟結成)
 その意味において,東芝が機器供給を行う出番は小さくなった(天秤にかけられただけとも)

 そして,日露原子力協定が締結された暁には

C. 東芝とアトムエネルゴプロム間でのウラン濃縮に関する何らかの合意

 つまり0.における「フロントエンドビジネスに関する協力」での合意
と進んでいくはずです.  
 Bloombergの煽り報道ではウラン濃縮をどこで行うのかが不確かですが,常識的に考えれば ◎ロシア(露TVELなど既存設備活用),△第三国(カザフスタン他)のはずで,日本国内だけは政治的にもまずあり得ません.
 そもそも,日記引用の毎日新聞記事でも指摘されているように,日露原子力協定締結の日本側の最大の眼目は,有り余る能力を持つロシア国内でのウラン濃縮の実現にあるわけで,まずはそれに専念することは間違いないはず.

 すると以上A.-C.という事実関係と予測シナリオが構築されるわけです.
 あわせて1.と4.の記事は憶測であり,正確ではないとの評価が時系列的の整理から導かれるわけです.そして0.の東芝によるリリースは間違いではないものの,どの分野が優先順位が高いのか,以上の状況から判断すれば,答えは誰の目にも明らかでしょう.

 以上,ご参考まで.

(しかし,これでは私のやっていることは証券アナリストと全く同じですね.
 一応公知の情報ベースですので大丈夫ですが,私の整理や判断が入るとインサイダー情報と疑われかねませんので,その点は自己責任でお願いします.)

へぼ担当 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 ロシアにおける石油生産の始まりは?

 【回答】
 ロシアの石油生産が本格的に開始したのは,バクーで2期の採掘井が操業を開始した1872年からです.
 それ以前は,利用権を得た個人が手掘りで石油を汲み出していたのですが,1870年に石油採掘権の独占をロシア帝国政府が放棄したことから,石油事業への外国投資家の関心が急激に高まり,個々の石油鉱区の利用権が実質的には恒久的な賃貸として商業機関に引き渡されました.
 その結果,バクーでの産油量は急激に伸び,1872年に26,100tだったものが,1873年には66,600t,つまり1年で3倍に膨れ上がりました.
 採掘井は1873年末には16基にまで増え,1875年には約10万トン,1890年には374万トン,1901年に1,098万トンと倍倍ゲームで増えていき,20世紀最初の年の産油量は,世界全体の51%を占めるまでになりました.

 その殆どが外国資本だったのですが,その中でも最初に石油生産に乗り出したのは,スウェーデンのノーベル3兄弟の内の長男ロバートです.
 当初,ノーベル社はロシア政府からライフル銃の大量注文を受けており,その銃床用木材を調達する為に,1873年3月にロバートをバクーに送り込みます.
 ところが,化学者でもあったロバートは石油の魅力に取憑かれ,早速製油所を購入し,バクーの石油生産に参加しました.
 1878年には全ロシアの石油採掘井301基の内の7基を保有し,鉱区からカスピ海までの石油パイプライン,製油所及び世界初のタンカーを傘下に収めるまでに成長します.
 1874〜78年のロシアの石油生産量の伸びは,ノーベルの進出に因る所が多い様です.

 1900年には160の企業がバクーで操業し,その内1,000万プード(約120万バレル)以上の生産量を持つ企業は16社であり,これら企業でバクーの石油総生産量の約65%,採掘井の55%のシェアを確保しています.

 この中では,ノーベルの他,フランスのロスチャイルド家は,バクーから黒海東海岸のバトゥミまでの鉄道建設に資金援助し,その担保として製油所を手に入れてロシアの石油生産に手を染めます.
 元々,この鉄道建設そのものは,ノーベルのカスピ海北上,ヴォルガ河通航によるロシア国内市場への輸送ルートに対抗して,ロシア人ブンゲとパラシェコフスキーと言う2人の開発業者が石油を外国に輸出する為に着手したものでしたが,着工中に資金難となり,ロスチャイルド家に身売りすることになったものです.
 こうしてロスチャイルドは,1886年にカスピ・黒海石油会社(БНИТО)を設立して,西欧諸国への石油輸出に着手したのです.

 当時,バクーの石油資本は,3つの集団に握られていました.

 1つは,最初に参入したノーベル兄弟組合で,固定資本は4,000万ルーブリ,原油生産量は7,880万プードでした.

 2つ目は英国とフランスのロスチャイルド家が資金を出したОйлъ(ロシア・ジェネラル石油会社)で,固定資本1億3,100万ルーブリを持ち,原油生産量は1億2,100万プードに達する巨大なもので,配下にマンタショフ,カスピ会社,ネフチ,リアノゾフ・コンツェルン,ミルゾエフ兄弟社などを抱えていました.
 因みに,これは元々群小石油会社を統合していったもので,1900年に英国の投資会社により英国石油会社のAnglo-Russian Maximoff Companyが設立され,1912年には更にロスチャイルドも加わって,中小の会社はこの会社に吸収されていきます.

 3つ目は,英国とオランダのトラストであり,現在でもメジャーの石油資本として君臨しているШелл(シェル)で,こちらはロスチャイルドよりも資本が少なく5,170万ルーブリ,原油生産量はノーベル兄弟組合より少し多い7,980万プードで,配下にカスピ・黒海会社,ロシア石油工業社,ロシア・グロズヌイ・スタンダードを抱えています.

 また,バクーだけでなく,カフカース地域のマイコップ鉱床の石油開発でも,4つあった会社を1つに纏め,英国のAnglo-Maikop Cooporationが傘下に収めていきます.

 しかし,こうした統合が進む一方でバクー油田の生産量は翳りを見せ始めました.
 これは1つには埋蔵量が減少して,1坑井当りの生産性が落ちたことです.
 1坑井当りの月間生産量は,1894年に65,999プードだったのが,1900年に32,479プード,更に1908年には3分の1になる20,326プードにまで落ち込みました.
 また,自噴井は1893〜1900年までは全生産量の21%だったのが,1906〜10年には僅か3%にまで落ち込んでいます.
 もう1つは,社会の不安定化に伴う労働争議の頻発です.
 1900年代の初め,この地域での武力衝突を含む労働争議は,時に生産施設や製油所を破壊するまでになり,これが生産に大打撃を与えていきます.

 もしかしたら,その裏には豊かな髭を蓄えたおっちゃんが暗躍していたのかも知れませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/19 21:48


 【質問】
 サハリン石油開発の始まりは?

 【回答】
 1880年,ヤクート人の狩人フィリップ・パヴロフはニコラエフスクに住んでいたロシア人毛皮商人イワノフを訪ねた時に,其所でサハリンで見たのと同じ様な液体を発見しました.
 それは,大陸で「灯油」と名付けられた物質であり,パヴロフは,原住民が「燃える水」と呼んでいるケロシンを瓶に詰めてイワノフにこれを渡します.

