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◆◆◆ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱) 1956-os forradalom
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※ 並びはほぼアルファベット順
「古本虫がさまよう」◆(2012/02/29) 「ハンガリー動乱」で暴言を吐いた人々たち
『ハンガリー動乱におけるハンガリー陸軍の崩壊とソ連軍の行動』(防衛研修所,1958)
【質問】
ハンガリー動乱って何?
【回答】
ハンガリー1956年革命 1956-os forradalom(ハンガリー動乱)は1956年10月23日,ハンガリー国民の政府に対する蜂起から始まった,一連の政治的および武力的衝突.
いったんは,大衆に人気のあるナジ・イムレがハンガリー勤労者党によって首相に任命され,ソ連支配から脱したように見えたが,ソ連軍の武力介入であぼーん.
▼ 政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,これは単なる反乱や反抗,放棄や暴動,一揆やゼネストなどではなく,社会経済的かつ民族政治的な目標を持った,国内的には勝利していた真の革命だったという.
詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
を参照されたし.▲
▼ 【質問】
【珍説】
ハンガリー動乱は
「生活苦を訴える労働者のデモが暴動化し,ついにはソ連軍が介入した事件」???(林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.146)
だったというのは本当ですか?
【回答】
【事実】
まあ,民衆による秘密警察・共産党員虐殺をどう表現するかの問題でしょうが,「暴動化」というのは,ちとニュアンス的に変ですね.▲
▼ 事実としては,ゲレー(ラーコシの後継者)は,まだ流血沙汰になる前,デモが起きただけの段階で,ソ連に対して軍事介入を相談し,ソ連軍が出動しています.
つまり,「暴動化したデモを鎮圧するためにソ連軍が介入した」という認識は誤りです.
また,流血沙汰が発生したのは,秘密警察が群集に向かって発砲してからであり,「デモが暴動化」したという表現も誤りです.
さらに,デモは当初,学生組織MEFESZによって組織され,それに市民がどんどん参加して膨れ上がっていったものであり,その要求のメインは,ソ連軍撤退と自由選挙実施でした.
やがてこの動きはハンガリー全土に広がり,ごく少数のスターリン主義者以外は殆ど全国民がこれに参加しています.
つまり,「生活苦を訴える労働者のデモ」という表現も誤りです.
生活苦を訴えたものでもありませんし,参加したのは労働者だけでもありません.▲
それに,林の表現ではまるで,ソ連軍侵攻はハンガリーの治安回復のための正当な行動だったかのようにしか読めませんし.
少なくとも,ハンガリー人の前ではそんな表現をしないほうが身のためでしょうな.
▼ 【参考ページ】
ヴィクター・セベスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008)
リトヴァーン・ジェルジ『1956年のハンガリー革命』(現代思潮新社,2006)▲
2017.3.19改訂
【質問】
ハンガリー動乱が起きた原因は?
【回答】
・経済の崩壊
・農民に打撃を与えた土地政策.
・大学の狭き門ぶりと学ぶ環境に対する学生の不満
・改革派とスターリン主義者との内部抗争による,ハンガリー勤労者党の指導力低下
が原因.
蜂起した人々の要求は
・土地を所有して耕す権利
・工場の自主管理と自由に労働組合を結成できる権利
・言論の自由
・ソ連軍撤退
・反民族主義政策緩和
・民主議会
・カトリック教会の自由
といったものだった.
……あれ? 共産党って「労働者のための党」のはずだよな?w
【質問】
ハンガリー動乱での,市民とソ連軍との戦闘はなぜ起こったの?
【回答】
10月23日当初からブダペシュトではソ連軍との戦闘があったが,しばしば停戦し,結局は戦闘を停止した.
まあ,よほどの狂信的共産主義者じゃない限り,丸腰に近い市民を撃てはしないわな.
10月25日の戦闘は,誰が最初に発砲したのか分かってないが,秘密警察のしわざじゃないかとも言われてる.
確かに動機の点では彼らが一番疑わしい.
ソ連軍と市民との間では話し合いが行われ,説得に応じてハンガリー人を戦車に載せ,国会前広場へと移動した戦車兵もいたくらいだったのだから.
のちのルーマニア革命でも一番抵抗したのは秘密警察(セクリタテ)だったしね.
この戦闘では死者約100人,負傷約300人.
けれど10月27日夜には,ミコヤン・ナジ会談の結果,ソビエト軍はいったん撤退する(10/30~).
▼ 11月4日のソ連軍再侵攻は,10月30日に秘密警察や共産党(勤労者党)書記らが民衆によって虐殺されてから.
この報告を聞いてミコヤンは考えを変えた.これは反ソビエト活動だと.
かくしてソ連軍は再び国境を越える.
しかしソ連軍は再び国境を越える.▲
今度は説得されたりしないよう,部隊は中央アジアから連れてこられた.
「彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた.
またある者は1956年のスエズ戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた」(ウィキペディア)とか.……天安門事件の鎮圧でも,中国が似たようなことやってたなあ.
ナジは中立を宣言したが,国連や西側諸国からの具体的支援は無し.
10月29日に結成されたばかりの,ハンガリー警察,軍隊,市民から成る国民防衛隊との間で戦闘勃発.
11月4日.ソ連軍,戦車2500両,15万人がブダペストに侵入し,国会を占拠.
ナジはユーゴスラビア大使館に逃げ込んだが,逮捕される.
11月10日に労働者評議会が休戦を呼びかけるまで,戦闘は続いた.
ハンガリー側の死者,1万7千人.ソビエト側,1900人.
他にナジはじめ1200人が処刑.難民は20万人に達した.
【質問】
ハンガリー動乱の時は主にどのような人々が武器を持って立ち上がったのでしょうか?
若い人が多かったと聞きましたが,彼ら,武器はどこから調達したんでしょうか?
あと,政権を転覆させる事件は普通イギリス,フランスを例にとると”革命” (名誉革命,フランス革命)となずけるのが普通ですが,ハンガリーではなぜ”動乱”なのでしょう?
ゴードン将軍 : 世界史板,2002/06/09
青文字:加筆改修部分
【回答】
「ハンガリー動乱」・「ハンガリー事件」はどちらも"Hungarian Incident "の和訳ではなかったですか?
