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欧州FAQ目次


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『マジノ線物語』(栗栖弘臣著,K&Kプレス,2001.4)

 マジノ線と言う施設の中身とか,そう言った部分は1つの章に含まれているだけで,それを期待するのであれば,期待はずれ.
 しかし,何故マジノ線が計画されたか,と言う部分について知りたいのであれば,十分な内容です.

 普仏戦争から始めて,その敗北から再起する時点で,フランスがドイツからの防壁として,要塞を計画し,第一次大戦を経て更に具現化していく過程をつぶさに描いており,更に,その要塞が役立たずで敗戦に至った経緯から,戦後のフランスがどの様な防衛政策を採ったかなど,マジノ線を中心としたフランスとドイツの関係を述べ ています.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

 【質問】
 ルイ・ナポレオンについて教えてください.

 【回答】
 レ・ミゼラブルと言えば,ヴィクトル・ユゴーが1862年に生み出した長編小説で,日本では『噫無情』として1906年に初訳が出て以来,人口に膾炙している物語です.
 彼処に出て来る,1832年6月2日の叛乱で,マリウスをジャン・バルジャンが背負って逃げ回った下水道は,実は架空のもので,ユゴー自身,
「1832年,パリの下水道は,今日の状態に成るまでに未だ遙かに遠かった」
と認めています.

 ヴィクトル・ユゴーは1802年,父レオポル・ユゴー,母ソフィーとの間に生まれました.
 父はナポレオンI世の軍の将校であり,後にその兄ジョセフがスペイン国王となった際には,軍事顧問になっています.
 ヴィクトルは母の影響から,若くして文学的才能を発揮し,一躍文壇に登場し,様々な詩,戯曲,小説,評論を発表してフランスの文学界に揺るぎない地位を築いた後,40歳で政界に進出する為,1841年にアカデミー・フランセーズの会員になり,1845年にルイ・フィリップ王によって子爵に叙せられて貴族院議員となりました.

 ところが,好事魔多し.
 数々の女性と不倫関係にあったヴィクトルは,その1人であるビヤール夫人の夫の請願によって派遣された警部達によって密会現場を押さえられ,それをスキャンダルとして新聞に書き立てられる羽目になります.
 当時のフランスはカトリックの勢力が強く,姦通罪は厳罰に処せられるべきところでしたが,貴族院議員の特権を利用し,逮捕だけは免れて3年間の謹慎生活を余儀なくされます.
 この時に,『レ・ミゼラブル』の初稿である「レ・ミゼール」を執筆していたそうです.

 1848年,ヴィクトル・ユゴーは政界に復帰します.
 しかし,原稿はこれ以上進む事はありませんでした.
 と言うのも,政敵との戦いに全精力を傾けていたからです.

 その政敵とは,皇帝ナポレオンI世の弟でオランダ国王となったルイを父に,皇帝妃ジョセフィーヌの連れ子オルタンス・ド・ボーアルネを母に持ったルイ・ナポレオンです.
 ルイ・ナポレオンは,叔父の敗北に伴い,7歳にしてスイスに亡命を余儀なくされ,青年期はイタリアでカルボナリ党の運動に加わったり,ロンドンやスイスで浮き名を流したり,一時は米国へ渡ってニューヨークで放蕩の限りを尽くした挙げ句,娼婦の所に身を寄せると言った状態になったこともありました.
 1840年,フランスで帝政復帰の運動に失敗したルイ・ナポレオンは,逮捕されて投獄されますが,1846年に石工に変装して脱獄し,ロンドンに逃れています.

 1848年,2月革命でルイ・フィリップ王が退位すると,2度目の共和制が宣言され,11月に共和国憲法が制定され,国民投票での大統領選挙が行われることになります.
 此の情勢に目を附けたルイ・ナポレオンはロンドンからパリに戻り,大統領選挙に立候補し,圧倒的多数の支持を受けて当選することになります.

 当初,ヴィクトル・ユゴーは,ルイ・ナポレオンには敬意を払っていました.
 しかし,この新しい大統領が,軍隊と警察の実権を握って権力の座に留まることを狙っている事に気がつくと,一転して反対の論陣を張ることになります.
 立法会議の議員として,普通選挙法の改悪や大統領の再選禁止を規定している憲法の条文改正に対し,激しい調子で攻撃する演説をしました.
 当然,こうした行動はルイ・ナポレオンから酷く敵視されることとなります.

 ユゴーの反対もあって,議会での憲法改正に失敗したルイ・ナポレオンは,1851年,遂に本性を露わにし,12月2日(丁度この日は三帝会戦で1世が勝利した日でもあります)にクーデターを断行して,権力を手中にしました.
 そうして先ず,ルイ・ナポレオンは,パリに戒厳令を敷き反対派の牙城であった議会を解散させます.
 これに対して市民側は4日には激しい市街戦を行いますが,間もなく鎮圧され,多くの国会議員を始め,約27,000名の共和主義者が逮捕されています.

 当然,検挙者リストのトップにはユゴーが挙げられていましたが,彼は隠れ家を転々とし,官憲の目から逃れる事になります.
 しかし,結局は12月11日にパリ北駅からブリュッセルに亡命しました.
 3日後,愛人ジュリエットの手で「レ・ミゼール」の入ったトランクも届けられ,亡命生活がスタートしましたが,この亡命生活は実に19年に及ぶ事になりました.

 時にパリの下水道は,1374年,パリ市長だったユーグ・オブリオが中央市場近くのモンマルトル地区に作ったのが最初で,1605年には当時のパリ市長フランソワ・ミロンが暗渠式下水道,ポンソー下水管を設置し,ルイ13世,14世など歴代の国王も下水道を敷設しています.
 フランス革命前の政権は,23,300mの下水道を造り,ナポレオン1世は4,804m,ルイ18世は5,709m,シャルル10世は10,836m,ルイ・フィリップが89,020m,1848年の共和国は23,381m,合計で226,610mに達していました.
 環状下水道は1740年に完成し,下水道網が完備している様に思えますが,実際には整備計画など存在せず,場当たり的に作りやすい場所から敷設した為,様々な問題を抱えていました.

 特にパリへの人口の集中は深刻な問題を引き起こしました.
 1801年に547,756名のパリの人口は,1836年に866,438名,1848年には1,053,897名と,1801年のほぼ倍になっています.
 となると,屎尿の量も倍増することとなり,1815年に年間4.5m^3の屎尿は,1864年には55万m^3と10倍以上となっています.
 当時,屎尿は各家の汚水溜に溜められた後,汲み取られて市外,その大部分はパリ東北部のモンフォーコンの石切場跡に投棄されていました.
 此処では,台地の斜面を利用して造った穴を屎尿が順々に流れることで,屎尿を固形物と液状部分に分離・沈殿させ,上澄み部分はセーヌ川に流し,底に残った部分は天日で乾燥して肥料として販売されていました.

 ところが,パリの人口増加は此の近くにまで住宅開発の波が押し寄せ,市当局はボンデイの森に投棄場を移す事になりますが,これが実現したのは1849年の事です.

 また,水の供給にも問題が発生しました.
 当初,パリ市民はセーヌ川の水を汲んで売り歩く水売人の水を利用していました.
 特権階級では,泉水を利用した小規模水道や,個人や企業が営む水道を利用出来ましたが,庶民はそうしたものは利用出来ず,ただ市内に50ある公共泉水でおこぼれに預かっただけでした.

 1802年,パリの東北約90kmからウルク川からセーヌ川まで運河を掘るウルク運河の工事が開始されました.
 これは,舟運に利用すると共に,その水を利用して下水道と街路を清掃し,上水道にも役立てようと言う計画で,幾度か頓挫した後,ナポレオン1世が工事を主導し,通水したのは1808年,全ての完成は1825年となります.
 このウルク運河の完成により,パリ市内に於ける水供給は飛躍的に増大します.
 1816年当時,8,283m^3の水を消費していたパリ市民は,1841年時点では86,400m^3と実に10倍の水の供給を受ける様に成っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/09 21:45
青文字:加筆改修部分

 さて,19世紀のパリ.
 水の供給が増え,それにつれて人口が増えていきましたが,水の供給が増えたと言う事は逆に言えば汚水量が増大することになります.
 例えば,ウルク運河からの水の供給量が増加すると,今まで行水程度だった人々が,富裕層では自分の家での入浴を始めるようになり,市民にも公共浴場を提供することが可能になっていきました.
 1817年に500箇所程度だった公共浴場は,1831年には2,734箇所に増えています.
 また,「おまる」から「イギリス式便所」と呼ばれる水洗便所を使う人が増えていきます.

 これらの施設の増大は,取りも直さず汚水量の増大に繋がりました.

 一方で,パリの人口増の大部分は,地方からやって来た低所得者層でした.
 彼等はパリの中心部であるシテ島などに居住し,そこに貧民街を形成していきます.
 こうして増えた家庭の下水,街路上の塵芥や汚物を洗浄した水は,不完全な下水道や側溝,そして環状下水道に一旦流し込まれた後…またセーヌ川に流れていきます.
 何のことはない,パリの市民は自分で汚したセーヌの水を再び飲む羽目になった訳です.

 現在,新型インフルエンザが流行していますが,19世紀に恐れられた病気はコレラでした.

 元々,此の病気はガンジス川のデルタ地帯で発生していた風土病でしたが,インドが英国など欧州各国の足場になると,汽船による交通の便,鉄道による交通の便が発達し,コレラは故郷を離れ,各地に広がっていきます.
 1817年,インドからビルマ,シャムを経て蘭印諸島に侵出すると,1820年には中国の広東から北京にかけての地域に広がり,1822年には8〜10月にかけて西日本に上陸しています.
 これに先立つ1821年にはインドからペルシャやメソポタミアに到達したコレラは中東地域を席巻し,1823年にはコーカサスの山麓やカスピ海沿岸に到達します.
 1829年になると,ロシアのオレンブルクで発生し,遂に欧州の地を伺い始めます.
 1830年,ペテルブルク及びモスクワに到達したコレラは,11月にポーランドで起きた蜂起を鎮圧する為に派遣された軍隊と共にポーランドに入り,全土に拡大.
 次いで,ポーランドから亡命者を介してベルリンやハンブルクにも到達しました.

 1831年5月には,リガでコレラが発生します.
 この知らせは英国をパニックに陥れました.
 と言うのも,リガは英国にとってバルト海交易の拠点だったからです.
 となると,英国へのコレラ伝播は時間の問題となりました.

 英国は必死に水際作戦を取ります.
 ロシアやドイツなど東欧諸国から来る全ての船舶に対して14日間の停船と上陸拒否を行うなどの厳しい防疫措置を執りました.

 しかし,8月に東海岸のサンダーランドにてコレラ患者の疑いのある者が発生し,10月26日にコレラ患者第1号が認定されると,コレラは英国全土に瞬く間に蔓延していきました.

 英国を席巻したコレラは,1832年遂に英仏海峡を超えてカレーに到達.
 フランスに侵入したコレラは,凡そ5人に1人の割合で死者を出し,パリだけで18,402名が死亡しました.

 1834年に公刊された,コレラの公式調査報告書では,パリを構成する48街区のうち,人口密集地の180街路を抽出し,その街路沿いの人口は全市人口の5分の1ですが,コレラによる死者総数の3分の1がこの地区から出ているとして,伝染病は生活環境が劣悪な地域に多く発生することを科学的に立証しました.

 このコレラ蔓延は低所得者層に深刻なパニックを引起し,やがて,コレラの流行は警察の手の者が毒を撒き散らした所為だと言うデマが流れ,疑われた通行人が少なくとも5名,群衆に襲われ殺されると言う事件を引き起こしています.
 『レ・ミゼラブル』でユゴーが描いた1832年6月5〜6日の叛乱の切っ掛けはこうした権力への不信感を元にしたものでした.

 ところで,当時の公衆衛生の考え方は2つの考え方に分れていました.

 1つは「接触伝染説」と言い,伝染病は生きた伝染質によって引き起こされるとされるもので,要は細菌を媒介に伝染すると言うもので,現在では主流の考え方ですが,当時は少数派の考えでした.
 もう1つは「非接触伝染説」と言うか「毒気説」で,伝染病の原因を死体,汚物,塵芥などの腐敗物,澱んで濁った河川,沼,湿地などが発生するミアスマ(毒気)を人が吸い込んだり触れたりすると伝染すると言うもの.

 本来は前者の方が正統と言えるのですが,接触伝染説を根拠に英国が採った検疫制度は無力さを露呈した為,その勢力は後退します.
 更に,コレラはコレラ菌に汚染された水を媒介して伝播していったのですが,毒気が充満していそうな低所得者層の居住地域に多く発生した事も,接触伝染説を不利なものにしました.
 こうして,多くの医者は接触伝染説よりも非接触伝染説,もしくは両者の折衷説へと移り,毒気を払う為には下水道や下水溝を整備して流れを良くし,蓋をして毒気が立ち上らないようにするのが必要と考えられていきます.

 この考え方を底流に,パリの大改造が行われた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/10 19:00


 【質問】
 ナポレオン3世の行ったパリ大改造について教えられたし.

 【回答】
 1851年12月のクーデターにより,政敵を弾圧して権力を手中に収めたルイ・ナポレオンは,1852年11月,国民投票により世襲帝政の賛否を問い,圧倒的支持で皇帝の座に就き,ナポレオン3世を名乗る事になります.

