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◆◆◆ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)以降 1956-os forradalom
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
欧州FAQ目次

※ 並びはほぼアルファベット順


 【Link】

「古本虫がさまよう」◆(2012/02/29)  「ハンガリー動乱」で暴言を吐いた人々たち

『ハンガリー動乱におけるハンガリー陸軍の崩壊とソ連軍の行動』(防衛研修所,1958)



 【質問】
 ハンガリー動乱って何?

 【回答】
 ハンガリー1956年革命 1956-os forradalom(ハンガリー動乱)は1956年10月23日,ハンガリー国民の政府に対する蜂起から始まった,一連の政治的および武力的衝突.
 いったんは,大衆に人気のあるナジ・イムレがハンガリー勤労者党によって首相に任命され,ソ連支配から脱したように見えたが,ソ連軍の武力介入であぼーん.

▼ 政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,これは単なる反乱や反抗,放棄や暴動,一揆やゼネストなどではなく,社会経済的かつ民族政治的な目標を持った,国内的には勝利していた真の革命だったという.
 詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
を参照されたし.▲


 【質問】
 ハンガリー動乱は
「生活苦を訴える労働者のデモが暴動化し,ついにはソ連軍が介入した事件」(林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.146)
だったというのは本当ですか?

 【回答】
 まあ,民衆による秘密警察・共産党員虐殺をどう表現するかの問題でしょうが,「暴動化」というのは,ちとニュアンス的に変ですね.
 それに,林の表現ではまるで,ソ連軍侵攻はハンガリーの治安回復のための正当な行動だったかのようにしか読めませんし.

 少なくとも,ハンガリー人の前ではそんな表現をしないほうが身のためでしょうな.


 【質問】
 ハンガリー動乱が起きた原因は?

 【回答】
・経済の崩壊
・農民に打撃を与えた土地政策.
・大学の狭き門ぶりと学ぶ環境に対する学生の不満
・改革派とスターリン主義者との内部抗争による,ハンガリー勤労者党の指導力低下
が原因.

 蜂起した人々の要求は
・土地を所有して耕す権利
・工場の自主管理と自由に労働組合を結成できる権利
・言論の自由
・ソ連軍撤退
・反民族主義政策緩和
・民主議会
・カトリック教会の自由
といったものだった.

 ……あれ? 共産党って「労働者のための党」のはずだよな?w


 【質問】
 ハンガリー動乱での,市民とソ連軍との戦闘はなぜ起こったの?

 【回答】
 10月23日当初からブダペシュトではソ連軍との戦闘があったが,しばしば停戦し,結局は戦闘を停止した.
 まあ,よほどの狂信的共産主義者じゃない限り,丸腰に近い市民を撃てはしないわな.

 10月25日の戦闘は,誰が最初に発砲したのか分かってないが,秘密警察のしわざじゃないかとも言われてる.
 確かに動機の点では彼らが一番疑わしい.
 ソ連軍と市民との間では話し合いが行われ,説得に応じてハンガリー人を戦車に載せ,国会前広場へと移動した戦車兵もいたくらいだったのだから.
 のちのルーマニア革命でも一番抵抗したのは秘密警察(セクリタテ)だったしね.

 この戦闘では死者約100人,負傷約300人.
 けれど10月27日夜には,ミコヤン・ナジ会談の結果,ソビエト軍はいったん撤退する(10/30~).

 11月4日のソ連軍再侵攻は,10月30日に秘密警察や共産党(勤労者党)書記らが民衆によって虐殺されてから.
 この報告を聞いてミコヤンは考えを変えた.これは反ソビエト活動だと.
 かくしてソ連軍は再び国境を越える.

 しかしソ連軍は再び国境を越える.▲
 今度は説得されたりしないよう,部隊は中央アジアから連れてこられた.
「彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた. またある者は1956年のスエズ戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた」(ウィキペディア)とか.……天安門事件の鎮圧でも,中国が似たようなことやってたなあ.

