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「DESK」◆植民地支配の過去と歴史・記憶・法 近年のフランスでの論争から by
松沼 美穂
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_6_Matsunuma.pdf
La patrie en danger 祖国は危機にあり!
フランス革命戦争
『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』(鹿島 茂著,白水社,2013.6)
『ドゴールのいるフランス 危機の時代のリーダーの条件』(山口昌子著,河出書房新社,2010.5)
『フランス人民戦線 反ファシズム・反恐慌・文化革命』(渡辺和行著,人文書院,2013/11/8)
『フランス・プロテスタントの反乱』(ガヴァリエ著,岩波文庫,2012.2)
18世紀初頭,カミザール戦争関連
【質問】
フランス国王はいかにして,アルザス地方にフランス語を強制していったのか?
【回答】
さて,2つの国の間に挟まれた地域は,屡々それが争奪戦の地となります.
ドイツとフランスの間にあるアルザスの地もその争奪戦の対象でした.
と言っても,この争奪戦は意外に新しい時期からのものです.
そもそも,アルザスがフランスに編入されたのは,30年戦争の結果,1648年に締結されたヴェストファーレン条約によるものです.
その頃,既にアルザス地域は,2言語利用地域となっており,北部ではフランク語方言,その他の地方はアレマン方言を用いていました.
勿論,元々はドイツの中に含まれていた事から,ドイツ語優位の2言語使用だった訳ですが,そのドイツ語は方言であり,活版印刷などで齎されたドイツ語の書き言葉よりも全国の浸透度は低いものだった訳です.
こうして,フランス軍はライン川を渡河してアルザスを占領したのですが,住人達も兵士達も,それは特におかしな事ではありませんでした.
既に,30年戦争の展開により,フランス軍は幾度もこの地域を占領していましたし,ここ数年間の間にも,スウェーデン人,クロアチア人,チェック人,スペイン人,ポーランド人,オーストリア人がこの地に押し寄せるのを見ていたからです.
兎に角,ヴェストファーレン条約の締結により,平和が訪れた事を人々は歓迎しました.
とは言え,このヴェストファーレン条約では,高地アルザスの主要な部分と低地アルザスに位置する若干の領土をフランス国王に譲渡したのみであり,ストラスブールはその自由都市の地位を保持し,ミュルーズは依然としてスイスに属していました.
また,14世紀にカール4世が創設したとされる,アルザスの10都市同盟に属するデカポールの都市は,神聖ローマ帝国の構成員に留まる権利を自ら確保しましたが,その権利はフランス国王の「最高領主権」を認めると言う条件付のものでした.
この頃,「アルザス」と言う政治的実体は何ら存在しなかった訳で,フランスとしては,これらの地域を自らの勢力範囲とし,それを堅固にする事にのみ精力を傾け,後に大きな問題になる言語問題については,この頃は非常に小さなものでしか無かった訳です.
兎も角,この結果として,フランス国王に任命された代官がアルザス地域に赴任してきました.
代官は,管轄下の領土がドイツ語の言語と文化の地である事を完全に理解していましたが,公用語となったのはフランス語でした.
この決定自体は,国王の代官に征服地を管理させ,先ず第1に裁判権を行使させる事以外,目的はありませんでした.
何故,ドイツ語文化圏と征服者が認めている地方にフランス語を公用語として導入したのか,と言えば,答えは単純,その地に赴いた征服側の役人が,ドイツ語を全く知らなかった事です.
30年戦争で荒廃した地域を復興させるために行う緊急措置を講じる為には,他人に頼る事などあってはありません.
この地域の復興には,迅速,果敢にして一貫した行動が要求されていました.
例えば,長期に亘る戦争の結果,殆ど無人化した農村部への再入植でさえ小さな仕事にはなり得なかったのです.
また,フランス語はこの時代,上流階級を中心として欧州の殆どの地域で地域標準語的な役割を果たしていました.
自らが話す言語が,地域標準語になっているのに,今更何故にど田舎の地方方言を学ばねばならなかったのか,それをフランスのエリート層は理解出来ませんでした.
最終的には,結局の所,フランス語はアルザスの大部分の地の新統治者の言語,即ち「国王の言葉」でした.
神の祝福を受けた絶対的権力者の国王が,どんな臣民であれ,彼らに対し,支配君主とどんな言葉を使いたいか下問する事など,本来考えられない事であり,この地域の住民が例え「ドイツ民族」であっても,国王の言葉がアルザスの様な地方の公用語である事はこの時代の道理に適った事なのです.
と言っても,アフリカの言語問題の様に,公用語はフランス語になったとは言っても,それを民衆に強制する事は無く,あくまでも行政と司法の用語だけの問題でしかありませんでした.
尤も,当時のフランスも庶民のレベルでは現在の様に全国的にフランス語が通用する訳では無く,前に見た様に,ブルトン語やバスク語など地域言語が強大な勢力を築いていました.
あくまでも,フランス語はパリ周辺の地域言語であり,幾ら巨大な王国と雖も,支配層の言語でしかありませんでした.
寧ろ,アルザスを支配下に置いたルイ14世が重視したのは,「フランス語化よりもカトリック化」であり,アルザスを「カトリック化」する為,カルヴァン派とフランス語,ルター派とドイツ語をそれぞれ制限する必要に迫られました.
この為,言語面ではそれが時々矛盾した決定を齎しました.
その為,アルザスに於けるフランス語の進展が抑制される事もありました.
しかし,王国の安定を確保するには,言語的統一よりも宗教的統一よりも緊急かつ基本的だと国王は考えていたのです.
1648年以前,アルザスの学校では勿論ドイツ語での教育を行っていました.
フランス語教育を施している学校は稀でした.
フランスに帰属してもその動きは殆ど変わらず,小学校は常に「ドイツの学校」であり,教師は「ドイツの先生」と呼ばれていました.
つまり,教師ですらフランス語を知らないか話せないかと言う状況だったのです.
アルザスに於けるルイ14世の政策は,あくまでも信仰の統一でした.
カトリックと雖も,その教義を広めるためには,庶民が殆ど理解しないフランス語,更に難解なラテン語を用いるよりは,庶民の言葉であるドイツ語を使用する事に固執しましたから,それを抑圧する方向には行きません.