 ナポレオン3世の政策の大きなものは,パリの大改造でした.
 中心部にあった,老朽化し,非衛生的な低所得者階級の住む住宅を取り壊すと言う公衆衛生上の理由は表向きで,密集市街地の狭い路地やその両側に建つ家屋を取壊し,街路を広げ,上下水道や公園などの公共施設を整える事で,市内への軍隊や大砲の迅速な展開を可能とし,群衆がバリケードを築くことを困難にし,また,軍隊が異動する際,道の両側から狙撃されることを防ぐと言う暴動の予防と言う面が大きかったりします.

 この帝都改造にナポレオン3世は当時ジロンド県知事だった弱冠44歳のジョルジュ・ユジェーヌ・オスマンを抜擢し,パリを含むセーヌ県知事に任命し,同時にパリ市長にも兼務することになります.
 ナポレオン3世の建築への造詣は,都市計画を指揮するほど深い訳ではありませんが,1840〜46年に幽閉されていたアン要塞で,パリの改造計画を練り上げたと言われています.
 建築に造詣の深いと言えば,ヒトラーなんかもそうですわな.

 ナポレオン3世は,知事に就任したオスマンを,早速夏の離宮に呼び,自らの構想を図示したパリの地図を示し,改造計画を語りました.
 ただ,オスマンは行政官でしたが,都市計画や土木工学の専門家ではありませんでしたので,こうした作業を行う為に,大胆な専門家の抜擢人事を実施しました.

 その中で上下水道を担当したのは,ユジェーヌ・ベルグランと言う人物でした.
 オスマンがヨンヌ県の知事をしていた時期に,ピレネーの水道事業を視察した際,その水道が綺麗に整備され,新鮮な水が尽きることなく供給されていたことに感銘を受けました.
 その時にオスマンの発する地質学,水理学に関する質問に的確に答えたのが,ベルグランでした.

 ベルグランは地方の無名の土木技術者でしたが,オスマンの脳裏にはその名前がしっかり刻まれ,ベルグランをオセル市の水道事業担当者として推挙します.
 因みにオセル市長はオスマンの父親の友人でした.
 その事業を完成させた頃,オスマンはジロンド県知事となっていましたが,1852年7月に今度はパリ・ルーアン間の運河を管理するセーヌ川下流航行事務所に移り,1854年までの時期を事務所の主任技師として,セーヌ川下流の水源開発に必要な諸水源の水量と水質調査を実施しています.

 時に,フランスには鉱山開発とか要塞建設など,活動分野を異にする幾つかの技術者組織が存在していました.
 その中の一つ,"le corps des Ponts et Chaussees"(橋梁・道路公団)は,フランス全土の交通網を国王の名の下に管理しようと言う目的から,1716年の法令で設立されました.
 後に,この橋梁・道路公団は様々な公共土木事業全般を担当する技術者組織に発展していき,中の人は理工科学校(エコール・ポリテクニク)を卒業し,1747年に設立された土木学校で高度な科学教育を受けた技師でした.
 その職務は,公共事業の企画,事業費の管理,工事の技術面,行政面の指導ですが,それ以外に国の直轄事業以外でもその実施を担当する出向業務がありました.
 特に,パリ市の公共事業への出向は,橋梁・道路公団の中でもエリート中のエリートが志願してくるポストでもありました.

 当初,パリ市の上下水道整備の指揮を執っていたのは,1850年に橋梁・道路公団から出向してきていたジュール・デュピュイでしたが,上水道の主水源を巡って着任早々のオスマンと激しく対立し,更迭されてしまいました.
 デュピュイは,水量の確保を優先する上からセーヌ川からの取水を主張し,オスマンは例え遠距離になっても綺麗な水源から取水すべきだと主張したからです.
 とは言え,デュピュイも,何処かの国の出先機関の官僚のように,コンパニオン代や宴会代を負担させるだけが仕事である様な小人と違って,無計画,無秩序の儘に拡大していたパリの下水道を体系化し,家庭や工場の下水を枝管から準幹線へ,そして幹線下水道に収集していく事を計画し,下水からの浸水を防ぎ,掃除を容易にし,且つ田の地下埋設物も収容出来る大断面の下水道敷設を考えていた有能な人物でした.

 1851年,デュピュイはリボリ通りを直線に拡幅する工事の際に,高さ4m,幅2.4mと言う巨大な下水管を敷設しました.
 これは従来の下水管の概念を大きく打ち破るものであり,世間の避難の冷笑を浴びますが,デュピュイが政変で去った後も後任と成ったベルグランに引き継がれ,この下水管が後のパリの下水道の原型となっていった訳です.

 話が先走りましたが,オスマンと対立したデュピュイが去った後,オスマンが呼び寄せたのがベルグランでした.
 そして,公共事業全般を見ていた組織を改組し,道路部門から上下水道部門を独立させ,ベルグランのやり良い様にしてやっています.
 ベルグランは上下水道部門を管轄する第4管理部の技師長として,上水道の水源調査とパリまでの導水路計画を立てると同時に下水道網の計画立案も行いました.
 1855年,ベルグランは下水道基本計画を策定し,オスマンに提出します.
 そして,1856年,パリ市議会はこの計画を承認し,実行に移されることになりました.

 ベルグランの立てた計画とは,パリの地形に応じて4本の遮集幹線を敷設し,全市の下水を自然流下でパリ市郊外に送り,クリシーでセーヌ川に放流すると言うものでした.
 これはロンドンの例を参考にしましたが,セーヌ川の曲がりくねった形に対応させず,パリの市街地を横断する形で距離を短くし,水位差を確保する方法を採っています.

 アニエール幹線の場合,リボリ通りからコンコルド広場へ向かい,此処を右折した後,1km当り0.5m下げる勾配で北西に向かい,アニエール村の対岸クリシーで放流すると言うものでした.
 この幹線は1861年に完成しましたが,この開通により,マドレーヌやシャンゼリゼ辺りの住民は,セーヌ川の氾濫で船による行き来をしなくて済むようになりました.

 幹線建設の計画と同時に,多くの準幹線を計画しています.
 その際,どぶ川になっていた市内の小河川を下水道幹線に転用しています.
 例えば,セーヌ川左岸のビェーブル川は,かつてはパリの上水道の水源にも考えられていたほどですが,山手沿岸に工場が建つと,その排水が川に流れ込み,セーヌ川の汚濁源になってしまっていました.
 これを転用して造ったのがビェーブル準幹線で,コンコルド広場の対岸かrセーヌ川をサイフォンで渡り,アニエール幹線に接続させることにしていました.

 これら幹線,準幹線は石積の上部を石のアーチで造った馬蹄形で,最大のものは幅6m,高さ5m,水面幅4mで総延長は60kmになっていました.

 こうした下水道網が完成する前のパリの街路は中世以来,中央部が低くなっていて,其所に溝が造られていました.
 家庭からの下水は道路を横切る溝を通って中央の溝に集められ,所々に設けられた格子付きの穴から地下下水道に流れ込んでいましたが,乗合馬車はその溝を通る度に揺れを感じ,道路中央にある下水口も,馬が足を滑らせ事故を起こす原因になっていました.

 其所でベルグランは,幹線や準幹線に用いる枝線としてこの溝の使用を止め,原則として道路幅20m以下では中央に1本,それ以上の場合は両側の歩道部分に1本宛卵形管を埋設し,道路の断面も従来とは逆に中央部を高くすることにしました.

 こうして,従来の下水道網を155kmは再利用しましたが,新たに760kmの下水道を埋設する必要がありました.
 因みに,パリの下水道にはその中に水道管,雑用水道管,通信用の圧搾空気管,ケーブル等の地下埋設物も収容していますが,これらの考えは単に漫然と事業を推進するばかりでなく,最小の費用で上下水道を普及させる為,技術の改良を行い,上下水道利用料金の引き下げを図ることに使命を感じていました.

 何処かの国の道路行政のように,年がら年中道路を掘り返すのと違い,彼等は150年以上前から地下埋設物の工事に伴う道路の掘り返しと,舗装復旧の無駄や交通規制による商業活動の阻害に伴う経済的損失に注目していた訳です.

 こうした地下埋設物を敷設し,中に人が入って補修が可能であるように,下水道の断面は枝線でも高さ2mとし,一方の側の通常15cmくらいの所に歩道を造っていました.
 この考えはベルグランの独創ではなく,1832〜39年の間,パリ市に出向し土木行政を担当していたアンリ・C・エムリが行っていたものですし,エムリは合理的,経済的な下水道計画を立案するには正確な地図,地下埋設物の位置確認が必要であると,事前調査の重要性を強調して,実行していました.

 ベルグランは,エムリ,デュピュイ等先人の挙げた実績を利用し,また,時機を得てパリ市全域の下水道網敷設に邁進した訳です.

 同じ公団と言う名称でも,何処かの国の血税を使うことしか考えない上つ方の愚か者達は,パリに行ってベルグランの爪の垢を煎じて飲めば良いのに,と思ってしまいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/15 23:11

 さて,パリ改造の過程で,下水道網がどんどん構築されていきます.
 下水道が出来上がった地区の住民達には,下水道の効果を確実にする為,下水を下水道に流す事が義務づけられました.
 この為,パリの下水道には,雨水,家庭排水,工場排水から道路の洗浄水,謂わば道路の塵芥まで市内で発生する有りと有らゆる廃棄物が流し込まれました…が,たった一つ,受け入れを拒否したものがありました.

 この問題は,アドルフ・ミルと言うこれも橋梁・道路公団からの出向者が,自分の職域以外にも関わらず,以前からイングランド,スコットランドの事例を詳細且つ正確な情報を集めており,それに着目したベルグランはミルを英国に派遣して,英国の大都市であるロンドン,マンチェスター,リバプール,エジンバラ,グラスゴーの下水処理法と下水収集法の調査を行わせました.

 その調査の結果,英国では下水をの内に受容れて処分する灌漑法や下水農場,下水から肥料を作っている事が判り,ベルグラン達が下した結論は,「全ては下水道へ」と言うものでした.

 しかし,オスマンはこれに激しく反対しました.
 オスマンは,確かにその提案には魅力を覚え,屎尿の汲取りや運搬をする方式が公衆衛生上問題があることも認めていましたが,下水道の中で清掃や保守作業を前提にして築造されるパリの下水道が,屎尿で汚染されることを嫌う方が勝りました.
 また,既設の管にはそうした屎尿を流すのに対応出来ていないものもあり,これも直ちに改良するのは難しいものがありました.
 更に,下水に屎尿を流し込むことで,下水の肥効性を高め利用しやすくするとした結論に対しては,農業に利用出来る肥効成分は少なく,その為に多くの労力を払っても全ての回収が不可能であるとして退けた訳です.

 ただ,それは表向きの話で,実質的には,汲取り・運搬方式を廃止することで職が失われる汲取り業者,既設家屋の水洗化の為に多額の出費を余儀なくされる家主からの激しい抵抗もあり,オスマンとしてもそれを無視出来なかった訳です.

 その代わり,オスマンは妥協案を示し,ベルグランとミルもそれを受容れます.

 それは,屎尿のうち固形成分を排水設備の一部を使って作られた浄化装置に暫く蓄積し,一定期間経過した後に下水道に排除すると言うもので,先ず市庁舎や兵舎,学校などの公共施設で実験を開始し,それは次第に拡大され,公衆便所にまで適用されます.
 やがては,道路に面した家屋にもこの装置を取り付けることで水洗便所の設置が可能と成りました.

 パリの下水道に屎尿を流すのが認められたのは,ベルグランが在職中の儘,1878年に亡くなった後,同じく橋梁・道路公団の出向者で公園整備担当だったアドルフ・アルフォンに引き継がれた1880年以降の事です.
 これは下水処理が確実に行えるようになったからであり,これにより85,775個の汚水溜が無くなりました.

 ところで,ヴィクトル・ユゴーは,印刷工に身を窶してブリュッセルに脱出した後,家族を呼び寄せて,英国のジャージー島を経て,1855年からはガーンジー島に住んで執筆活動を行っていました.
 1859年8月,ナポレオン3世は自らの不人気を回復して,翳りの見え始めた政権を維持する為,亡命者の一部に特赦を行います.
 ユゴーにもその特赦が適用されましたが,断固としてそれを拒否し,ガーンジー島に骨を埋める決意をしていました.
 ガーンジー島を含むチャネル諸島には1851年以降に弾圧された共和派の人々が多く亡命の地にしていたからです.
 ユゴーは,それに先立つ1856年,ガーンジー島の海の見える高台に邸宅を求め,3ヶ年を経て大々的な改修を実施して,オートヴィル・ハウスと名付けました.
 2年後にそのオートヴィル・ハウスは屋根の上に4階を載せる工事を行い,この部屋をクリスタル・ルームと名付け,部屋の窓際の机に向かい,立ったまま海を眺めながら,政治家になる前に執筆仕掛けていた「レ・ミゼール」に再び取り組み始めました.

 この際,パリの下水道の場面でマリウスを背負ってジャン・バルジャンが下水道を逃げる道筋の参考資料としたのがユゴーの友人が作成したパリの下水道に関する調査報告書です.
 その作成者の名前は,ブリュヌゾー.
 その名前は,作中で内務大臣から「帝国随一の勇者」としてナポレオン1世に紹介される人物になっています.
 この他,パリの様子を統計学的に調査していた統計学者の1人で,「公衆衛生と医学的トポグラフィーとの関連で見たパリ市の下水道についての試論」を書いたパラン・デュシャトレの記述からも多くの示唆を受けたと言われています.

 ユゴーは執筆再開時にその標題は「レ・ミゼール」から『レ・ミゼラブル』に改題し,多くの章を書き加えました.
 「巨獣のはらわた」と題してパリの下水道について描写された部分もこの時に書き加えられています.
 ただ,ユゴーが『レ・ミゼラブル』を執筆し,完成したのは1861年6月で,訂正や校正が加えられ,本として出版したのは1862年3〜6月にかけて,ブリュッセルとパリで発行されました.
 この頃には,少なくともアニエール幹線に代表される近代下水道が姿を見せていたのですが,ユゴーはその完成を知ることのない儘,この大著を完成させたことになります.