 ナジは中立を宣言したが,国連や西側諸国からの具体的支援は無し.
 10月29日に結成されたばかりの,ハンガリー警察,軍隊,市民から成る国民防衛隊との間で戦闘勃発.
 11月4日.ソ連軍,戦車2500両,15万人がブダペストに侵入し,国会を占拠.
 ナジはユーゴスラビア大使館に逃げ込んだが,逮捕される.
 11月10日に労働者評議会が休戦を呼びかけるまで,戦闘は続いた.
 ハンガリー側の死者,1万7千人.ソビエト側,1900人.

 他にナジはじめ1200人が処刑.難民は20万人に達した.


 【質問】
 ハンガリー動乱の時は主にどのような人々が武器を持って立ち上がったのでしょうか?
 若い人が多かったと聞きましたが,彼ら,武器はどこから調達したんでしょうか?
 あと,政権を転覆させる事件は普通イギリス,フランスを例にとると”革命” (名誉革命,フランス革命)となずけるのが普通ですが,ハンガリーではなぜ”動乱”なのでしょう?

ゴードン将軍 : 世界史板,2002/06/09
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 「ハンガリー動乱」・「ハンガリー事件」はどちらも"Hungarian Incident "の和訳ではなかったですか?
 「事件」の方は日本のKPなどが使っていたらしい.
 現地では長いこと「反革命」が公式見解だったのですが,カーダール時代の末期に「民衆蜂起」と評価が変わり,さらに体制変換後には「革命」が一般的となったと思う.

 愛国者達が使用した小火器は,ハンガリーの軍や警察から調達したものが多かったのではないでしようか?

 戦闘参加者はどのような人々かということですが,指揮を執るのは大人でも,その下で戦うのは15歳前後の少年だということもありました.
(モスクワ広場の近くのセーナ広場では,市電の運転士が少年たちを指揮して戦った由.)

世界史板,2002/06/10
青文字:加筆改修部分

 最初の暴動は自然発生というよりは計画的なもので,軍隊やら兵器工場から武器が流出していたらしいですね.
 手元の記録写真を見ていると,市民がバラライカと呼ばれるサブマシンガンやらボルトアクション式の旧式なライフルを持ったりしているのがあります.
その後はハンガリー正規軍部隊も反乱に参加しています.

 女子供まで機関銃の待ち受ける敵陣に向けて,火炎瓶を手に鎖橋の上を突進したそうで・・・.
 私の知人に戦前の生まれの方がいますが,この時のことをお聞きしても,「それはひどかった」としか教えてくれません.
 言葉では伝えられないほどということなのでしょう.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/06/09~06/10
青文字:加筆改修部分

▼ ちなみに,以下のページによると,軍や警察は市民に小火器は渡すことができたが,重火器を渡すことは物理的に不可能だった模様.

------------
 [第二次大戦後,]ハンガリー陸軍は再編成された.
 標準的武器はソ連製である.
 しかし,ソ連軍のT34戦車は砲弾を発射することができなかった.
 重要な部品はソ連の軍事顧問が保管していた.

 民衆のデモが始まったとき,ハンガリー軍の兵士のほとんどは,どちらにもつかず,兵舎に戻った.
 そして,武器と銃弾を市民に手渡した.
 ライフル銃も渡された.
 警察本部長は中立ではなく,革命者に転向し,警察の武器保管所を解放した.
 こうして,市民の抗議は武装蜂起に変わっていった.

------------
http://www.fben.jp/bookcolumn/2008/05/post_1817.html

 「ソ連の軍事顧問団が重要部品を管理」という手法は,たとえばアフ【ガ】ーニスタンでも用いられ,反ダーウード・クーデターに際してアフ【ガ】ーン軍を沈黙させる手段となっている.

 なお,小火器の操作に関しては,市民の側に問題はなかったという.
 以下引用.