それでも,時が経つにつれてカトリック教徒はプロテスタントよりはフランス語に心を開く様になります.
ただ,カトリックの司教区はストラスブール,バーゼル,シュパイヤーであり,ストラスブール以外はフランス国外にあるので,フランス語の使用は遅々として進みません.
一方,ルター派にとっては,ドイツ語はその信仰の主であるルターの言葉でもあり,フランス王国の各地で行われているプロテスタント迫害は,彼らの信仰に深く結びついているドイツ語への愛着を強めるだけの事でした.
更に,ユダヤ人について言えば,彼らはヘブライ語とドイツ語の混合方言であるイディッシュを使っていましたが,それは結局の所,彼らをフランス語よりはドイツ語へと向わしめました.
結局,宗教界もフランス語の普及に然程寄与しませんでした.
信者を獲得するには,支配言語よりは,庶民の言語が大事だったからです.
上層ブルジョワ階級は,最も早く事態に対応しました.
アルザスのフランス支配後,多くのフランス人がこの地に来て定着しました.
王国政府官庁や教会,社会一般でも恵まれた地位を占めた彼らは,アルザスの上層ブルジョワ階級とあらゆる種類の接触を持ち,この階級はこうして支配階級に入るべく,上品な態度を身につけ,ドイツ語を捨ててフランス語を完璧に操る様になりました.
彼らは,フランス語の習得を,ブルジョワ階級の他の者よりも早く出世し,その時代の社会的階級の中で,その地位を保つ最良の手段と見ていました.
18世紀になると,上層ブルジョワ階級では,既にフランス語が浸透し,フランス語以外使う事はありませんでした.
しかし,それより回の中流ブルジョワ階層は遙かに慎重な態度を取ります.
この階層は,ドイツ語系諸国との通商関係の中核を為していた実業家や,多数の商人を擁していました.
彼らにはドイツ語をよく知っておきたいという気持ちがあり,それが何処でも学べる様に求めていました.
フランス語の方は,アルザスにいた,稀なフランス語系の顧客と接する時に使うだけでしたが,フランス語系移住民の数と影響力が段々と増して行くに連れて,本来の言語的・文化的共同体へのこの階層以下のアルザス人の中に強まっていきます.
役所でも教会でも,ドイツ語の使用を減ずる試みは,見過ごされはしませんでした.
こうして,アルザス人の中に徐々に反フランス感情が醸成されていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/06 22:39
1685年1月30日,国務院はアルザスの行政府に対し,法的性格の公文書を作成する際,フランス語だけの使用を命ずる法令を採択します.
これは,1539年に採択されたヴィレール=コトレ条例の適用範囲をアルザスに拡げただけの事でしたが,ストラスブール市長は,この法令に定められた条項に対し市民の名において抗議を行います.
上述の国務院の法令は,「上記地方(アルザス)の住民が相互に関わる事件,紛争に際し,彼ら(裁判官,市町村長,公証人,書記)の発する全ての宣告,判決,証書,契約書,訴訟書類」に於けるドイツ語の使用を,「上記アルザス住民が国王陛下の御恩に対し奉るべき臣民の上に相反するもの」であると告発しました.
これに対し,ストラスブール市長は,市を開城した時,国王が住民のあらゆる「特権,地位,権利」の尊重を約束したでは無いか,と喚起する事から始めました.
そこで,「言葉の慣用」はそうした権利の1つである,と市長は指摘しました.
政府側の役人である,国王執政官オブレヒトはそれを認めましたが,しかし,この権利は「国王に留保された至上権の一つである」と付け加えるのを忘れませんでした.
つまり,ヴェストファーレンのミュンスター条約によって,デカポールの都市はドイツの「帝国都市」として留まる権利を保証されていたのですが,フランス国王の最高領主権を奪う事が出来ません.
それは,権利の行使が例えなんであれ,国王の至上権,即ち国王陛下の御意に従うものである事を意味します.
神に祝福された国王は,随時随意にこの権利を行使する事が出来,国王は,この権利に基づいて,ストラスブールの町が降伏文書で明白に認められていた権利によって,保持しうると思っていた「特権,地位,権利」も,随時随意に自由にする事が出来るのです.
こうして,ストラスブールの自治権は否定され,王国の中央集権体制に組み込まれる門戸が開かれたのです.
それでも,ストラスブール市長はフランス語の普及が公務と市民管理に齎す,一連の実際的な困難を列挙した後,「臣民の情は単に君主の言葉では無く,忠誠心と服従にも存する」と指摘しましたが,オブレヒトは返事さえしませんでした.
つまり,現実面では王国政府が寛容な態度を取ったとしても,原則面では妥協する事は無い事を示しています.
言葉の使用権は,国王陛下への「臣民の情」に相反するもので無い事を原則として提起する事は,善良なる市民が支配者の言語を用いなければ,彼は臣民の情の義務に背く事になる訳です.
そして,オブレヒトは,市長にはっきりこう言ってのけます.
「紳士たる者は,主君の言葉を学ぶのにとやかく言わないものだ」
と.
要するに,「支配者の言語」を学ぶ事は,「紳士たる者」が自ら進んで果たすべき公民の義務,臣民としての義務であると言う訳です.
こうして,言葉というものは,国王,つまりは国家に対する国家の恭順の印となります.
そして,言葉を国家に於ける悪玉と善玉に分ける基準と見なし始めました.
既に宰相コルベールは,アルザスのフランス王国への実質的な統合には言葉が重要であると見ていました.
とは言え,コルベールはどちらかと言えばドイツ語を廃止する事は少しも考えていませんでしたが,中には「ドイツ語の使用を根絶する」べきだと考える急進派も出現し始めていました.
とは言え,この時代はまだドイツ語の駆逐などは夢物語に過ぎず,フランス語はやっと上層ブルジョワ階級を制したに過ぎません.
但し,この階層にしてもフランス語は表層的な理解でしか無く,ドイツ語の方が未だ優位です.
18世紀に入ると,大部分の階層ではドイツ語とフランス語の2言語使用者が多くなります.
とは言え,その内の大部分は未だドイツ語優位の2言語使用です.