 御陰で,パリの下水道に関しては,大きな誤解を世界に広めることになったりした訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/16 21:51


 【質問】
 普墺戦争以降のアルザスにおけるドイツ語化政策は,どのようなものだったのか?

 【回答】

 1870年の普墺戦争に勝利した後,アルザスは共に帝政ドイツの新しい領地となり,ドイツ語が全領域の公用語となりました.
 ドイツ語を話す民族を自国に併合するその要求は,ドイツにとって至極当然の事でしたが,ビスマルクとプロイセンの将軍達は,もう1つの地を併合したいという誘惑に勝てませんでした.
 この地,ロレーヌは,軍事的安全保障の為と言う名目で,ドイツに割譲され,「アルザス・ロレーヌ」と言う一体の地として扱われます.
 しかし,アルザスは人口の90%がドイツ系だったのに対して,ロレーヌでは独仏両勢力がほぼ拮抗している状態だったのです.

 それでも,ドイツ人にとってはアルザスは,まだ事態が簡単に見えました.
 圧倒的多数のドイツ系住民の存在が,ドイツへの回帰を素直に受け止めてもらえるであろうと言う,幻想にも似た楽観主義がドイツの政府当局者を支配していました.
 確かに,アルザスの地は2世紀以上フランスに併合されていましたが,短い移行期間で,言語問題はドイツの民族主義者に有利な形で解決出来る者と信じていました.

 ところが,アルザスには複雑な問題がありました.
 少数ですが,ヴォージュ渓谷にはドイツ当局が無視出来ない,言語的・文化的共同体とも言うべき,フランス系の人々が住んでいました.
 彼等は実際にはフランス語では無く,それと同種のロマン語方言を話していたのですが,アルザスがフランスで有る限り,彼等は多数派として遇されていました.
 それが一転,ドイツに属すると言語的少数者となった訳です.

 但し,彼等はどんなに少数であっても,30年戦争によってフランス国王の支配下に置かれて以来,方言使用者がが要求し続けていたのと同じ,文化的・言語的主体村長を自分たちの為にも要求する権利がありました.
 そして,ドイツ人はこの少数者の権利を尊重するのか,それとも同化政策を採ろうとしたのか,難しい選択を迫られる事になりました.

 また,アルザスのドイツ語は,広義のドイツ語ではありますが,狭義のドイツ語ではありませんでした.
 つまり,当時の公用ドイツ語と言うべき,マルティン・ルターが用いたドイツ語形態である標準ドイツ語は,誕生してまだ1世紀しか経っておらず,それはアルザスには余り浸透していませんでした.
 アルザスの人々は,それより1世紀前にドイツから切り離されているので,標準ドイツ語ではなく,1つの方言を読み書きしているに過ぎませんでした.
 その方言も,19世紀半ばになると,フランス語の浸食に侵され,後退して行っていた状態でした.
 ドイツの当局者が,当初の楽観主義を改めるには,時間が掛からなかったのです.

 先ず,ドイツ当局者が行ったのは,アルザスに於ける行政用語をドイツ語とする事です.

 その動きは普仏戦争中から起きていましたが,法的に批准されたのは1872年3月31日,帝国領土にドイツ語を公式に導入する帝国法が可決されてからです.
 フランス語系市町村に対しては,1878年1月1日まで,フランス語を使用する権利を保持しました.
 こうした規定を受ける市町村がリストアップされ,これら市町村へは行政文書の本文はドイツ語とフランス語で送付され,監督官庁との通信はフランス語で取り交わされ続けました.
 こうした措置は,全体としてアルザスのフランス語地域の住民を満足させましたが,彼等が不安になったのは,その期日が来てからどうなるのか,と言う事でした.
 この為,フランス語系市町村は,此の権利が最終的には既得権として残るように,当局に絶えず働きかけを実施しています.
 そして,その規定は何度となく延長を余儀なくされ,全市町村に例外なくドイツ語を課したのは,実に第1次世界大戦中の1917年からとなっていました.

 一方で,ドイツ語系市町村では法律は如何なる例外も認めませんでした.
 フランス語地域と違って,ややこしい問題は起きませんでしたが,前述の問題,つまり,アルザスのドイツ語は広義のドイツ語であって狭義のドイツ語では無いと言う話が鎌首を擡げてきます.
 1870年のアルザスには,確かに標準ドイツ語に堪能な人もいました.
 しかし,社会の階層から見れば,庶民階級やドイツ当局に対して庶民を代表する立場にある人々がそれをよく知りませんでした.
 特に,19世紀に入ると,ドイツ語の地位は急速に低下し,代わってフランス語の普及が進みましたので,こうした傾向は強まりました.
 幾ら文法が同じだからと言っても,行政用語は即興では使えません.
 標準ドイツ語に充分の知識がある人々でさえ,かなりの努力が必要でした.
 ましてや,普段からフランス語と方言に慣れていた市町村長が,行政用語のドイツ語を使おうとすると戸惑いを隠せません.

 当然のことながら市町村議会でも,ドイツ語使用問題は問題になりました.
 因みに,この頃でもなお,議会ではフランス語が公用語となっていました.
 しかし,1881年,ベルリンの帝国議会ではアルザス・ロレーヌ「地方委員会」に対し,ドイツ語の使用を義務づける事を決定しました.
 アルザス選出の代議士達は,数名のドイツ人の同僚議員に支援されて,この決定に激しく抗議しましたが覆らず,更に1888年になると義務化が全市町村に拡大しました.
 フランス語地域でもフランス語は補助語としてしか認められませんでした.
 ただ,仕様を義務づけたのは「ドイツ語」であり,ドイツ語系市町村議会では,標準ドイツ語では無く「方言」で議論を続けています.

 意外な事に,フランス語はそれでも2つの官庁で生き延びました.
 1つは法廷であり,もう1つは税務署でした.
 前者では,法的公文書こそドイツ語で義務的に作成されましたが,弁論はフランス語が認められていました.
 後者は課税通知を2カ国語で作成しました…
 「言葉が解らないので税金払いません」とはならない様にする為だけに,煩雑な作業をしていたのです.

 こうして,ドイツ語が官庁から浸透してきたのですが,ドイツ行政府はやがてアルザスとアルザス人を特徴付けるイメージに不安を持ち始めました.
 アルザス人はずっと以前から子供が生まれると,フランス語の名前を付けたり,フランス語的形態を使ったりする習慣がありました.
 2世紀以上前のドイツ領の時には,当然,これらはドイツ語かドイツ語的形態でしたから,行政当局は,そろそろ元の習慣に戻る時期だと考えていました.
 フランス語風の響きを持つもの総て,会社の社名,手紙の頭書,看板,立て札,幾つかの町村名や通りの名前,果ては墓石の碑文さえもドイツ人を不快にし始め,遂に当局は,立て札やポスターの作成を警察の許可制とするに至りました.

 アルザスの「自然への回帰」を促進する為に行った行為は,例えば,コワフール(床屋)は今後フリズール(髪結い)と名乗れと言うのもその1つであり,アルザス人は才気煥発な諷刺心を掻き立てられて,様々に抵抗を試みました.
 皮肉にも,このパターンは,半世紀前にM.A.J.リステリュベールがアルザスにフランスの顔を与える為に実行を要求した事を,忠実になぞっているに過ぎません.
 ただ,半世紀前にはこれらを実行する為の役人が,フランスにいなかっただけの事ですが…

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/18 22:56
青文字:加筆改修部分

 さて,アルザスでは,以前にも見た様に1808年からフランス語は中等・高等教育の総ての学校で教育言語となっていました.
 しかし,そのフランスは戦争に敗れ,アルザスは再びドイツに戻ります.
 戦争直後はまだそのままでしたが,高等教育の場では,1872年からドイツ語がストラスブール大学の唯一の教育言語となりました.
 つまり,ストラスブール大学と言うのは,アルザスに於いて民族の象徴となっていた学校です.
 此処にドイツ語を導入する事で,新たな支配者はドイツ人である事を明示した訳です.
 …まぁ,これはフランス人も同様の事をしたのですが….

 中等学校であるリセとコレージュでは,変化はゆっくり進みました.
 多年に亘って,単にフランス語地域にある中等学校のみならず,方言使用の生徒が通う学校でも,多くの科目について,フランス語は知識の媒介手段として維持されました.
 フランス語からドイツ語に移行したのは大学と異なって,1880年代から緩慢に進み,フランスの教育体系である旧制のリセとコレージュがドイツの教育体系であるギムナジウムになってからも,フランス語は「外国語」として,ギムナジウムの学習計画に然るべき地位を占め続けました.

 とは言え,ドイツの教育当局者にとっては,フランス語教育は,単に生徒にフランス語を話したり,書かせたりすると言う実際的な訓練の場としての位置づけでしかありませんでした.
 更に,そこからフランス文学を紹介するなどフランス文化の世界に導いたり,フランスの精神文化を植え付けたりするのは問題外の話でした.

 言う迄も無く,中等教育の学校は,未来のアルザスのエリートに確固たるドイツ文化を授ける事を本質的な使命としていました.
 標準ドイツ語の習得が第一義であり,この為,総ての努力がドイツ語教育に傾注され,アルザス人は「模範的な標準ドイツ語」が修得出来なければならないとされていました.
 即ち,フランス語は元より,方言の修得も問題外とされた訳です.

 女子高等教育の場である「女子高等中学校」は,特にドイツ当局に困難をもたらしました.
 多くの場合,アルザス住民の中流或いは裕福な階層の出身者である女子生徒達は,単に標準ドイツ語の学習に殆ど熱意を示さないばかりで無く,フランス語に対する好みを隠そうともしませんでした.
 ドイツ人が何度法令を出しても無駄で,フランス語はほぼ全教科目で依然として教育言語の儘でした.
 1889年,こうした学校に於けるドイツ語使用に対し,より断固たる態度を取る事が決定されても,状況は殆ど変わりませんでした.
 親は,娘がもっと「シック」である「フランス式の教育」を受ける事を望んでいましたし,またそれに幾らでも金を出す用意がありました.
 従って,女子高等中学校でフランス語教育の後退が始まると,経済力のある親は娘をフランスの寄宿学校に入れる事になります.

 この様に,ドイツ当局が意図するよりも,フランス語は教育現場で受け容れられており,意外にも第一次世界大戦末期までフランス語は教えられ続けてきました.
 アルザス住民からは当局に対し,ギムナジウムでフランス語を続けて貰いたいと言う陳情を受けていましたし,住民統治の面から,ドイツ当局はそうした問題に応えない訳に生きませんでした.
 また,此の段階ではドイツ人自身が屡々フランス語の有効な教育に反対していた訳で無く,それは彼等自身の子供が同じ学校に通っていただけに尚更でした.

 フランス側でも,ドイツ側でも,フランス語とドイツ語の2つの言語を自由に操れるアルザス人がいる事は,確かに誰も反対しませんでした.
 ただ,此の特権は少数のエリートに取っておくべき物だとされていました.
 とは言え,エリートがフランス文化またはドイツ文化のいずれかの世界に固く根付いていれば,双方の当局者にとって都合の良い話になるのですが,決してそうではありません.
 また,フランス語もドイツ語も話せるアルザス人の民衆がいると言う点に於て,余り寛容で無かったのはフランスもドイツも同じでした.

 この為,両国とも,民衆の通う小学校から二言語使用を追放しようと,無駄な足掻きに近い努力を続けた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/19 23:08

 さて,前述の通り中等教育や高等教育現場では,ドイツ語が優先されていきましたが,初等教育ではどうだったのかと言えば,ドイツ人は小学校教育に於ける教育言語をドイツ語とすべく努力したのですが,自分達が設定した基本的教育原則である「母語優先原則」に抵触すると言う自縄自縛に陥ります.

 此の原則では,子供は彼等の言葉,即ち入学前に表現と交流に用いた言葉で,先ず知育と徳育を受けなければなりません.
 と言う事は,フランス語で育った子供達にはフランス語を教育しなければならないのです.
 よって,この地域では,教育言語=ドイツ語と言う原則を,強制的に当て嵌める事が出来ず,この原則はドイツ語系のアルザス人,即ち方言使用の子供達にのみ適用する事に決めました.

 従って,フランス語系市町村ではフランス語が依然として教育言語でした.
 フランス語系の子供が入学してくると,教師はドイツ語では無くフランス語で話しかけ,ドイツ語で無く,フランス語で授業を行いました.
 ドイツ語の授業もありましたが,1874年の通達でも,ドイツ語の授業時間を週5時間と定めていただけですし,幾つかの学校では週1時間,「フランスの歴史」さえ勉強する事が出来ました.
 勿論,時が経つにつれてドイツ語の地位は徐々に強化されていきましたが,第1次世界大戦の末期数ヶ月を除くと,アルザスのフランス語地域では,フランス語が教育言語として依然として残っています.

 とは言え,ドイツ文部当局はドイツ語がアルザスのこうした部分には浸透しなくても良いとする程,「母語優位」の教育論理を推し進めたのではありません.
 フランス語系の生徒が得たドイツ語の成績を評価する為,何度も調査が行われ,オ・ラン県の幾つかの学校で成績が不十分と判定されると,当局は「先ず母語から」と言う原則を破棄し,ポーランド系の子供に対してポズナニで行われた事に倣って,外国語たるドイツ語から始めて,その後で母語たるフランス語に移れば良いと決定しました.

 しかし,その決定は他ならぬドイツの大教育者であるエヴァルト・バオホと言う人物によって覆される事になります.