「事件」の方は日本のKPなどが使っていたらしい.
現地では長いこと「反革命」が公式見解だったのですが,カーダール時代の末期に「民衆蜂起」と評価が変わり,さらに体制変換後には「革命」が一般的となったと思う.
愛国者達が使用した小火器は,ハンガリーの軍や警察から調達したものが多かったのではないでしようか?
戦闘参加者はどのような人々かということですが,指揮を執るのは大人でも,その下で戦うのは15歳前後の少年だということもありました.
(モスクワ広場の近くのセーナ広場では,市電の運転士が少年たちを指揮して戦った由.)
世界史板,2002/06/10
青文字:加筆改修部分
最初の暴動は自然発生というよりは計画的なもので,軍隊やら兵器工場から武器が流出していたらしいですね.
手元の記録写真を見ていると,市民がバラライカと呼ばれるサブマシンガンやらボルトアクション式の旧式なライフルを持ったりしているのがあります.
その後はハンガリー正規軍部隊も反乱に参加しています.
女子供まで機関銃の待ち受ける敵陣に向けて,火炎瓶を手に鎖橋の上を突進したそうで・・・.
私の知人に戦前の生まれの方がいますが,この時のことをお聞きしても,「それはひどかった」としか教えてくれません.
言葉では伝えられないほどということなのでしょう.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/06/09~06/10
青文字:加筆改修部分
▼ ちなみに,以下のページによると,軍や警察は市民に小火器は渡すことができたが,重火器を渡すことは物理的に不可能だった模様.
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[第二次大戦後,]ハンガリー陸軍は再編成された.
標準的武器はソ連製である.
しかし,ソ連軍のT34戦車は砲弾を発射することができなかった.
重要な部品はソ連の軍事顧問が保管していた.
民衆のデモが始まったとき,ハンガリー軍の兵士のほとんどは,どちらにもつかず,兵舎に戻った.
そして,武器と銃弾を市民に手渡した.
ライフル銃も渡された.
警察本部長は中立ではなく,革命者に転向し,警察の武器保管所を解放した.
こうして,市民の抗議は武装蜂起に変わっていった.
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http://www.fben.jp/bookcolumn/2008/05/post_1817.html
「ソ連の軍事顧問団が重要部品を管理」という手法は,たとえばアフ【ガ】ーニスタンでも用いられ,反ダーウード・クーデターに際してアフ【ガ】ーン軍を沈黙させる手段となっている.
なお,小火器の操作に関しては,市民の側に問題はなかったという.
以下引用.
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ちなみにハンガリー動乱を考える上で手頃な本は多々あるが,珍しいものとしては,ジェームス・ミッチェナーの『アンダウの橋』 (日本外政学会)がある.
ちなみに書名の「アンダウの橋」というのはハンガリーとオーストリアとの国境の沼地に掛けられていた名もない小さな木の橋のこと.
この橋を渡ってハンガリーから亡命する人々に著者は取材をしている.
本書によると,ハンガリーでは十歳の少年はソ連のピオニールと同じ少年団組織に加入することができ,十四歳になるとソ連のコムソモール同様の組織に入れるという.そして,
そこでは拳銃の操作法などの軍事教練を受け,「西欧を憎み,米国との闘いに命を捧げることを誓った有望な少年たちには,特別課目(手製ガソリン爆弾による米国戦車破壊法)が教え込まれた」という.
そういうふうに,ハンガリーの少年たちは銃にせよ手製ガソリン爆弾にせよ,ソ連式で教え込まれていたおかげで,いざという時には敵対する相手をアメリカからソ連に変えれば,「即戦力」として役立ったというわけだ.
ソ連も因果応報なことをやったわけだ.
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http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-529.html
▲
【質問】
1956年11月4日からのソ連軍の攻撃について教えられたし.
Kérem, modja meg az 1956-os November 4-én a szovjet támadást.
【回答】
1956年11月4日午前3時,コーニェフ元帥麾下の第8機甲軍と第38野戦軍(10個師団,約15万人),最新鋭のT-54を含む戦車2500両,および多数の航空支援部隊が攻撃を開始した.
午前4時,主攻勢となる「雷作戦」を開始し,市民の巻き添え被害を考慮することなく,2日間にわたる航空攻撃と重砲撃の後,戦車がブダペシュト市街地に突入し,攻撃を受ければ,攻撃者のいると思われる建物およびその周辺を徹底砲撃した.
ハンガリー軍および武装蜂起グループの反撃は微弱で,カーダール・ヤーノシュが政権に就いた11月7日には武力抵抗は殆ど終わっていた.
ハンガリー軍の殆どは,11月4日に兵舎に封じ込められ,ソ連軍がブダペシュト入りをしたときに,組織的に武装解除された.
ペテーフィ兵舎と陸軍士官学校でちょっとした抵抗があったが,ソ連軍の圧倒的戦力の前に武器を捨てた.
ブダペシュトから北西50kmほどのところにあるショロクシャールでの小戦闘だけが,戦闘らしい戦闘といえた.
ソ連軍特殊部隊の副指揮官マラシチェンコによれば,ハンガリー陸軍に対する作戦は,午前中の半ばには終了したという.
午前10時までに,ソ連軍はドナウ川の全ての橋を管理下に置き,バロシュ広場と東駅を占拠した.
武装蜂起グループは,勇猛果敢に戦ったが,火炎瓶と軽火器は,T-54戦車には通用しなかった.
主な抵抗拠点は,一つ一つ粉砕された.
抵抗者のいる建物は,徹底した砲撃により破壊された.
殆どの市民は,ソ連軍の執拗な連続砲撃の猛威に恐怖し,天井や地下室に隠れた.
モーリツ・ジグムンド広場の武装蜂起グループは11/4には降伏.
コルヴィン映画館からは11/6,生き残りの数人が脱出した.
キリアーン兵舎の建物は完全に破壊されたが,なおも地下室で戦闘が行われた.
11/9朝,ハンガリー「国民衛兵」部隊の指揮官キラーイ少将は,「自由の丘」の小さな修道院に司令部を移した.