アフリカで触れたみたいに,公的空間ではフランス語,私的空間ではドイツ語と言う区分けが為され,例えフランス語を用いても,その思考を象り,その表現を形作るものは多くはなおドイツ語でした.
この2言語使用には不都合でしたが,反面,大きな利点も齎します.
幾らフランスに統合し始めたとは言え,その地理的位置は変わる事は無く,相変わらず西隣にはフランス人,東隣にはドイツ人がいます.
従って,ドイツとフランスの架け橋になる事が彼らの使命になり,架け橋に徹する事が,自らの地の平和を維持する事になりました.
ところで,幾らフランス語の使用が奨励され,ドイツ語の使用に500リーブルの罰金が掛けられていた割には,その拡がりは遅々として進みません.
王国,地方政府の役人,知識人,上流社会の人々を除くと,フランス語をよく知っているものは殆どいません.
それでも,富裕層と民衆層,都市と農村の分化が確実に進み,そこには言語的な分化も少しずつ表れていきました.
ただ,それが完全に分化する事はなく,境界が曖昧なままだったのも確かです.
こうして,この地方は曖昧な地位の儘,1789年を迎える事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/07 22:37
【質問】
ナポレオン時代以降の,アルザスにおけるフランス語使用の状況は?
【回答】
19世紀に入ると,革命時代の狂躁状態は影を潜め,フランス政府は,アルザスに対して,ドイツ語の使用を認めつつ,緩やかにフランス語の使用を拡大させようとして行きます.
この期間中,フランスに君臨した皇帝や国王は,アルザスで用いられているドイツ語に対する反感は示しませんでした.
先ず,ナポレオン1世は,軍内のアルザス人将校がフランス人の同僚から屡々不愉快な指摘を受けた時に,こう述べて,彼を弁護しました.
「彼らがフランス式にサーベルを使えれば,ナンジャモンジャ語を話しても放っておくのだ」
と.
勿論,ナポレオン1世もコルシカ人ですから,地方語使用者の立場はよく判っていた訳です.
その後を継いだシャルル10世も,アルザス人の言語的遺産を尊重する意思がある事を,彼らに示す事に熱心でした.
彼がストラスブールを公式訪問した折,国王は然るべき言葉を思いついて,市長の歓迎演説に対し,ドイツ語で答礼できないことを詫びたのもその表れです.
更に,ルイ・フィリップも,アルザス住民の共感を得ようとおもんばかって,この地方一帯の行幸中,謁見を許した農民代表にドイツ語で話そうと努めました.
また,1867年にバ・ラン県庁で開催されたレセプションの際,自らもドイツ語に堪能であったナポレオン3世は,ストラスブールの教師に向かって,「続けてドイツ語教育に専念する」様に強く奨め,奨励するつもりもあってか,彼は更に,
「ドイツ語方言を話したとて,立派なフランス人」
たりうるとまで述べています.
皇帝や国王がこの様に言っても,中央集権主義が不可侵の政治的ドグマになりつつある国にあっては,アルザスの様な地方の行政府は,期間の長短は兎も角,地方語の後退を強いる措置を要求しました.
そして,住民の全ての階層にフランス語を浸透させる事が,次第に緊急の課題になってきます.
それは,ドイツで急速に拡大したドイツ民族主義に対抗するためにも必要な事でした.
もし,このまま,ドイツ語を放置しておけば,アルザスの言語問題は論議の中心となり,アルザス及びロレーヌは,ドイツへの併合が正当化されてしまうと言う訳です.
とは言え,中央政府がしゃかりきになってフランス語を浸透させようとしても,アルザス人の大多数は相変わらずフランス語をよく知らず,全く知らない者も数多くいました.
ドイツ語を知っている役人が中央政府に任命されて赴任する確率は非常に低く,またドイツ語を学び,市民との交流の場で活かしたいと考える役人は更に少ない数でした.
上流社会では既にフランス語がデファクトスタンダードになっているとは言え,市町村議員の大部分はフランス語を解さず,討論には方言だけが使用される事がままありました.
更に深刻なのは,市町村長ですらフランス語を知らないと言う問題です.
彼らに学が無いかと言えばそうではなく,大抵の場合,彼らはドイツ語ならすらすらと書きました.
しかし,行政語としてフランス語のみを使用する事になっていた規定に対しては,それは違反であり,深刻な問題となります.
郡長が管轄区域の市町村長に対し,市町村の会計報告書をフランス語で提出される様に,監督義務の強化を促すと言う事実が,1807年の段階でさえあり,この頃でも未だ多くの行政文書がドイツ語で作成されていたと考えられますし,例え,フランス語で文書を提出しても,その知識不足故,文書に対する誤った解釈や,誤訳の発生は日常茶飯でした.
この様な状態に置かれたライン流域の地域を統括する県知事達は,アルザスに於けるフランス語の使用に対して中央政府に対し,断固たる措置を求めています.
アルザスでのフランス語と言うのは,長い間,金持ちの言葉でした.
これが資本主義の発達に伴う極端な階級分化によって,フランス語を使う富裕層と,ドイツ語を使う貧乏人との対立を生みだし,溝が徐々に深くなっていきました.
この溝が大きな海溝にならない様,フランス語を民衆化する事が必要でした.
この為に,核になったのが学校と教会でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/10 23:31
さて,1810年,バ・ラン県の知事にルゼ=マルネジア男爵が任命されました.
彼は,アルザスの民衆層へのフランス語の普及問題に関して,この地域の学校に提起された問題の核心を一気に掴む事ができました.
モーゼル県の県知事は,同じ問題に対して,教室に未だ残っているドイツ語の教科書を追放すると言う方向に行き,小学校の教室で唯一の教育言語としてフランス語を課すると言う方法を採りましたが,上手くいきませんでした.
その問題の本質とは,アルザス人の小学校の教師が,別に悪意からでは無く,教えるべき言葉を十分に知らないと言う事に尽きます.
そして,ルゼ=マルネジア男爵は,教育言語としてフランス語を課する前に,先ずそれを正しく教育出来る教師を養成する事が,先ず先決であると言う事を理解していました.
こうして,ストラスブールに最初の国立師範学校が設置されました.