 バオホは,シュレージェン地方出身の人で,モルスハイムの初等教育視学官としてこの地域に赴任してきます.
 バオホの任務は,ドイツ語がラ・ブリュシュ渓谷のフランス語系の生徒達に正しく教えられているかどうか,監視する事でした.

 そのバオホの教育概念は,単純にして且つ論理的な2つの原理に基づいていました.
 第1は,先ず子供の母語=日常語に於て,彼等の有する表現と吸収能力を発展させ,しかる後に外国語に接する様にするのが良いと言うものです.
 従って,フランス語系の生徒の場合,先ずフランス語,次いでドイツ語と言う順番で教育を行いました.
 第2は,外国語の言語体系を余り困難も無く学び覚えるには,読み書きする前に,先ず聞き話す事が良いとするものです.
 「先ず聞き,話す事,次に読み,書く事.先ず耳と口,次に目と手」と言うのが彼の単純明快な原則でした.

 彼はこう述べています.

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 最初の読みの授業は,母語の文を読む事から行われるべきであり,ドイツ語の読みはフランス語文の読みの困難を克服してから,初めて開始するものとし,一般的に中等段階へ入ってから実施する事.
 従って,低学年では,ドイツ語の授業は口頭練習,話す訓練に限定する事.
------------

 こうした方針の下,ドイツ語は小学校では第2学年に先ず口頭訓練の形でしか入ってきませんでした.

 此の結果が頗る上々だった事から,1887年に「バオホ改革」はアルザス・ロレーヌのフランス語系全市町村の学校に適用されました.
 確かに,此の方法でも落ちこぼれる子供がいたのは確かですが,フランス語とドイツ語を知っているバイリンガルな人間が無視出来ない数いたとすれば,それはバオホの御陰だったりします.
 1918年になると,再びこの地域はフランス語圏に戻った訳ですから.

 そう言えば,現在は小学校から英語教育を行っているようですが,「先ず聞き,話す事,次に読み,書く事」が実践されているのでしょうか.
 私的には,英語が嫌いになったのは中学校の時に,「聞き,話す事」をするよりも前に「読み,書く事」をやらされたからなのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/20 23:10

 さて,デ・アミーチスの児童向け小説に『クオレ(愛の学校)』と言うのがあります.
 日本では幾度もアニメ化されていますし(そう言えば最近はこうした児童文学のアニメ化は,ジブリ作品くらいしかありませんねぇ),その中に挿話として入っていた『母を訪ねて三千里』は,中味が思い切り伸ばされて,スピンアウトした作品として日本のアニメになっています.

 同じ挿話として,入っていたのが『最後の授業』と言う作品です.
 これも有名な話ですから御存知の方も多いと思いますが,普仏戦争後,フランスからドイツに併合されたアルザス・ロレーヌの小学校での最後のフランス語の授業を描いた作品です.

 しかし,先述の様にフランス語地域ではフランス語の存在は否定される事無く,寧ろ最初にフランス語を学んだ方が,ドイツ語の習得が楽になる事が分かって,奨励されていた程でした.

 ではドイツ語系市町村ではどうだったかというと,こちらは言語問題に一切譲歩する事はありませんでした.
 方言使用の生徒にとって,教育言語は標準ドイツ語であり,これは言語的且つ教育的な論理に叶ったものでした.
 但し,標準ドイツ語の教育が満足すべき形で実行されるまでには,数年を要しましたが….

 フランスの師範学校に於ては,ドイツ語は田舎の言語であり,ごく付随的な位置を占めたに過ぎません.
 アルザスの教師達にとっては,それを知らなくてはなりませんでしたが,直ぐ様,良質の教育を与えるには不十分な状況でした.
 また,アルザス人教員の殆どは戦争直後,フランスに留まる事を選択した事から,彼等の抜けた穴を補充する為,ドイツ人教師を動員せざるを得ませんでしたが,それも生徒達に対して標準ドイツ語に対する熱意を掻き立てる最良の方法ではありませんでした.
 しかし,1880年代の終わり頃には,その困難も克服されて,方言使用者が標準ドイツ語で得た成績は,ドイツの諸地域で得られたものと何等変わりのないものになっていました.

 ドイツ語教育が小学校段階で大きく改善されるのは,教師達がドイツの師範学校で教育を受けたからでした.
 以前,ストラスブールの例に倣って創設されたフランスの師範学校が,アルザスとドイツ語系ロレーヌのフランス語の普及に果たした役割は広く知られていました.
 ドイツ人は,それを能く覚えており,ドイツ語の浸透の為には少なくともフランスと同じ事をしようと考えました.

 ドイツの学校指導者の1人は,「ドイツの師範学校は,嘗てのフランス師範学校がフランス語に道を拓いた様にドイツ語に道を拓かねばならない」と述べており,実際,ドイツの師範学校は,アルザスのドイツ語の為に貢献する事に成功しました.
 それはどんなに小さな村の学校でも,ドイツ語を正しく教える事が出来る教員を養成した事であり,1918年以後,この地がフランスに舞い戻った際にも,彼等の大多数にドイツの言語と文化の断固たる擁護者になる様に駆り立てました.
 その一方で,こうした師範学校ではフランス語教育は貧弱なもので,選択科目でしかありませんでした.
 市町村議員や教師自身は真剣且つ義務的なフランス語教育を何度も要求したのですが,中央政府は教師達がフランス語に精通する事など望む所では無かったのです.

 ドイツ文部当局は全アルザス人にドイツ語で堅固な教育を授ける事は熱心でも,ドイツ語系市町村の小学校には,フランス語にどんな些細な地位であろうと,与えるつもりはさらさらありませんでした.
 この地域がドイツに併合された直後の数年間は,1870年以前に就学していた方言使用の生徒に対して,フランス語が続けて教えられていました.
 しかし,1874年からフランス語は方言使用の生徒が通う小学校の時間割から消え,時が経つにつれて,教師自身のフランス語能力が衰え,しかも学校の外でフランス語を使う機会が次第に少なくなっていきました.

 しかし,ドイツ語系市町村でもフランス語教育を廃止するという決定は,広範な住民階層の不満を生じさせました.
 今まで,フランスの強大な中央政府を相手にして,勝ち取ってきた数々の権利を何故守ろうとしないのかが,人々には理解出来なかったのです.
 戦争直後にはフランス語を正しく教育出来る教師がいただけに,尚更そうでした.
 正規の時間割の枠内で,方言使用の生徒にフランス語を教える事が最早不可能になると,多くの教師達は,授業時間外にフランス語の授業をしました.
 ところが1888年,上席視学官はこうした私的授業をも攻撃し,教師はこの課外授業を開く許可を文部当局に求める様に義務づけられ,しかも1クラスの生徒数は3名までと限定されました.
 これは要するに,小学校の大半の生徒達にとって事実上私的なフランス語授業の終わりを意味します.

 二言語使用の支持者と反対者はやがて対立し始めました.
 論争は,生徒,それも全生徒が小学校からフランス語とドイツ語に入る事が出来るかどうかを巡って展開されます.
 それはフランス語系生徒が通う学校では既定の事だったのですが,ドイツ語系市町村の学校,即ち学童人口の9割以上にとってはそうではありませんでした.
 二言語使用に賛成する事は,今日ドイツ語を弁護するのと同じく,同時はフランス語を弁護する事でした.

 尤も,二言語使用というのは趣味とかのレベルで行っていたのではありません.
 アルザス人はフランスとドイツという狭間にあって常に現実的な態度を示してきました.
 当時は誰もドイツ語の優位を問題にしていませんでしたが,一方で完全にフランス語が排斥されるのは望んでいませんでした.
 勿論,これは徹底的なゲルマン化の信奉者には気に入りませんでした.
 そして,二派の人々は議論を闘わし始め,時には罵倒為合うまでになります.
 特に,二言語使用の支持者は,「フランス野郎」呼ばわりされた事もありました.
 …これが今だと「ドイツ野郎」呼ばわりされるのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/21 23:14



 【質問】
 二言語使用賛成派の主張は?

 【回答】

 さて,二言語使用の支持者の論理は,大きく,経済面と歴史・地理の両面から展開されました.

 今はぎくしゃくしているとは言え,EUと言う枠組みの中で比較的自由な貿易が行われているのですが,当時は未だ独仏間の経済交流は然程ではありません.
 しかし,先見性のあるアルザス人は,産業革命と交通手段の発達,特に鉄道と自動車と言うものが発達してくると,二国間の交易量が著しく増加する事を見抜いていました.

 こうした人々は,議員を動かして,方言使用者に対してもフランス語教育をする様に絶えず要求していました.
 例えば1909年,キュブレールと言う代議士は,「地方委員会」の言語問題委員会の名において,小学校と師範学校のフランス語教育の義務化を目指すべく,具体的な7項目の提案を行います.
 その中には小学校高学年での週4時間のフランス語の授業,師範学校のフランス語教育の義務化を含んでいました.
 同様に,ロレーヌ人代議士フィックもまた,小学校でのフランス語教育の必要性を説いています.

 これらの提案は政治的なものでは無く,実際的次元の要求が問題である事を明確にするよう,常に配慮が為されていたのですが,ドイツ当局はそれを一切信用しませんでした.
 当局は確かに,独仏間の交易の拡大に人材育成が必要であると言う経済的理由は認めたものの,それは少数のアルザス人にのみ有効なものであって,少数者には中等学校の教育でフランス語を学ぶ機会があると言う事で充分だとしたのです.

 もう1つの論拠である歴史的・地理的次元からの意見は,アルザスは何処にも帰属しないし,又何人にも無視し得ない歴史的運命を経てきたとの主張です.
 この地方は,フランスとゲルマンと言う2つの文化の十字路にあり,アルザスは時代の状況がどうあれ,独仏間架け橋と言う数世紀来の使命を果たす事が出来なくてはならない,その実現方法は,フランス語が「帝国領土」にできる限り広範囲に普及する事により実現される,と主張した訳です.

 この意見はどちらかと言えば庶民レベルよりは,知的エリート好みの意見でした.

 ただ,一方で単純に無視し得ない意見でもありました.
 なぜなら,ドイツ語とフランス語の習得は,取りも直さず,アルザスに於ける独仏の接近に寄与し,またその様にして,これが和平と融和の無視すべからざる一要素である事が明白だったからです.

 例えば,著名なジャーナリストであったシャルル・ベッケンハウプトは,アルザス・ロレーヌ自由党の週刊誌でこう述べています.
------------
 私の考えでは,我々のに言語使用に適応したフランスとドイツの文学研究や,生徒にシラーやゲーテだけで無く,モリエールやラ・フォンテーヌを教える傾向,またフランス文学はドイツの影響を,ドイツ文学はフランスの影響を負うている事の論証,そしてフランスとドイツの特性の比較と言語と文化に対するそれらの反映などを考える事は,今の様にフランス語を軽視しているよりも,アルザスの若者にとっては有益であり,又ドイツ精神の有する尤も精緻にして高貴なるものに彼等をより近づけるものである.
------------
 しかし,こうした考えはベルリンのドイツ人からすれば危険な考えに映りました.
 彼等にとって,独仏間の仲介役たるアルザスという地域の存在は,言語問題よりも遙かに政治的状況色の濃い問題でした.

 それに,1870〜1914年までは皇帝が色々と遣らかした割には,独仏間の政治環境は,2大国の相互理解にとって,稀な程良好な関係でした.
 よって,この論拠はその価値の多くを失いました.

 そして,フランス文化の染み込んだアルザス人がなお一層フランス側に傾く恐れがあるという限りに於て,他のドイツ人はそれを危険とさえ見ていました.
 その上,ベッケンハウプトですら,
「フランス語がアルザスの人総てに不可欠なものでも,また役に立つものでさえ無い」
という一種矛盾した観点に立っていました.
 つまり,彼は二言語使用を弁護しながらも,小学校の段階では方言使用の子供達,即ち民衆の子供達にフランス語を教える必要は無いとする,ドイツ文部当局の確信を補強していました.
 こうした考えは,アルザスのブルジョワジーの大部分と意見を同じくしており,庶民が抱いていた意見と大きく異なっていました.
 それ故に,二言語使用に関する支持は余り拡がりませんでした.

 第1次世界大戦の数年前,中等教育段階でフランス語を教育言語として使用されうる,真の2言語使用のコレージュを設立する提案が為されました.
 このコレージュは「帝国領土」の4大都市,即ち,ストラスブール,ミュルーズ,メッツ,コルマールに開設されねばならないと言うものでしたが,これも中等教育,つまり,動機と内容からして,「ブルジョワジーの子供」にのみ係わるものであり,庶民とは何等関係の無い空想的な計画でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/22 23:16
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 二言語使用反対派の主張は?

 【回答】

 さて,先日は二言語使用賛成派の主張を書きましたが,反対派も同様にその論拠に事欠いていませんでした.

 ただ,その論理付は些か幼稚であったりします.
 その最も驚くべきものの1つは,二言語使用は,民衆の知的・道徳的健全さに対し有害である,と主張するものでした.
 二言語使用者は「知的不毛性」の烙印を押される恐れがあり,また彼等が偉大な詩人の特徴である詩的感興を見出す事は決して無い,アルザス人が2つの文化と2つの言語に接して以来,文学的天分を失ったのだと言う些かエキセントリックな主張もあります.

 しかし,この主張は説得力のあるものではありません.

 例えば,完璧な二言語使用者でその時代,最も顕著なドイツ語作家の1人として重きを成しつつあった,ルネ・シッケレ,「原始林の聖者」アルベルト・シュヴァイツァー博士,ノーベル物理学賞を受賞したアルフレッド・カストレール教授,作家アンドレ・ヴェックマンがフランス語,標準ドイツ語,方言でも作品を発表するなど,決して知的不毛性がある地域では無い事が分かります.