次の数日間にわたる戦闘でキラーイは退却し,ブダペシュトを出て西側へ脱出した.
最後の抵抗が終わったのは11/11だったという.
武力抵抗に代わってゼネストが抵抗の手段となり,ブダペシュトには戒厳令が引かれた.
この攻撃により死亡したハンガリー人は,1956年革命全体の死者の約2/3,約1700人にのぼる.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.383-407
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_szovjet_inv.C3.A1zi.C3.B3_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#4_.D0.BD.D0.BE.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F
マルギット橋を封鎖するソ連軍戦車
(Wikipediaより)
mixi, 2016.11.15
一方,日本では「百姓の国ですからね」と,血も涙もない悪魔に魂を売ったマルキストが呟いていた.
ヤン・ヒューリック in mixi,2016年11月15日
大内兵衛ですね・・.
我が友人の大家さんだったご老人は,二次大戦末期のブダペスト包囲戦と56年を両方体験しておられて,
「君たち日本人には,ある日,家の前に他国の戦車が居るなどという状況は想像もつくまい?」
と言ってました.
ギシュクラ in mixi,2016年11月15日
【質問】
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)において,なぜソ連軍は引き返してきたの?
【回答】
政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,ナジ・イムレ Nagy Imre のとろうとした措置が,ソ連指導者にはとうてい受け入れ難いものだったからだという.
ナジのとろうとした措置とは,
1) ソ連の軍事介入を求めた,10/23のゲレー・エルネー Gerő Ernő 共産党第一書記の要請を過ちとして撤回する
2) 複数政党による連立政権を復活する
3) ハンガリーをワルシャワ条約機構から脱退させる
4) ハンガリーの国際的な中立を宣言し,国連に保護を求める
だが,ソ連指導者はこれを,超大国としてのソ連に対する公然たる侮辱であり,ヨーロッパさらには全世界における力の均衡を覆す試みであり,しかも社会歴史的に反動であると見たという.
詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
を参照されたし.
mixi, 2016.6.7
【質問】
ソ連側が受け入れがたい措置を,ナジはなぜとろうとしたのか?
【回答】
政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,革命の衝動とナジの個人的資質に起因したという.
ソ連の最初の軍事介入が中途半端だったことから,ハンガリーの革命家たちは,モスクワの政治的決意はそれほど固くないと誤解.
そして,介入が正式にはワルシャワ条約機構の名のもとに実施されたため,この条約を弾劾し,ハンガリーの脱退を求める声が上がった.
また,共産党が反民族的組織とみなされていただけでなく,事実上解体したため,国民は複数政党による自由選挙を求めた.
これらの声は国民ほぼ全体の支持を得た.
ナジは,こうした国民の過剰な期待や党の崩壊,混乱した軍といった情勢の虜となっていただけではなく,直近の追放期間の間に,穏健な改良主義的「新路線」の立場から離れており,
「衛星国の地位はハンガリーの社会主義建設の努力を常に阻害する.
したがって実質的な民族独立こそが真の社会主義のための前提となる.
しかし,東西両陣営の二極世界では,小国の完全な独立は不可能である.
したがって,両陣営は解体されるべきである」
などと考えていたという.
詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.242-243
を参照されたし.
夢想的な考え方に,過大な期待が加わればどうなるか?
これは火を見るよりも明らかだったろう.
孫子曰く,
「未だ戦わずして廟算するに,勝つ者は算を得ること多きなり.
算多きは勝ち,算少なきは勝たず」
理想を実現化するための具体的な戦略・戦術の策定が,ナジ達にできていなかったのが惜しまれる.
mixi, 2016.6.8
【質問】
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)における最初の武装蜂起について教えられたし.
Kérem, modja el a 1956-os forradalomban fegyveres felkelés kezdete.
【回答】
最初の戦闘は1956年10月23日20時30分頃,ブダペシュトのラジオ放送局前で,秘密警察AVOと,デモ隊の側についたハンガリー軍兵士との間で始まった.
翌日午前2~3時にはソ連軍の2個機械化師団がブダペシュト市内に侵入し,その後も増援部隊が送られたが,市街地においてヒット・エンド・ラン戦法に徹するブダペシュト市民の前に,不慣れな治安維持戦を強いられた.
補給物資も窮乏する中,クレムリンではハンガリーに対する譲歩の姿勢を見せるため,10月28日13時20分をもって戦闘を停止した.
そもそも戦闘が始まったのは,次のような経緯であるようだ.
10月22日15時,ブダペシュト工科大学中央講堂に5千人以上が集まり,後にこの革命のマニフェストとなる「16項目」要求を作り上げた.
そして,翌23日にはデモ行進を行うことを決めた.
ドナウ川の反対側では,ブダペシュト大学教養学部が大集会を開いており,彼らもデモに賛成した.
ラーコシの後継者でスターリン主義者のゲレー・エルネーは,ブダペシュトが危険な一発触発の状態にあることに怯え,12時53分,ラジオを通じて「あらゆる集会の禁止」を通告したが,警察に「平和なデモを武力で制止する」気がないことが分かったため,23日02:23,ラジオは音楽を中断し,デモの継続が認められたことを伝えた.
23日15時,デモ開始.
16:30までにヨージェフ・ベム広場は2万5千人のデモ参加者でいっぱいになり,さらに数千人が隣の堤防へ溢れ出た.
20時数分前には,にはデモ行進は20万人規模に人数を増やしながら,国会議事堂前広場に到達した.
一方,一部のデモ参加者数千人は18時頃,ブダペシュトのラジオ放送局に向かい,自分たちの要求を放送するよう,ラジオ局に要求した.
秘密警察AVOはラジオ局でトラブルがあるだろうことを予想しており,オルバーン・ミクローシュ警察大佐指揮の下,兵士とAVO隊員を含む260~280名で警備をしていた.
19時ごろ,放送局ディレクター,ベンケ・ヴァレーリアは,群衆の要求を呑むふりをしたが,実際には何も放送しなかった.
ラジオは「16項目」要求ではなく,ゲレーの演説を放送した.
ゲレーはデモの学生を暴徒呼ばわりし,「敵意を抱く分子」への譲歩はない,と断言した.