------------
 ちなみにハンガリー動乱を考える上で手頃な本は多々あるが,珍しいものとしては,ジェームス・ミッチェナーの『アンダウの橋』 (日本外政学会)がある.
 ちなみに書名の「アンダウの橋」というのはハンガリーとオーストリアとの国境の沼地に掛けられていた名もない小さな木の橋のこと.
 この橋を渡ってハンガリーから亡命する人々に著者は取材をしている.
 本書によると,ハンガリーでは十歳の少年はソ連のピオニールと同じ少年団組織に加入することができ,十四歳になるとソ連のコムソモール同様の組織に入れるという.そして,
 そこでは拳銃の操作法などの軍事教練を受け,「西欧を憎み,米国との闘いに命を捧げることを誓った有望な少年たちには,特別課目(手製ガソリン爆弾による米国戦車破壊法)が教え込まれた」という.
 そういうふうに,ハンガリーの少年たちは銃にせよ手製ガソリン爆弾にせよ,ソ連式で教え込まれていたおかげで,いざという時には敵対する相手をアメリカからソ連に変えれば,「即戦力」として役立ったというわけだ.
 ソ連も因果応報なことをやったわけだ.

------------
http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-529.html


 【質問】
 1956年11月4日からのソ連軍の攻撃について教えられたし.
Kérem, modja meg az 1956-os November 4-én a szovjet támadást.

 【回答】
 1956年11月4日午前3時,コーニェフ元帥麾下の第8機甲軍と第38野戦軍(10個師団,約15万人),最新鋭のT-54を含む戦車2500両,および多数の航空支援部隊が攻撃を開始した.
 午前4時,主攻勢となる「雷作戦」を開始し,市民の巻き添え被害を考慮することなく,2日間にわたる航空攻撃と重砲撃の後,戦車がブダペシュト市街地に突入し,攻撃を受ければ,攻撃者のいると思われる建物およびその周辺を徹底砲撃した.
 ハンガリー軍および武装蜂起グループの反撃は微弱で,カーダール・ヤーノシュが政権に就いた11月7日には武力抵抗は殆ど終わっていた.

 ハンガリー軍の殆どは,11月4日に兵舎に封じ込められ,ソ連軍がブダペシュト入りをしたときに,組織的に武装解除された.
 ペテーフィ兵舎と陸軍士官学校でちょっとした抵抗があったが,ソ連軍の圧倒的戦力の前に武器を捨てた.
 ブダペシュトから北西50kmほどのところにあるショロクシャールでの小戦闘だけが,戦闘らしい戦闘といえた.
 ソ連軍特殊部隊の副指揮官マラシチェンコによれば,ハンガリー陸軍に対する作戦は,午前中の半ばには終了したという.

 午前10時までに,ソ連軍はドナウ川の全ての橋を管理下に置き,バロシュ広場と東駅を占拠した.
 武装蜂起グループは,勇猛果敢に戦ったが,火炎瓶と軽火器は,T-54戦車には通用しなかった.
 主な抵抗拠点は,一つ一つ粉砕された.
 抵抗者のいる建物は,徹底した砲撃により破壊された.
 殆どの市民は,ソ連軍の執拗な連続砲撃の猛威に恐怖し,天井や地下室に隠れた.
 モーリツ・ジグムンド広場の武装蜂起グループは11/4には降伏.
 コルヴィン映画館からは11/6,生き残りの数人が脱出した.
 キリアーン兵舎の建物は完全に破壊されたが,なおも地下室で戦闘が行われた.
 11/9朝,ハンガリー「国民衛兵」部隊の指揮官キラーイ少将は,「自由の丘」の小さな修道院に司令部を移した.
 次の数日間にわたる戦闘でキラーイは退却し,ブダペシュトを出て西側へ脱出した.
 最後の抵抗が終わったのは11/11だったという.

 武力抵抗に代わってゼネストが抵抗の手段となり,ブダペシュトには戒厳令が引かれた.

 この攻撃により死亡したハンガリー人は,1956年革命全体の死者の約2/3,約1700人にのぼる.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.383-407
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_szovjet_inv.C3.A1zi.C3.B3_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#4_.D0.BD.D0.BE.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F

マルギット橋を封鎖するソ連軍戦車
(Wikipediaより)

mixi, 2016.11.15

 一方,日本では「百姓の国ですからね」と,血も涙もない悪魔に魂を売ったマルキストが呟いていた.

ヤン・ヒューリック in mixi,2016年11月15日

 大内兵衛ですね・・.