 ルネ・シッケレも自伝でこう語っています.
------------
 僕は生粋のアルザス人で葡萄園経営者の父と,同じく生粋のフランス人の母の息子として,1884年8月4日,アルザスのオーベルネに生まれた.
 母は天分豊かな女だったが,ドイツ語を理解しないままに死んだ.
 思うに,母はドイツ語を真剣に学ぼうとは決してしなかった.
 僕も最初の頃は殆ど努力しなかった.
 1870年の戦争後,ドイツから移住してきた大半の教師達は,僕を少しばかりニグロの子の様に扱った.
 けれども,5年後,そのニグロの子が最良のドイツ語作文を書く様になっていた.
 僕は今でもどうしてそうなったのか,はっきりとは判らない.
 家では,僕たちは相変わらずフランス語を話していた.
------------
 そうなると,寧ろ二言語使用者にならないと思考の柔軟さが失われた感無きにしも非ずです.

 反対派はまた,二言語使用が「性格的二重性」を齎し,更にはそれがアルザス人にとって道徳的な危険となるものだと非難しました.

 正に二言語使用者排斥の論理というのは詭弁の世界にどっぷり浸かった状態であり,そうした言説は現在でも屡々起きています.

 反対派を突き動かしたのは,アルザスの「ドイツ的性格」が失われる恐怖であり,逆に言えば,フランス語のこれ以上の拡大を許さないと言う確固たる信念でした.
 彼等は,フランスの言語と文化には徹底的に反対はしませんが,それでも方言使用者の通う小学校にフランス語を導入する事は,アルザスの教育が追求すべき目的の軽視に繋がると見なしていました.
 そして,彼等は,アルザスはドイツ帝国に於ける特殊的地位を形成する事を徐々に止めていく,即ち,ドイツへの完全な同化を目指して行くべきであると考えていました.

 民族主義に繋がる為,二言語使用は危険であると非難した人々が,アルザスの特殊性を目の敵にすると,それはドイツ的でないありとあらゆる部分に対する攻撃に転嫁します.
 こうした人々は,民族がその言語を形作るならば,言語も民族を形作ると言い,言語は民族の本質そのものを形成するものであり,民族にその性格を賦与するものだと主張します.
 であるからには,言語は純粋に保たねばならない.
 しかし,アルザスの様に,自らの言語を情熱的且つ専一的に陶冶しない民族は,その活力を生む根幹から切断されてしまう事になると主張しました.

 これに対し,先述のルネ・シッケレなどは例え言語上のものであろうとも,如何なる国境にも囲い込まれまいとする「精神的アルザス主義」を擁護して抗議します.
 これは,まさしく「民族性」と言う美名に隠蔽された,ドイツとの「無条件同化」の企てに対抗したものでした.

 二言語使用反対派は,また,言語問題を「帝国領土」ではなく,帝国直轄の権限下に置こうとしました.
 これも,アルザスがその顔をフランス語の方に少し向けすぎはしないかという懸念から来たものです.
 ベルリンやアルザスのある種のドイツ人社会では,地方委員会(1911年には州に昇格したので州議会)が採ろうとしていた決定に対する不信が渦巻いていました.
 この為,1911年に州に昇格してある程度の自治権を得たにも係わらず,言語に関しては州憲法でも現状維持が謳われ,言語に関する決定権は,ストラスブール,即ち州議会では無く,ベルリン,つまり帝国議会に属していて,アルザスの住民が関われない様になっていました.

 方言使用者が通う小学校でフランス語教育の存続を先ず要求し,後にその回復を求めたアルザス人達は疑わしき愛国者と見做されました.
 フランスに比べると未だ未だ統合の歴史が浅いドイツ帝国としては,統合してまだ歴史の浅い地域では,地元住民の影響力を制限する必要があったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/23 23:25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 19世紀フランスの,海外での鉄道利権に食い込もうとする足掻きについて教えられたし. 

 【回答】
 近代中国,と言うか清帝国には阿片戦争以来,列強各国が乗り込んできました.
 基本的に,工業化を達成した国々では,その製品を売り込むためにもアジアやアフリカなどの後進国を占領し,その地域を自国に取り込み,自国の製品消費地とする方向に進んでいきます.
 植民地化した国や地域に関しては,そうした排他的な経済を構築できましたが,清帝国やらトルコ,それに未だ工業化が進展していなかったロシアについては,その領域が広大な地域に及んでいたため,一国による植民地支配と言う形態が採れませんでした.

 其所で,工業製品を主とした各国の売り込み合戦が盛んになります.

 フランスもそうした国の一つで,アルジェリアに植民地を構築した後は,アフリカ横断政策として,西アフリカを東に向けて支配地を広げ,東洋においては,インドに拠点を築き,インドシナから中国を伺う様になっています.
 一方で,大学出身の少数のエリートが,政府を動かし,その外交官や高級官僚は,財界や実業界に天下るようになっていきます.
 そのエリートの人材供給源は,上層ブルジョワジーであり,政治家と結びついた商人,所謂政商の活動も顕著になっていきました.
 エリート階級間では婚姻や家族関係を構築し,一方で社交,学閥を軸とした関係が形作られて行く様になり,そうした政官財のトライアングルに基づいた政策決定が為される様になります.

 有名なのが,パリ金融市場での外国債券の発行に際して銀行借款団に対し,政府,就中外務省が強制した「紐付き借款」政策です.
 これは,外国への借款と軍需品,鉄道資材など工業製品の輸出や鉄道,港湾,土木などの公共事業を紐付きにして,フランスの企業を儲けさせようと言う露骨な政策でした.

 何故,フランスがこの様な政策を採ったのか,と言えば,単に,フランス工業の輸出競争力欠如と言う問題にぶ塘ち当たります.

 話を清に戻しますと,中国に於ける鉄道建設からして国際競争の波に晒されています.

 清の最初の鉄道は,1876年に上海〜呉淞に敷設されたもので,英国のジャーディン=マセソン商会によって建設されました.
 これは清政府によって破壊されますが,1886年,開平炭坑の開発に際し,その開発を任された英国人技師C.W.Kinderが開平〜天津の鉄道敷設を計画しました.
 この事業のために,清国北部鉄路公司が設立され,直隷総督北洋大臣李鴻章の支援の下,1888年に開通に漕ぎ着けました.

 この開平〜天津の鉄道成功を見て,政府部内には鉄道網を建設する機運が高まり,開平〜天津鉄道の延長で,北京〜天津〜山海関〜瀋陽(奉天)を結ぶ京奉鉄道と,北京〜漢口を結ぶ京漢鉄道の2つの鉄道が皇帝の勅許を得て建設されることになります.

 前者は李鴻章が推進し,清国の満州に於ける権益をロシアから死守するために計画された軍事・戦略路線,後者は湖広総督張之洞が推進し,中国の南北を連結する経済・戦略路線です.
 なお,前者は1896年に完成した天津〜盧溝橋線(京津鉄道),1893年完成の天津〜溏沽〜山海関線と連結する予定でしたが,李鴻章に実際の敷設認可が下されたのが,1895年12月6日のことでした.

 この情報を得た各国は,すかさず売り込みに走ります.
 開平〜天津鉄道では英国(ジャーディン=マセソン商会),ドイツ(クルップ社),米国(ラッセル商会)に後れを取ったフランスは,外相M.Berthelotが,駐北京フランス公使のA.Gerardに訓令して,フランス製品を何としても輸出するように命じます.
 この鉄道の第1回目の発注は,16万本の枕木,9,700tのレール,30,18,9mの径間の橋梁材がそれぞれ9,12,100本,車輪400,スプリング800,車軸400に,客車用の車輪400と車軸200と言うものでした.

 Geraldは総理衙門に精力的に働きかける一方,在華フランス企業の代理人に,天津で行われる入札に参加するよう促し,天津領事du Chaylardに対し,清国側の鉄道建設責任者胡橘?に圧力をかけるように命じます.
 英国は英国で,清国鉄路総公司主任技師であるKinderと,清国北部鉄路公司の共同責任者で,香港上海銀行の買弁である人物を介して圧力をかけていたりします.

 フランスはこうした努力の末,3枚の注文書を受け取り,日本とロシア産の枕木それぞれ,6万本と9.6万本を獲得し,レールの入札日を3月から5月に延ばすことに成功します.
 しかしレールの入札に関しては,支線のレール2,200t分を落札したものの,採用予定のレールの納期が短いことと,その生産設備が無いことを理由に発注を辞退してしまいます.

 本線のレールに関しては,トン当たり37.75両で応札したものの,ドイツの商会がそれより8%も低いトン当たり35両で応札し,彼らに奪われました.
 フランスは商品の引き渡し期限が短いとか,レールの仕様が英国仕様なのはおかしいなどと抗議しますが,期限が短いのは各国とも同じであること,生産設備に関しては,フランス側も現行設備に少し手を加えれば生産できることを認めており,結局抗議が認められることはありませんでした.

 これだけの大商談にも関わらず,結局枕木だけ,しかもその生産は,フランスの産業に何ら寄与することなく終わってしまったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/08 23:38

 では,フランスが主に金を出していたシベリア鉄道はどうだったか.
 政官財のトライアングルが成立していたフランスでは,銀行団と政府がタッグを組んで資金を拠出し,その資金をフランス製品を購入することで環流させると言う利権構造が出来上がっていたので,フランス製品の食い込みも容易だったかに思えます.

 Sergei Yul'evich Vitteが中心になって推進されたシベリア鉄道の建設では,1895年,ロシア政府から機関車1,000輛の入札が提示される事になっていました.
 この情報は,フランス陸相を通じて通産相Lebonに伝えられ,彼は直ちにフランスの有力車輌製造メーカーである7つの会社に情報を与え,応札を指示しました.

 この鉄道の資金はフランスが主に拠出していましたので,この建設を推進していた蔵相Sergei Yul'evich Vitteとしても,フランスの企業を優遇しようと骨を折りましたが,蓋を開けてみれば,これまたドイツのBerliner,Hannnovershe,Hentschelが300輛,米国のBaldwinが18輛を受注してしまい,フランスの企業が受注することはありませんでした.

 翌年1月1日,サンクトペテルブルク駐露大使館付陸軍駐在武官であるMoulin少佐が,ロシアの今後6年間の機関車発注情報を手に入れます.
 それによれば,1896〜1902年の間にロシアは300輛の蒸気機関車を新型車に入れ替えると共に,陸軍省は軍用の備蓄機関車として1,800輛と言う多数を保有する計画であると言う大掛かりなものでした.

 しかし,彼は報告書の中では,サンクトペテルブルク国際商業銀行など大きな銀行は粗方ドイツ資本が経営を牛耳っており,ロシアのには相当組織的な情報収集,活動,買収手段を有している.
 こうしたドイツの影響力が強い金融機関に資金を握られているロシアの鉄道会社に,フランス製蒸気機関車を直接売り込むのは難しく,ロシアの機械工場での現地生産に活路を見いだすべきであると分析しています.

 この情報を得た通産相G.Mesureurは,再び7社に応札を指示しましたが,これまた各社とも受注に失敗します.

 こうした状況から外相G.Hanotauxは,政府の努力に対し民間企業の成果が得られないことに苛立ち,通産相H.Boucherに対し,フランス製品と外国製品の価格差はどれくらいか調査するように求め,通産相は金属加工組合,鉄鋼協会,大手メーカーのSchneider社に聞き取りを行いました.

 鉄鋼協会は,鋼材に関しては,フランス製品との内外価格差は「一般に」存在しないと言うことでしたが,現実にはフランス製品よりダンピングした価格でロシアに供給している事を暗に認めていました.
 その割高の原因は,仏露間の運賃,長距離輸送に掛かる時間,鉄道資材のモデルの問題に起因しているとしています.
 Schneider社は,ロシアからの機関車200輛の注文を断った事があり,その原因は,提示価格や引渡期限の短さがあったからとしています.
 因みにこの200輛の機関車は,ドイツが受注しますが,この際の提示額はフランス企業の4分の3の低価格だったそうです.

 捲土重来.

 ロシアの地で一敗地に塗れたフランスは,外相G.Hanotauxを中心に,今度はシベリアと沿海州を短絡する東清鉄道の資材を受注すべく奔走することになります.
 当時,フランス金融市場は海外投資総額の約3分の1に当たる80億フランをロシアに投資し,国債,鉄道債,株式などを吸収して,同盟国であるロシアの財政基盤強化に大いに寄与していましたし,このプロジェクト自身も2〜2.5億フランに達する巨大なものでした.
 更に,その建設資金を調達する露清銀行は,1895年にフランスが8分の5を出資している事もあり,非常に有利に事が運ぶものと考えられていました.

 1896年7月,外相G.Hanotauxは,ロスチャイルド銀行のRothschild男爵と,サンクトペテルブルク国際銀行支配人,露清銀行取締役でSergei Yul'evich Vitte代理人のA.Rothsteinと会談し,ロシアと中国にフランス企業のための販路を確保する必要性について話し合いを行います.
 この席上,東清鉄道の敷設権が認められた際には,フランスに大口注文を行うと言う約束と,その建設のため,露清銀行の支出でフランス人技師を中国に派遣する事が決められました.

 東清鉄道敷設が認められると直ぐ,公共土木相A.Turrelは,中国に土木技師P.Hivonnaitを派遣します.
 外相G.Hanotauxは,Sergei Yul'evich Vitteに私信を送り,過日の約束を履行する様依頼しました.