この放送にデモ参加者は激怒し,英雄広場の巨大なスターリン像(この辺にあった)を重機で破壊し始めた他,放送局ではディレクターに騙されたことに気付いたデモ参加者が,局の窓にレンガや小石を投げつけて窓を割り始めた.
AVO隊員が催涙弾を投げつけ,放水し,そしてデモ隊の頭上に威嚇射撃をした.
デモ隊は一時退散したが,数分後には群衆は再結集して,建物の正面へ殺到してきた.
警察は群衆に解散を要請したが,群衆が応じないと見ると,引き揚げてしまった.
建物の中にいたAVOのフェヘール・ラヨシュ少佐は,パニックになり,部下にシャーンドル・ブローディ通りの群衆を排除するよう命じた.
AVO隊員がデモ隊の排除を始めた時,群衆に死者が出た.
誰が発砲したが不明だが,AVO隊員であろうことは間違いない.
さらに一斉射撃があり,3人が死傷者した.
数分後,道を挟んでラジオ局に隣接している国立博物館の,庭に入る通用口に救急車が到着した.
デモ参加者は怪我人を救急車に運び入れようとしたが,救急車からは重武装のAVO隊員12名が飛び降りて館内に入った.
ほぼ同じ頃,ハンガリー陸軍の部隊が到着し始めた.
強硬派のスターリン主義者であるヘジ・ラースロー少将(参謀次長)が,ラジオ局を解放し,治安を回復し,デモ隊を粉砕せよと兵士に命じたからである.
だが,現場に到着した部隊の指揮官は,デモ隊に発砲するなと命令した.
何人かの兵士が,群衆の中に入り,AVO部隊と戦った.
兵士達の殆どは,どちらにもつかず,兵舎に戻ったが,武器弾薬を群衆に渡した.
コパーチ・シャーンドル警察本部長は,警察の武器保管所を解放した.
ラジオ局発砲のニュースは,ブダペシュト中に伝わった.
22時ごろ,ショクロシャーリ通りにある,市の主要弾薬廠の一つが襲撃された.
市内の軍事学校,ズリーニとペテーフィの2校は,武器を送った.
ブダペシュト最大の工業地帯であるチェペルの連合ランプ工場は,武器工場の代役としてよく知られており,その夜遅く,労働者は少なくとも千丁のライフルを工場から持ち出し,ラジオ局行きの大型トラックに積み込んだ.
ラジオ局では戦闘は夜半まで続き,フェヘール少佐とAVO隊員4人が殺害され,多数が負傷,60人が捕虜となった.
武装蜂起側では16人が射殺され,60人が負傷.
夜明け前にラジオ局は炎上し,反乱者の手に落ちた.
24日02~03時,ソ連軍がブダペシュト市内に侵入した.
セーケシュフェヘールヴァールのソ連軍司令部に基地を持つ,第2親衛機械化師団および第17親衛機械化師団.
また,オーストリア国境にも部隊を送り,国境を閉鎖した.
しかし,ソ連軍のT-34戦車は,市内の橋や広い交差点を占拠することはできても,ブラペシュトの路地へ入っていくことはできなかった.
ブダペシュト市民はヒット・エンド・ラン戦法に徹し,小銃や火炎瓶でソ連軍に一撃加えると,素早く身を隠した.
反乱グループは,すでに手に入れていた武器弾薬に加え,市内各所の警察署から武器を入手し,また,防備の手薄な武器店を襲撃した.
電話局2か所,ブダペシュト放送局ビル,『自由なる人民』社オフィス,東駅が反乱グループに占拠された.
ブダのセーナ広場では,小グループがバリケードを構築していた.
ソ連軍は放送局を奪い返そうとしたが,数時間の戦闘の結果,それに失敗した.
午前中までに,国立劇場付近,バロシュ広場,コルヴィン映画館およびその道路を挟んで向かい側にあったキリアーン兵舎 Kilián laktanya(旧名マリア・テレジア兵舎)が,反乱グループの主要拠点となった.
ハンガリー陸軍のマレーテル・パール Maléter Pál 大佐は,AVOビルを警備していた機械化部隊から戦車5台を借り受け,キリアーン兵舎に合流した.
夜になると,ソ連軍戦車は保全と警戒の隊形に戻り,街頭巡回をやめた.
24日一日で,ブダペシュトでは推定3000人の反乱者が武器をとり,約80人が死亡,450人が負傷した.
一方,ソ連軍は死者20人,負傷40人.
戦車4台,装甲車4台が大破した.
蜂起はハンガリー全土に波及.
デブレツェンではゼネストにより,輸送,電気,ガス以外の全てが機能を停止.
チェペルでは,労働者が工場を占拠した.
その他多くの町で,人々は共産主義に背を向けた.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#4_.D0.BD.D0.BE.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F
【関連リンク】
現在と当時の建物の比較写真
http://index.hu/nagykep/2012/10/23/budapest_akkor_es_most/
mixi, 2016.11.17
【質問】
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)において,ソ連の初期の介入はどのようなものだったの?
【回答】
ブダペシュトでのデモに対し,治安警察の発砲はあったものの,軍は中立を守った.
共産党第一書記の座にとどまることに固執したゲレー・エルネー Gerő Ernő (ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás の後釜)は,ソ連に介入と救援を要請.
10/24,ハンガリー駐留のソ連軍部隊は,「労働者は学生(デモ最初に起こしたのは学生たちだった)を支持しない」と観て行動を起こし,革命の鎮圧を試みた.
だが,その見立ての誤りに気付くと,ソ連軍はまず農村における介入を中止.
10.28までには首都での行動も中止した.
一方,10/25にはソ連はゲレーを辞任させ,カーダール・ヤーノシュ Kádár János を党第一書記に,ナジ・イムレ Nagy Imre
を首相に据えた.
カーダールは第二次大戦中の「国内地下派」で,ラーコシによる最近の粛清犠牲者の一人,しかも非ユダヤ人
(ラーコシ,ゲレー,ファルカシュ・ミハーイ,エーヴァイ・ヨージェフの「モスクワ派」4人組は,いずれもユダヤ人だった)
で,要するにゲレーとは正反対に位置する象徴的な存在だった.