 1880年6月,イワノフは沿海州軍務知事に対し,石油の試掘・採掘の為に1,000デシャチーナ(1,090ha)の鉱区を割り当てる請願書を提出しましたが,許可が遅れている間に1881年に彼は病没してしまいました.
 1882年7月22日,イワノフの未亡人が督促するに及び,漸く沿海州軍務知事は重い腰を上げ,東部シベリア総督府に鉱区分割に関する請求を提出しました.
 1883年,沿海州庁はデシャチーナ(1デシャチーナは1.09ha)当り10ルーブリを毎年支払うと言う条件で,1,000デシャチーナのオハ鉱区を許可しました.
 ただ,この賃貸料は相続人にとっては重い負担であり,結局,この請願は取り下げられ,そのまま2年半は何事もなく過ぎていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/25 23:01

 1880年代初頭にイワノフなる人物が最初に目を付けた樺太石油ですが,1886年にアレクサンドロフスクの管区長であったリンデバウムがイワノフ家が手を引いたのを知って,自分の名で再度申請しようと考えました.
 其所で先ず,彼は石油が出るのが本当かを確かめるべく,犬橇を駆って現地に出掛けて行きます.
 そして,現地人の案内により,オハ川で石油が自噴しているのを確かめました.
 厳寒にも関わらず,雪の裂け目か石油が露出しており,数プードの石油を採取して,これをペテルブルクにある国立ロシア技術協会実験室に送りました.

 更にサンプルを採取しようと,1887年夏の間に日本船をチャーターしてオハ川地区に向かいましたが,この時は失敗し,8月に再び現地に赴いて石油の新たなサンプルを得て,ウラジオからペテルブルクに送っています.
 結果として分析結果は良好で,リンデバウムはサハリン北東部の5地域,2平方ヴェルスタ(2.276km^2)を割り当ててくれる様に請願書を提出しました.

 ところが,リンデバウムの島北部訪問と申請書の提出は,イワノフの娘婿で退役海軍大尉ゾートフが知り,今度はゾートフも1888年に石油試掘の為,オハ川流域区間の利用に関する許可を得,1889年2月23日に国家資産省と1,000デジャチーナ(1,090ha)の鉱業権契約を締結して,試掘,採掘に際しては別の組織を招いても良いとしました.
 こうして,1889年にサハリン石油工業ゾートフ組合と言う組織が作られ,ゾートフは著名な地質技師であるバツェヴィチと地質学者のマルガリートフを伴って最初の地質探査隊をオハ地域に送り込みました.
 バツェヴィチはここで油兆を見つけ,最初の地質的記述を行い,ゾートフはこの地域で初めて地図を作成しました.
 1890年にはバツェヴィチ率いる第2次地質調査隊がカタングリ,ナビリ,ノグリキに派遣され,数本を掘削して石油鉱床が発見されました.
 1890〜1900年までに8坑が掘削され,ゾートフとマスレンイコフが率いる第3次地質調査隊は1892年にノグリキを調査しました.
 ところが,この時に44mと96mの坑井を掘削しますが,石油は発見されず,そうこうしている内に資金が尽きて,1893年に組合は破綻してしまいます.

 資金的な行き詰まりを打開する為に,ゾートフは英国に出掛けて資金を引き出し,1903年に地質技師ノーマン・ボッタを中心とする地質調査隊をチャイウォ附近に派遣しましたが,良い結果が得られず,ノグリキで第1坑を137mまで掘削しましたが,これまた油兆を得る事が出来ませんでした.

 こうして資金だけは出ていきましたが,油兆は現われず,最初に石油が出たオハ地域に絞って採掘権を1904年9月25日に取得し,新たな金主キジギレイを見つけて1906年7月,哈爾浜で資本金25万ルーブリのサハリン石油工業ゾートフ組合を再設立し,試掘の再興を図りましたが,ゾートフは間もなく病気で死亡します.
 その後,1909年8月,鉱山技師アンドレイ・ミンドフ率いる調査隊をオハに派遣し,越年作業の結果,深度100m余で油層を発見し,初めて石油の噴出を見ました.
 それに先立つ9月にキジギレイはゾートフの相続人と共にサハリン石油工業ゾートフ相続人組合を設立しましたが,この結果にも関わらず,組合は資金が枯渇し,鉱区税を払えませんでした.
 1914年,前年半期分の鉱区税滞納に伴い鉱区が差し押さえ,没収を受け,官有鉱区として1915年,再出発しました.

 一方,石油大手のロイヤル・ダッチがこの地域の鉱区の噂に関心を持ち,シンガポールにいたロシア人商人シュテグマンを通じて,1892年にドイツ人技師クレイをサハリン東海岸に派遣しました.
 現地住民から石油の露出を耳にしたクレイは,チャイウォ湾で掘削作業を開始しますが,外国人として申請を却下された為,ロシア国籍を取得してヌトウォで10鉱区,ボアシタン鉱区で5鉱区,ナビリで3鉱区の試掘権を得ました.

 試掘の結果,ロイヤル・ダッチは採掘が容易ではないとして手を引きますが,クレイは諦めず,1899年5月19日にヌトウォ川付近,ボアシタン川付近,ナビリ湾南岸に各1箇所,更に1900年4月29日にヌトウォに5箇所,ボアシタンに2箇所,ナビリ湾南岸に2箇所の鉱区を獲得し,クレイの息子も1905年4月11日にヌトウォに4箇所,ボアシタンに2箇所の鉱区を獲得しました.

 1902年,クレイはロンドンに資本金10万ポンドのサハリン・アムール鉱山工業シンジケートを設立し,1903年からはノーマン・ボッタの指示の下,調査隊をサハリンに派遣して,1907年までにオハ,ノグリキ,ナビリ,ヌトウォ,ボアシタンの5鉱区で調査が行われると共に,1908年には鉱区を設定して天津に資本金1,500万ルーブリの支那石油会社を設立し,ヌトウォとボアシタンで採掘権を獲得して作業を開始して,1910年1月にボアシタンで1号井を開削し,8月中旬に深度460尺に達しますが,作業困難で採掘は中止,8月に2号井,1911年2月には1号井の機械を移動して新たに開坑しますが,採掘には至らず,ヌトウォの2坑井も採掘出来ず,資金難に陥ってクレイは1912年に死亡,息子は事業を継承したものの,こちらも1914年に税金未納の為没収され,1915年には全財産を没収されてしまいます.

 ロシア帝国としては,樺太地域は今まで放置されていましたが,日露戦争の結果,漸く北樺太地域に陽が当るようになり,1906年に漸く鉱山部が鉱山技師トゥリチンスキーを長とする国家調査隊を派遣し,島の北東部の全般的な地質調査を基礎に,詳細な調査計画を作ることにしました.
 しかし,その結果は悲観的なもので,時間が限られていた為にヌトウォ鉱区のみ調査するに留まりました.
 ただ,継続的な調査が必要として,更に5ヶ月の間,1907年までにオハ,ノグリキ,ナビリ,ヌトウォ,ボアシタンの5箇所での調査が行われました.