これは,ルゼ=マルネジア男爵が1810年10月24日の県条令で謳った,
「社会の全ての階級にフランス語の知識を普及する事」
の第一歩となるものでした.
「社会の全ての階級にフランス語の知識を普及する」
とは,どんな小さな村の学校に於いても,教育が全てフランス語で為された時,それが初めて達成されたと言えます.
この法令は,以前と違い,フランス語とドイツ語の両方で作成され,公布されました.
因みに,ルゼ=マルネジア男爵は,自らもドイツ語を完璧に操る人物だったりします.
従って,彼の目標は,未来のアルザスの教員は,フランス語だけで無くドイツ語をも立派に習得する事を熱望していました.
この為,ドイツ語教育は,彼の立てた学習計画では正当な地位を占めていました.
そして,1815年から文部大臣は,アルザスの子供達が出来るだけ幼少時からフランス語に親しめる様に,保育所の開設を計画しました.
既にこの時代,子供が最も容易に外国語を学ぶのは4〜5歳である事が経験から知られていました.
従って,アルザスの子供がフランス語を身につける最大のチャンスは学齢前と言う事になります.
最初の保育所はそれに先んじて1814年に開設しましたが,そこに通う子供の数はごく少数で,この施策は限定的な効果しか上げませんでした.
もし,ナポレオンの時代が長く続き,世の中が安定していれば,アルザスの保育所は増加し,民衆層の子供にもフランス語の早期教育が為されたかも知れません.
また,アルザスの教育に於ける特権的な領域は幼児教育に加えて,女子教育にもありました.
「救いは別して女子学校から来るだろう」
とは,オ・ラン県議会が県に於けるフランス語教育報告に於いて表明した言葉です.
つまり,女子教育を充実させる事は,即ち,未来の母となす女性達に,フランス語を使う様になる教育を施せば良かった訳です.
家で子供達と一番多くの時間を過ごす母親の影響は,幼児教育よりも遙かに強いものがあります.
この分野では,「リボヴィレの修道女」達が大きな役割を果たします.
フランス語がある程度のアルザス人家庭で日常語になり始めたのは,このリボヴィレの修道女達に負う所大でした.
とは言え,路上の言葉は相変わらず地方語でしたから,フランス語が真に子供達の日常語になるにはまだ時間が掛りました.
ドイツ語の拡がりが未だに続く理由,それは宗教にあります.
と言う訳で,宗教についてもちょいと触れてみる.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/11 23:20
さて,19世紀のアルザスは,非常に宗教心の篤い地方であり,政府も教会が果たす役割を完全に理解していました.
この為,幾ら教育に力を入れてフランス語の出来る教師を養成しても,庶民が教会に赴く限り,ドイツ語の使用を止めることが出来ない事も分っていました.
この為,政府は教会に対し,説教と宗教教育に於いてフランス語に然るべき地位が留保されるように混成しなければなりませんでした.
前世紀は,新教徒をカトリック化する事に力点が置かれたのですが,今やそれはフランス化する事に視点が移ってきた訳です.
しかし,聖職者達はその布教活動で常に自らの指針としてきた原則に対しては,非妥協的でした.
即ち,その原則とは,
「宗教教育は信者の母語で施されるべし」
と言うものです.
この時代,子供が母の膝の上で習い覚えた言葉以外のもので,その子の魂を神に開示することなど,如何なる司祭,如何なる司教の脳裏にも思い浮かぶものではありませんでした.
神との最初の触合いはアルザスのドイツ語方言で行われ,子供が少しでも標準ドイツ語に親しむようになると,宗教教育はこの標準ドイツ語で行われるようになっていました.
但し,当時のカトリック聖職者は易々とフランス語を話し,且つ書いていました.
それでも,宗教教育に関しては,ある国家の領土内でのカトリック教会の地位を取り決めるために,ローマ教会と国家元首との間で交わされる協約であるコンコルダ協約の制度下にあり,宗教についての言葉に関しては,あらゆる政治的考慮の埒外にあるべきものとされ,アルザスのカトリック教会はこの原則を第2次世界大戦後まで頑なに守っていました.
従って,宗教教育に於けるドイツ語維持の信奉者の先頭に,アルザス(或いはロレーヌ)方言使用者だけでなく,この地域出身ではない司祭がいても,特に驚くことではありません.
この原則で最も恐慌且つ論理的に問題を提起したのは1844年から1886年までメスの大司教を務めたデュポン・デ・ロージュ猊下でした.
あるとき,法務・宗教担当大臣が,ドイツ系ロレーヌの聖職者は何時もドイツ語を用いていると抗議したことに対し,猊下は大臣に次のように反駁しました.
司祭は,その使命に応えるために,祖国の言葉を守るよりも信仰を広めなくてはならず,しかも,その加護が彼らの手に委ねられた民衆と,可能な限り迅速且つ容易に交流出来る道具で,そうしなくてはならないのです.
因みに,こうした勇気ある発言をした大司教ではあっても,彼は熱烈な愛国者であり,帝国議会代議士を務めた彼は,ドイツ帝国によるアルザス・ロレーヌの併合に抗議するのを止めませんでした.
勿論,彼は原則論を述べただけでは無く,最初の聖体拝領を受ける年齢の子供が何の支障も無く宗教教育を聞けるように,標準ドイツ語を早くから教えるべきであると要求しました.
彼にとっては,宗教が先ず第1にあり,次いで政治であると言う立場でした.
アルザスに於いて,猊下と同じく方言を話すカトリック教徒,即ち大半のカトリック教徒の宗教教育で,ドイツ語の使用を最も強硬に弁護したのは,ストラスブール大聖堂名誉参事会員,聖ヨハネ聖堂区主任司祭のルイ・カゾー神父です.
彼もまた,クリンゲンタール生まれにも関わらず,「内地のフランス人」でした.
彼は,1867年に著した『ドイツ語存続論』で次のように述べています.
その助けを借りて,魂を神の方へと高めなくてはならない教問集を半分しか理解しないような若者がどの様な敬虔さで神に祈るのか,私には判らない.
そして,この見解はアルザスのカトリック聖職者の殆ど全てが共にするものでした.
こうしてアルザス全土で,宗教的領域に於けるドイツ語維持の戦いが開始されようとしていました.