ソ連はカーダール&ナジのチームが事態を掌握して,ポーランドのゴムルカ体制に似たフルシチョフ路線の体制を打ち立てることを期待したのだった.
もちろん,こんな意図がハンガリー国民に伝わるはずなどなかった.
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
http://homepage2.nifty.com/ekondo/rekisi2/easteurope.html
http://palop13a.hatenablog.com/entry/20050723/p1
mixi, 2016.6.8
【質問】
ハンガリー1956年革命2日目の戦闘について教えられたし.
【回答】
25日の夜が明け,ソ連軍戦車が巡回を始めると,戦闘は再び始まった.
銃声は市内のいたるところから聞こえた.
ハンガリー駐留ソ連軍の第128狙撃兵師団と,ルーマニア駐留ソ連軍の第33機械化師団から抽出された増援部隊,兵士約1万4千人,戦車250輌以上が新たにブダペシュトに到着した.
戦車部隊が市の全区を最大限に破壊し,その後,瓦礫の中で歩兵が白兵戦で敵を掃討する戦術をとった.
犠牲の多い戦術だった.
一方,放送局の攻防はこの日も続いたが,ソ連軍はこれを占拠することができた.
主要大通りでは,ゲレー退陣を要求する3千人規模のデモがあった.
ソ連軍兵士の拠点になっているアストリア・ホテル付近で,デモ隊は3台のソ連軍戦車に道を阻まれた.
数分間の睨み合いがあったが,戦車は発砲しなかった.
すると,ソ連兵と話をしていた何人かの学生が,1台の戦車によじ登ると,一晩かけてロシア語で書いたビラを戦車兵に手渡した.
ソ連兵は戦車から降りてきてビラを読み,デモ参加者と話を始めた.
戦車兵は説得された.
指揮官は,発砲しないことと,数分間友好的な話し合いをすることに合意した.
戦車兵は,デモ隊の要求は正当であり,自分たちは国会議事堂に一緒に行くべきだと思う,と言った.
学生数名が戦車の上に乗り,砲塔にハンガリーの旗をつけた.
戦車はブダペシュト中央警察署前を通過して,デアーク広場に到着した.
広場の反対側では,別のソ連軍戦車6台が,国会議事堂を守っていた.
デモ行進を半時間継続することが許可された.
だが,AVOまたはソ連軍が発砲し,混戦となった.
調査のためにハンガリー軍が派遣されたが,彼らはソ連軍に向かって発砲を開始した.
国会議事堂前広場のこの虐殺で,死者75人,負傷者282人が出た.
この30分後,ラジオはゲレー解任を報じた.
この虐殺以来,革命集団は攻撃的になり,新たな集団でその数を増やした.
抵抗が最も強いところはコルヴィン横丁とキリアーン兵舎だった.
マレーテルはキリアーン兵舎で600人以上の兵士を指揮した.
コルヴィン複合施設では,地下の路地を使い,革命集団はソ連軍戦車3台を後退させ,戦車2両と装甲車1両を鹵獲した.
ソ連軍は大通りに沿ってコルヴィン拠点へ戦車を移動させたが,撃退された.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
キリアーン兵舎前のJS-3戦車の残骸
弾薬が誘爆してスクラップになった模様
(こちらより引用)
mixi, 2016.11.17
【質問】
ハンガリー1956年革命3日目の戦闘について教えられたし.
【回答】
3日目の1956.10.26,戦闘はブダペシュトだけではなく,ハンガリー全土の地方都市にまで広がった.
ブダペシュトや,国境警備のソ連軍の殆どは,身動き取れなくなった.
また,孤立した守備隊や訓練兵舎の現地指揮官は,敗北の危険を冒すよりも,講和条件を懸命に模索した.
秘密警察AVOは,上辺だけの抵抗をした後,姿を消すことが多くなった.
ブダペシュトではコルヴィン横丁やセーナ広場など,各所で戦闘が起きた.
セーナ広場では,T-34戦車に対してユニークな対戦車戦術を駆使した.
一つは,水をいっぱい入れた,どこにでもあるシチュー鍋かフライパンを太綱に引っ掛け,バランスを取りながら道路を挟んで張る.
ソ連軍戦車がやってくる音を聞くと,鍋を地上1mくらいまでゆっくり下げる.
戦車はこれを見て躊躇する.
その隙に,アパートやオフィスに潜んでいた武装蜂起グループが,火炎瓶や手榴弾を窓から戦車へ投げつけるというもの.
もう一つは,木製の舗装材料を被せた煉瓦を,道路を挟んで地面に置く.
遠目からはこれは地雷のように見えるので,戦車は停止する.
すると停車した戦車に対して,アパートやオフィスに潜んでいた武装蜂起グループが,火炎瓶や手榴弾を窓から戦車へ投げつけるというもの.
さらに一つは,絹布を道路に敷き,その上に石鹸水を撒くというもの.
T-34戦車は滑って操縦不能になり,戦車同士で衝突したという.
これらの戦術にソ連軍は数日間,対処法を見つけ出すことができなかった.
地方都市では,僅か一度の戦闘で,反共産政府勢力に支配された.
いくつかの地域では守旧派との戦いとなったが,守旧派は敗北した.
南部の町ペーチでは午前半ばまでに,大学の軍事学教授が議長を務める「国民委員会」の手に落ちた.
AVOペーチ署長は,外出禁止令を出そうとしたが無視され,本部を青年隊に引き渡して国外へ高飛びした.
デブレツェンでは正午までに,公共の建物から赤い星がなくなり,「革命社会主義委員会」が地方自治体を掌握したと宣言した.
北東部の工業都市ミシュコルツでは,警察署を包囲したデモ隊に,AVOが発砲.
AVOはハンガリー軍に応援を求めたが,軍はデモ隊側に合流し,AVOに対して降伏を要求した.
AVOは降伏し,隊長とその部下1名が殺害された.
オーストリアの国境から12km東にある町,モションマジャローヴァールでは,AVO本部に到着したデモ隊に対し,AVOは機関銃で掃射.
52人が死亡し,86人が負傷.
デモ隊はいったん四散したが,数分後にはわずかな武器を持って戻ってきた.