 1907年からは商工業省地質委員会に委ねられ,アネルト技師の指揮下にサハリン調査隊が1907年に派遣されます.
 アネルトの調査隊は1ヶ月半に亘ってサハリンを調査し,既存の石油鉱床に加え,ピリトゥンとオドプト,エハビの3箇所で石油の予兆を見つけました.

 1908年にはポレヴォイサハリン調査隊が組織され,アカデミー会員でもあるシュミットがこれに加わりました.
 この調査隊の目的は,北樺太の石油鉱床に於ける石油の成層条件を明らかにすることで,ポレヴォイ隊とチホノヴィチ隊の2隊が7月半ばに派遣され,ポレヴォイ隊は北緯50度線(日露国境)からオドプト湾に至る東海岸,チホノヴィチ隊はシュミット半島とオハ地域を調査しました.
 これらの結果に基づき,1914年にペテルブルクで最初の「ロシアのサハリン地図」が出版されます.
 しかし,以後,国家機関は表面に登場せず,再び個人資本家が前面に出て来ました.

 1908年にサハリン石油工業ゾートフ相続人組合の鉱山技師クズネツォフがゾートフの相続人となり,オハで試掘作業を本格化させ,1909年にブリネル・クズネツォフ会社を設立します.
 8月22日,この会社は鉱山技師ミンドフの下,大掛かりな調査隊をオハに派遣し,1909年冬期に作業を行い,85mまで掘削しました.

 一方,クレイの方もドイツ・中国会社とサハリン石油鉱床探査の為の資金提供契約を結びましたが,その代表ケイペルが実際に現地を訪れたところ,それには巨額の資金が必要とわかり,手を引きました.
 1910年に支那石油会社と契約を結び,労働者を送り込むも成果は芳しくなく,1914年までにヌトウォとボアシタンでの石油鉱床の試掘作業は中止されてしまいます.

 こうした動きにめげず,山師達のサハリン投機への関心は高く,1912年までに313件の申請書が出されていますが,いずれもモノに成りませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/26 21:45


 【質問】
 ロシア革命後の,北樺太石油開発を巡る状況を教えられたし.

 【回答】
 1920年代のシベリア出兵で,最後迄日本軍が死守していたのが,北樺太です.
 この地には,19世紀から石油が噴出していた事もあり,出来れば日本領にしてしまいたかった訳です.
 アジア地域の例えば,蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル,ボルネオの石油はBPなどなど,各地の油田は粗方メジャーの外国資本に抑えられていた為に,日本が採掘出来る未開発油田地域としては,この辺しか無かったと言うのも有ります.

 ところが,米国の石油資本がその油田に目を付けました.
 この石油会社は,シンクレア・コンソリデーティド・オイル・コーポレーションと言う会社で,今では全く過去になってしまいましたが,この会社を率いたハリー・F・シンクレアと,この会社は,一時期スタンダードオイルに対抗する人物及び会社でした.

 この新興石油業者は,1910年代初頭,オクラホマ州の油田開発に成功したことで資本を蓄積しました.
 寡占が進んでいる業界にあって,多くの新興業者同様,シンクレアは投機的な性格を持つ会社となり,将来を洞察する力と機敏な行動,政治家との繋がりをバックに,世界の油田地帯に於て,王者スタンダードに対して攻撃を仕掛けていきました.

 オクラホマを拠点に米国及びメキシコで足場を固めていったシンクレアは,その後1920年代に北ペルシャで石油権益を獲得し,更にソヴィエト領内,特に伝統的な産油地帯であるバクーへもスタンダードに対抗して権益を獲得しようと積極的な進出を図りました.
 更に,ソヴィエトでは未開発の資源であるシベリアのみならず,辺境の辺境である北樺太にまで食指を延ばした訳です.

 1921年4月,シンクレアの副社長であるワッツが,ニューヨーク駐在の西巌商務官を訪ね,日米合同にて資本金約2,000万ドル程度の出資金による日米折半の石油会社を設立し,石油を東洋諸国に販売すると共に,樺太,シベリア,中国方面の油田開発を行いたいとの理由にて,出資相手の選定と斡旋を持ちかけてきました.

 この話に,日本海軍と外務省は乗り気ではなく,内田外相は,
「シンクレアの東洋進出は,従来極東方面で活動しているスタンダードやロイヤル・ダッチ・シェルの勢力を削ぐだけでなく,その進出で反って石油業界を紛糾させ,法人石油業者を圧迫するに留まらず,北樺太の鉱業権を猥りに外国人に与えるのは面白からざる」
として,反対の意向を示していました.

 しかし,当時,世界に雄飛していた鈴木商店は,シンクレアと協力して事業を進める希望を持っており,交渉を進めていました.

 1921年7月,シンクレアは極東共和国との間に,北樺太の石油権益に関する契約調印に成功したことを伝え,日米合弁の石油開発会社設置を持ちかけてきました.
 出資内容は,従来より日本の権益比率が落ちて35%となり,その為に1,200万ドルを出資して欲しい事,シンクレアはソヴィエト政府に鉱区税を支払う必要が有る為,利益の65%を確保すると言うもの.
 石油販売については補助会社を設置し,日本側の出資比率を増やしても構わないが,石油権益についてはシンクレア側に属し,実施には日・米・極東共和国の三者の協定によるとしていました.

 虚仮にされた鈴木商店側は,結局商談を打ち切り,撤退しています.

 北樺太の石油権益獲得を進めたのは,シンクレア子会社のシンクレア・エクスプロレーション・カンパニーで,北樺太では以前に石油調査を実施したことがあり,その埋蔵量が有望であるとして,極東共和国側と交渉して石油権益を獲得しました.
 極東共和国はソヴィエトの衛星国でしたが,それと共に米国との緩衝国家であり,政治的にも影響力を有するシンクレアに権益を与えることでソヴィエトの国家承認を得ようとしたのと,日本が保障占領を続けている北樺太に対し,影響力を行使して貰おうと考えた訳です.
 しかし,日本側を巻き込む計画は頓挫し,米国は極東共和国を承認していないこと,現在の情勢が不安定なことから,国務省も動きませんでした.