このドイツ語擁護の闘争は,時として反フランス語運動に変化しました.
イニャス・ヴァルツェール神父は,
「フランス語がヴォルテールの言葉」,
即ち無宗教の言葉で有る限り,これを憎悪しましたし,『アルザス・カトリック評論』と言う論文集で,クレール某は,こう述べています.
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ヴォルテールの言葉が,我が地方で話されも理解もされないのは結構なことだ.
吾等素朴なる住民が信仰を守ったのは,この言葉が解らなかったからなのだ.
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つまり,フランス語は単に方言使用のアルザス人の宗教教育に対する障害だっただけで無く,宗教そのものに対する脅威と映ったのです.
プロテスタント聖職者の立場も同じでした.
1859年,牧師会議は,幾つかのプロテスタント系学校の宗教教育にフランス語を導入した数名の初等教育視学官の行動に対し,激しい抗議の声を上げます.
1862年,アウクスブルクの信仰告白教会の最高長老会議は,ドイツ語系市町村では,宗教教育がドイツ語で施され続けるべく留意するよう文部大臣に依頼しました.
プロテスタントにとって正にドイツ語は信仰の言葉であり,彼らはルターの言葉を犠牲に供することなど出来ない相談でした.
神学者,牧師,その他教養あるプロテスタントの人士は皆,ドイツ語がプロテスタントとアルザス全体に留保するために,全力を尽す覚悟を宣言していました.
19世紀の方言詩人シュテーバー兄弟の編集で出版された雑誌『エルヴィーニア』に於いて,アルザスの歴史家ロドルフ・ルスの父,エドゥーアール・ルスは,同郷の人々に,ドイツ語で説教し,歌い,話し,書き,祈り続けるように奨めました.
彼は,歴史が一般的にはアルザス人,個別的にはプロテスタントに強いた犠牲に言及しながら,少なくとも彼らに『ドイツ語のキリスト教』が残されることを要求しました.
編集者のアドルフ・シュテーバー自身,ヨーハン・シュトルム・ギムナジウムの300周年記念祭の際に,『エルヴィーニア』の別の号で,プロテスタントは,「ルターの聖書,ドイツの聖歌,ドイツ語の正教を決して奪われるが儘にはならないだろう」と述べていました.
問題なのは,アルザス・キリスト教徒の魂の救済であって,それ以上でもそれ以下でも無いという訳です.
なお,ユダヤ人の態度はカトリックやプロテスタントほど断定的ではありませんでした.
ユダヤ人が自らの解放を勝ち得たのはフランスの御陰である事を覚えていたからです.
ただ,ユダヤ人の数は限られており,彼らがドイツ語の支持者と反対者の間で始まった言語戦争で大きな役割を果たすことはありませんでした.
言いうることは,彼らはそうした曖昧な態度にも関わらず,ドイツ語を使い続けていたことです.
ラビは,ユダヤ教会堂でのフランス語使用に対して,僅かな熱意しか示しませんでした.
結局,カトリック,プロテスタント,ユダヤの何れも信仰と宗教教育で,自らの母語であるドイツ語の使用を放棄するような態勢には無く,政府の策が成功する確率は未だしだった事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/12 23:05
【質問】
19世紀以降の,アルザスにおける言語状況は?
【回答】
19世紀も過ぎていくとフランス語は公共生活のあらゆる領域に拡大し,それにつれてドイツ語とのせめぎ合いが増加しつつありました.
アルザス人は,フランス語で立派な教育を受けたいと思っていましたが,それをすることでドイツ語の地位が傷つかなければ良いとも思っていました.
ところが,政府のやることは屡々その意図について,アルザス人の疑念を呼び覚ますことになります.
アルザスの人々は,政府がドイツ語を先ず公共生活から,次いで学校から,そして最後に協会から追放するのでは無いかと疑っていました.
それは,ある種の政治家の言明,ある種の役人の挙動によって体現されることで噴出します.
例えば,マリー・アントワーヌ・リステリュベール博士がドイツ語の書かれた看板やポスターを撤去し,フランス語の立札に取り替えるように要求した時,それはアルザス人にとって,それがアルザスからのドイツ語の全面撤去の前触れであると受け取りました.
文部大臣のヴィクトール・デュリュイは確かに下院でこう演説します.
「我々にドイツ語を廃止する意図は無い,そんなことは御免被りたい!」
しかし,現実は次第にアルザス人に警戒を抱かせて行き,政府は,アルザス人が警戒心を持つのを阻止できませんでした.
現実的な解としては,フランス語とドイツ語の2言語使用を認めることが,アルザスの言語の二重性の問題を解決できるはずでした.
それが国内の合意を確かなものにし,且つ国家の利害と,ドイツの言語と文化を持つ地方の利害を折り合わせる唯一の手段でした.
1822年より教授,大学区視学官,視学総監を歴任した,アルトエッケンドルフ出身のジャック・マテールもこの考えの持ち主で,彼はこう発言しています.
------------
アルザスに2つの言葉を与えよう.
そうすればこの地方を豊かに出来る.
またアルザスが所有しているものを取り上げないようにしよう.
そんなことをすれば,この地方を嘆かわしいほどに貧困化することになる
------------
同じく,ハイリゲンシュタイン生まれの庶民の出である大学区視学官のジョセフ・ヴィルムも,1849年に大学区長に提出した報告書の中で,我が地方の小学校に於ける仏独両国語の教育に賛成する意見を述べ,その理由を,
「アルザス人がその地理的位置と歴史から,2つの言語を持つ民族であるべく運命づけられているからである」
とし,学校からドイツ語を追放するあらゆる試みは,
「不信の印,専制主義と覇権の手段」
と見做されると付け加えています.
アルザス人の願う自らの小国の姿は,
「我が美しき祖国と大なるドイツの素晴らしい架橋」
となる事でした.
ただそれは,平和が続き,アルザスでドイツ語が名誉ある地位を保持して初めて果たされ得るものでした.
つまり,フランス語を優先させておきながら,如何にしてドイツ語教育を維持するのかが大きな問題になります.
2言語教育は不可能だという主張は数多くあり,アルザスの言語問題の討論の際,学校が2つの言語を教えたりすれば,生徒はそのどちらも修得できないであろうと言うのが最も多くの意見でした.
