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国別 A-H
欧州FAQ目次

※ 並びはほぼアルファベット順


 【Link】

「Close to the Wall」■(2009/12/02) [本]井浦伊知郎 - アルバニア・インターナショナル

Costa Blanca News(Weekly)

Czech Happenings (英語)

D.B.E. 三二型」◆(2010.2.8)時代はスポーツカーより戦車!オーストリア軍のCM/情報源everything is gone

「D.B.E. 三二型」(2011/02/16)◆わずか1ペニーを物々交換していくうちにブルガリアの土地が手に入った…現代版わらしべ長者

「Defense News」◆(2012/08/10)Denmark Seeks Bids for Armored Personnel Carriers

「Defense News」◆(2012/08/14)Combat Shapes Danish Battlefield Management Tech

「Gurdian」◆(2013/04/02) Greece's neo-Nazi party Golden Dawn captures 11.5% support in recent poll and aims to set up office in Australia

media@franciophonie(フランス語圏記事翻訳ブログ,休止?)

「Military Technology」◆(2013/05/28) Danish Army issues RFP for M109A3 self-propelled howitzer replacement

「Telegraph」◆(2013/04/10) Pictures of Sarajevo 15 yrs ago & today show how the city has changed
 行ったまま定住した英国人支援活動者が撮影した,サラエヴォの変化

The Prague Post

「Today's Zaman」◆(2013/05/29) Bosnian Croat leaders jailed for 1990s ethnic cleansing

「VOR」◆(2013/06/05) ベルギー 2基目のひび割れ原発 運転再開

「アラスカ物語」:ドイツとロシアの理想と軋轢

「ストパン」■すかんでるべう!
>著者はアルバニアが未だに「ネズミ講」「ヨーロッパの北朝鮮」「鎖国」
>「エンヴェル・ホヂャ」といったイメージで語られることにウンザリしているようなことを書くのだけど……
 否!,アルバニアと言えば「ショッカーみたいな国旗」,ついでにカダレ.
 最近,『死者の軍隊の将軍』が邦訳されたのだが,しばらくは積ん読だなあ…

「ストパン」■(2010/06/12)癒えぬ罪,赦されざる罪――引き裂かれたボスナ

「ストパン」■(2010/07/23)国際司法裁判所,コソヴォ独立宣言は「合法」との判断

「ストパン」■(2010/08/28)或る小さなスラヴ人の懊悩――チェコ民族再生運動について

『ユーゴスラヴィアの残骸の前で』 < 「ストパン」

「ワレYouTube発見セリ」◆Bulgarian Armed Forces

「ワレYouTube発見セリ」◆Estonian Army

「You Tube」◆Nemzeti dal
 画像は以前の革命記念日の暴動騒ぎ

「ワレYouTube発見セリ」◆Czas Profesjonalistow - Marynarka Wojenna (ポーランド海軍)

「ワレYouTube発見セリ」◆Wojsko Polskie - 12 Brygada Zmechanizowana

「ワレYouTube発見セリ」◆Во?ска Срби?е: Ваздухопловство и ПВО - Serbian Air Force

『小鼠,ニューヨークを侵略』(レナード・ウイバーリー著,創元推理文庫,1976)

 面白かった.

 スイスとフランスの間にある英語を公用語とする架空の国,グランドフェンウィック公国.
 この国の軍隊は未だに大弩を主武装としているような,時代から取り残された所.

 ある時,どうしても国家予算が足りなくなって首脳が鳩首協議した結果,
「米国に宣戦布告して即日降伏すれば,翌日から援助が貰える」
と聞いて,米国に宣戦布告した.
 ところが,宣戦布告書は国務省の小役人のデスクに置き去りにされ,この国は遂に米国本土侵攻を挙行して

------------名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2001/09/15
青文字:加筆改修部分

 けっこうひねりがあるとゆーか,イギリスユーモア的な雰囲気がありました.
 まあ,軍事本としての評価対象外ではありますが,楽しめた本です.

------------system:軍事板,2001/09/15

●Baltic Countries バルト諸国

「Defense News」◆(2012/05/15)Estonia Replaces Defense Minister Who Quit After Stroke

The Baltic Times(バルト3国,英語版)

「FLOT.com」◆(2011/05/17)На единственной эстонской подводной лодке спустили флаг
エストニア海軍唯一の潜水艦,軍艦旗を降ろす

「Michael Yon」:The Lithuanian Armed Forces

「VOR」◆(2012/10/15)リトアニア 日立と共同で原発建設へ
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/15)リトアニア  日本輸出の原発建設計画に関する国民投票で,建設反対が6割超

「痛いニュース(ノ∀`) 」◆(2011/08/02) リトアニアの市長が違法駐車にブチギレ→装甲車でベンツを踏みつぶす

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2013/04/26) 【岸博幸のクリエイティブ国富論】IT戦略で日本の遥か先を行くラトビア

「ワレYouTube発見セリ」◆KASP 207 kuopa (リトアニア陸軍)

「ワレYouTube発見セリ」◆Kra^to apsaugos savanori^ paj^gos (リトアニア陸軍)

「ワレYouTube発見セリ」◆リトアニア陸軍

●Belarus ベラルーシ

「VOR」◆(2012/03/11)ロシアとカザフスタン ベラルーシを支持
>昨年末からベラルーシの政府関係者約200人のシェンゲンゾーンへの入国禁止などの数々の制裁措置を導入しているEUに対し,露とカザフスタン,ベラルーシの各国政府はEUの制裁措置を非難する共同声明を表す.

「VOR」◆(2012/04/25)ロシアとベラルーシの統一防空システム稼働へ

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/08/09)ベラルーシ  波紋を広げるテディベア 強権姿勢を強める「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ大統領

「対外情報調査部」:ベラルーシ共和国軍に関するベラルーシ共和国法

「対外情報調査部」:ベラルーシ共和国国家保安委員会に関する規定

「対外情報調査部」:ベラルーシ共和国国家保安機関に関するベラルーシ共和国法

「対外情報調査部」:ベラルーシ共和国内務省国内軍に関するベラルーシ共和国法

「対外情報調査部」:国防に関するベラルーシ共和国法


 【質問】
 スラヴ語は兄弟語が多いと聞くけど,ロシア語を身につけるとポーランド語やチェコ語の書籍も,だいたいの意味が解るの?

 【回答】
 両語とも文法的には似通ってるが,単語は独語やマジャール語(チェコ語に多い)等からの外来語や,逆に現代ロシア語では使わない古語から派生したものが多いので,結局は辞書が要る.
 ちなみにセルビア語は文字はキリルだが,このパターンに近い.

 そういう意味で比較的「応用」が利き易いのは,ウクライナ語やベラルーシ語以外ではブルガリア語.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アンドラ公国とかリヒテンシュタイン公国は非武装だっけ?

 【回答】
アンドラ

・敵対する国家も存在しない上,近年まで外交をスペインとフランスにゆだねていたこともあり,軍隊は持たず,国防に関してはフランス及びスペインに委託している.

・ただし,アンドラはかつて第一次世界大戦及び第二次世界大戦に参戦していた.
 第一次世界大戦の際の「アンドラ国軍」は全員で11名(士官1人,参謀4人,兵士6人)であり,余りにも小規模であったためか,ヴェルサイユ条約調印式にフランスがアンドラの存在を忘れてしまい,それ故アンドラは形式上第一次世界大戦を継続したまま第二次世界大戦に突入する結果となった.