 鉄鋼協会は,ロシアのフランス側代理人に対し,鋼材のアントワープ本船引渡価格(FOB)について,レールはトン当り5ポンド(約126フラン)で発注する様要請します.
 しかし,この価格は露清銀行取締役でパリ=オランダ銀行取締役のE.Noezlinに高いと指摘され,トン当り123フランに値下げすることを容認しました.
 しかし鉄鋼協会長のReille男爵は,代理人に「トン当り価格を5ポンドを割り込むと,同業者の大半が供給を拒否する」と脅しをかけ,同時にレールの継目板とタイプレートはトン当り6ポンドで,枕木用ねじ釘はトン当り13.5ポンド,ボルトはトン当り14ポンドで発注する様にと念を押しました.

 1897年1〜4月,代理人はロシア側資材購入委員会と交渉を持ちます.
 この購入委員会は,東清鉄道副社長のS.Kerbedz,支配人E.Ziegler,露清銀行取締役A.Rothsttein,同じく取締役でロシア大蔵省信用局長でもあるP.M.Romanoffで構成されており,親仏的な裁定があるものと期待されていました.

 ところがぎっちょん.
 蓋を開けてみれば,大どんでん返しが待っていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/11 21:56

 フランスの息の掛かった銀行が金を出し,フランス人技師が建設の差配をし,ロシア政府部内にも親仏的な人々がいて,フランス産業界はウッハウハ…の筈だったのですが.

 先ずレール.
 レールは12〜12.5万トンの発注で,金額にして2,000万フランがフランスに来るもの,と期待していました.
 しかし露清鉄道副社長のS.Kerbedzは,ロシアの技術向上の為,全量をロシア国内で調達する事を主張し,親仏派と見られていたSergei Yul'evich Vitteすらそれに同意した為,画餅に帰しました.
 実際にロシアの工場には,シベリア鉄道その他の鉄道用に製造されたレールが8万トンも在庫としてあったりしましたし,国内で十分レールは生産できましたから….
 尤も,例え外国産を輸入するとしても,フランスのトン当り123フランと言う価格に対し,ベルギーが115フランと7%も安い価格を提示していたので,フランスが受注するのは無理だったと思われます.

 次いで,資材を運搬する為の曳船.
 フランスはリヨンにあるSatre et Cie社を中心に,お馴染みSchneider社,Loire造船会社など4社に500馬力の複動機関を備えた吃水0.61mの河川用浅吃水曳船を見積もり,最も安いアントワープ渡しの価格を提示したSatre et Cie社の案を19.8万フランでS.Kerbedzに提示します.
 ところが,英国の提示はそれより58%も安い12.5万フラン!
 この英国案はSatre et Cie社案よりも小型のものだったので,フランス側もその大きさで再見積を行い,17万フランまで価格を下げました.
 しかし未だ36%も高く,容易にフランス案は退けられました.
 その後,英国企業は価格を最終的に15万フランに切り上げましたが,ロシア側は曳船と共に艀も発注し,総計300万フランを獲得します.
 因みにSatre et Cie社はS.Kerbedzのお情けで,浚渫船1隻を21.5万フランで受注することが出来ました.
 こんな商売をしていたからか,この会社はその後左前になり,1905年に破産してしまったそうです.

 電信線は1500km分.
 直径5mmの軟鋼線の価格はフランスでは100kg当り26〜31フランでしたが,ドイツ製のそれは僅か19フランであり,これまた大きな価格差に阻まれ,フランス企業が参入する余地はありませんでした.
 他の鉄製品,鉄板,山型鋼,未加工鉄鋼製品についても同じ事情で,フランス企業はドイツだけでなく,英国やベルギー企業の後塵を拝するだけだったりします.

 最後の大物が機関車です.
 S.Kerbedzとしても,此処までフランス企業を蔑ろにしてしまうと,バックの露清銀行(因みに東清鉄道は露清銀行が100%出資した会社でした)とその後ろ盾のフランス系銀行に対し,申し訳が立たない,として,炭水車付き貨物蒸気機関車60輛の発注をフランス企業に打診しました.
 その条件は,外国企業の最低応札額より5%以内の価格差であれば,フランス企業を優遇すると言うものでした.
 露清銀行は,フランスの車輌製造会社,Schneider社など5社に応札を持ちかけますが,Schneider社,Batignolles社,Cail社はこの商談に応じませんでしたが,残りのBelfort社,Five-Lille社は応札に応じ,1輛6.9万フランで15輛ずつ生産する提示をします.
 しかしドイツ企業は,それより15%も安いアントワープ渡し価格1輛6万フランを提示した為,これまた徒労に終わりそうでした.
 でも,フランス企業を勝たせようと,ロシア側はFive-Lille社に機関車100輛の発注を提示します.
 但し,この納期は非常に短く,フランス国内の鉄道会社からの発注を得たばかりだったFive-Lille社は,延期を願い出ますが,ロシア側の受容れるところとならず,これまた流産してしまいました.

 フランスの車輌工業は当時国内の注文が殆ど無く,何とか外国に活路を見出す必要がありましたが,実際はこうした状況で,ロシアの配慮も無にしてしまいます.
 それでも,親仏派は何とかフランス産業界に利益を齎そうとし,露清銀行のA.Rothstteinは,1898年5月,入換え用小型蒸気機関車15輛(1898年1月引渡が条件),大型貨物用蒸気機関車15輛(同年6月引渡が条件),大型貨物用蒸気機関車50輛(1899年1〜5月引渡が条件)と言う3種類の入札を提示します.
 この入札については,ドイツ企業の応札価格より10%割高でも受容れると言う寛大な条件をロシア側が提示した為,Five-Lille社を筆頭に,Schneider,Batignolles,Cail,Belfortの5社とRaismes社を加えた6社連合でS.Kerbedzに提示したのは,1898年引渡が条件の入換え用蒸気機関車と大型貨物用蒸気機関車は期限が短すぎるので入札を辞退し,最後の50輛の蒸気機関車を1輛当り7万フランで,半分をFive-Lille社,残りをRaismes社が製造するとしました.
 実はほぼ同じ仕様の機関車が前回6.9万フランだったのに,安くなるどころか1,000フラン高くなっていて,価格差は17%に達していたのですが,東清鉄道側のお情けで,この機関車50輛は無事フランスに発注されました.

 因みにウラジオストク渡しの場合だと,フランス製機関車が35,250ルーブルなのに対し,ドイツ製は30,853ルーブルと14%安く,米国製だと27,325ルーブルと実に29%も安かったりします.

 結局,2.5億フランと言う発注量に対し,フランス企業はその全部を独占するどころか,浚渫船1隻21.5万フランと,蒸気機関車50輛350万フランしか受注出来ませんでした.
 その受注にしても,ニコライII世は,
「この件に関しては政治的配慮が経済的利害に優先すべきであり,我が国が機関車を注文することになったのは,正に上層部で判断されたこの様な動機からだった」
と,フランス大使に恩着せがましく言明していたりした訳で.

 この様に,従来,ロシア市場を金城湯池としていたフランス企業は,完全にロシアの国内企業や,Kruppを始めとするドイツ企業,ベツレヘムスチールを筆頭とする米国企業に取って代わられ,新たな市場を獲得しなければなりませんでした.

 それが中国市場だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/12 23:20


 【質問】
 1907年南フランスの騒擾事件について教えられたし.

 【回答】
 実は20世紀初頭までフランスで醸造されるワインには,何の規定もありませんでした.
 今,高級クラブで1本何万円もするシャンパンも然りで,シャンパンの場合,19世紀末に規定されたもので,その法令の条文はただ一つ,「シャンパンと言う呼称を使う為には発泡ワインに使用する葡萄の51%をシャンパーニュ産にすること」だけでした.

 つまり,残り49%の葡萄はどの場所の,どんな環境で生育した,どんな葡萄でも良い事になります.
 その上,この規定には葡萄の比率だけが規定されているだけで,シャンパンの中にどんな原料を混ぜようが知ったことではありませんし,それは合法的なものです.
 ですから,中には林檎や洋梨の果汁を混ぜる業者もいましたし,食用大黄を買い付ける業者すら有ったと言われていました.
「シャンパーニュで金を儲けるのは簡単,安い葡萄を使えば良いんだ.品質は変わるが,大抵は気がつきゃしない」
などとまで言う業者もあったほどです.

 こうした業者には,地方に葡萄を安く買い叩くコミショネルと言う代理業者がいました.
 彼らの仕事はまさにヤクザそのもので,お話にならないような安値で葡萄を買い叩き,法外な賄賂を要求して葡萄生産者から絞れるだけ絞ると言うやり口でした.
 もし,これを断ると,コミショネルは誰もその生産農家の葡萄を買わない様に仕向け,彼らの生活が成り立たないようにしていました.
 彼ら生産農家は,大抵の場合1エーカー程度の広さで,その畑はあちこちに点在し,その1カ所の広さは正に猫の額ほどです.

 このやり口に対する怨嗟の声は次第に高まり,1907年にまず南フランスで噴出します.
 葡萄栽培とワイン醸造を兼務する人々8万人がソルボンヌをデモ行進し,50万人がモンペリエの町に繰り出しました.
 この地では葡萄の生産過剰により葡萄の価格が非常に下がっていましたが,人々は,問題の責任は,北アフリカやスペインと言った安いワイン製造地で生産されたワインを自分たちのそれに混ぜてアルコール含有分を増やし,中にはポルトやコニャックを混ぜて芳香を強めたり,砂糖大根のジュースを混ぜる業者すら有ると言った悪徳業者にあると口々に言いました.

 当時の内閣はClemenceau内閣でしたが,彼は国家非常事態宣言を発し,軍隊を南フランスに送り込みました.
 そして,デモ隊は軍隊と衝突し,5人が死亡し多数の負傷者が出ました.
 事件は国中に大きく報じられ,人々は恐怖に戦きました.
 が,実は最も驚いたのは当の軍隊でした.
 と言うのも,当日事件現場にいた兵士の多くは南フランス出身の補充兵で,彼らは家族や友人が怪我をしたり殴られたりしているのを見てショックを受け,ある小隊は鎮圧を拒んで街路に座り込み,またある師団では全員が上官の命令に反抗すると言う話にまで発展しました.

 そうなると,如何な「虎」と言われていたClemenceauでも譲歩せざるを得ず,軍隊を撤退させ,生産者たちの話を真剣に聞くようになります.
 数日後,政府は葡萄の適正価格を保証する一連の法案を可決し,ワインの規定については,「専ら生の葡萄或いは葡萄果汁のアルコール発酵によって」作らなければならないとされました.
 混ぜ物は公式にNGとされた訳です.
 ただ,この基準が適用されたのは南フランスだけでした.
 しかし,その他の生産地域の農民たちも,今の状況を変える手段を知った訳です.

 一方で破綻は足下から忍び寄ってきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/03 21:54


 【質問】
 「レ・ゼムト」について教えられたし.

 【回答】
 1907年の時点で,南フランスはワインの規定を勝ち取り,安定を手に入れました.
 しかし,フランスの他の地域ではそうした規定が適用されたわけではなく,まだ混ぜ物,偽物のワインが横行していました.
 折しも,1890年以降1907年までの北フランスでの葡萄収穫は,フィロキセラによる虫害により,惨憺たる状態でした.
 これは他の地域の(そして日本でも)猛威をふるった虫害でしたが,長らくシャンパーニュの土壌は特殊であり,気候は比較的寒冷なのでそうした寄生虫がつくことはないと信じられていました.
 とは言え,人々や商品の移動距離が増すにつれ,そうした寄生虫の行動範囲は広がり,1890年8月に1区画で発見され,徐々に被害が広がっていきます.
 そして,1899年には237エーカーへと広がり,1900年には1,581エーカーに達しました.

 この問題に取り組む動きは,生産者の協力を得ることが出来ずに頓挫します.
 当局の検査官がシャンパン生産業者と組んで,害虫を密かに放っているのだと言う話が実しやかに伝えられ,検査官が姿を見せると,生産者は彼らを追い払う為に,棍棒や先の尖った葡萄の支柱を振り回しました.

 事は,業者と当局,それに生産者だけの問題ではありませんでした.
 生産者間の間にも深刻な対立をもたらしています.

 元々,シャンパーニュと言う地域はマルヌとオーブと言う2つの葡萄栽培地域より成立しています.
 マルヌには37,000エーカーの葡萄畑があり,そこで育った葡萄は最高品質を誇り,最高のシャンパンを生むと信じられていました.
 マルヌ地域の生産者は,オーブの同業者を見下して「フスー」と呼んでいました.
 これは,ワイン畑の石を掘り起こす為に使う鍬のことです.
 しかも,マルヌ地域の人々は,オーブはそもそもシャンパーニュですらないと言い,彼らの作る葡萄はブルゴーニュの方に近いのだと言っていました.

 一方,オーブの生産者は,ブルゴーニュよりもシャンパーニュの土壌に似ていると反論し,ここの河川は北に向かって流れ,南へは流れていないと指摘し,更にオーブ最大の都市トロワには,シャンパーニュの首都が置かれていた事もあり,オーブの人々に言わせれば,「何でマルヌの連中は俺たち以上に本物のシャンパーニュ人だなんて抜かすんだ?」であった訳です.

 こうした地域対立は,つまり,シャンパーニュの定義が何か明確になっていなかった点でした.

 オーブの栽培者兼醸造者にとっては彼らの葡萄とそれで作られるワインをシャンパンと称することが出来るか否かが死活問題でした.
 従来よりその大半をパリのカフェやブラッスリーに売ってきましたが,最近では鉄道の発達により南フランスの安いワインが流れ込み,オーブのワインは太刀打ちできなくなりました.
 この上,シャンパンと呼ぶ権利をも剥奪されてはオーブの醸造業は無くなってしまいます.