とは言え,小学校課程をドイツ語無しで済ますことは事実上不可能でした.
全ての先生がフランス語だけで教育できるほどフランス語に習熟していた訳でも無く,従って,ドイツ語でも教えることを覚悟しなければなりませんでした.
そして,2言語教育の方法もまだ問題でした.
直接的,即ち,いきなりフランス語から始めるのが良いのか,間接的,つまり,フランス語に入る前に先ずドイツ語から入るのが良いのかと言う問題です.
当局は直接的方法に傾いていましたが,多くの教師や聖職者は間接的方法に固執していました.
この為,少数のエリートのみが完璧な2言語使用の状況になったに過ぎません.
一方で,庶民達は昔ほどでは無いにしても,依然としてフランス語よりドイツ語の方をよく知っていた訳です.
2言語教育の問題は,言語だけで無く,政治の問題でもありました.
2言語使用の支持者は,ドイツ語がアルザスで妥当な地位を保つことを要求することと同義で有り,この地方のドイツ文化維持のために行動することは,フランス当局上層部の不興を買うだけで無く,ドイツ民族主義者に対し,ドイツ領土へのアルザス返還を要求する口実を与えることでもありました.
この為,2言語使用の支持者は混乱を招かないよう,彼らは自らの言語的・文化的要求の意味に関して,如何なる疑念をも差し挟みませんでした.
彼らにとって,ある言語と文化を擁護することとある国家に帰属することとは別の問題でした.
先述のシュテーバー兄弟の父である,ストラスブールの著明な詩人,ダニエル=エーレンフリート・シュテーバーは諷刺詩『我が想い』でこう表現しています.
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我が竪琴はドイツなり,そはドイツの歌を奏でしもの
我が剣はフランスなり,そはゴールの雄鳥に忠にして孝なるもの
ラインとヴォージュをうち渡り
いざ響かせん 我が想い
我が故国 そはアルザスなり
おお,アルザスよ,我が心は汝が為に波打たん
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アルザスでドイツ語の熱烈な擁護者と目されていたエドゥアール・ルスでさえ,1838年に「吾等はドイツ語を話す」と言う記事を寄稿し,そこで彼は,政治的にはアルザス人はフランス人であり,またそうありたいと願っている,と明言していました.
1848年,ストラスブール市長のジャン・ルイ.エドゥアール・クラッツも,ドイツ民族主義者に対して,荘重なる警告を発した上で,具体的に所信を表明しました.
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若しもドイツが絵空事の幻想を抱いているならば,若しもドイツが我が町や村の中にあるドイツ語への執着に,彼らの国への抗いがたい共感と吸引力の表れを見たと思うならば,目を覚まして貰いたい!
アルザスは,ブルターニュ,フランドル,バスク地方などと同じく,フランスであり,またそうありたいと願っているのである.
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つまり,アルザスの問題はフランスの国内問題であり,アルザス人とフランス政府が解決すべき事柄で,ドイツ人に介入される謂われは無いと述べたのです.
しかし,フランス政府がアルザスに対して敬意を払ったのは,全くの見せ掛けでしかありませんでした.
政府は一般的には寛容さを示しましたが,彼らのうち誰一人,アルザスに対し,ドイツの言語的・文化的遺産を守る事を正式には約束していません.
また,彼らのうち誰一人として,2言語使用に対するアルザスの権利を公認する気は無く,ましてや,アルザスに不可侵の法的実体を与える気などさらさらありませんでした.
こうした態度を見抜いた人々は,再びドイツ民族主義に傾倒していき,国内情勢は不穏な動きを見せた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/13 22:18
さて,ナポレオン1世の栄光が途切れると,フランスによる平和は続かなくなり,その代わりにドイツでは民族主義運動が姿を現わしました.
既に,1808年から高名なドイツの哲学者であるフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』の講演の中で,同一言語を話すものは「一にして不可分」なる統一体を形成すべし,と主張していました.
ジャコバン派は「一国,一言語」の原理を主張しており,フランスに於いて国家の言語たるのはフランス語しか無いと言う政策を推し進めようとしていたのですが,ドイツ民族主義は,それを「一言語,一国家」に変化させました.
1813年にエルンスト=モーリッツ・アルントは,『ドイツの川であってドイツの国境では無いライン』に於いて,一国の唯一の自然な国境は言語であると主張していました.
つまり,彼にとっての祖国とは,「ドイツ語が響く限り遠くまで拡がる」ものでした.
そう,そこにはフランスの領土となっていた,アルザス・ロレーヌの地も含まれていた訳です.
同じ年,『ドイツ新聞』は,ドイツとフランスの言語的国境はライン川では無く,ヴォージュ山脈に位置しており,従って「アルザスはバイエルンやハノーヴァーと同じくドイツの地方である」と主張しています.
『ラインの水星』の編集者,J.ゲレスも1814年のパリ条約により,アルザスとロレーヌがフランスに領有されることを是としませんでした.
彼の考えでは,2つの地方はドイツに帰属すべきであり,そうならなかったので,アルザスとロレーヌは独仏間の紛争の種になり,ドイツの民族主義者は万一の場合,この問題を解決するために,フランスとの直接対決をも辞さないであろうと予言しました.
この流れは波が押し寄せるように幾度も起こりました.
1840年,マックス・シュネッケンブルガーが,『ラインの守り』を著し,同じ年,ニコラウス・ベッカーは有名な『ライン賛歌』を公刊してこうぶち上げました.
「否,彼らに自由なるドイツ・ライン川を領有させてなるものか!」
これに対し,フランスの詩人アルフレッド・ドゥ・ミュッセが即座に反応し,
「我等,貴下のライン川を領有せり」
と応じました.
とは言え,フランス人はドイツ民族主義に対する警戒感はまだ然程ではありませんでした.
彼らがその警戒感を高めるのは,漸く普仏戦争でフランスが敗北しつつあった1870年の頃に過ぎません.
その切っ掛けは,フランスの宗教史家であり作家のエルネスト・ルナンとドイツの神学者であるダーフィト・フリードリヒ・シュトラウスが各々著した『イエスの生涯』においてでした.