 1922年1月7日,それでもシンクレアは極東共和国と,北樺太の石油の試掘と採掘契約を調印します.
 シンクレアの権益は,1958年1月7日まで有し,20万ドルを投資して,1年後まで探査し,281,000エーカーの鉱区を選定すると共に,1925年1月7日までに採掘機械を現場に1基設置し,3年以内に1基増設.
 保証に関しては手付け金10万ドルをロンドン・ロイド銀行のゴスバンク勘定に供託し,ソヴィエト政府が年3分5厘の利子を支払い,満期時に元金を返済する.
 また1924年1月7日までに40万ドルの債権をシンクレアが提供し,1928年1月7日にこれと引替に150万ドルの担保付債券を提供する.
 更に販売後は鉱区税と鉱産税として年産500万バレル以下の場合6分3厘(但し,販売開始後と1928年1月7日までは最低年額5万ドルを納付),500万バレル以上5,000万バレル以下の場合は1割2分6厘7毛,5,000万バレル以上1億バレル以下だと1割3分7厘1毛を納付し,産出量が確実になれば,1エーカーに付き19銭の賃貸料を支払うと言う契約を結びました.

 この契約の特典として,シンクレアは北樺太海岸2地域に築港する権利を有し,築港後はその支配権はソヴィエト政府に属するものの,食品,衣料品の輸入税,その他一切の輸入税と輸出税を免除されると共に,現行の証券印紙税の他新税を課せられないと言うものがありました.

 ただ,極東共和国は本契約の締結後1年以内に自由に解約出来る権利を有し,1927年1月7日に米国が他国とソヴィエトの領土保全若しくは主権を保全もしくは侵害する様な取り決めを結んだり,米国が直接ソ連と事を構える場合,米国が1927年1月7日までに法律上の国家承認を与えなかった場合の何れかがあれば,電信で契約を破棄出来る様に成っていました.
 流石に設備没収とまでは行かず,供託金の返還とシンクレア保有の設備,財産の北樺太からの持ち出しが可能となっていますが.

 1922年11月,極東共和国はロシア共和国に併合されます.
 それと共に権益契約は,1923年1月23日に新たにロシア共和国政府に承認され,8月20日に調印されました.
 この契約では1年以内に試掘作業を開始することが義務づけられていましたが,少なくともその開始は,解氷時期である6月に行わねばなりません.

 しかし,此処に立ちはだかったのが日本でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/07 23:45

 さて,先日の続き.

 米国の石油会社で20世紀初めからスタンダードと覇を競っていたシンクレア.
 この会社は,極東での石油利権を獲得すべく,極東共和国と交渉の末,北樺太の利権を手に入れました.
 しかし,当時は北樺太は日本の保障占領下にあり,調査団を派遣するのが至難の業でした.

 先ず,シンクレアは米国の要路から日本に対し圧力を掛けて貰う事を画策します.
 シンクレアは,夏に調査団を派遣し,米国が「友好関係を維持している」国に於て米国市民に与えられている通常の保護を求めました.

 ところが,米国政府は,北樺太の地は日本が保障占領している特殊状況にあり,極東共和国(あるいは後のソヴィエト連邦)と米国は国家関係を樹立しておらず,「友好関係を維持している」とは到底言えない,
 従って,シンクレアの要求に対して政府が要請する立場にないことを明言しました.

 とは言え,契約の履行期日は迫ってきており,しかも,夏が過ぎると泥濘の季節になります.
 この為,シンクレアは1924年2月,地質技師マカロフ,マクラクリン,通訳のヤロスラフツェフを,ウラジオストク,ニコラエフスク経由で樺太のポギビまで派遣し,彼等はアレクサンドロフスクに滞在して東海岸の調査希望を日本政府に提出しました.

 日本政府にとっては,この契約自体,ソヴィエトと交わした契約であり,試掘調査を認める事は外国企業の権益を認める事になるため,是が非でもこの試掘調査を目的とする調査隊の受け入れは拒否しなければなりませんでした.
 ただ,この問題が日米間の問題に発展するのを避けるため,試掘調査隊は断固受入れを拒否するが,単なる視察を求める場合は,出来る限り思いとどまらせるが,更に強く希望する場合は政府の判断とすると言う決定と,方針は絶対でこれ以上の声明は出さないが,機微な措置を講ずる必要が有る場合はそうするよう,出先機関に訓電すると言う方針で臨んでいます.

 シンクレアの調査隊は,アレクサンドロフスクに到着しましたが,技術上の目的であれば世界中旅行出来る胸記載されていたヒューズ国務長官発行の旅券に,在ニューヨーク日本領事によるヴィザが発行されていたにも関わらず,そこでは占領軍司令官だった井上一次サハリン州派遣軍司令長官と会見し,晩餐を振る舞われた挙げ句,海軍の砕氷船大泊に乗せられて,体よく小樽に追い返されました.
 その後,調査団は東京,神戸を経由し,北京に舞い戻りました.

 当然シンクレア側は,調査隊が厳重な監視下に置かれた不満をマスコミに語りましたし,日本政府に抗議するよう,米国政府に圧力を掛けています.
 ソヴィエトの外務人民委員であったチチェリンも,1924年5月20日に日本の松井外相宛に抗議を行いました.
 とは言え,本来,ソヴィエトの領土である地が,日本軍に占領されている地域への入国を認めない事に抗議するのは当然のことであり,この抗議自体も出来レース,形式的なものだったりします.
 折から,北京に於てソヴィエト代表カラハンと,日本代表芳沢謙吉とが日ソ基本条約の交渉を継続しており,こうしたチチェリンの抗議を受けて,芳沢がカラハンに抗議すると,カラハンは,これは形式的なものであり,シンクレア側は契約違反を行っているので,そのうちに石油権益は解消されると述べていました.

 その言葉を裏付けるように,翌21日,ソヴィエト最高国民経済会議は,シンクレアに対し,今後半年の猶予期間中に契約に記載された約束を果たすようにと言う警告を発していました.

 シンクレアはヒューズ国務長官に再び,日本政府への圧力を懇願します.
 しかしヒューズはスタンダード寄りで,北樺太よりも寧ろ,スタンダードが権益確保に躍起になっていたカフカス地域の石油問題を重視していたため,北樺太に対するアクションは何もありませんでした.

 因みに,スタンダードは米国国務省宛に,1923年5月,北樺太の油田地帯は帝政時代にロシア政府からスタンダードが特許を取得している上,極東共和国と何ら関係もないので,調査団派遣を支援して欲しいと言う書簡を送っていました.
 こちらも,国務省は日本との交渉は妨げないとしましたが,特別に支援まではしませんでした.

 1925年2月,時間切れとして,ソヴィエト最高国民経済会議はシンクレアの契約を解消しました.
 これはシンクレアが契約の期限内に試掘作業を行わなかったこと,作業に関連した技術的準備の契約量を実施しなかった事が原因として,モスクワ州裁判所が契約解消の判決を下したものです.

 またもシンクレアは国務省に泣き付き,和解斡旋を要請しました.
 シンクレアの主張は,日本は商業活動に関する機会均等を謳ったワシントン会議に違反している,日本とソ連は北京条約を調印して日本軍撤退を謳っており,北樺太は日本の占領下に無いと言うのを根拠にしていました.
 しかし,国務省はソ連を承認していない,そして,ワシントン会議に於ける日本の声明に違反しているかどうかは疑問があるとして,実際に抗議を行うことはありませんでした.