 こうして,その判定は政府に委ねられました.
 政府は,どこかの国の政府の様に,問題の先送りと自然消滅を願いましたが,南フランスでの暴動やシャンパーニュの緊張の高まりを受け,もはや,回避することが不可能とわかり,渋々仲介に乗り出し,1908年12月にマルヌ県全体と隣のエーヌ県の数カ所の葡萄畑をシャンパーニュと呼ぶ権利があると発表しました.

 この決定は,当然,オーブの人々にとってみればそれは自己否定されたも同然であり,一方,マルヌの人々も手放しで喜べないものでした.
 マルヌは全域がシャンパーニュと規定されたから喜びそうなものですが,エーヌ県は葡萄より豆の生産で知られている地域であり,「俺たちのシャンパンが『豆スープ』と同じものか」と言う思いがあったからです.

 シャンパンとは違いますが,草加せんべいとか,魚沼産コシヒカリでも,実際には生産量を遙かに超える流通量があり,そのブランド維持に四苦八苦しています.
 シャンパンも同じで,粗悪シャンパンはこの地域の葡萄生産量を遙かに超える1,200万本が流通しており,英国の有名ワイン商は顧客にこう警告を発したそうです.
 「シャンパンほど危険なワインはありません.中に何が入っているのか分からないのですから.」と.

 1902年から1909年のこの地域の葡萄生産は不作でしたが,1910年には遂に破綻を招きました.
 葡萄畑は黴や饂飩粉病に蝕まれ,5月半ばまで霜が降り,雹が降ったり,大雨が斜面を洗い流したりと有りと有らゆる苦難が襲いかかり,6月には早くもこの年の収穫が皆無であることが誰の目にも明らかでした.
 葡萄の収穫量は1割に満たず,ある栽培者兼醸造者が作れたのはわずか1本のワインのみ,甚だしい場合は,タルトが精々と言う主婦もいました.

 こんな状態では現金収入は皆無であり,多くがシャンパーニュを離れて遠くアルジェリアの葡萄畑に移住していきました.
 多くの生産者が破産に直面し,75%以上が土地を抵当に入れざるを得ませんでした.
 パリのある新聞社が記者をこの地域に派遣しますが,彼は,「これほどすさまじい貧困が20世紀のヨーロッパに存在するとはとても信じられない」と書き送ってきたほどです.

 1912年1月17日,これは農民一揆にまで発展し,マルヌの村々から3,000名に上る人々が手に手に鍬や手斧,葡萄畑用の杭を持って集まり,シャンパーニュの外から来たワイン4,000本を積んだトラックを襲撃して,車ごとマルヌ川に突き落としました.
 その後,彼らは「ペテン師打倒!」を叫びながらアシル・ペリエのシャトーに向かい,ペリエの邸に侵入すると,家の前に置かれていた馬車にあったワイン樽を馬車ごとマルヌ川に放り込み,カーヴ内の葡萄圧搾機を破壊し,5万本のシャンパンをたたき割りました.
 2時間後に警察が到着しましたが,そのときには誰もいませんでした.

 翌日,ドン・ペリニョンのオーヴィレールの2カ所のカーヴが襲われ,警察が来た頃には再び消え失せていました.

 以後,半年にわたり,「レ・ゼムト」と呼ばれる騒動が始まりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/04 22:53

 さて,1911年1月,シャンパーニュで農民によると思われる連続襲撃事件が起きました.

 こうした状況は1908年の再来であり,政府は再び頭を悩ませることになります.
 更に,こうした状況が続くようなら,政府は倒され無政府状態となり,1789年の二の舞となることを恐れ,パニック状態になりました.

 で,政府が何かをしたのか,と言えば,何もしませんでした.
 この前,政権交代したどこかの国の政府の様に,思考停止状態に陥って,何も出来なかった訳です.
 そして,2月10日,彼らは再び現状追認の法律を通過させました.

 つまり,マルヌとエーヌはシャンパーニュに属し,オーブはそうではない,としたのです.
 この結果,マルヌ県では祝日を布告して住民たちがダンスに興じ,一方のオーブ県では善後策をあれこれ思い巡らせることしか出来ませんでした.

 そうした中,オーブ県で絶望した葡萄栽培者達がカフェに集まっている頃,そこに1人の新参者がいました.
 彼,ガストン・シェクは,元々は葡萄栽培者ではなく陶工でしたが,釉薬の所為で体を壊し,求職中の身でした.
 とは言え,詩人で音楽家の彼は人を惹き付ける才能に恵まれ,大きな人間性に溢れた人でした.
 周囲の者はみんな彼のことを,「ちびのシェク」と呼びましたが,彼は消沈していたオーブの人々を結集させ,鍛え上げて「バタヨン・ド・フエル」,即ち,「鉄の大隊」と呼ばれる組織に仕立て上げました.

 この名称は,シャンパーニュへの再統合を目指すオーブの人々の鉄の意志を示すとともに,葡萄畑で石を掘り返すのに使う鍬にも引っかけています.
 この鍬は農作業用の普通の鍬ではなく,「?」の様に湾曲して先が尖った鉄の鉤を持つ頑丈な道具で,これを叩いて伸ばすと,槍と化します.

 彼ら「鉄の大隊」のメンバーはオーブ県中を行進して,各地の住民を引き入れていき大きくなっていきました.
 彼らはそれぞれ,「我らはシャンパーニュ人だった.我らはシャンパーニュ人である.我らはシャンパーニュ人であり続けるであろう.それで決まりだ!」と書かれたピンク色のワッペンを胸につけていました.

 この運動は次第に大きなうねりとなっていき,ランドルヴィル村では村長が村役場に鍵をかけ,「此処がシャンパーニュになるまで,このドアは開けないだろう」と書いた看板を掲げました.
 各地で税金の書類が焼かれ,政府役人を模した人形が縛り首にされました.
 地方議会の議員は3月までに125名以上が集団で辞め,オーブ県での行政活動はあらゆる面で停止しました.

 パリではオーブ県選出の国会議員が予算案の承認を拒否することで政府を締め付け,遂に政府は総辞職に追い込まれました.

 4月の復活祭直前の日曜日,即ち棕櫚の聖日に葡萄栽培者,その家族,議会の議員やそのほかの人々1万人以上がトロワで行われる大規模デモに参加すべく特別列車に乗り込んでいきました.
 「鉄の大隊」は先頭に立ち,幟や赤旗を振り,自家製の革命歌を歌う人々は通りを行進しました.
 途中,ある1軒の店が「マルヌ産シャンパン」を売っていることが発覚して略奪されるような事件も起きています.
 デモ隊が市の中心部に達すると,その数は2万人に達していました.

 そして,トロワの市長が歓迎の挨拶を述べ,そして,大歓声の中,オープンカーから降りて,熱狂した支持者の頭の上を順繰りに運ばれた小柄な「ちびのシェク」が壇上に立つとその興奮は最高潮に達しました.
 そこでシェクが革命を宣言すれば,本当に革命が成就したかもしれません.
 しかし,彼は,シャンパーニュ人,即ち,オーブの人もマルヌの人もすべてシャンパーニュ人であると述べ,我々の真の敵はインチキなシャンパンを作り,金こそ全てだと思っているような連中であるとして,自らの尊厳の為に立ち上がろうと叱咤しました.
 この演説には万雷の拍手が湧き起こりました.

 既にこの時点では,群衆の数は4万人に達していました.
 一部の群衆が警察の門に上って赤旗を掲げると,数百人の軍隊が彼らを解散させようとしますが,彼らは野次を浴びせ,「第17師団万歳!」と唱え,押し返しました.
 因みに第17師団は1908年の事件で,師団ごと上官に反抗した師団です.

 これだけ大規模な集会になったにも関わらず,こうしたちょっとした小競り合いが起きただけで,集会は平穏無事に終了しました.
 しかし,群衆達の示威行動は,議会を動かすことになります.

 2日後,パリの共和国議会はシャンパーニュの定義を再議しました.
 そして,1908年の法律はフランス人の対立を惹起した大失策であることを認め,夕方5時,議会は1908年の法律を破棄する様に勧告しました.

 今度はオーブで喜びが爆発し,マルヌでは怒りが爆発しました.

 午後9時,マルヌ一帯にラッパと太鼓の音が鳴り響き,栽培者とその家族は手斧や鍬や杭など凡そ武器になりそうなものを手に手に携えて家を飛び出していきました.
 ディズィでは家々が略奪されてピアノが壊され,車が燃やされました.
 別の村では1発の爆弾で3人が負傷しました.
 そして,マルヌ県知事は暴力の実態を把握すべく,列車に乗り込みますが,それから間もなく,知事はパリへ向けて,「こちらは内戦状態にある」と打電します.

 暴力は夜を徹して拡大していき,マルヌに3万5千の兵士が投入されましたが,彼らが目にしたのは革命でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/06 22:02

 さて,マルヌの暴動ですが,早朝の汽車でエペルネに到着した連隊の兵士達が見たものは,地平線の赤みを帯びた光でした.
 それは太陽ではなく,アイ村と言う村の一帯が猛火に包まれていて,兵達は吃驚仰天しました.
 彼らの大半は,パリとノルマンディ出身者で,この辺りで起こっていた出来事を知らなかったのです.

 夜が明けてみると,焼け焦げたビルからは煙が漂い,暴徒は1万人以上に達していました.

 元々,彼らの標的はシャンパンの瓶詰め作業と出荷の中心地であり,古くから市が開かれていた町であるエペルネでした.
 彼らは口々に,「ペテン師達に死を!」とか,「オーブをぶっ潰せ!」と叫びながら,線路を塞いで列車を止め,トラックをひっくり返し,「ワイン作りで誤魔化しを働いた」メーカーを襲いました.
 しかし,エペルネに援軍が間に合い,町の入り口には軍隊が行く手を塞いでいました.
 そこで彼らは方向転換して,エペルネの北東4.5kmの葡萄栽培とワイン醸造の村であるアイを襲ったのです.

 名門のM.M.ビサンジェと言うシャンパンメーカーの倉庫は徹底的に破壊し尽くされ,屋根が無く煤で汚れきった4つの壁が建っていただけでした.
 道路には鉄の箍やバラバラになった樽のなれの果て,それに何百冊に上る会計帳簿が散蒔かれて,それらは全てワインに浸かっていました.

 正午になると,現場を空から偵察する為に軍用機2機が派遣されました.
 その結果,状況は完全な混沌であると報告されました.
 因みに,軍事作戦として欧州で航空機が使用されたのはこれが初めてでした.

 眼下の通りでは,騎兵が彼らを撃退しようとサーベルを振るっていました.
 女達が馬の前に身を投げ出し,彼女達の夫は電信線を切断して,村の道路に張り巡らし,村に入る増援部隊を躓かせて妨害を行っていました.
 彼らの殆どは兵役に就いたことがあった為,騎兵が突撃喇叭を吹く度に,逆に彼らの中から元喇叭手を勤めた連中が退却の合図を吹いて,乗り手と馬を混乱させたりしています.

 兵士の方も士気が上がりませんでした.
 支給された銃弾は僅かに2発ずつ,それも撃ってはならぬと命じられていました.
 またサーベルを振るう場合も,峰打ちしか許可されていませんでした.
 上からは,「我慢しろ,だが精力的に働け」と命令されていましたが,多くの兵士は結局何もしませんでした.
 正に,「神様,俺たちはどうすりゃ良いんですか?」です.

 将校ですらまごついていました.
 アイ村の通りは狭く,騎兵隊の突撃は不可能です.
 勇敢な騎兵隊の連中が突撃してくると何時の間にか罠に落ち,馬を御せなくなって瓶や煉瓦の雨による攻撃を受けました.
 その襲撃者を追跡すると,彼らは村の地下を走っている兎穴のようなカーヴに姿を消してしまう.
 遂に将校達も匙を投げ,「もう暴徒達は放っておけ」と部下に言う者も現れました.

 更に彼らはエスカレートし,丘に登って葡萄の樹を霜害から守る為に置かれていた藁に火を放ちました.
 これには当の暴徒達も慄然としました.

 元々,彼らは葡萄栽培農家です.
 葡萄の若木を踏みつけるくらいなら,自分の赤ん坊をぶん殴るとまで言われたその宝物に手をかけ始めたのに吃驚したのです.
 結局,その日が暮れるまでに数千本の葡萄の樹が燃やされ,踏みつけられました.
 アイ村の6軒のシャンパンメーカーとその建物40棟が廃墟と化し,600万本近いシャンパンが割られて側溝に流れ込み,側溝を溢れさせました.

 夜通し暴れ,翌日も暑い日の下で大暴れした人々は死ぬほど疲労困憊しました.
 彼らはものも食べずに酒ばかり飲んでいたので,殆ど二日酔い状態でした.
 そして,殆どが家に帰るか,路上に倒れ臥し,遂に騒ぎは収まりました.
 驚くべき事に,これだけの暴動なのに死者は1名も出ませんでした.

 ただ,フランス社会の受けた衝撃はすさまじく,状況に対処できなかった所為で,2つの内閣が総辞職に追い込まれました.
 その後,当局は暴徒として加担者を逮捕し始めました.
 これには当時最新の技術であるニュース映画が利用されました.
 映画館の技術者が暴徒達を撮影し,それを夜上映したことがきっかけでした.
 暴動の指揮者は,地元ではなくフランスの他の地域に移送されて裁判を受けることになりましたが,大手のシャンパンメーカーは彼らの不満の多くが筋の通ったものであると認めた為,彼らの罪を軽減する為に代表を送りました.
 この間に2名の葡萄農家が自殺しています.