両人とも互いに相手を尊敬していたのですが,シュトラウスがヴォルテールに関する著作を出すと,その1部をルナンに進呈しました.
それに対する感謝の返事の中で,ルナンは勃発したばかりの独仏間の紛争に於ける双方の責任について,自分の見解を述べ,それに対しシュトラウスも,その問題に対する自らの見解を返信し,双方自己の主張を激しく展開させました.
ルナンは,少なくとも最初の手紙では,ドイツ人の論拠に反論することの方に遙かに意を用いました.
彼は,政治的国境と言語的国境を一致させようとしたりすると,出口の無い冒険物語に身を投ずることになると主張し,フランス語が話されている欧州の全ての地方がフランスに属してはいないこと,一方,プロイセンはスラヴ人の居住している土地を自国のものと見做していること.
そして結局は,ドイツの思想がかくも容易にフランスに浸透し得たのは,アルザスがドイツ語圏であるのに,フランスの領地になっていたからであること,従ってルナンにはドイツ人の論法には飛躍が無い様には思えないと考えました.
シュトラウスもルナンの議論に無関心ではありませんが,全体としては彼はドイツの彼方此方で為された主張,即ち,ルナンに対し,アルザスとロレーヌは嘗てゲルマン帝国に属していたこと,そしてそこでは常にドイツ語が話されていたことを想起させ,ドイツが宣戦布告された戦いに勝利した今,2つの地方はドイツに帰するべきである,と考えていました.
しかし,彼はまた,ドイツがアルザスを要求するのは単なる言語的同一性の為では無く,新しく誕生したドイツ帝国にとって,この地域は安全な国境線に必要なものだとも述べています.
勿論,実際に安全な国境という議論は一旦勝利を獲得してから主張されたに過ぎません.
1870年の戦争初期から,ドイツの歴史家テオドール・モムゼンは,プロイセン政府の要請に基づき,アルザスとロレーヌに対するドイツの要求の正当性に関する主張を述べた書簡をミラノの新聞に発表していました.
その目的は,若しもイタリア政府がフランス側に味方して参戦しても,それに対して同調しない様,イタリア世論に働きかけることでした.
モムゼンは,シュトラウスと同じ論拠を使い,戦争を始めたのはフランスであると非難し,ドイツは結局の所,1648年に不当に奪われたものを要求しているだけなのだ,と指摘しました.
そして,彼は,「フランス人が大人しくしていれば」,ドイツ人はストラスブール大聖堂を称え,ゼーゼンハイムに涙しに行くだけで満足するのであり,決して,「文学と芸術により聖化された場所」を取り戻す様なことは考えないであろう,と言明しています.
これに対し,フランスの歴史学者,フュステル・ドゥ・クーランジュは,「ベルリンのモムゼン教授殿」に宛てた『アルザスはドイツかフランスか』と言う小冊子で反論します.
クーランジュは,
「祖国とは人の愛するものである」
とし,1870年のアルザス人が愛するもの,それはフランスでありプロイセンやドイツでは無いと主張し,それ故,言語的論拠がは決定的な要因とは思えないとしています.
つまり,人々は複数言語を話すかも知れないが,それでも統一国家を形成しうるとし,アルザスは嘗てドイツの土地であったが,現在はそれはフランスの地方であると主張したのです.
1871年1月には,フランスの大歴史家ジュール・ミシュレがフランス,イタリア,オーストリアで小冊子『ヨーロッパを前にしたフランス』を同時出版させ,そこでドイツ民族主義者の展開した言語的議論に徹底反論を試みました.
ミシュレは,ドイツ人がその領土的要求の本質的な点を2つの地方とドイツの他地方間の言語的同一性に依拠していたので,彼は,アルザス人が実際話しているのは,ドイツ語では無く,「ゲルマン方言」の1つであると主張したのです.
彼に依れば,それは至極当然のことであり,アルザス人は1里離れたところで話されているドイツ語が理解できないほどであるとし,言語的同一性は「ある一定の小さな言語的共有地」に限定されており,それは彼の考えに依れば,国家的共同体への帰属が問題になる時には殆ど重要性を持たなくなるものであるとの主張を行います.
この考えは,フランスから見てアルザス方言とドイツ語を明確に区別した初めての主張でした.
今まで,フランスの様々な人々は,アルザスで話されている「方言」とは実際にはドイツ語であると明確とは言わないまでもある程度認めていたからです.
しかし,ミシュレにとっては,ドイツのある種の階層がアルザスはドイツ語圏であると主張するのに抗弁することが何よりも大切で,ドイツはその地方がドイツ語圏だからと言って,それを要求できるのか,ミシュレの答えは単純です.
それは,
「アルザスはドイツ語圏では無い.
そこには"ゲルマン方言"しかないからだ.」
と言う明快な紋切り型の答えです.
こうして,アルザスは敵対する2大列強間の不和の種になっていった訳です.
フランスはこれをフランス領と言い,ドイツはこれをドイツ領と言いました.
双方とも,反駁されることは無いと思い込んだ論拠を主張しましたが,実体は相当複雑な様相を見せています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/14 23:15
昨日,Youtubeを見ていたら,一昨日張付けた動画が外国人のコメントで炎上状態でした.
基本,日本人が考えるクリスマスって,ケーキ食べて,チキン食べて,パーティーして大騒ぎしてってな感じで,余程敬虔なクリスチャンで無い限り,年中行事の1つと言うレベルでしか無いのですが,キリスト教徒はどうも違うみたいで,曰く,
「悪魔のサインをしている」
だとか
「サンタをサタンと言ってる」
とかそんな感じ.
これで,この動画なんか紹介したら,発狂するやろな.
この様に,文化的な違いを一面からだけしか見ないと,あらぬ誤解を受ける訳ですな.
同じ様な話しがアルザスにあるざす(寒.
フランスはこの地をフランス領と言い,ドイツはこの地をドイツ領と主張しました.
ドイツの主張には単純さと言う利点がありました.