 こうして,北樺太に於けるシンクレアの野望は打ち砕かれました.
 この頃,シンクレアは追い詰められていました.
 1922年4月にワイオミング州のティーポット・ドームなど3箇所の国営油田の貸借を巡り,フォール内務長官に対し贈賄工作を行ったのが発覚した,所謂,ティーポット・ドーム事件において,当時の閣僚でシンクレアの支援者でもあったデンビー海軍長官と,石油輸送会社の大立者であったドゥハーティが失脚します.
 1923年から24年にかけて,この調査が進行し,事が暴露されるにつれ,北ペルシャやバクーの権益を維持するのに莫大な資金を注ぎ込んできたシンクレアは信用を失い,金融支援が得られなくなって,遂にこれらの事業から撤退を余儀なくされました.

 但し,この事件はスタンダードの差し金と言う噂が流布されていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/09 23:24


 【質問】
 国有化決定以降の,ソ連の石油事情は?

 【回答】
 1918年6月1日,ソヴィエト政府の布告により,石油産業の国有化が決定しました.
 この方針は既に1917年9月の段階で,レーニンが,演説「シンジケートの国有化」の中で,
「石油事業はこれまでの資本主義の発展で,既に大規模に「社会化」されている.
…(中略)…
 石油産業の国有化は直ぐにも可能である.
…(中略)…
 石油王や株主に宣戦し,石油事業の国有化の引き延ばしや所得や報告書の隠蔽,生産のサボタージュ,生産工場対策の拒否に対しては,財産の没収と懲役に課することを布告しなければならない」
と述べていました.

 当初,石油産業の国有化については,最高国民経済会議では国有石油企業の設立であり,バクーとグロズヌイにあった遊休油田の採掘を組織し,私企業を国有化する前に,これらの会社の資本,技術力,知識と経験を最大限に利用する事を考えていました.
 更に,私企業が最高国民経済会議の課した義務を回避する場合には反抗的な企業と見做され,これを没収してその資金を国有石油企業に入れる権利と強化することが謳われました.
 これらの作業は全て,地域の労働機関の統制下に置かれることが予定され,これらの施策は社会主義企業の創設計画と結びついており,新たな社会秩序に向けて,漸進的且つ過度の破壊を伴わない移行が想定されていました.

 ところが,実際には油田地帯での政治的緊張が高まり,対外面でもブレスト・リトフスク条約の締結にも関わらず,ドイツの脅威は収まりませんでした.
 そうした中,最高国民経済会議は石油産業国有化を提案しましたが,ソヴィエト人民委員会議の容れるところとはなりませんでした.

 もう一つ,石油産業の国有化を検討していた部署がありました.
 この主体は財務人民委員部で,こちらの案では,国有化に当っては国庫によって受容れられた動産・不動産を現行価格で所有者に償還するものでしたが,確かに10月革命までは個人の鉄道や施設を国家が買い取ったこともありましたが,戦争に次ぐ戦争で金も無く,社会主義的でもないこの案もソヴィエト人民委員会議が受容れるには至りません.

 6月1日に布告された国有化の布告は,アゼルバイジャン人民委員会議によるもので,ロシア人民委員会議布告はそれを受けて,6月20日に布告されました.
 これにより,石油の採掘から販売までの企業を国有化することが宣言されました.
 但し,石油販売に従事するだけの零細石油企業は,この国有化対象から除外されています.

 とは言え,実際直ぐに国有化には取りかかれませんでした.
 1918年9月15日,先ずトルコ軍がバクーに入り,これを占領します.
 その2ヶ月後には英国がバクーに入り,以前の石油産業の所有者を復帰させ,バトゥミに駐屯して石油の輸送路を確保しました.
 その後,2年を経た1920年4月28日にやっとボルシェビキはバクーを占領して,アゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国を樹立し,それに伴って石油産業の国有化が再び行われる事になった訳です.

 それに先立つ1920年始めには,ウラル・エンバ油田が赤軍に占領され,3月にはカフカース地域のグロズヌイ油田を,4月にバクー油田を占領しますが,外国の干渉と内戦で多くの石油施設は破壊され,輸送網が分断された為に,多くの油田開発は休止状態に陥ります.
 1910年代に700万トンの生産量を誇ったバクー油田は,1920年にはその3分の1まで減少し,グロズヌイ油田も生産量が30%減少しました.
 しかし,1920年11月にはバクーの党中央委員会によってバクー石油産業復興計画が作成され,1921年にはバクー油田は生産回復に向かい,グロズヌイ油田も政府の必死の復興作業により増産に転じました.
 とは言え,依然として鉄道による消費地への輸送ルートは確保出来ませんでした.

 こうしてソヴィエト政府が,石油産業の無償接収の方針を打ち出していたのですが,以前の石油資産所有者は動揺し,且つ,反発していました.
 こうした石油資産所有者は,前に見た様に海外資本が殆どだったのですが,彼等の歓心を買う為に,1921年2月1日,ソヴィエト人民委員会議は矛盾する政策ですが,バクーとグロズヌイの石油コンセッションの提供を考え出しました.
 この決定では,バクー,グロズヌイその他で操業中の鉱区での石油コンセッション供与を原則的に認め,壊滅的な生産状況と石油生産の確保方法とを調査する為に,石油事業の権威で構成される委員会をバクーとグロズヌイに派遣します.
 また,ソヴィエト人民委員会議は,スターリンに対し,バクーやグロズヌイの労働者に経済復興とソヴィエト体制強化の為に,コンセッションが必要であることを現地で説明する様求め,ソヴィエト人民委員会議は3週間以内に,コンセッションによる石油地域の開発条件を作成し,提出する様に求めました.

 労働者からしてみれば,やっと主権が自分達の元に返ってきたのに,再び資本家に搾取されるのかと言う反発があることは十分に予想されます.
 ただ,レーニン自らが,経済危機を乗り越えるには外国からの設備と技術の援助が不可欠であると言う考えを有しており,バクー,グロズヌイの全石油産業の4分の1,最良の森林資源の4分の1を外国資本家に与え,残り4分の3の資源を利用して,資本主義国から供与された設備や先端技術,知識を元に生産を挙げていこうとしたのでした.

 とは言え,片方で石油産業が国有化され,もう片方で権益を供与すると言う矛盾した政策に,外国資本家が乗ってくるはずはありません.