リヒテンシュタイン

・外交と同じく,1919年の合意に拠り,スイスがリヒテンシュタインの防衛を担当している.
 リヒテンシュタインは独自の軍事力を持たず,100名ほどの警察のみを保有している.

シーランド公国

・通常,1名の「兵士」が1丁のライフルでシーランド領内を巡回している.
 しかし,有事の際にはベーツ公が独自に集めた戦力が加わった事例があるため,必ずしもこの治安力が全てとはいえない.

ニュース極東板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 サンマリノとかモナコは,なんで独立出来たの?

 【回答】
●モナコ

1793年 フランス革命軍が王宮を占拠し,モナコの領土がフランスにより併合される.(〜1814年)
1814年 フランス皇帝ナポレオンの没落後,パリ条約により,グリマルディ家がモナコに復帰.
1815年 ウイーン条約により,サルデーニャ王国の保護下に入る.
1860年 サルデーニャ王国がイタリアに統合される.(イタリア統一)
 この時,マントンとロックブリュンヌ(元モナコの領土)がモナコからの独立を宣言し,翌年フランスに併合される.
 モナコは国土の80%以上を失う.
 フランスがモナコの主権を承認,主権回復しモナコ独立.
 同時に,フランスの保護下に入る.

●サンマリノ

1631年 教皇ウルバヌス8世より最古の共和国として独立を承認される.
1739年 アルベロニ枢機卿によって一時的に占領されるが,教皇クレメンス12世の勧告により独立を維持.
1815年 ナポレオン戦争後のウィーン会議で,サンマリノの独立が再確認される.
1849年 イタリア統一を目指すジュゼッペ・ガリバルディを,オーストリア軍の追撃から匿う.
1854年 教皇ピウス9世が,ガリバルディを匿ったサンマリノを,「自由主義者の巣窟」として糾弾.
 トスカーナ大公国に命じてサンマリノ共和国の教皇領併合を企てるが,失敗.
1862年 イタリア統一の功労によってイタリアと友好善隣条約を締結.
 独立が再確認される.

世界史板
青文字:加筆改修部分


◆A〜G


 【質問】
 オーストリア海軍の歴史は?

 【回答】
 オーストリアと海との接触は,当時のハプスブルク家君主レオポルト3世が1382年にアドリア海に面したトリエステを保護領として獲得し,初めて沿岸部に進出した時でした.
 この沿岸部の住民の主導の下,15世紀からは海運業が発展し,彼らはオスマン・トルコやアラブ人海賊から商船の保護に努めましたが,海軍そのものは長い間建設されませんでした.

 18世紀に入り,カール6世の治世下にはトリエステの整備が進められ,同時に東地中海を航行する商船保護を目的とした海軍建設が試みられましたが,これは財政難のため不成功に終わりました.
 その一方で,国内のドナウ川にはすでに小艦隊が編成されており,17〜18世紀にかけては陸軍と共同し,当時国境を接していたオスマン・トルコからの侵略に備えておりました.

 1797年のカンポ・フォルミオ条約により,オーストリアはベネチアからダルマチア沿岸部に至る長い海岸線を獲得し,この時に消滅したベネチア共和国の艦隊を入手して本格的な海軍建設が進められました.
 以後,ベネチアの艦隊及びこれに所属するイタリア人水兵はオーストリア海軍の基礎を成します.

 その後,対ナポレオン戦争の相次ぐ敗北により一時沿岸部を失う事となりますが,1815年のウイーン条約により同地は再びオーストリアの支配下に戻されました.
 これにより,ベネチアの艦船及び造船所はすべてオーストリアに帰属して,海軍が再建されました.

 オーストリアの産業革命は1830年から始まりましたが,同時に海軍の拡張も行なわれ,戦列艦,フリゲイト,コルベット,ブリッグ,スクーナーといった多数の帆走軍艦を保有するまでになります.
 こうした中,ベネチアはオーストリア海軍の最重要軍港として発展し,軍艦はこことトリエステで建造されました.

 1848年のフランス2月革命はオーストリアにも波及,各地で民族運動が起こりましたが,これは大部分のイタリア人水兵が蜂起する事を意味し,ベネチアに停泊していた軍艦の多くが彼らに占拠されてしまいます.
 このため海軍は急遽再編成を迫られると同時に,陸軍と共同してベネチア湾を封鎖し,翌49年8月には反乱を鎮圧して艦艇を回収しましたが,海軍の根拠地(本部)はベネチアからポーラ(現クロアチア領プーラ)に移され,1853年にはイタリア語に代わりドイツ語が海軍の主要言語とされました.
 ただし,ベネチアそのものは1866年までオーストリア領に留まりました.

 1850年以降フェルディナント・マクシミリアン大公※の指揮の下,地中海を巡航するオーストリア艦隊の姿がありましたが,大公はオーストリア海軍の最高司令官に指名され,彼の指導により近代的な蒸気動力を使用した新しい船(汽走フリゲイト)の建造計画が進められました.
 ポーラは整備・拡張され,また将校のための海軍兵学校がフューメ(現クロアチア領リエカ)に設立されました.
(※皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟でのちにメキシコ皇帝となる)

 その一方で,海軍は国家の財政及び科学の振興にも大きな役割を果たす事となります.
 マクシミリアン大公の支援により(数名の科学者を乗せた)フリゲイト艦「ノヴァラ」の世界周航が1857〜59年にかけて行なわれました.
 ノヴァラはジブラルタル・リオデジャネイロ・喜望峰を経て研究のために様々な島を訪れ,オーストラリアのシドニーに到着する前にインド・マニラ・香港・上海と航海を続け,その後タヒチ経由で南アメリカのホーン岬を通り大西洋を北上してトリエステに戻りました.
 ノヴァラは世界を周航したオーストリア初の船であると共に,偉業を成し遂げた最期の帆走軍艦でした.(その後同艦は1864年にマクシミリアン大公をメキシコへと運び,66年にはリッサの海戦にも参加,翌67年には異郷の地で非業の死を遂げた大公の遺体をオーストリア本国へ運んでいる)

 1860年代にオーストリアは2つの重要な海戦を経験しました.
 まずは1864年5月9日にデンマークとの間で行なわれたヘルゴランド沖海戦で,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン領をめぐる紛争で,プロイセンと同盟したオーストリアは北海に艦隊を派遣して戦い,苦戦を強いられたものの最終的に戦略的勝利を収めました.
 これは木造艦隊同士の最後の海戦となりました.
 続く1866年7月20日に行なわれたリッサ海戦は,上記領土の処理をめぐる普墺戦争で,プロイセンと同盟したイタリアとの間で行なわれ,テゲトフ提督の指揮するオーストリア艦隊は衝角(ラム)を用いた大胆な戦術により,優勢なイタリア海軍を打ち破りました.
 これは初の装甲艦隊同士の海戦であるとともに,以後各国の海戦術や軍艦設計に大きな影響を及ぼしました.

 平和な時期,オーストリアの海外への関心は,外交及び通商をその特質とし,オーストリアの船はそれを目的として極東,南北アメリカ,および太平洋を訪れました(フランツ・ヨーゼフ諸島を発見する北極の調査にも参加した).
 そして時には海軍は,時折旗を掲げて海外で活動する事を要求され,1900年の義和団事件の時には他の列強と共に艦隊を中国海域に派遣し,海兵隊は大使館員および自国民の保護を目的として北京へ侵攻しました.
 海軍はその後,1913年のバルカン戦争時に派遣された国際艦隊にも参加しました.