 シャンパーニュ地方は葡萄栽培者よりも軍人の方が多いと言う非常事態下に置かれました.
 その多くがシャンパンメーカーに分駐しましたが(大きな建物はそれくらいしか無かった),カーヴ主任は兵達が自社製品を勝手に略奪するのではないかと恐れました.
 そこで,あるカーヴでは,彼らが駐屯している間,毎日朝晩に,シャンパンに加工する前の白ワインを詰めた水筒を渡していたそうです.
 その所為か,このカーヴでは不届き者は一人も出なかったと言います.

 秋になると,1910年のどん底は姿を消し,豊かな実りが約束されました.
 そうして漸く軍隊は帰還していきましたが,危機はまだ去っていませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/07 21:49


 【質問】
 「レ・ゼムト」のその後は?

 【回答】
 さて,シャンパーニュの大騒擾事件はオーブ県,マルヌ県共短期間で収束しましたが,熾火のように水面下では延々と燃えていましたので,何らかの状況変化があれば再び爆発する危険がありました.

 妥協の措置として,政府はシャンパーニュの基準を2つに分けました.
 マルヌにはシャンパーニュの呼称を与え,その第1級の地位を保持できることになりました.
 一方,オーブはエーヌの一部とともにシャンパーニュ第2地域の呼称を与えられ,少なくともシャンパーニュの一部と見做されることにはなりました.

 しかし,これは問題の先送りでしか有りませんでした.
 オーブを継子扱いしていたマルヌではオーブの「入会」を許したことに憤慨する者が多数おり,オーブではその名称「第2地域」が,事実上マルヌより劣る2級品扱いされたことに憤慨する者が多かったわけです.
 根本解決の為の討議は未だに続いており,法制担当者達は,これ以上の結論は少なくとも1913年夏まで出さない事を表明していました.
 この背景には,この問題は根深く,場合によってはフランス国内の他のワイン生産地に影響を及ぼすことが予想された事がありました.

 この危機を悟ったのは大手のメーカーでした.
 彼らは直ちに委員会を組織し,葡萄生産者が公正な価格で葡萄を売れるように手配すると共に,不正行為への断固たる反対と代理人制度の悪弊を取り除く手段を整備しました.
 幸い,1912年秋の葡萄収穫は豊作で且つ質も良く,価格も上昇した為に,農民達の危機は当面去りました.

 とは言え,余り放置されていると,再びその対立が鎌首を擡げてきます.
 1913年にはオーブで再び騒擾事件が発生しました.
 「シャンパーニュか革命か!」とシュプレヒコールが上がり,ある村では抗議者達が取り付けた看板を取り外そうとした警官を側溝に叩き込んだ事件も起きました.
 税金の不払い運動も始まり,オーブでの税収は再び確保できなくなる事態が発生し出しました.

 政府を最も狼狽えさせたのは,そのデモ参加者達の多くが手にしていた国旗でした.
 その手には,赤白青の縦三色旗ではなく,赤白黒の横三色旗,即ち,フランスの国旗ではなくドイツ帝国の国旗が握られていたのです.
 その上,看板には「ドイツ万歳!プロイセン万歳!」の文言もありました.

 このままでは「世界に冠たるドイツ」を標榜し,各地でフランスと衝突を繰り返していたカイザーの思う壺となり,フランス東部は完全に隣国の支配下に挙って入るかも知れない.
 その恐怖が政府を動かし,法案作成を加速させます.

 そして,1914年夏,政府の法作成担当者は,やっと各陣営が受け入れられそうな法案を提出しました.
 しかし,残念なことにこの法案は吹っ飛びました.

 第一次大戦が始まったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/08 17:06


 【質問】
 ドイツ当局に対する,アルザス方言を守る戦いについて教えられたし.

 【回答】

 さて,帝国議会に於ても,1873年にアルザス人代議士が登場する前から既に,言語使用の問題は議会で論議の対象になっていました.
 例えば,ドイツ当局が学校にドイツ語を課した時の性急さに対し,猛烈に抗議したのは左翼系の代議士です.
 これに対して当局側を擁護したのが,フォン・ブットカンマー議員です.
 この時,彼は2年前からストラスブールに住んでおり,アルザスとその住民を知るには,それで充分な期間だと考えていました.

 彼の考えに因れば,フランス語を知らなくてもアルザスで立派に暮らしていけるのだから,何も此処でこの言葉を教える理由は全く無い,ヴォージュの彼方の小学校でもドイツ語を教えているのでは無いし,また同じ様にフランスと接しているバーデン地方やプファルツでもフランス語を教える事など,誰も思いつかなかったでは無いか,と言い,何故,アルザスだけが例外になるのかと言う疑問を呈していました.

 フォン・ブットカンマー議員の頭の中には,フランスとドイツという国は存在したのですが,アルザスは存在しませんでした.
 つまり,1872年の戦争の結果,アルザスはドイツに返ってきたのであり,アルザスはフランスでは無く,ドイツの一地方となったのだから,もうフランス語を必要としないと言う訳です.
 何故,この地方が教育面で特別な制度の恩恵を受けているのか,彼には理解出来ませんでした.
 彼にとっては,事態はごく単純なものでした.
 ヴォージュの一方はフランスとフランス語の支配であり,そして他方はドイツ語とドイツの支配です.

 彼にとっては,200年以上のフランスの存在と,アルザス人とフランス人との間に結ばれたあらゆる種類の絆は,どうでも良い事でした.
 重要なのは,アルザスに連邦分立主義は不要であると言う考えです.

 ブットカンマーが死して後も,彼の考えは形を変えて続きました.
 例えば,第二次世界大戦後,バ・ラン県とオ・ラン県の教員組合は,ごく最近まで,ヴォージュの向こうの小学校でも「外国語」を教えていない事を口実に,小学校のドイツ語教育の導入に強く反対していたりします.
 ドイツ人もフランス人も,そう言う意味では変わっていませんし,日本の隣国の半島国の考えも正にこれと同じ考えでは無いか,と思ってみたり.

 フォン・ブットカンマーやそれ以後,その考えを踏襲する人々が決して理解しなかったか,或いは理解しようとしなかったのは,1870年には,フランス語が事実上アルザスの言語遺産になっていたと言う事でした.
 バーデンやプファルツ地方が何年かフランス軍に占領されたとしても,それはこうした形にはなりませんし,ピカルディやヴァンデ地方でドイツ語は言語遺産に決して成りませんでした.

 アルザスは,「歴史と地理によって特徴付けられるユニークな例」ですが,それは決して自治主義の発明物ではありません.
 それは1つの事実なのです.
 アルザスに「特異性」の刻印を押したのは運命であり,「自治主義」ではありません.
 運命とは,即ちアルザスの領有を巡る独仏間の対立です.
 人がそれを望もうと望むまいと,専らドイツでも,専らフランスでも無い刻印をこの地に与えたのはこの運命です.
 従って,アルザス固有の性格が脅かされる度に,アルザス人が自らの流儀で自己の特異性を強調しても驚く事ではありません.

 第2帝政の間も,アルザス人は,ドイツ人,フランス人双方の意表を突く様な形で,自己の特異性を誇示しようとしました.
 特に,「ドイツ国民性」の美名に隠れて,随所で展開されたプロイセンの言語的民族主義に抗議する為,彼等は,全アルザス人に共通な言葉,方言に身を傾けました.

 過去には,標準ドイツ語,次いでフランス語に取って代わられる前,方言は正に文学語となっていました.
 驚くべき事に,19世紀の終わり頃には,標準ドイツ語で完璧に自己表現出来る新しいアルザス人の世代が現れたのですが,文学的演劇の舞台では方言が力強く復興を果たしていました.
 方言詩の分野でも,そうしたうねりは大きくなり,全体的に,この時期はアルザスに於けるルネサンスとも言うべき時代になっていたのです.

 これらは,自らの個性が侵害される事を要因しない民意の発揚でした.
 ただ,統治者…即ちドイツとフランスは,そのルネサンスに対して警戒感を持っていました.
 1911年のフランスのある出版物には,こうした動きを歓迎するどころか,
「方言は我々にとって,ドイツ語の前触れとして出現した」
と書かれ,ドイツ側も,アルザス文学の復興運動は,同様に如何わしいものと見做されます.
 特に,ドイツではそれが帝国に対する「地方」の叛乱,即ち事実上の反国家的な態度表明であると見做したのです.

 しかし,アルザス人達は,その方言を,「故国の塊」であると述べています.
 この方言と言う存在が,アルザス人はそれを守るべく決意している事を両国に理解させる為の特権的な手段であると認識していたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/24 23:38
青文字:加筆改修部分

 さて,ドイツ人は色々ありましたが,1872年以降,フランス語に対して基本的な対立心を殆ど示しませんでした.
 確かに,彼等はフランス語教育を方言使用者にまで拡大する事を拒みましたが,アルザスに於けるその使用まで禁じる事はしませんでした.
 フランス語と言うのは,アルザス人のブルジョワ階級に於ては,サロン語として使用されたものであり,それは公共の集まりでも許されたものでした.
 しかも,ドイツの高級官僚も大抵はフランス語を知っており,機会があればこれを話す事は名誉に関わる事だと考えていた節があります.
 ですから,州知事のフォン・マントイフェルからして,事実上フランス語しか使わない会合にも自ら進んで出席していました.

 ただ,アルザス人の言語教育に対する執拗な要求に対し,寛大さは徐々に陰に籠もった反感へと転化しつつありました.
 そして,1914年,フランスに対する戦争が始まると,フランス語に対する隠然たる反感は公然たる戦いへと変貌しました.

 軍人達は,安全保障上の理由に依り,フランス語はアルザスの公的生活から消えなくてはならないと言いました.
 人々はフランス語風の姓名や地名をドイツ語化し始めました.
 山や川の名前さえそれに従います.
 1915年には,アルザスのフランス語系地域にある9つの市町村が,行政用語としてのフランス語使用の特権を失いました.
 あらゆる種類のフランス語の登記,登録が抹消されました.
 これらの地域では,一応フランス語は教育言語として残りはしましたが,ギムナジウムではこれを英語に代える試みが為され,コレージュやリセでは,先生や生徒に方言の使用を禁止するまでに至り,標準ドイツ語のみが使用される事になりました.

 こうした措置は,しまいにはアルザス住民を激怒させてしまいます.
 軍当局は,失策に失策を重ね,文民当局が多大な努力と引き替えにやっと樹立した構築物を尽く破壊してしまいました.

 言語の抑圧,これを敢行したのは主にプロイセンの大佐達でした.
 それはアルザス人の記憶に深く刻み込まれる抑圧になります.

 1870〜1918年の間,フランス語はアルザスからもロレーヌからも追放されはしませんでした.
 それをするには,フランス語系の全住民を追放しなければなりません.
 僅か半世紀の間に1国の言語を消せる訳がありません.
 この時代までに,方言は約1,400年間,標準ドイツ語でさえ約300年間存在していました.
 アルザスがドイツ語系なのは,プロイセン人が1870年にそれを導入したからであると言う話が実しやかに伝えられるのですが,事実は大いに異なる訳です.

 ドイツの言語政策は,全体的にリベラリズムに裏打ちされてきました.
 それは認めて当然の事ですが,これはアルザスに二言語使用の国を認めた訳ではありません.
 ドイツ人は,ドイツ語の地位を徐々に強化し,フランス語に対するその覇権を確立する事が問題になっていました.
 20世紀初頭には,ドイツ語は既に幅広くアルザスの支配的言語になっており,1918年にはそれが大多数のアルザス住民の唯一の言語と成り果せています.

 しかし,最後の4年間の抑圧が大きく,1918年11月22日にフランス軍がストラスブールにやって来た時には,興奮の坩堝に湧き,再びアルザスとロレーヌは,フランスに復帰する事になった訳です.

 それはフランス語に対する方言の新たな戦いの始まりでもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/25 23:18


 【質問】
 ジャン・パティスト・ペランって誰?

 【回答】
 ジャン・パティスト・ペラン(1870〜1942)は,リールに生まれ,パリのエコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校)で学んだ化学者,物理学者.
 第一次世界大戦中,潜水艦の音響探知機の研究に当たる.
 第二次世界大戦ではフランス降伏後,ニューヨークに逃れてレジスタンス運動への支援を集める傍ら,フランス・ベルギー学派の結成をたすけた.


 【質問】
 なんでド・ゴール大統領には生涯に30回以上も暗殺計画が挙がったんですか?
 仮にも救国の英雄が植民地を解放しただけで,ここまで憎まれるものなのですか?

 【回答】
 そもそも,大統領になった過程に問題がある人だから.
 よく考えると法的根拠が曖昧だし.

 また,フランスはつい最近まで左派と右派の抗争が激しかった.
 特にド・ゴールの政策は左派労働者層にあまり優しくないので,
 そういった面でもド・ゴールの敵は国内に多かった.
 最近からは想像もつかないが,第2次大戦後も長らく政治安定性の低い国だったのだよ,フランスは.

 さらに,アルジェリア独立紛争の際には,既にフランス(と入植者たち)が莫大な投資をつぎ込んでたってのがある.
 つまり入植者(コロン)からすれば,彼はむざむざと領土を放棄しようとしてる“売国奴”なわけで.
 ただ,もうその時点で経済面で大きな負担になっていたアルジェリアの放棄は,フランス国民の圧倒的な支持を得てたから,現地軍とコロンが頑張ったものの,独立の勢いは食い止められなかった.
 ド・ゴール暗殺計画は,どうにか流れを変えようとした苦肉の策といってもいい.

 つい先日〔2006年〕の,イスラエルのガザ撤退の時も似たような騒動が起こったね.


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