 ロシアの石油権益を維持し続けて来たノーベルは,内乱ばかりのロシアに愛想が尽き,ほとほと嫌気がさしていた上に,革命で家族が命からがら脱出すると言う事態に追い込まれて,1920年7月にその権益一切を,ニュージャージー・スタンダード石油会社に売払いました.
 その金額は,頭金650万ドル,追加分で750万ドルと言う格安での売却でした.
 何故,こんな時期にスタンダードがこれを買ったかと言えば,当時,ボルシェビキの革命が成就することは考えられませんでしたし,白軍が勝利すれば,ロシアの総産油量の少なくとも3分の1,精製量の40%,ロシア国内市場の60%を確保出来,ロシアと欧州市場で有利なビジネスを展開出来ると踏んだ訳です.

 一方,ロイヤル・ダッチ・シェルの方は,バクーとグロズヌイからの石油製品輸出の独占権と未開発石油地域のコンセッション供与に関する提案を行いました.
 これに対してレーニンは慎重姿勢を示し,最高国民経済会議幹部会で審議の上,バクーとグロズヌイから最大1億プード(約1,200万バーレル)の石油製品輸出権を提供することについて,ロイヤル・ダッチ・シェル側と交渉を行う承認が出されました.
 更に条件として,輸送手段の大部分はロイヤル・ダッチ・シェルの方に提供して貰う事,更に新規鉱区の開発に際し,ロイヤル・ダッチ・シェルの方に必要な石油鉱区用設備を供与して貰う事を追加しています.

 こうして,ソヴィエト人民委員会議でロイヤル・ダッチ・シェル側へのコンセッション供与が承認され,ロイヤル・ダッチ・シェルの方は石油輸送用パイプラインを建設する事になりました.

 その前に,英国,米国,フランス,オランダ,ベルギーの12の企業は,ロシア帝国で獲得した資産の補償を求め,1922年9月からソヴィエトの石油を世界市場からボイコットする為のブロックを結成しました.
 これには個別に石油取引を行わない上に,国有化された資産の補償を求めていくことも約束されていましたが,1923年3月,ロイヤル・ダッチ・シェルが若干量のソヴィエト石油を輸入する事になり,短期的な経済制裁に終わりました.

 先ずは,ロイヤル・ダッチ・シェルの方が一歩先んじた訳ですが,ソヴィエトの石油を巡って,ロイヤル・ダッチ・シェルとスタンダードは,その後も激しく凌ぎを削ることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/22 21:23

 革命で接収を宣言した石油資源は,1920年代初頭にやっとソヴィエト政府の勢力下に入ります.
 しかし,疲弊した経済や混沌とした輸送手段,対ソ包囲網の状況では,まともに輸出も出来ませんでした.
 この対策として考え出されたのが,外国資本家にコンセッション方式で権益を与えると言うものです.

 ただ,バクーとグロズヌイ油田への権益供与は慎重に行われ,合弁会社として設立された,アゼルバイジャンのАзнефтъとグロズヌイのГрознефтъの2つの会社を通して,外国資本の資本参加が認められていました.
 但し,その出資比率は25〜30%に制限された他,外国市場への販売はソ連の石油シンジケートを経由し,合弁会社独自の原料持ち出しは認められず,更に投資額は1〜1.5億ルーブリの範囲内と定められていました.
 もう1つ,パイプライン建設についても合弁会社の設立が認められており,外国資本の資本比率は49%以下,出資金限度額は約5,000万ルーブリとされていました.
 この様に,既存鉱区では権益を供与すると言っても,余り外国資本から見れば魅力あるものではありません.

 では,埋蔵量未確認の油田鉱区はどうかと言えば,探査済鉱床のみを対象とし,石油調査・試掘権提供は探査済鉱区の分割,つまり,折半か碁盤目状分割する方式が採られ,将来開発する予定にない鉱床にコンセッションを委ねる事はしないこととされました.

 こうして権益を与える鉱区として,
投資額2,000〜2,500万ルーブリで産油規模2,500〜3,000万プードのエンバ地区,
投資額600〜800万ルーブリで産油規模600〜800万プードのカスピ海沿岸チェレケン地区,
年産1,000〜1,200万プードのネフチャノ・シルヴァンスコ・ハドゥイジェンスク鉱区と500〜600万プードのカルージュスク鉱区を合わせたクバン・チョルノモール地区が設定された他,探査済で小規模埋蔵量かつ工業的採掘のない地区である,ザカフカージェ地区,タマンスキー半島地区,ケルチェン半島地区,カスピ海沿岸のベリケイスク地区,ザカスピ州のフェルガナ地区他,ザカスピ州の他の鉱床,サハリン島,カムチャツカの各地域が設定されています.

 更に,1927年にGosplanは上記鉱区を修正し,5つの鉱区を設定しました.
 1つ目は,投資額2,500〜3,000万ルーブリで産油規模2,500〜3,000万プードのウラル・エンバ地区で,提供鉱区はドッソルまたはマカト.
 2つ目は,カスピ海地域で,投資額600〜800万ルーブリで産油規模600〜800万プードのチェレケン地区.
 3つ目は,ザカフカージェ地区のチフリス県シラクツキー・チャトマ川鉱区.
 4つ目は,中央アジアのネフチ・ダグ,バヤ・ダグ,ケイマルの各地区
 5つ目は,カムチャツカ地区.

 こうした鉱区権益供与の話に食いついたのは,先ずアメリカのインターナショナル・パルンスドール・コーポレーションと言う石油会社でした.
 1922年9月22日にАзнефтъとの間で交わされた契約は2つあり,1つはバラハニ地区で初年度坑井40基,次年度坑井60基の設備を納入し,稼働させる事とし,産油量の15%をこの石油会社が自由に使用し,15年半の契約期間終了後は,全設備をАзнефтъに引き渡すというもので,もう1つは同地区での石油掘削の組織化をするものであり,利益はその産油量の20%でした.
 ところが,このコンセッションは米国側が設備を納入しなかった(Азнефтъが機械・設備の代金を未払いだったのが原因ですが)として,1924年半ばに一方的に活動が停止され,1926年2月に解消されてしまいます.

 次がドイッチェ・バンクです.
 1921年11月にバクー,グロズヌイのうち,以前に私的所有の無かった地域を石油コンセッションとして取り組むこととし,1923年以降は請負契約に転換しています.
 その提案内容は,掘削作業を5基から始め,その後30基に増やし,その投入鉱区は未採掘鉱区とし,更に採掘資材の輸入,製品の輸出は無税とする.
 ソヴィエト側は開発費を石油で支払い,一般管理費として更に開発費の25%を割増料として支払う.
 双方の投資額支払いは石油でカバーし,利益配分はドイツ側が45%,ソヴィエト側が55%とし,契約期間は35年とすると言うものでしたが,この交渉は不成立に終わりました.