 1867年以来オーストリアの国防及び外交に関する問題は,オーストリア及びハンガリーの両議会が決定権を持ち(アウスグライヒによりオーストリア・ハンガリー帝国が成立していた),この二重帝国では海軍が決定した予算案に対し,自領内の問題を優先するハンガリー側がしばしば異議を唱えました.
 従って,オーストリア(・ハンガリー)の海軍はフランスはおろか,イタリアに匹敵するほどの十分な資金を与えられませんでした.
 それにもかかわらず,1897〜1913年までの間スパウン,モンテクッコリの両提督による,海軍の拡張と近代的な艦艇の建設が進められました.
 これを積極的に支援したのがフランツ・フェルディナント大公で,彼は海軍の偉大な保護者ならびに後援者でした.
 1911年には初のドレッドノート型の戦艦(ド級戦艦)がトリエステで進水し,それは「ヴィリブス・ウニーティス」(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のモットー:帝国内の諸民族が力をあわせて)と名づけられました.その後3隻の同型艦がこれに続きました.
 オーストリア海軍は多民族かつ多重言語で構成されているところに特徴があり,公用語はドイツ語で,同時にイタリア人が依然としてその7分の1を占めていました.

 この時期オーストリアの海運業も順調で,2つの海運会社が中心となり,トリエステから乗客を乗せて出航していきました.
 オーストリア・ロイドライン社は,アドリア海と地中海を経てエジプト・中東・インド・中国まで航海し,オーストロ・アメリカライン社は北アメリカ及び南アメリカへ航海し,観光客だけではなく移民も運びました.

 第一次世界大戦勃発前夜のオーストリア・ハンガリーは世界で第7番目の海軍力を保有し(戦艦16隻巡洋艦12隻駆逐艦23隻水雷艇62隻潜水艦6隻,さらに大戦中に戦艦1隻巡洋艦2隻駆逐艦4隻潜水艦21隻が竣工),その艦隊はハウス提督が指揮しておりました.

 1914年6月28日にフェルディナント大公がセルビアの民族主義者により暗殺され,これが引き金で大戦が勃発しましたが,大戦中海軍の主要任務はダルマチア沿岸部を保護する事でした.
 それと同時に,英仏伊を中心とする連合国海軍がオトラント海峡を封鎖したために,海軍の活動区域は必然的にアドリア海に制限されました.
 そして,海峡を封鎖している連合国の船は,ホルティ提督(のちの独立ハンガリー王国摂政)率いるオーストリア艦隊及びトラップ率いるオーストリア潜水艦部隊の攻撃目標となりました.

 オーストリアの海軍はその多民族の構成にもかかわらずなんとか機能し続けましたが,1918年2月にはカッタロで水兵の反乱が起こり民族主義が海軍を悩まし始めました.
 その後11月にはハプスブルクの君主制が崩壊して帝国は消滅し,また大戦の敗北によりオーストリアは海に面した領土を失いました.
 海軍の残された艦艇は大部分が連合国に,一部が後継国家に分配されました.
 こうしてオーストリア海軍は歴史上から消滅しました.

世界史板

装甲艦ヴァレーゼ(手前)

↓ここで拾ってきた記憶があります.
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/bridge/Tegetthoff/tegetthoff4.htm

P (なかと) in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年11月09日 01:14


 【質問】
 現代のオーストリア海軍について教えてください.

 【回答】
 wikipediaによると今現在,オーストリア海軍には一隻も船が無いようだ.
 ボートだけ・・・

 まあ,アンティグア・バーブーダ海軍のショボさに比べれば,何もないと公言してる分,いっそすがすがしいかも
(民営化したモンゴル海軍とどっちがマシだろうか?)


696 名前: ゆうか ◆u8WC078ef5ch 投稿日: 2009/07/21(火) 19:15:39 ID:Xhc8VECI

 わーい♪
 ジェーン年鑑2008-2009版到着ー♪
 タイトルロゴがズレて二重になってる! レアモノだ!!(違・・・わない?

 さて,パラパラ



 オ,オーストリアの項があぼーん・・・ (´;ω;`) ブワワッ

軍事板,2009/07/21(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オーストリア軍についての本を探してます.
 時代は,だいたいフランツ・ヨーゼフ1世在位中のです.
 ジュンク堂で探してもそれらしいのがなかったので.

 【回答】
 フランツ・ヨーゼフ1世の時代だけではなく,通史的内容ですが,久保田正志「ハプスブルク家かく戦えり」(錦正社,2001.10)というのはありますね.

 おなじみオスプレイ社のMen at armsシリーズでは,まず,“The Austrian Army 1836?66”(1999年)というのが出てます.
 フランツ・ヨーゼフ1世の幼少期から治世初期に該当する範囲で,1巻が歩兵,2巻が騎兵を扱っています.

 また,“The Austro-Hungarian Forces in World War I ” というのも同じくオスプレイから出ており,1巻が1916年まで,2巻が1916年以降.

軍事板,2011/09/07(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「血の日曜日」事件とは?

 【回答】
 1991/1/20,当時まだソ連領のラトビアのリガで,ソ連内務省の特殊部隊OMONが,ラトビア市民に発砲した事件.
 一般市民を含む6人が死亡.
 その2週間前の日曜日にも,リトアニアにおいてTV局を守っていた市民に対し,ソ連軍が発砲,12人が死亡している.

消印所沢

▼ この頃の,『ビートたけしのオールナイトニッポン』の中の,「動け馬場」コーナーでのギャグ.
 独立を要求するバルト三国にやってきて
「独立は認めない」
と言うゴルバチョフに対し,三国国民が掲げた垂れ幕は
「ソ連は無いぜ!ゴルビー」

水上攝提 by mail

OMON
faq49g13n.jpg
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faq49g13p.jpg


 【質問】
 リトアニア人の国はどのタイミングで出来たのですか?
 キエフ公国がキプチャク・ハン国の支配下に
→ キプチャク・ハン国の力弱まる
→ リトアニア人が国を興す
という感じでしょうか?

 【回答】
 ルーシ(キエフ・ルーシ),モンゴル帝国に侵略される
→ キエフ公国やウラジーミル大公国など,すべての公国及び共和国はキプチャク汗国に隷属
→ (これがキエフ公国以下と言う意味) キエフ・ルーシの東部はキプチャク汗国に属し,キエフの西部にあったハールィチ・ヴォルィーニ大公国は,東ヨーロッパの諸国と手を結び,キプチャク汗国と戦い続ける
→ キプチャク汗国衰退
→ ヴォルィーニ大公国は王位継承の問題によって内乱に落ち,14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と,ポーランド王国によって征服される

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベルギーの,複数民族国家としての状況は?

 【回答】
 西欧の北海に面した場所にBelgiumという国があります.
 この国は,1830年にオランダから独立した比較的新しい国です.

 Belgiumの語源は,Gaul系民族のBelgae人によってかつて領有されていた領域を示すLatin語名です.
 彼らが領した土地は,Marne川,Seine川,Rhine川を結ぶ地域に拡がり,その地は交易ルートの中心部にありました.
 この為,強国が屡々支配し,最終的にその強国の緩衝地帯として独立を達成出来た訳です.