アルザスは古くからのドイツ文化の地であり,そこでは常にドイツ語が話されているので,この地方はドイツ帝国に帰するべきで,そこからこの地が切り離されたのは,単に神聖ローマ帝国が戦に負けた結果に過ぎない訳であり,30年戦争で荒廃する前,アルザスはドイツの中で最も進んだ地の1つであり,その上,1870年でもアルザスの人口の大半が常に「アルザス・ドイツ語」を話していました.
ドイツ民族主義者の要求は,独仏間の言語的・政治的国境を一致させることですが,そこから欧州の政治地図を塗り替えるまでは僅かな距離しかありません.
もし,ドイツ民族主義者が論理的であろうとするならば,ドイツはドイツ語系の他の国,例えばスイスのドイツ語地域やルクセンブルクの併合も要求すべきであり,一方で,プロイセンが自国に併合していた物言わぬ少数民族や他のスラヴ人の扱いをどうするのか,と言う問題があります.
勿論,この問題についてドイツの民族主義者達は沈黙を決め込み,自国の東部国境は修正しようとは思っていませんでした.
つまり,ドイツ人の主張には明らかに論理性が欠如していた事になります.
加えて,ドイツ側ではアルザス人と「内地のフランス人」の間に生じていた情緒的とでも形容すべき絆を過小評価していました.
既に,アルザスがフランスの領土になって2世紀が過ぎ,アルザスとその第2の祖国であるフランスとの間に,言葉の違いと言うだけでは切れないほどの堅固な絆を生んでいました.
幾世代を経た状況で,アルザスの「祖国」はフランスになっていたのです.
ストラスブールの最高長老会議議長であるフレデリック・オルナンが,バゼーヌ元帥に対し,
「我等の言葉はドイツ語ですが,我等の心はフランスです」
と表明したのもその現れです.
ドイツ人は,大多数のアルザス人のドイツ文化と言語に対する愛着の意味をごく単純に取り違えていました.
つまり,ドイツ語を話す=ドイツ帝国に愛着を持つと早合点した訳です.
こうした思いを持ったのは,恐らく15〜16世紀にかけて,アルザスがドイツ文化の最も輝かしい中心地の1つであったからであり,この過去がドイツのエリートに深い郷愁を与えていた為でした.
長らくドイツ文化の中心だったオーストリアを排除して勃興してきたプロイセン,つまり新興のドイツ帝国指導部にとっては,この考えがタイミング良く浮上してきたことが,彼らの政治的覇権の進路を決めた訳です.
勿論,政治的リーダーシップを事ある毎に行使するフランスを排除する為に,エムス電報事件などの数々の謀略を駆使したのもありますが….
フランスとの戦争の結果,ドイツはアルザスを手に入れることに成功しました.
しかし,それは言語的国境線を政治的国境線に一致させたばかりでは無く,明確にフランス語系であったロレーヌまで併合させたことで,言語の戦いとは全く別の意味を持つことになりました.
一方,フランス側の根拠にも正当性を完全に主張しきれないものがありました.
例えば,アルザスではドイツ語が話されていると言う事を主張する際,それはフランスで話されている「5つの言語」の1つであるとの主張があったりするのですが,これは今まで見てきた様にフランスの中央政府がフランス革命以来実行してきた言語政策と明らかに矛盾します.
また,クーランジュの主張では,スイスの3つの言語について言及する時,その言葉のそれぞれがスイスの「国語」であることを言い落としていますし,米国と英国が同一言語を話していても,2つの異なった国家であると論ずることは正しい訳ですが,アルザスに関してはこれが国家であったことは一度も無かったのですから,米国と英国を引き合いに出すのもおかしな話です.
一番大事なのに蔑ろにされている事こそ,この問題の本質です.
それは,国家の中に於ける民族的・文化的・言語的少数者の権利に触れる事でしたが,これはドイツもフランスも触れる事が無く,アルザス人の権利を公式に保証する事はありませんでした.
この問題は,1849年にロシアとドイツ駐在の元フランス大使であったポール・ドゥ・ブルゴワンによって提起されていました.
彼は,「言語と民族性の戦い」に関する著作を発表し,民族性の原理が何処でも尊重されるために,国家の政治的国境と言語的国境とを一致させるべきかどうかを考察しています.
先ず,かつて過去には言語を基準として,領土が様々な国家間に分割されていたことを指摘した後,
「他民族によって屈服させられ,蹂躙されてきた民族にも,独立性を取り戻そうとする権利がある事」
を認めました.
但し,それは民族の体を為さず,「民族の一部」に過ぎないアルザス人は該当しないことになります.
彼に依れば,この民族の一部も,国民全体にある「平等の権利」を享受するので,
「彼らに分離思想を吹き込もうとするのは罪であり,また狂気の沙汰」
であるとしています.
しかしながら,彼は「民族の一部」でさえも,国家の側から某かの「解放」の恩恵を受ける事が出来なくてはならないと付け加えています.
彼らに保証すべき解放の性質について決めるのは国家に属しますから,彼はアルザスに於ける問題の存在は否定しませんでした.
しかし彼は,言語的・文化的領域に於いてフランスがアルザスを処遇したやり方が,民族自決主義の名においてドイツが為したアルザスへの要求を正当化することにはならないと見做していました.
それから20年後の1869年,ベルリンで刊行された『欧州諸国に於ける独逸民族の数とドイツ語使用圏域』と言う書物を著したリヒャルト・ベックは,アルザスがドイツからの要求対象にならなくなるためには,ドイツ人の願う「解放」がアルザス人に保証されるべきである事を明確にしました.
彼の考えでは,ライン川を独仏間の政治的国境にするのは,ドイツ語がアルザスで旧来の権利を取り戻す,即ちそれが再び「故国の言葉」になった時でしか無いとして,フランス語は「国家語」であっても,それは後方に追いやられるべきであり,アルザスが「外国権力」に属し続けることをドイツが容認できるのは,この条件しかないと考えていました.
これもまた矛盾した考え方で,ベックはドイツが自国の少数民族には拒絶した解放をアルザスのために要求しているのです.
結局,ドイツとフランス両国の力関係によって,この地は常に争奪の地となり,その度毎に支配者が入れ替わる事になる訳です.
こうして,1871年に2世紀ぶりにこの地に於いて2回目の支配者交代が行われます…てな訳で,次の段階に進むのはもう少し時間を置いてから.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/15 23:26
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