 我が友人の大家さんだったご老人は,二次大戦末期のブダペスト包囲戦と56年を両方体験しておられて,
「君たち日本人には,ある日,家の前に他国の戦車が居るなどという状況は想像もつくまい?」
と言ってました.

ギシュクラ in mixi,2016年11月15日


 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)において,なぜソ連軍は引き返してきたの?

 【回答】
 政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,ナジ・イムレ Nagy Imre のとろうとした措置が,ソ連指導者にはとうてい受け入れ難いものだったからだという.
 ナジのとろうとした措置とは,
1) ソ連の軍事介入を求めた,10/23のゲレー・エルネー Gerő Ernő 共産党第一書記の要請を過ちとして撤回する
2) 複数政党による連立政権を復活する
3) ハンガリーをワルシャワ条約機構から脱退させる
4) ハンガリーの国際的な中立を宣言し,国連に保護を求める
だが,ソ連指導者はこれを,超大国としてのソ連に対する公然たる侮辱であり,ヨーロッパさらには全世界における力の均衡を覆す試みであり,しかも社会歴史的に反動であると見たという.

 詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
を参照されたし.

mixi, 2016.6.7


 【質問】
 ソ連側が受け入れがたい措置を,ナジはなぜとろうとしたのか?

 【回答】
 政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドによれば,革命の衝動とナジの個人的資質に起因したという.

 ソ連の最初の軍事介入が中途半端だったことから,ハンガリーの革命家たちは,モスクワの政治的決意はそれほど固くないと誤解.
 そして,介入が正式にはワルシャワ条約機構の名のもとに実施されたため,この条約を弾劾し,ハンガリーの脱退を求める声が上がった.
 また,共産党が反民族的組織とみなされていただけでなく,事実上解体したため,国民は複数政党による自由選挙を求めた.
 これらの声は国民ほぼ全体の支持を得た.

 ナジは,こうした国民の過剰な期待や党の崩壊,混乱した軍といった情勢の虜となっていただけではなく,直近の追放期間の間に,穏健な改良主義的「新路線」の立場から離れており,
「衛星国の地位はハンガリーの社会主義建設の努力を常に阻害する.
 したがって実質的な民族独立こそが真の社会主義のための前提となる.
 しかし,東西両陣営の二極世界では,小国の完全な独立は不可能である.
 したがって,両陣営は解体されるべきである」
などと考えていたという.

 詳しくは
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.242-243
を参照されたし.

 夢想的な考え方に,過大な期待が加わればどうなるか?
 これは火を見るよりも明らかだったろう.
 孫子曰く,
「未だ戦わずして廟算するに,勝つ者は算を得ること多きなり.
 算多きは勝ち,算少なきは勝たず」
 理想を実現化するための具体的な戦略・戦術の策定が,ナジ達にできていなかったのが惜しまれる.

mixi, 2016.6.8


 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)における最初の武装蜂起について教えられたし.
Kérem, modja el a 1956-os forradalomban fegyveres felkelés kezdete.

 【回答】
 最初の戦闘は1956年10月23日20時30分頃,ブダペシュトのラジオ放送局前で,秘密警察AVOと,デモ隊の側についたハンガリー軍兵士との間で始まった.
 翌日午前2~3時にはソ連軍の2個機械化師団がブダペシュト市内に侵入し,その後も増援部隊が送られたが,市街地においてヒット・エンド・ラン戦法に徹するブダペシュト市民の前に,不慣れな治安維持戦を強いられた.
 補給物資も窮乏する中,クレムリンではハンガリーに対する譲歩の姿勢を見せるため,10月28日13時20分をもって戦闘を停止した.

 そもそも戦闘が始まったのは,次のような経緯であるようだ.
 10月22日15時,ブダペシュト工科大学中央講堂に5千人以上が集まり,後にこの革命のマニフェストとなる「16項目」要求を作り上げた.
 そして,翌23日にはデモ行進を行うことを決めた.
 ドナウ川の反対側では,ブダペシュト大学教養学部が大集会を開いており,彼らもデモに賛成した.