 しかし,この国には「Belgium人」はいません.
 憲法第107条第4項は,Belgiumと言う国を3つの地方区に分けています.
 一つはFlanders,次いでWalloon,最後にBrusselsです.
 但し,この地方区自体はFlamand人,Walloon人の言語上の境界とは一致していなかったり.

 Flamand人は,Flamand語を話します.
 このFlamand語はAllgemeen Beschaafd Nederland(A.B.N.)言語グループに属するHolland標準語の方言になります.
 Belgiumでは580万人いて,全人口の59%を占め,北部と北東部の4州と中央部の一部に居住しています.

 一方,Walloon人は,Walloon語を話します.
 このWalloon語は通俗ラテン語であるRomance語の一方言であり,410万人が用いている言語です.
 この言語自体は,後に英国を征服したNorman人が用いていた言語でもある為,Walloon語はフランス語を母胎にしつつも,英語とも非常に語彙が似ており,「有り難う」はDank u(ダンキュー)であり,YesはJa(ヤー)で,「それは〜です」は,Dat is goedなので,傍目,That's goodと言ってるのと大して変わりません.

 また,フランス語そのものを話しているFrancophoneもいます.
 ただ,これは古フランス語であり,数の数え方にしても,フランス語では70は「60と10」,80は「4が20個」,90は80と10と言う数え方ですが,Belgiumでは70はseptante,80はhuitante,90はnontanteと一言で済ましてしまいます.
 食事にしても,フランスのdinerが昼食で,フランスでは夜食に当たるsouperが夕食になったり,発音も色々違う所があって,一概にフランス語とは決めつけられません.

 更に,Luxembourg国境地帯とドイツの国境地帯には,7万人のドイツ語…と言っても,Moselle-Franken方言ですが…を話す人々が住んでいます.

 この国の中で,自治を享受出来るのは,Flamand人とフランス語を話す人々で,ドイツ語を話す人々は余り力を持っていません.

 こうなった背景は,19世紀を通じて,支配階級の言語として採用されたのがフランス語であることが挙げられます.
 先ずは他国による併合を防ぐ為に統一を,それを重視した人々は,取り敢ず,フランス語を行政・政治・商業上の言語としました.

 Walloon地方の下層階級は程なくフランス語を使用し始めます.
 こちらは工業化が開始され,事業を展開し,技術教育を推進する為には,共通の言語を採用する必要がありました.
 これに乗り遅れる事は,即ち,労働者に成り得ない事を意味し,不利な扱いを受ける.
 結果としてフランス語の受容が進んだ訳です.
 Walloon地方は,これにより中産階級と労働者階級の結合も促進され,民主的な政府を作る母胎に成っていった訳です.

 一方,Flamand地方は農業地帯でした.
 其処では,高等技術教育の需要はなく,経済的に遅れ,教育は義務に成り得ませんでした.
 よって,フランス語の受容は進まず,土着言語たるFlamand語が其の儘残った訳です.
 但し,フランス語が国の中枢部での言語となった為に,Flamand人の劣等感が作り出されます.

 更にFlamand人の海の中に放たれたのが,首都Brusselsと言う存在.
 政治的な言語にフランス語が採用されたが為に,設置された首都には,フランス語を話す人々が集まり,結果的にFlamand人地域の中に,首都内部と周辺地域をフランス化する特別な目的を持って作られたのがBrusselsです.

 このBrusselsは現在では,2言語併用地区であり,一種の中立地帯の役割を果たしていますが,これはVolksunieを中心とするFlamand人には受容れられず,屡々政治危機を齎す事になりました.
 当初はフランス語地域でしたが,1932年にFlamand人に妥協して2言語併用地区になります.
 しかし屡々暴動が起きており,Flamand人の中には嫌気を差して,首都を退去する者もおり,現在,Brussels地域のFlamand人は15%程度しかいないとされています.

 今はEUによる統合の世の中ですが,こうしたidentityの放棄は,中々一朝一夕に行くものではありません.
 それどころか,現在は再び分割が論議されていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月12日22:22

 1920年代から,BelgiumではFlamand人の自治獲得運動が再び盛んになり,従来フランス語を用いていたFlamand語地域の大学も,徐々にFlamand語化されました.

 Gand大学は,1923年に一先ず二言語化された後,1930年に完全にFlamand語化されました.
 第一次大戦の荒廃から,Gand大学を復興した著名な歴史学者アンリ・ピレンヌは,Gand大学の二言語化には賛成していたものの,彼自身はWalloon人だった為,大学がFlamand語化すると,自ら辞表を認め,静かにGand大学を去っていきました.

 これは,Gand大学がFlamand語運動の中心地であるGentにある国立大学であり,政府としては,Walloon語地域のLiegeにある国立大学であるLiege大学とのバランスを取る為に取った措置でした.
 ただ,すんなりGand大学がFlamand語化された訳でなく,Gentにフランス語大学の新設論がわき起こったりして,若干の紆余曲折は経ています.

 次いで問題になったのが,BrusselsのBrussels自由大学と,Leuven大学でした.
 前者は特別地域であるBrusselsに属している為,紆余曲折を経てFlamand語とフランス語のセクションが分離されたのですが,Leuven大学は,Flamand語地域のLeuvenにある大学で,その歴史は中世の1425年に遡ります.
 この大学はローマ教皇の勅許で開設され,現存するCatholic系大学では最古の歴史を誇っていた訳で,創立当初はラテン語での教育が為されましたが,時代が下るとフランス語の教育が行われ,国からは常に独立した地位を享受してきました.
 よって,政府と雖も簡単に手が出せない大学だった訳です.

 それでも,1930年代にFlamand語の講座が導入され,徐々にFlamand語の講座が広げられ,1946年以降は,フランス語とFlamand語の両方のコースが設置されました.
 そして,1962年に事務局も言語毎に分離され,両セクションは名前が同じ大学でありながら,それぞれ自主的な運営を志向する様になります.

 第二次大戦後,進学する学生が急増して,Leuven市内に収容しきれなくなると,Flamand側の事務局は,Walloon側の事務局に,Walloon地域への移転を求め始めます.
 大学当局は,大学としての一体性を維持する事を希望し,フランス語セクションはLeuven,Brussels,Wavreの三カ所に分散する事を計画しました.
 しかし,これが実施されるとFlamand語地域にあるフランス語による学問の拠点であるBrusselsとLeuvenが言語境界線にほど近いWalloon地域のWavreと結ばれ,首都圏のフランス語勢力圏が南方の言語境界線に連結してしまう恐れがあります.

 そして,なし崩し的にWalloon語地域が拡大し,Flamand語地域が圧迫されかねないと言う危惧をFlamand人側は抱き,フランス語セクションをWalloon地域に完全移転する様に求めました.

 その頃,火を噴いていたのがパリの五月革命です.
 それがBrusselsに飛び火し,更にLeuvenに火が付きました.
 Belgiumでの大学紛争の特徴は,大学自治だけでなく,言語問題も孕んでいたことです.

 この問題は,学生だけでなく,宗教,政治にも影を落としました.
 Leuven大学の理事会を構成する司教団まで,Flamand派,Walloon派に分裂し,何らの決定も出来なくなり,その解決は政治に委ねられましたが,その解決を担うべき,内閣は与野党の分裂を引き起こし,戦後一貫して政権を担当していたキリスト教社会党が,Flamand派のキリスト教人民党とWalloon派のキリスト教社会党に分裂,
 それを切っ掛けに,他の政党も,社会党は名称こそ変わらないものの,Flamand派社会党と,Walloon派社会党に分裂,
 自由進歩党は,Flamand派の自由進歩党とWalloon派の改革自由党へと分裂ドミノが起きます.