 英国もグーリエフ石油会社と米国,フランスの資本家,その後センチュリー・トラストが1922年2月にグロズヌイ〜ノヴォロシースク間パイプライン建設と,グロズヌイ鉱区での石油コンセッションを提案します.
 パイプラインは完成後,完全に操業出来る状態でソヴィエト政府に引渡し,建設コストは出荷量に一定額の料率を課して回収すると言うもので,政府の支払保証としてノーヴァヤ・アルダ鉱区にコンセッションに提供する事になっていましたが,最高国民経済会議がノーヴァヤ・アルダ鉱区のコンセッション提供に強く反対し,更にパイプライン建設そのものに反対した為,これも頓挫しました.

 フランスもバクー,グロズヌイに於ける石油開発と,油田と黒海を結ぶ石油パイプラインの敷設を提案しますが,交渉は不成立に終わり,ドイッチェ・バンクの後にドイツ企業ストックヴィスが進出しますが,これも英国の交渉打ち切りの煽りで打ち切りになり,米国の鉱山技師が北部ペルシャからバクー,バクーからバトゥミへの石油パイプライン建設と北部ペルシャの石油開発を提案しましたが,これは米国企業の支援を得られなかったので,結局は頓挫しました.

 こうした相次ぐ契約不成立の背景には,バクー,グロズヌイ両油田の復興が予想以上に順調に進展したからです.
 1921年に革命前の30%に落ち込んだバクー油田では,以後回復基調に向かい,毎年着実に増産を記録していき,グロズヌイはこれより1年早く増産に転じました.
 この量は,バクーが全ソヴィエトの原油生産の64.2%,グロズヌイは31.3%で,両油田で95%を占めており,この油田の採掘動向がソヴィエト全体の鍵を握ることになった事もあります.
 こうした打出の小槌を,外国資本に委ねるのは危険だと言う安全保障上の観点からの反対もありました.
 その上,接収した石油施設の返還を求める旧所有者の動向もあって予断を許さない部分もありました.

 そうなると,後はパイプライン建設とソ連産石油の独占契約くらいしか外国資本には旨味が残りません.
 各石油会社はその獲得を目指して凌ぎを削りますが,独占契約は自国の石油を下手すれば買い叩かれる可能性もあり,ソヴィエトとしては認める訳に行きませんでした.
 結局,スタンダード石油を含め,独占契約の話が幾度か持ち込まれましたが,ソヴィエト政府は結局首を縦に振ることがありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/23 20:53

 さて,ソ連の石油産業は当初,外国の石油資本からの資本や資材提供を受けて,その代わりに権益を渡す形を模索していました.
 しかし,実際には1925年までにあらかたその辺の動きは影を潜めます.
 これはバクーやグロズヌイでの石油生産が軌道に乗ったのが大きいのですが,更にその能力を高めるべく計画されたのが,1928〜32年に設定された第1次5ヶ年計画です.
 この時には,新規工業部門や最新の機械・設備を導入した工業企業の創設,国の東部に於ける新たな工業地域の形成が企図され,その為に1,500の企業設立が計画され,特に機械製作部門が重視されました.

 前に第1次5ヶ年計画として機械産業について,特にトラクター産業について触れましたが,農業の機械化で生産性を向上しよう,また,軍隊の機械化で国防力を上げようと言うのが目的でもあります.

 本題の石油産業への投資ですが,それはかなり遅れていました.
 その理由の1つは,1925年以前は革命前まで外国が所有していた設備で,ソヴィエトが接収した設備能力が供給原油の量を幾分上回っていたからです.
 ソヴィエトの他の産業に比べると,未だ石油産業は標準を上回っており,革命前の生産能力を維持するだけで事足りていました.
 ソヴィエトの石油は,Азнефтъ,Грознефтъ,それに,Енъанефтъの3つの国営トラストで99%を占めていました.
 この為,製油所もこれら開発地域の近くか積出港付近に設置されていました.

 ところが,これら企業は独占に胡座をかいて,原油精製設備の整備は全く等閑にされ,旧式で老朽化した採算性の低い設備だけが稼働していたと言う状態でした.
 これに対し,徹底的な転機が訪れたのが,1925年からの石油開発の状況です.
 石油増産が行われても,精製能力がそれを下回る状況になり,精製能力が隘路となって石油増産にブレーキが掛り始めた訳です.
 この対策として,先ずは既存設備の負担を軽くする為に軽質油を埋蔵する油田採掘が行われ,第5スラハヌィ層にあった軽質油を産出する豊かな油層の生産開始で増産されました.
 Азнефтъでは1925年に比べ1928年で灯油生産が1.5倍,潤滑油が1.6倍となり,Грознефтъでは同じ時期の灯油生産が1.5倍に,Енъанефтъでも灯油生産が1.6倍に達し,生産される精製油の9割を軽質油が占めるに至っています.

 1925年までの製油所の強化は既存設備の修理,増強で凌いでいましたが,1927年以降は新型設備を備えた大型製油所が稼働し始め,生産に寄与する様になっていきます.

 最初の大型設備は,バクーに建設された潤滑油工場です.
 当時,バクーの石油製品ではガソリンは未だ余り頼りにされておらず,潤滑油が市場で高く評価されていました.
 これがАзнефтъ最大の輸出商品であり,工場新設に踏み切った訳です.
 しかし,建設作業は遅滞し,1927年末にやっと工場部分が不完全ながらも竣工しますが,発電設備などの付帯設備が出来ていなかった為に,年産25万トンの重油処理能力を生かし切れず,実績は計画値を大幅に下回りました.

 もう一つは,Грознефтъが建設したグロズヌイのパラフィン工場です.
 こちらも,1924年に着工されていますが,竣工は1927年にずれ込みました.
 これもまた,生産能力が計画値ではパラフィン40万プードが生産出来る予定でしたが,実際には30万プードだけがやっと,更に,費用は当初見積価格が245万ルーブリに対し,実際には430万ルーブリに達しました.
 ただ,パラフィンのソ連への輸入価格は非常に高く設定されていた為に,この工場の収益は140万ルーブリに設定され,国内工場の稼働は外貨の消費を抑えるものとして期待されています.

 因みに当時,石油精製は技術革新の最中でした.
 ソヴィエトでも石油精製工場を建設する際には,従来の蒸留装置に代わって,新技術であるパイプスチルの装置を導入する様になりました.
 この装置は米国でも広く採用されていたもので,より容量が小さく,加熱表面が小さく,用地も少なくて済むと言う利点があり,その結果,蒸留装置に比べて蒸気の消費,引いては燃料消費も少なくて済むと言う一石何鳥もの利点があったからです.

 この技術を採用したのは,バクニットに於ける生産能力327,600トンの灯油・ガソリン工場の建設が最初です.
 この設備自体は,Азнефтъの補助工場として,Азнефтъの資金で建設され,コストは89万ルーブリでした.
 この他,АзнефтъもГрознефтъも,ドイツからパイプスチル装置を4基,精製能力66万トン分を,約250万ルーブリで輸入しています.
 更に,米国へも年産2,500万プード能力のパイプスチル装置を発注しています.