 ラーコシの後継者でスターリン主義者のゲレー・エルネーは,ブダペシュトが危険な一発触発の状態にあることに怯え,12時53分,ラジオを通じて「あらゆる集会の禁止」を通告したが,警察に「平和なデモを武力で制止する」気がないことが分かったため,23日02:23,ラジオは音楽を中断し,デモの継続が認められたことを伝えた.

 23日15時,デモ開始.
 16:30までにヨージェフ・ベム広場は2万5千人のデモ参加者でいっぱいになり,さらに数千人が隣の堤防へ溢れ出た.

 20時数分前には,にはデモ行進は20万人規模に人数を増やしながら,国会議事堂前広場に到達した.
 一方,一部のデモ参加者数千人は18時頃,ブダペシュトのラジオ放送局に向かい,自分たちの要求を放送するよう,ラジオ局に要求した.

 秘密警察AVOはラジオ局でトラブルがあるだろうことを予想しており,オルバーン・ミクローシュ警察大佐指揮の下,兵士とAVO隊員を含む260~280名で警備をしていた.
 19時ごろ,放送局ディレクター,ベンケ・ヴァレーリアは,群衆の要求を呑むふりをしたが,実際には何も放送しなかった.
 ラジオは「16項目」要求ではなく,ゲレーの演説を放送した.
 ゲレーはデモの学生を暴徒呼ばわりし,「敵意を抱く分子」への譲歩はない,と断言した.
 この放送にデモ参加者は激怒し,英雄広場の巨大なスターリン像(この辺にあった)を重機で破壊し始めた他,放送局ではディレクターに騙されたことに気付いたデモ参加者が,局の窓にレンガや小石を投げつけて窓を割り始めた.
 AVO隊員が催涙弾を投げつけ,放水し,そしてデモ隊の頭上に威嚇射撃をした.
 デモ隊は一時退散したが,数分後には群衆は再結集して,建物の正面へ殺到してきた.
 警察は群衆に解散を要請したが,群衆が応じないと見ると,引き揚げてしまった.
 建物の中にいたAVOのフェヘール・ラヨシュ少佐は,パニックになり,部下にシャーンドル・ブローディ通りの群衆を排除するよう命じた.
 AVO隊員がデモ隊の排除を始めた時,群衆に死者が出た.
 誰が発砲したが不明だが,AVO隊員であろうことは間違いない.
 さらに一斉射撃があり,3人が死傷者した.

 数分後,道を挟んでラジオ局に隣接している国立博物館の,庭に入る通用口に救急車が到着した.
 デモ参加者は怪我人を救急車に運び入れようとしたが,救急車からは重武装のAVO隊員12名が飛び降りて館内に入った.

 ほぼ同じ頃,ハンガリー陸軍の部隊が到着し始めた.
 強硬派のスターリン主義者であるヘジ・ラースロー少将(参謀次長)が,ラジオ局を解放し,治安を回復し,デモ隊を粉砕せよと兵士に命じたからである.
 だが,現場に到着した部隊の指揮官は,デモ隊に発砲するなと命令した.
 何人かの兵士が,群衆の中に入り,AVO部隊と戦った.
 兵士達の殆どは,どちらにもつかず,兵舎に戻ったが,武器弾薬を群衆に渡した.
 コパーチ・シャーンドル警察本部長は,警察の武器保管所を解放した.

 ラジオ局発砲のニュースは,ブダペシュト中に伝わった.
 22時ごろ,ショクロシャーリ通りにある,市の主要弾薬廠の一つが襲撃された.
 市内の軍事学校,ズリーニとペテーフィの2校は,武器を送った.
 ブダペシュト最大の工業地帯であるチェペルの連合ランプ工場は,武器工場の代役としてよく知られており,その夜遅く,労働者は少なくとも千丁のライフルを工場から持ち出し,ラジオ局行きの大型トラックに積み込んだ.

 ラジオ局では戦闘は夜半まで続き,フェヘール少佐とAVO隊員4人が殺害され,多数が負傷,60人が捕虜となった.
 武装蜂起側では16人が射殺され,60人が負傷.
 夜明け前にラジオ局は炎上し,反乱者の手に落ちた.