 こうした政治の混乱により,1968年に総選挙が行われ,混乱を経て誕生したエイスケンス内閣は,言語社会問題解決の為の憲法改正を行い,結局,フランス語系Leuvan大学は,Walloon地区のOttigniesに移転,元々のLeuvan大学は,Flamand系のみとする事を決定し,その名称は,Katholieke Universiteit Leuvenとなります.
 同時に,Brussels自由大学も,Flamand系のBrussels自由大学を分離独立させる事になります.

 フランス語系Leuvan大学は,Universite Catholique de Louvainを名乗り,医学部のみBrusselsに移転した以外は,Ottigniesに広大な土地を求め,そこにLouvain-la-Neuveと言う大学都市を建設し,其処に移転する事になりました.

 最終的にこのLeuvan大学の分割を以て,Flamand地域からフランス語教育施設の排除が完了した訳です.

 武器こそ用いていないものの,東海道戦争が起きた様なものですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月14日22:17


 【質問】
 ベルギーの「言語戦争」とは?

 【回答】
 Belgiumの公用語は1830年以来,フランス語でした.
 しかし,「言語戦争」と言われた政争を経て,19世紀末にはFlamand語も公用語の地位を得ました.

 でもって,Flamand語自体は,オランダ語の一方言だったりします.
 以前,取上げた北東部フリースラントの言語は,オランダ語とは全く別形態の言葉とされていますが,オランダ語は,幾つもの方言から成り立っています.
 オランダ語の標準語は,アムステルダムやロッテルダムと言った地域の言葉で,Flamand語は,この標準オランダ語に範を取ったものだったりします.

 これは,Flamand人が自らのidentityを求めるFlamand運動を開始する際,自らのFlamand語が十分に発達していない上に幾つもの方言に分化している自語を気長に育成するか,隣国オランダのオランダ語と同化しつつ,文化的言語としてFlamand語を発展をさせるかのいずれかを選択する,謂わば基本路線の問題が生じ,最終的に自らの言語基盤を標準オランダ語に求めたからです.
 彼らは,オランダ人と共に「言語同盟」を結成し,今でもFlamand語は,オランダ語の一方言としての地位を占めていたりする訳です.

 Belgium地域は18世紀のHapsburgによる領有まで,両言語の平等が保たれていました.
 しかし,低地地域では宗教観の違いから,Flamand人はオランダ人との文化交流を拒否し,その代りに自らの言語Flamand語ではなく,フランス語を使用する様になりました.
 19世紀にNapoleonによって,低地地域がフランスに併合されると,更にフランス語が広まりました.
 Napoleonが敗退すると,今度はオランダの支配下に置かれますが,オランダ中心主義による反発が出て,Walloon人ブルジョワジー主導で,独立が達成されました.
 このWalloon人も,フランス語を使用していましたので,フランス語を公用語とする事に抵抗はありませんでした.
 当時はFlamand語は話し言葉であり,統一体系を有して居らず,方言差も大きかった様です.

 よって,独立時に憲法に定められた「言語の自由」と言うのは,Flamand語を使う自由,Walloon語を使う自由とかではなく,オランダ語の強制に対して,「フランス語を使う自由」である訳です.
 今でも,「言語の自由」の解釈はFlamand人とWalloon人とでは異なっており,Walloon人は,「言語を自ら選択し,変更する自由」であるのに対し,Flamand人は,「自らの母語を話す権利」と言う風に考えられています.
 因みに,この独立時の憲法はフランス語で書かれており,オランダ語成文,つまりFlamand語で書かれたのは,実に戦後の1967年になってからだったり.

 Walloon人は自らの言語(もしくはそれに近い言語)が公用語となっているので,何の不便も感じない訳ですが,Flamand人はそうはいきません.
 よって,Flamand人達は,Flamand語の権利回復運動を開始します.
 1852年にGand大学にFlamand文学の講座が設置され,Flamand人インテリ層に影響を与え,首相の設置した特別委員会が,Flamand語を採用した二言語制を勧告するなどしますが,時の政府は,そうした考え方は国家分裂に繋がるとしてこれを拒否しました.

 1865年,フランス語を解さないFlamand人が,フランス語の法廷で死刑を宣告されました.
 そして,その刑が執行された後で,その人の無罪が判明するという事件が起きます.
 これを切っ掛けに,Flamand人の運動は,文化運動から政治運動へと大きく転換する事になりました.
 これ以降,公的な場での二言語主義が広まり,1872年に刑事訴訟法廷でのFlamand語の使用が認められ,1878年に地方行政,1883年に中等教育,1889年には国会での演説,1898年に全法律,勅令の二言語主義が達成され,表向きは平等になりました.

 しかし,Walloon地域では従来通りフランス語で事足ります.
 一方のFlamand地域では,フランス語に追加してFlamand語を利用しなければ成らず,一方的にFlamand人に負担が掛かる様になりました.
 確かにFlamand語は公式用語になりましたが,地位が上になるに従ってフランス語を重視され,また,高等教育は相変わらずフランス語ですから,Flamand人はFlamand語だけと言う訳にいかず,社会的地位の向上を目指すにはフランス語を学ぶ必要がありました.
 当時は,「フランス語は客間で,Flamand語は台所で」と言われた訳です.

 で,出て来た考えが,
「Walloon人がフランス語だけで生活出来るんやったら,Flamand人のおいら達だって,Flamand語のみで生活させろや,ゴルァ(意訳)」
と言う地域言語主義です.
 要は,Flamand語地域からフランス語を追放しようと言う運動.

 第1次世界大戦でドイツ軍にBelgiumが占領された時,彼らの内の急進派がドイツに協力し,Ghentを中心にFlamand王国の建国を目論みました.
 Gand大学からフランス語は追放され,1917年にはFlamand地域評議会を樹立.
 更に,Flamand地域とWalloon地域の分離が占領軍から認められ,1917年末にはFlamandの独立を宣言する事になりました.

 しかし彼ら急進派は,Flamand人内部からもそっぽを向かれ,Gand大学の教授は多数が抗議辞職し,学生は集まることなく,更に彼らが行おうとした言語地域別の行政分離にも,全国規模の反対運動が起きました.
 1918年のドイツ敗戦で全ては画餅に帰し,急進派の多くはオランダに亡命したり,敵性行為で死刑判決を受けたりして,Flamand運動は一時的に頓挫しました.

 しかし,第1次大戦で荒廃した祖国に帰還したAlbert王は,国家分裂に繋がりかねないこの問題の解決を宣言し,与党のCatholic党,労働党もFlamand運動の主張を受容れ,1932年には新しい言語法の下,Brusselsと言語境界線地域を特別地域として除外した上で,行政,初等・中等教育では地域言語のみ使用する事を義務付けました.
 これにより,親の意思で子供の教育言語を選ぶ事は否定され,Flamand地域のフランス語常用者はバイリンガルへの道を否応なく辿るか,嫌ならば,引っ越すしか有りませんでした.