 グロズヌイには既存構造の蒸留装置を設けた工場も新たに建設され,1927年11月に稼働する予定でしたが,これは海外に発注した設備の納品に遅れがあり,稼働が遅れました.
 因みにこの工場は見積価格が89万ルーブリだったのが,実際には181万ルーブリと倍掛かる様になっています.

 Азнефтъは更に2/1工場グループで新規に蒸留装置が国産化され,生産能力は2,000万プードに増強されました.
 Грознефтъでは1927年までに既存設備が完全に新規設備に入れ替わりました.
 Енъанефтъのコンスタンチノフスク工場では,新たに灯油生産設備が設置され,生産能力が従来の600万プードから1,200万プードに倍増しました.

 この様に生産設備の増強により,石油精製能力は3.7億プードまで拡大することが可能となり,バクー産の軽質油を全量処理出来る能力が生まれます.
 更に重油からガソリンを抽出出来る重油クラッキング装置が導入され,更に輸出能力が高められる様になりました.

 ただ,この時期ソヴィエトの石油産業で大幅な遅れが見られたのは,バトゥミやトゥアプセと言った港湾都市に設置された大型製油所の更新です.
 また,産油地からこれらの港湾に達する石油パイプラインの増強も重要でした.

 と言うのも,折角輸出に回された石油も,バクーから鉄道によって輸送された場合,平均プード当りの鉄道料金は約16カペイキであり,パイプラインの場合の輸送費であるプード当り5.0〜5.5カペイキに比べて大幅に高かったからです.
 この為,折角輸出しても,製品によっては赤字になる事もありました.
 また,他の工業製品の輸送などで鉄道そのものも輸送状況が逼迫しており,増大する輸出商品量を捌ききれない状況にありました.

 そこで,産油地から輸出港までのパイプラインを建設・増強すると共に,需要に迅速に応えられる様に,輸出港に製油所を設置することが求められました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/24 22:50

 さて,従来設備の更新が行われた後は,輸出港湾の製油所の建設とパイプラインの敷設が課題となりました.
 トゥアプセの製油所は,1928年10月1日までに生産体制が取れる計画でしたが,元々の建設計画に無理があり,建設案が最高国民経済会議で承認されたのが1927年2〜3月,建設開始が5月で,幾ら突貫工事でも17ヶ月で竣工するのは無理な注文です.
 結局,竣工は半年延ばしの1929年4月初めとなり,予算は266万ルーブリから10%増の294万ルーブリになりました.
 しかし,この製油所では7,200万プードの生産能力を有し,更に増設を行って,1929年の会計年度末には9,000万〜1億プードに増大する予定でした.
 第1期分は蒸留装置1基とパイプスチルタイプ1基で構成され,灯油,ガソリン,その他燃料の生産を予定していました.

 パイプラインの方は,先ずバクーとバトゥミとの間に幹線石油パイプラインが1929年10月までに建設が準備されることになっていました.
 それに付随するバトゥミの製油所は1928年10月始めまでに部分的に操業を開始し,5,000万プードを処理する目標を掲げていました.
 しかし,こちらも建設作業は遅れ,予定の期間までに完成しませんでした.
 バトゥミの製油所は,年間246万トンの石油処理量を見込んでおり,1928年10月には年産82万トンの灯油生産設備,1929年10月までに更に2基の灯油・潤滑油精製装置が建設される予定でした.
 これらの製油所の強化により,バクー油田の生産能力を向上させることが可能となり,石油精製を港湾の施設に任せることで余剰となったバクーの遊休施設を活用して,重質油の処理を開始出来ると考えられていました.
 ところが,重質油の白油化率を高める技術の発展は遅れており,困難な課題にぶち当たっていました.

 とは言え,様々な問題にぶち当たりつつも,第1次5ヶ年計画で石油産業に課せられた計画目標は,他の重工業部門よりも早く,2年半で達成されました.
 これにより,精製部門では製油能力が合計1,510万トンに及ぶパイプスチルが27基,蒸留装置が5基新設され,年産能力300万トンのクラッキング24基,処理能力110万トンの製油所,カーボンブラックやコークス工場も新設されました.

 第2次5ヶ年計画では,更に発展したか,と言えば然に非ず.
 産油量こそ1932年の2,232万トンから1937年に3,049万トンに増加したものの,計画目標は4,620万トンとその66%に過ぎませんでした.
 同時期に工業生産全体では2.8%増,生産財生産が20.8%増,機械製作・金属加工業が43.1%増となったのに比べれば,石油産業の不振が際立ちました.
 ただ,これはエネルギー部門全体に言える事で,電力生産は96%,石炭生産も83.3%に留まっています.

 また,新規開発地域での産油量についても,1932年の2.45%から1937年に12.3%になる予定でしたが,実際には9.1%に留まりました.
 新規開発地域で最も開発が促進されたのはバシキール自治共和国で,その産油量は1932年の4,600トンから1937年に98万3,600トンへと大幅に拡大し,次いでカザフ共和国でも同時期の産油量は24.9万トンから49.3万トン,極東地域でも18.3万トンから35.6万トンに拡大しました.

 この第2次5ヶ年計画で最も重要な政策の1つは,東部に於ける新規工業基盤の創設と産業の地域的不均衡是正であり,新産業地域には,地下資源の豊富な埋蔵地域に隣接し,軍事的見地から見ても前線地区から遠隔の地にある場所が選ばれました.
 特に重視されたのはウラル地域で,ウラルの鉄鉱石と石炭を基盤としたウラル・クズネツク・コンビナート計画が実施され,第2次5ヶ年計画期にこの計画は第2期工事に入ります.
 この時に,ウラル地域には国内第2の石油生産基地,通称第2バクーと呼ばれた施設が建設されています.

 次いで開発地域として重視されたのが,東部の新規開発地域となるシベリア地域とカザフ共和国です.
 これらの東部地域には石炭,石油産業などのエネルギー基盤と,鉄鋼業の広範な発展が図られています.

 更に第3次5ヶ年計画で建設中か完工した製油所は,年間設計能力400万トンのスイズラニ製油所とウファ製油所,300万トンの居る空く製油所,200万トンのオヴェリャンスク製油所とソヴィエト中央部の製油所,100万トンのサマルカンド製油所,50万トンのトルクメン製油所とハバロフスク製油所の8箇所でした.

 ところで,権益供与の対象となっていた,遙か極東に石油が出る地域がありました.
 日本から直ぐ近くにあった石油産出地域で,日本も喉から手が出るほど欲しかったものでした.
 それは,日露戦争で獲得した新領土の国境線を挟んで直ぐ隣,北樺太にあった油田です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/25 23:01


目次へ

「欧露別館」トップ・ページへ   別館サイト・マップへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   本館サイト・マップへ