 24日02~03時,ソ連軍がブダペシュト市内に侵入した.
 セーケシュフェヘールヴァールのソ連軍司令部に基地を持つ,第2親衛機械化師団および第17親衛機械化師団.
 また,オーストリア国境にも部隊を送り,国境を閉鎖した.
 しかし,ソ連軍のT-34戦車は,市内の橋や広い交差点を占拠することはできても,ブラペシュトの路地へ入っていくことはできなかった.
 ブダペシュト市民はヒット・エンド・ラン戦法に徹し,小銃や火炎瓶でソ連軍に一撃加えると,素早く身を隠した.
 反乱グループは,すでに手に入れていた武器弾薬に加え,市内各所の警察署から武器を入手し,また,防備の手薄な武器店を襲撃した.
 電話局2か所,ブダペシュト放送局ビル,『自由なる人民』社オフィス,東駅が反乱グループに占拠された.
 ブダのセーナ広場では,小グループがバリケードを構築していた.
 ソ連軍は放送局を奪い返そうとしたが,数時間の戦闘の結果,それに失敗した.

 午前中までに,国立劇場付近,バロシュ広場コルヴィン映画館およびその道路を挟んで向かい側にあったキリアーン兵舎 Kilián laktanya(旧名マリア・テレジア兵舎)が,反乱グループの主要拠点となった.
 ハンガリー陸軍のマレーテル・パール Maléter Pál 大佐は,AVOビルを警備していた機械化部隊から戦車5台を借り受け,キリアーン兵舎に合流した.

 夜になると,ソ連軍戦車は保全と警戒の隊形に戻り,街頭巡回をやめた.
 24日一日で,ブダペシュトでは推定3000人の反乱者が武器をとり,約80人が死亡,450人が負傷した.
 一方,ソ連軍は死者20人,負傷40人.
 戦車4台,装甲車4台が大破した.

 蜂起はハンガリー全土に波及.
 デブレツェンではゼネストにより,輸送,電気,ガス以外の全てが機能を停止.
 チェペルでは,労働者が工場を占拠した.
 その他多くの町で,人々は共産主義に背を向けた.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#4_.D0.BD.D0.BE.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F

 【関連リンク】
 現在と当時の建物の比較写真
http://index.hu/nagykep/2012/10/23/budapest_akkor_es_most/

mixi, 2016.11.17


 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)において,ソ連の初期の介入はどのようなものだったの?

 【回答】
 ブダペシュトでのデモに対し,治安警察の発砲はあったものの,軍は中立を守った.
 共産党第一書記の座にとどまることに固執したゲレー・エルネー Gerő Ernő (ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás の後釜)は,ソ連に介入と救援を要請.
 10/24,ハンガリー駐留のソ連軍部隊は,「労働者は学生(デモ最初に起こしたのは学生たちだった)を支持しない」と観て行動を起こし,革命の鎮圧を試みた.
 だが,その見立ての誤りに気付くと,ソ連軍はまず農村における介入を中止.
 10.28までには首都での行動も中止した.
 一方,10/25にはソ連はゲレーを辞任させ,カーダール・ヤーノシュ Kádár János を党第一書記に,ナジ・イムレ Nagy Imre を首相に据えた.
 カーダールは第二次大戦中の「国内地下派」で,ラーコシによる最近の粛清犠牲者の一人,しかも非ユダヤ人
(ラーコシ,ゲレー,ファルカシュ・ミハーイ,エーヴァイ・ヨージェフの「モスクワ派」4人組は,いずれもユダヤ人だった)
で,要するにゲレーとは正反対に位置する象徴的な存在だった.
 ソ連はカーダール&ナジのチームが事態を掌握して,ポーランドのゴムルカ体制に似たフルシチョフ路線の体制を打ち立てることを期待したのだった.

 もちろん,こんな意図がハンガリー国民に伝わるはずなどなかった.

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.244
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
http://homepage2.nifty.com/ekondo/rekisi2/easteurope.html
http://palop13a.hatenablog.com/entry/20050723/p1

mixi, 2016.6.8


 【質問】
 ハンガリー1956年革命2日目の戦闘について教えられたし.