 時代は下って,1961年には言語境界確定法が制定されて,既存の言語境界が基本的に凍結され,1963年の「Brussels及び周辺地域言語法」に基づき,リエージュ近郊のフーロンとムスクロン,西部フランス国境沿いのコミーヌは所属州が変更となった上,Brusselsを含む19自治体は2言語併用地域とされ,その隣接6自治体については,Flamand語地域でありながら,条件付で教育・行政に於けるフランス語の利用が認められました.

 後者については,19自治体では,家長による子供の教育言語の選択の自由が認められますが,周辺6自治体については,フランス語を母語とする場合のみ,フランス語で教育を受ける権利を認めるものです.
 これはBrussels首都圏が拡大して,周辺部にフランス語系住民の移転が続いた為ですが,この扱いを巡って,未だに様々な軋轢が生じています.
 BrusselsをFlamand人は,「油の浸み」と称して,その拡大を抑えようと躍起になり,片やWalloon人やフランス語を用いる住民は,教育の自由を求めています.

 1963年,総仕上げとして言語法を制定し,アントワープ,東西フラマン,リンブルフ諸州,ブラバント州のルーヴァン,ハッレ・フィルフォールデ郡ではFlamand語(オランダ語),エノー,リュクサンブール,ナミュール,リエージュ(但し,東部25のドイツ語自治体は除く)諸州,ブラバント州のニヴェル郡ではWalloon語(フランス語),そして,Brusselsと19の自治体は両言語と定め,ひとまずはFlamand運動も終息しました.

 しかし,火種は残り,又,噴火する訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月13日21:27
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベルギーの公用語は?

 【回答】
 ベルギーと言えば,最近も政府が倒れたり,首相が決まらなかったり,或いは辞職したりと色々と不安定な政府が続いています.
 この国の公用語は,3つあります.
 オランダ語系のフラマン語の話者が約600万人,比率にして58%で,フラマン人が主として用いています.
 フラマン人が居住しているのは国の北半分の東西フランドル州,アントウェルペン州,リンブルク州,ブリュッセル地方です.
 もう1つは,フランス語で話者は約400万人,比率にして40%で,ワロン人が主に用いています.
 ワロン人が居住しているのは,国の南半分のエノー州,ブラバント州,ナミュール州,リエージュ州,ルクセンブルク州です.
 3つ目はドイツ語で話者は上記2つの言語に比べると非常に少なく,話者は僅かに約7万人,比率にして0.7%でしかありません.

 フラマン語は,フランスとベルギーのフランドル地方で話されている言語で,広く捕えればオランダ語の変種です.
 13世紀,フランドル地方の諸都市は繁栄し,強大化していきました.
 イーペルとヘントの非常に多くの作業場で羊毛が紡がれ,染められ,織られて,商人達は欧州のあらゆる国にラシャを輸出していました.
 イングランドとの交易は活発で,ブリュージュはフランスワイン,ビール,塩などを輸出し,イングランドからは自分たちの産業用に染色用品を輸入していました.
 一方,ブリュージュの商人は定期的にシャンパーニュの市に通い,政治的にフランスに帰属していた事から,フランス語の語彙が彼らの言語に取入れられていきます.

 しかし,その繁栄も僅か1世紀で終わり,14世紀になるとブリュージュが位置し,外港と成していたズウィンが沈泥により港としての機能を失い,それにつれてフランドル諸都市は凋落していき,代って,ブラバント州のアントウェルペン,ブリュッセルが台頭してきます.
 中世末期のオランダでは,この時代ゲルマン語の都市であったブリュッセル方言に基づいた標準言語が話されていました.
 その中世末期の15世紀に発明された活版印刷術は,オランダ語の普及に手を貸します.
 アントウェルペンでは印刷機により,早い時期に南部でも広まり,書き言葉の標準となりました.
 これにより,ブラバント方言が新たに書き言葉の基準になります.

 また,この地域の金持ちで教養有る人々が新たに北部に移住し,ロッテルダム,ハーレム,アムステルダムが発展して今度はホラント方言が力を得,また,有名な印刷屋がデルフト,ユトレヒト,ライデン,ハーレムに開業して更にこの言語の発展に一役買っていきます.
 こうして,ホラント方言は,「オランダ語」と呼ばれる様になります.
 16世紀後半に誕生した此の言葉は,ABN,つまり標準オランダ語となり,17世紀以後には確実に1つの言語を成していきました.

 一方,南部はフランスと密接な関わりを持ち,フランス語の影響を強く受けています.
 しかし,言語が紛争要因になったのは,意外に新しく,19世紀になってからです.
 元々がゲルマン語とフランス語の言語境界線上に位置した地域で,それなりにバランスを保っていたのですが,ナポレオンによるネーデルラント占領後,一旦はフランス語の優位が確立されてしまいました.
 1815年,英国の意向で,ベルギーはオランダに併合され,ネーデルラント王国となりましたが,オランダ主導の国家運営にベルギー側が反旗を翻し,遂には1830年にオランダから分離独立します.

 これは裏ではフランスが英国に対抗して動いていたと言われ,事実,1830年にベルギーが独立した際,公人の生活ではフランス語が使われ,上流社会でもフランス語が使われており,独立時の公用語はフランス語でした.
 この時の憲法では,「言語の自由」が定められていましたが,これはオランダ語の強制に対する反動であり,「フランス語を用いる自由」を意味しています.
 事実,1830年11月16日の法令では,フランス語を公用語に指定しました.
 この「言語の自由」については,ワロン人は,言語を自ら選択し,変更する自由でもあると言う考え方ですが,フラマン人は自らの母語を話す権利という考え方であり,非常に対照的です.

 とは言え,人口の半分以上は,フランス語を使わないオランダ語系のフラマン人です.
 経済的に北部のフラマン人が力を付けてきたことと,人口的に様々な圧力を受けて,やっとフラマン語を公用語にしたのが1898年のことです.
 以後,フラマン語とフランス語が併記される様になりましたが,実は憲法のフラマン語版が出来たのは1967年に入ってからです.

 因みに,フランス語系の言葉としては,ベルギーにはワロン語と言う言葉があります.
 こちらは厳密に言えば,フランス語とは違って,その祖先であるオイル語の一つの方言です.
 元々は,ベルギーだけで無くフランスのロアール川辺りまで話者がいた言葉でしたが,1713年のルイ14世によるユトレヒト条約によりこれら地域がフランスに併合された際に,ベルギーの生きたワロン語と切り離されてしまいます.
 以後,フランスの方は,フランス語に浸食されて現在では殆ど生き延びていません.

 先走りましたが,1852年,ヘント大学でフラマン文学の講座が設置され,フラマン人の言語運動に弾みが付きました.
 首相が設置した委員会は,教育,軍隊,裁判,行政に於ける2言語制度を勧告しましたが,ワロン人の自由党が多数派を占める議会はこれを拒否.
 しかし,1865年にフランス語を解さないフラマン人に,フランス語の法廷で死刑が宣告,執行された後,無罪が判明すると言う事件が起き,フラマン人の運動はカトリックの運動と絡みながら,文化運動から政治運動へと発展していきます.

 それ以後,公的な分野での2言語主義が追求され,1872年に刑事訴訟法廷でのフラマン語使用が認められ,1878年には地方行政の分野,1883年に中等教育でのフラマン語使用が認められ,と使用範囲が拡大し,1898年に漸く総ての法律や勅令が両言語で書かれる様になりました.