AVO隊員は殆どが逃亡しており,指揮官のシュテフコ・ヨーヂェフ大尉他3人だけが捕らえられ,リンチに遭って,隊員2人が死亡.
シュテフコと部下1名は重傷を負って,駆けつけたハンガリー軍兵士により病院に搬送された.
この日,ハンガリーに派遣されていたミコヤンとスースロフは,ナジ・イムレと会談した.
ナジ政権の閣僚には,モスクワによって選ばれた守旧派がまだ幾人も残っていたが,彼らを解任してナジが自分で閣僚を選ぶことに,ミコヤンとスースロフは合意した.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
ブダペシュト,ボラーロシュ Boráros 通りにおいて破壊されたT-34戦車
(こちらより引用)
mixi, 2016.11.20
【質問】
ハンガリー1956年革命4日目の戦闘について教えられたし.
【回答】
ソ連軍戦車が防御陣地へ移動したのは前夜も同じだったが,この日はソ連軍戦車が巡回を開始しても,僅か数回の銃声がブダペシュトの端で鳴り響いただけだった.
外出禁止令は解除され,市民は食糧を買うことができた.
とはいえ,ブダペシュトの路上には依然としてソ連軍戦車350輌が待機していた.
ナジ・イムレは内閣の人員刷新を発表し,改革派の政治家を何人か入閣させたが,大して関心を呼ばなかった.
正午,ソ連軍の戦車と砲兵は,一列縦隊になってキリアーン兵舎とコルヴィン横丁に向かった.
これまでで最も激しい戦闘が起こった.
武装蜂起勃発前から兵舎にいた,工兵隊の新兵900人は,そのときブダペシュトの他の場所に配置されており,マレーテル・パール大佐の下には,150人未満の兵員だけだった.
彼はコルヴィン横丁の幾つかの武装蜂起グループから人員の増援を受けた.
また,戦車が6輌あった.
ソ連軍の砲火は,兵舎の窓ガラスの殆どを破壊し,ハンガリー兵と武装蜂起グループを多数戦死させ,大通りに面した建物6棟を破壊した.
ソ連側は兵員6名が戦死.
ハンガリー兵は戦車4両を破壊.
武装蜂起グループは補給品を積んだ大型トラック1両に火をつけ,装甲車1両を機能不能にさせた.
ソ連軍にとって深刻だったのは,補給品の欠乏だった.
ゲリラの標的になるので,市内の店から食料品を調達することもできなかった.
もっとも,それはソ連軍を戦闘不能に陥らせるほどではなかった.
武装蜂起グループの急進派は,ソ連軍の即時撤退とハンガリーの中立宣言を叫んでいたが,現実的とは言えなかった.
ナジはカーダール・ヤーノシュに,ミコヤンとスースロフとの間の停戦交渉に当たらせた.
交渉は深夜にまで及んだ.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.1242-256
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
mixi, 2016.11.20
【質問】
ハンガリー1956年革命5日目の戦闘について教えられたし.
【回答】
午前6時頃,更なる野砲と弾薬を準備したソ連軍戦車50輌以上が,ブダペシュト内の大通りにて攻撃配置についた.
反乱者の拠点,1~2ヶ所が落ちれば,ハンガリー人の士気は衰え,希望を捨て,暴動は簡単に収まるだろうというのがソ連軍の考えだった.
この攻撃には,何よりも秩序回復が大事だと考えるヤンザ国防相,まだモスクワに忠誠を誓うトート参謀長の圧力により,ハンガリー陸軍も加わる予定だった.
しかし指揮官以下からの命令不服従に遭い,結局,ハンガリー軍は攻撃には参加しなかった.
一方,知らせを受けたナジは急遽,フルシチョフと電話会談し,「攻撃を開始したなら自分は辞職する」と繰り返し伝えた.
フルシチョフは態度を軟化させ,「辞職する必要などない」と請け合った.
しかし,ソ連軍には作戦中止は完全には伝えられなかった.
当初兵力の3分の1が引き揚げたのちに攻撃を開始した.
コルヴィン横丁~キリアーン兵舎において,マレーテル大佐の部隊と2時間ほど戦闘となったが,どちらの拠点もソ連軍は占拠することはできなかった.
戦車3輌が失われた.
13時20分,ラジオで停戦が伝えられた.
ハンガリー駐留のソ連軍特殊部隊指揮官ラシチェンコとその補佐官マラシチェンコ中将は,戦闘を拒絶したことでハンガリー陸軍を,それを管理する意思が欠けていることでハンガリー共産党を非難した.
【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.1242-256
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#28_.D0.BE.D0.BA.D1.82.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F
ピョートル・ニコライ・ラシチェンコ
(wikipediaより)
mixi, 2016.11.20
【質問】
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)のきっかけは何だったの?
3行以上で教えて!
【回答】
10/23のブダペシュトにおける学生デモが,直接のきっかけ.
デモは
・ナジ・イムレの政権復帰
・ソ連軍撤退
・言論・出版の自由
・複数政党制
などを求めた.
デモが起きたのは,ソ連がポーランドで渋々ながらゴムウカの政権復帰を認めたことを,ハンガリー国民は,ソ連が全体として東欧を手放そうとしていると誤解し,熱狂したためで,学生デモから大規模な一般大衆デモへと発展した.
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.240
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
http://homepage2.nifty.com/ekondo/rekisi2/easteurope.html
http://palop13a.hatenablog.com/entry/20050723/p1
【ぐんじさんぎょう】,2016/06/09 20:00
を加筆改修
【質問】
1956.10.23のデモが「ナジ・イムレの政権復帰」を要求したのは何故?
【回答】
ナジ・イムレが「体制内改革派」だと思われていたから.
ナジは1953.7.4から1955年4月まで首相を務めた.
もちろん,ソ連の命令による.
彼は,危機的状況にあった経済と政治をいわゆる「新路線」に向けようとし,
生活水準や消費・賃金水準の引き上げ,
農業の集団化中止,
農業と軽工業に対する投資,
手工業者の個人営業の公認,
行政の分権化・国民参加,
教育の自由化,
法の支配,
政治犯への恩赦と強制収容所の廃止,
宗教への締め付けの緩和
などの綱領を打ち出した.