 とは言え,この法律上の平等は見せ掛けだけのものでした.
 2言語主義とは言え,ワロン地域ではこれまで通りフランス語1つで総てが事足り,2言語主義の恩恵と負担を背負うのはフラマン語地域だけでしか無かった為です.
 幾らフラマン語運動が盛り上がったとしても,依然として多くのフラマン人は,社会的必要からフランス語を学び,フランス語への切り替えも多く行われていました.
 この為,「フラマン語は台所の言語」とさえ言われていました.

 こうした不平等を打ち破る為,フラマン語地域ではフラマン語だけを使用しようと言う,「地域言語主義」を提唱しました.
 つまり,ワロン語地域ではフランス語を使用すれば良いが,フラマン語地域ではフランス語の使用は罷り成らぬというものです.
 これが先鋭的な形で行われたのが,第1次世界大戦中の急進派の動きでした.
 彼らは,占領ドイツ軍の協力を得て,フラマン王国の建設を目標にヘントに結集し,自らをアクティヴィストと呼び,ガン大学をフラマン語化したばかりか,1917年にはフラマン地域評議会を樹立,更にフラマンとワロンの分離を占領軍に認められ,1917年末にはフランデレンの独立を宣言するに至ります.
 とは言え,教授の大多数が抗議辞職したガン大学に学生は集まらず,フラマンとワロンの行政的分離にも全国的に反対運動が広まり,ドイツの敗北と共にこの運動は自滅,アクティヴィスト達の多くはオランダに亡命し,或いは国内で死刑判決を受けました.

 こうした行き過ぎた活動で,戦後のフラマン運動は一時交替しましたが,ブリュッセルに帰還したアルベール王が言語問題解決を宣言し,カトリック党と労働党が,ベルギーを地域言語別に再編することになります.

 1932年には新しい言語法が,ブリュッセルと言語境界線地域を特別地域として除外した上で,行政,初等・中等教育にその地域言語のみを使用することを義務づけました.
 これにより,親の意思で子供の教育言語を選ぶ事が出来なくなり,フラマン語地域のフランス語話者は窮地に立たされることになりましたが,災い転じて福と成すと言うか,フラマン語で教育を受けることで,その子供はバイリンガルになる事が出来ました.

 戦後の1961年に言語境界確定法により,既存の言語境界が基本的に凍結され,1963年のブリュッセル及び周辺地域言語法により,フーロンとムスクロン,コミーヌの所属州変更と共に,ブリュッセルの範囲と使用言語が確定しました.
 ブリュッセルについては,ブリュッセル市を含む19自治体は,従来通り2言語併用地域とされ,それに隣接する自治体は,オランダ語地域という規定は変えないまま,条件付で教育,行政に於けるフランス語の使用が認められました.

 そして,1963年には言語法を制定して,地域言語主義に基づき,行政と教育言語を定めていった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/13 23:53
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ブルガリアの軍事力は?

 【回答】
 国防予算:約636百万ユーロ
 兵役  :なし
 陸軍:約18000人,T-72M2×260,装甲輸送車輌×378 (BMP-23/A, BMP-1P BTR-60PB-MD1, MT-LB, MT-LBu),火砲×192 (BM-21, 2S1, D-20)
 海軍:約3400人,フリゲート×4,コルヴェット×3,掃海艇×1
 空軍:約15600人,MiG-21×21,Su-25×32,MiG-29×16,Mi-24 Hind ×18
 対露関係には配慮しながらも,米・西欧協調路線を強め,NATO加盟を果たしたほか,イラクやアフガーンにも治安維持部隊を派遣している.

 【参考ページ】
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bulgaria/data.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Military_of_Bulgaria
http://en.wikipedia.org/wiki/Bulgarian_Navy
http://en.wikipedia.org/wiki/Bulgarian_Air_Force
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_active_Bulgarian_military_aircraft

【ぐんじさんぎょう】,2011/06/16 20:10
を加筆改修


 【質問】
 以前,チェコの軍事演習か,マニアの展示会の写真がアップロードされてまして,そこにメルカバがあったんですが,何故にメルカバ??

 【回答】
 今号の『軍事研究』誌によれば,どうやらチェコ陸軍は,メルカバ導入を視野に入れていたらしく,調査用に購入したそうです.
 ですが,不採用になりまして,今では民間団体が保存しているそうです.

 現チェコ陸軍では,T-72の魔改造品であるT-72M4を運用していますが,現状維持の方向であり,更新予定はありません.

 関連画像:頑張るチェコ軍の皆様
Czech Armed Forces (about 50 various new pics)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年11月12日20:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 チェコが「ダナ」のみならず後継の「ズザナ」までも,装輪の自走砲を採用した理由は何でしょうか?
 また他のヨーロッパ諸国が装輪の自走砲を採用しない理由は何でしょうか?
 他国で装輪の自走砲といえば,南アフリカのライノがありますが,この国の場合,乾季には国土一面が舗装道路のようになるという特有の事情があるからこそ,装輪のメリットが生きているのだろうなと想像がつきますが,チェコの場合,地図で見ても田園や山岳がかなり多く見えますし,かといって広い道路が網の目のように国土を覆っているというわけでもなさそうです.

 一体何を目的に装軌のメリット(安定性や走破能力)を捨ててまで装輪を採用したのでしょうか?

 【回答】
・ズザナはダナのバージョンアップ版だから.
・榴弾砲だから.
・開発のベースとしてそういう8輪トラックがあったから.
・チェコは以前からモータリゼーションは進んでいたから.
(他の国と比べると)
・悪路走破力より展開力を重視したから.

 チェコスロバキアは,東欧の国の中では道路網が発達している国土を持っているのと,チェコスロバキア軍はワルシャワ条約機構の中で,東ドイツで戦争が起こった時の「第1援軍」に指定されていたので,高速展開能力が 必要だった.

 装輪式の自走砲は,標準的(150mm台)の砲を搭載出来るようにすると,装軌式に比べてもやたら巨大な車輌になって,全体的に高価になる.
 それを押してまで,高価な装輪式にするメリットが,コストパフォーマンス的に見合わない.

 チェコスロバキアの場合は元々大量には装備しない,少数精鋭志向の軍隊だったのでメリットの方を取った.

 あと,装輪式のメリットである「高速展開能力」は,東側から国土を防衛することを主眼に軍隊を整備した,戦後の西側にとってはあまり必要性がない.
 なので発達しなかった.

DANA自走砲
(http://www.ebroadcast.com.au/ecars/Mil/Tatra/PiCs37/T815.jpgより引用)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 分裂前のチェコスロバキアはどの程度航空機を配備していたんですか?

 【回答】
 1980〜81年のミリタリーバランスでは以下の様になっています.
空軍は3.8万人(うち徴兵1.5万)
作戦機347機.

対地攻撃戦闘飛行隊4個 (MiG-17×3個35機,MiG-23MF×1個12機)
邀撃/偵察飛行隊19個 (MiG-21F/MF/FL/R/U×300機)
輸送飛行隊3個 (Il-14×20機,Tu-134/An-2,An-14×15機)
ヘリコプター飛行隊6個 (Mi-2/4×40機,Mi-8,Mi-24D/F×70機)
練習機 (Yak-11,L-29/39,Zlin326,MiG-15UTIを含む)

 85年のミリタリーバランスでは,兵力5.8万人(徴兵1.8万)
作戦機474機,
武装ヘリ約24機
航空軍×2個,
航空師団×5個,
戦闘連隊×14個

対地攻撃戦闘飛行隊11個

(Su-7/BM/U×3個60機,
MIG-23M×3個36機,
MiG-21/21U×3個42機,
MiG-15×1個12機,
Su-25×1個12機)

邀撃飛行隊18個

MiG-21MF/bis/U/23×275機:防空用半数,戦場支援用半数

偵察飛行隊3個

MiG-21RF×2個25機,
L-29×1個12機

輸送連隊2個

An-12×2機,
An-24×6機,
Il-14×40機,
Tu-134×1機,
L-410M×2機

ヘリコプター連隊1個

Mi-24×24機,
Mi-8×10機,
Mi-4×100機,
Mi-2×20機,
Mi-1×40機

練習機

L-29,L-39×24機,
Zlin526,

連絡機

ZlinZ43

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 チェコにおけるウラン生産について教えてください.

 【回答】
 そもそもは13世紀,ヨアヒムシュタール Joachimsthal において銀鉱が発見されたことに始まる.[5]
 16世紀には,神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世が,ヨアヒムシュタールの鉱山開発を命じた.
 以来,同鉱山では銀鉱石の採掘が行われていたが,その過程で見つかる,銀とは異なる輝く黒い鉱物の存在が知られており,それは「ピッチブレンド(pech blende)」と呼ばれていた.[1]
 これはまたの名を「瀝青ウラン鉱」あるいは「閃ウラン鉱」といい,黒い酸化ウランUO2の上に,黄色い「ベクレル石 Ca(UO2)・ 2(PO4)2・10〜12H2O」が乗った鉱石のことである.[1]
 鉱山町の人々は,関節炎を治療するため,鉱山からの副産物である黄色の粉(酸化ウラン)を,彼らの衣類のポケットに縫い込んだ.[2]
 粉に含まれるラドンが,病気に効いたからだ.[2]
 1548年にC. Bruschiusは,
「この地域では,人々は非常に年をとっても,ほとんど病気にかかっておらず,また彼らが何か病気になったとしても,とても速く回復する」
と記している.[2]
 反面,鉱夫の健康被害はあったようだが.

 1789年,すなわちフランス革命勃発の年,ドイツ人化学者クラプロート(Martin Klaproth)は,ピッチブレンドから新しい元素を抽出し,これにウラン(Uran)と名付けた.[1]
 1781年に天王星(ウラヌス uranus)を発見したドイツ人ハーシェル(William Herschel)に敬意を表しての命名であった.[1]

 第二次大戦前,ドイツによるチェコスロヴァキア併合が行われると,ヨハヒムスタール鉱山もドイツ領となり,ここから産出されたウランを研究していたドイツ人科学者オットー・ハーンが,1938年にウランの核分裂を発見する.[1]
 同鉱山のウランは第二次大戦中,ナチスによる原爆研究のために用いられる.
 彼らが原爆開発に成功しなかったことは,歴史的に見れば僥倖であったろう.

 さて,第二次大戦後,旧チェコスロバキアでは1946年からウラン生産が始まる.[3]
 もっとも,同国自身が消費するためではない.
 1946年から1991年12月のソ連崩壊までの間,チェコスロバキアで生産されたウランはすべて旧ソ連に輸出され,旧ソ連の核開発及び原子力発電所用核燃料として使用された.[3]
 ウランは最初に ヤーヒモフ Jachymov鉱山とHorni Slavkov鉱山で生産された.[3]
 ヤーヒモフこそは,ヨアヒムシュタールがその名を改めたものであった.
 しかし,どちらも1960年代半ばに操業を終了.[3]
 主要な鉱脈型鉱床であるPribramは,1950年から1991年まで操業した.[3]

 1960〜1990年まで年間2,500〜3,000トンU(ウラン,以下同じ)生産されていたが,生産量は徐々に減少して,2009年には255トンU.[3]
 チェコの既知ウラン資源の主要部分は23鉱床に存在しているが,そのうち20鉱床は終掘または閉鎖となっている.[3]
 現存する鉱床のうち,採掘中なのは1ヵ所(Rozna)のみという.[3]
 国営企業の民営化,非採算鉱山の閉山,環境問題の解決を図るための政策がとられた結果,国際競争力がないと判断されて金属鉱山が閉山していった結果である.[4]

 現在では,ウラン鉱山が原因となっている地下水の汚染が顕著となっており,今後のこれらの環境汚染をどう解決するかが重要な要素となっている.
 たとえば,プラハの北約100kmに位置するストラス鉱山は,チェコの4大ウラン鉱山の一つであったが,同鉱山は,地下300mに賦存する白亜紀の砂岩層中の堆積性鉱床で,生産の約半分にあたる1万1千トンがインプレスリーチングによって回収された.[4]
 このために約400万トンの硫酸,その他の抽出材が使われ,現在も地層中に残留する抽出液が,周辺の飲料用地下水を汚染している.
 また,廃石堆積場には約1100tのウランがあり,今後の管理などが問題となっている.[4]

[1]http://uranglass.gooside.com/UranHistory/UranHistory.htm
[2]http://ameblo.jp/kougennbyou/entry-11967462966.html
[3]http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=14-06-07-01
[4]http://mric.jogmec.go.jp/public/current/96-04.htm
[5]http://members.jcom.home.ne.jp/hide.yoshimoto/kremnitz.html


 【質問】
 アントス・ラーネオトス Ants Laaneots 将軍について教えられたし.

 【回答】
 エストニア防衛軍司令官.

 同氏は,1948年1月16日にエストニアのパルヌ市で生まれました.

 エストニア防衛軍公式サイトより.
 アントス・ラーネオトスの経歴
http://www.mil.ee/index_eng.php?s=antslaaneots
 旧ソ連陸軍の戦車部隊で勤務し,エストニアがソ連邦から分離独立した1991年に,エストニア防衛軍司令官就任.
 この時は大佐でした.
 1994〜1996年には予備役となりましたが,1997年に現役復帰,再びエストニア防衛軍司令官となりました.
 1998年に少将,2008年に中将へ昇進しました.

「ロシア・ソ連海軍報道・情報管理部機動六課」
2009/11/22(日) 午前 8:53


 【質問】
 グランド・フェンウィック大公国の軍備は?

 【回答】
 15世紀のピノー峠の戦いでは,弓兵400と親衛兵30を集めてフランス軍1200を撃退したこともあるフェンウィック軍だが,現代では,戦禍に巻き込まれる可能性が極めて低いと考えられているため,常備軍は持たない.

 ただし,フェンウィック陸軍の主力装備である弓の競技会は毎年行われており,有事にはその競技会優秀者を選抜して小規模な軍隊を組織することが可能である.
 大公国の古来からの法律によれば,戦争の場合には,強壮な男子はそれぞれの階級に従い,武器装備を整えて城内に出頭する定めになっている.

 1955年,米国の業者による偽ピノー・ワイン製造――ピノー・ワインはその当時,グランド・フェンウィックのほぼ唯一の外貨獲得源だった――に端を発する「ピノー・ワイン戦争」の際は,24名から成る対米派遣軍を編成している.
 その時の装備は,
・派遣部隊隊長タリイ・バスコムが鎖帷子と大刀
・親衛兵3名が鎖帷子と剣
・弓兵20名が鎖帷子の下着の上に皮製の短衣,大弓,そして円形の盾
というものだった.

 この戦争については,詳しくはレナード・ウイバーリー著「小鼠ニューヨークを侵略」(創元推理文庫,1976/12/24)を参照されたし.


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