しかしスターリニストのラーコシ・マーチャーシュは,党機構を依然として支配しており,意図的にナジの「新路線」を妨害した.
また,おそらくは偶然の一致だったが,1955年のソ連の外国貿易縮小が,ナジの「新路線」をいっそう困難にした.
これまでよりも多くの財貨と新規の信用が必要になったまさにその時,ハンガリーに対するソ連からの原材料と資本財の供給が減少したからである.
1955年2月,ソ連でマレンコフが追放されると,マレンコフを後ろ盾としていたナジも4月に失脚.
首相を解任されたばかりでなく,国会の議席も失い,党の政治局と中央委員会からも追放され,大学の教職と科学アカデミーからも追われ,11月には党から完全に追放された.
だがもちろん,経済を悪化させた張本人であるラーコシに経済を立て直せるはずもなく,ハンガリー国民はさらに窮乏させられることになる.
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.235-236
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-047.html
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5855.html
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-78.pdf
mixi, 2016.6.9
【質問】
ラーコシ体制はそんなに酷かったの?
【回答】
おそらく,建国以来1000年にわたるとされるハンガリーの歴代の国家指導者の中でも,ワースト10にランキングされるだろうくらいには酷かった.
(ワースト1は言うまでもなく,矢十字党のサーラシ)
なにしろ,無謀な超工業化の推進により経済を崩壊寸前に追いやったばかりでなく,農業国であり食糧輸出国だったハンガリーに飢餓をもたらそうとしたのだから,尋常ではない.
ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás ら「モスクワ派」のスターリン崇拝はことのほか極端で,スターリンのやったことは何でも真似ると言われていた.
スターリンがやったように,「好ましくない」社会層は残酷に弾圧された.
人口が1000万人に満たないこの国で,130万人が投獄され,投獄抜きの即決裁判で銃殺された人間も2300人に上る.
共産党員でさえ,1950年には85万人いたうちの半数が拘置所,強制労働収容所に入れられ,3 年後に追放されるか,あるいは死亡した.
ナジ・イムレ追放後もまた酷かった.
教条的なスターリン主義への復帰宣言は,党内部のエリート層のあざけりのマトとなった.
1935年2月,フルシチョフがスターリン批判を行うと,ハンガリーのそのエリート層は,ライク・ラースローの名誉回復をラーコシに迫る.
だがそこで,ライク粛清を秘密警察のせいであるかのようにほのめかしたことで,ラーコシは秘密警察や党幹部の怒りを買う.
1956年7月に,ポーランドのポズナンで労働者の反乱が起こると,その伝染を恐れたラーコシは,ナジと数百人の知識人の逮捕,そして幾つかの新聞の禁止を提案する.
ハンガリー共産党はおろか,ソ連の指導部でさえ,この措置は火に油を注ぐものだと考え,ミヤコンとフルシチョフがラーコシを説き伏せ,彼にソ連で年金生活を送らせることにした.
ただ,ソ連がラーコシの後継者としたのは,ラーコシのお仲間である「モスクワ派」のゲレー・エルネーだったので,党からも国民からも信用を得られず,また,実際に改革はスローテンポ極まりないものだった.
政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドは,もしソ連がラーコシの後継者にゲレーではなく,ナジを選んでいたなら,政治の嵐は収まったのではないか(つまり,1956年革命(ハンガリー動乱)は起きなかったのではないか)と見ている.
それにしても,ワースト10のうちたぶん3人が共産主義者(ラーコシ,ゲレー,それにクン・ベーラもワースト10入りだろう)というのは,どういうのだろうな.
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.235-240
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://webegyed.com/history-04.html
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/20631/1/05UMEKAWA,%20Yoshiko.pdf
mixi, 2016.6.9
【質問 kérdés】
ハンガリー1956年革命への介入を米国が避けたのは何故?
以下にあるように,一つにはソ連によって安定した東欧が介入によって麻が乱れる如くとなる可能性,さらにそれを再安定させる自信もなかったからですか?
------------
米国が介入を避けた理由は,第三次世界大戦の恐怖が最大だっただろうけれども.ソ連によって安定した東欧が介入によって麻が乱れる如くとなる可能性,さらにそれを再安定させる自信もなかったのではないのかね.
東欧諸国って,戦前には国境紛争も絶えず,戦後最初にやったことも国内外国人・異民族の排除だった.ドイツ人(14世紀以来混住)どころか,自国にとって異民族となるポーランド人やチェコ人,マジャール人を相互に追放するカオスだった.
それを安定させたという意味で,実態は武力の威圧,経済的収奪を伴う「ソビエトのくびき」だったわけだけれども.「ソ連による平和」にもある種の効用はあったわけだ.
それなりに壊れるとめんどくさいものだから,介入していいこともないとも考えたかもしれない.
文谷数重「隅田金属日誌」,2010.8.2
------------
【回答 válasz】
ハンガリー1956年革命に米国が介入しなかった理由としては,
・下手に介入して核戦争を誘発することを恐れた
・スエズ動乱発生のため,ハンガリーどころではなくなった
・このような事態を想定しておらず,対応が消極的,かつ後手に回った
・ナジ・イムレに対する不信感があった
ことが挙げられています.
しかし,文谷のような主張は寡聞にして他では存じません.
しかも論拠も無いようです.
文谷自身が「そう感じた」以上の論拠が見当たりません.
念のため,メールで問い合わせしましたが,今のところ返信はありません.
そもそも,
>「ソ連による平和」にもある種の効用はあった
という主張自体,別項で述べているように非常に怪しい代物です.
自分のブログなら何を書いても良い,ということにはならないと存じますが…
【参考ページ】
リトヴァーン・ジェルジュ『1956年のハンガリー革命 改革・蜂起・自由闘争・報復』(現代思潮新社,2006/10)
ヴィクター・セベスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008/02)
mixi, 2017.3.29
【質問 kérdés】
ハンガリー1956年革命は,なぜ失敗したのか?
Miért nem sikerült a 1956-os forradalom?
【回答 válasz】
歴史学者のエドワード・ルトワックによれば,ハンガリーにおける権力の根源であるソ連軍を中立化できなかったためだという.
彼は次のように述べる.
------------
政治権力の源泉がその国になければ,権力奪取は不可能である.
たとえば1956年のハンガリー革命は全面的に成功を収め,革命指導者は軍,警察,ラジオ,通信施設の伝統的権力手段をあっという間に握った.
ブダペシュトの街頭で奪取できなかった者は,前政権の権力の源泉になっていたものだけだった.
それはハンガリー内外におけるソ連軍の存在だった.
ソ連軍はハンガリー陸軍とは問題にならないほど優勢であり,これがソ連の後押しする政府にとって,国内のいかなる勢力よりも大きな権力の源泉であった.
ソ連軍はモスクワが支配していた.
ハンガリー革命はブダペシュトでなく,モスクワでやらなければ成功しなかったのだ.
------------
詳しくは
ルトワック『クーデター入門』(徳間書店,1970)第2章
を参照されたし.
mixi, 2017.12.17
【質問】
ハンガリー事件についての,日本社会党の反応は?
【回答】
ここでも例によって,党内左派と右派とが対立している.
右派がソ連の帝国主義的体質を批判する一方,左派は当初,ハンガリー事件を「チトー主義の勝利」と積極評価していたものの,すぐに急旋回して,ソ連軍介入を正当化するに至った.
その正当化の「論理」は,ハンガリー人を「我々よりももっと程度が低い」「神経質な国民」「百姓国」などとけなす,醜悪なものだった.
【参考ページ】
『ハンガリー事件と日本』(小島亮著,現代思潮新社,2003.5.30),p.90-102
【ぐんじさんぎょう】,2011/04/19 20:10
を加筆改修
【質問】
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)に対する日本共産党の姿勢は?
【回答】
日本共産党では,これについて当初は様々な論争がおこったが,宮本顕治が党中央委員会の多数派を占めるにいたり,ソ連の武力介入を機に,ハンガリー動乱を「反革命」と決めつけた.
この路線への反対派は,1958年の第7回党大会を機に共産党を追放されることとなる.
要するに,事実を調査・分析した上で党としての態度を決めたのではなく,初めに党内抗争ありきで,共産党の自己都合により「反革命」呼ばわりしただけ.
その後の1987年に刊行された『日本共産党の六十五年』では,
「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は,社会主義の大義,民族自決権に反する干渉行為であった」
と豹変.
そして,容認できないものだったが,当時はその認識をもっていなかった,と言い訳している.
これは,1964年の親ソ派除名以降,日本共産党が反ソとなったからであって,要はこれも党内派閥抗争の産物.
その証拠に,ハンガリー事件をめぐる党内闘争で除名された党員の,除名撤回の動きさえない.
宮本顕治がハンガリー1956年革命を「反革命」と決めつけたことについても,1987年時点で日本共産党自らが批判してもいない.
党の都合で事実さえ曲げようとする点では,今もって日本共産党も中国共産党も北朝鮮労働党も何ら変わりがないと言えよう.
一方,ソ連の軍事介入を非難したのは,当時「青年共産同盟」にいた黒田寛一だった.
黒田はソ連軍の介入を擁護する社共と絶縁,「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し,その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し,新左翼の先駆けとなった.
もっとも,新左翼とやらが結局のところテロを起こしたり内ゲバをやったりというものでしかなかったことを鑑みるに,黒田らは要するに「"反政府"なら何でもウェルカム」というものでしかなかったんじゃないかな?という気がする.
【参考ページ】
小島亮『ハンガリー事件と日本』(中公新書,1987)
http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-529.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/hangari%20to%20nihon.htm
http://akizukieiji.blog.jp/tag/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%8B%95%E4%B9%B1
http://www014.upp.so-net.ne.jp/senku/kozo.2.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-12/2008011212_01faq_0.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kojima.htm
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080103/p2
mixi, 2016.6.30
宮本顕治の論文「ハンガリー問題をいかに評価するか」
(『前衛』1957年2月号)
【質問】
大内兵衛って誰?
【回答】
大内兵衛(おおうち ひょうえ,1888年8月29日~1980年5月1日)は,大正・昭和期の日本のマルクス経済学者.専攻は財政学.
洲本中学,五高を経て東京帝国大学経済学科を首席卒業した後,大蔵省の書記官を経て,1919年に東大に着任,財政学を担当した.
在任中は労農派の論客として活躍したが,1920年森戸事件に連座して失職し,数年後に復職した.
ハンガリー事件に際しては,以下のように発言し,ソ連軍侵攻を正当化している.
---------------------------
(なぜハンガリー民衆は行動を起こしたのかという話題に対して)
大内 それについては,民衆というものの性質が問題になる.
民衆の政治的発達の程度というものが非常に関係がある.
同じ民衆といっても,イギリスとアメリカと日本とハンガリアとでは,非常に違うと思う.
ハンガリアの民衆はそういう国と比べたら,その政治的訓練が相当低い.
(中略)
われわれよりももっと程度が低かったということがあると思う.
---------------------------
---------------------------
(ハンガリー民衆の蜂起は,ハンガリー社会主義内部の欠陥のためではなかったかという話題に対して)
大内 それはもちろんある.
それがなければ火はつかない.
しかし,内部的な原因がどのくらい大きかったかは別の問題ですよ.
それがそんなに大きくなくても火はつくよ(笑声)
---------------------------
---------------------------
大内 ハンガリアはあまり着実に進歩をしている国ではない.
あるいはデモクラシーが発達している国ではない.
元来は百姓国ですからね.
---------------------------
いずれも下掲書,p.96-97(原出典;座談会「歴史のなかで」--『世界』1957年4月号)
このトンデモ発言をさして追及された様子もなく,1980年に没.
こんなヤツが日銀顧問にまでなっていたとは……
ちなみに今でも東大には,「大内賞」というのがあるそうな.
【参考ページ】
『ハンガリー事件と日本』(小島亮著,現代思潮新社,2003.5.30),p.96-97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%85%B5%E8%A1%9B
http://www.bunshun.co.jp/todai0815/todai07.htm
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/1096.html
http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/zuisou/310.html
【ぐんじさんぎょう】,2011/04/21 20:50
を加筆改修
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