 【回答】
 25日の夜が明け,ソ連軍戦車が巡回を始めると,戦闘は再び始まった.
 銃声は市内のいたるところから聞こえた.
 ハンガリー駐留ソ連軍の第128狙撃兵師団と,ルーマニア駐留ソ連軍の第33機械化師団から抽出された増援部隊,兵士約1万4千人,戦車250輌以上が新たにブダペシュトに到着した.
 戦車部隊が市の全区を最大限に破壊し,その後,瓦礫の中で歩兵が白兵戦で敵を掃討する戦術をとった.
 犠牲の多い戦術だった.
 一方,放送局の攻防はこの日も続いたが,ソ連軍はこれを占拠することができた.

 主要大通りでは,ゲレー退陣を要求する3千人規模のデモがあった.
 ソ連軍兵士の拠点になっているアストリア・ホテル付近で,デモ隊は3台のソ連軍戦車に道を阻まれた.
 数分間の睨み合いがあったが,戦車は発砲しなかった.
 すると,ソ連兵と話をしていた何人かの学生が,1台の戦車によじ登ると,一晩かけてロシア語で書いたビラを戦車兵に手渡した.
 ソ連兵は戦車から降りてきてビラを読み,デモ参加者と話を始めた.
 戦車兵は説得された.
 指揮官は,発砲しないことと,数分間友好的な話し合いをすることに合意した.
 戦車兵は,デモ隊の要求は正当であり,自分たちは国会議事堂に一緒に行くべきだと思う,と言った.
 学生数名が戦車の上に乗り,砲塔にハンガリーの旗をつけた.
 戦車はブダペシュト中央警察署前を通過して,デアーク広場に到着した.
 広場の反対側では,別のソ連軍戦車6台が,国会議事堂を守っていた.
 デモ行進を半時間継続することが許可された.
 だが,AVOまたはソ連軍が発砲し,混戦となった.
 調査のためにハンガリー軍が派遣されたが,彼らはソ連軍に向かって発砲を開始した.
 国会議事堂前広場のこの虐殺で,死者75人,負傷者282人が出た.
 この30分後,ラジオはゲレー解任を報じた.

 この虐殺以来,革命集団は攻撃的になり,新たな集団でその数を増やした.
 抵抗が最も強いところはコルヴィン横丁とキリアーン兵舎だった.
 マレーテルはキリアーン兵舎で600人以上の兵士を指揮した.
 コルヴィン複合施設では,地下の路地を使い,革命集団はソ連軍戦車3台を後退させ,戦車2両と装甲車1両を鹵獲した.
 ソ連軍は大通りに沿ってコルヴィン拠点へ戦車を移動させたが,撃退された.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete

キリアーン兵舎前のJS-3戦車の残骸
弾薬が誘爆してスクラップになった模様
こちらより引用)

mixi, 2016.11.17


 【質問】
 ハンガリー1956年革命3日目の戦闘について教えられたし.

 【回答】
 3日目の1956.10.26,戦闘はブダペシュトだけではなく,ハンガリー全土の地方都市にまで広がった.
 ブダペシュトや,国境警備のソ連軍の殆どは,身動き取れなくなった.
 また,孤立した守備隊や訓練兵舎の現地指揮官は,敗北の危険を冒すよりも,講和条件を懸命に模索した.
 秘密警察AVOは,上辺だけの抵抗をした後,姿を消すことが多くなった.

 ブダペシュトではコルヴィン横丁やセーナ広場など,各所で戦闘が起きた.

 セーナ広場では,T-34戦車に対してユニークな対戦車戦術を駆使した.

 一つは,水をいっぱい入れた,どこにでもあるシチュー鍋かフライパンを太綱に引っ掛け,バランスを取りながら道路を挟んで張る.
 ソ連軍戦車がやってくる音を聞くと,鍋を地上1mくらいまでゆっくり下げる.
 戦車はこれを見て躊躇する.
 その隙に,アパートやオフィスに潜んでいた武装蜂起グループが,火炎瓶や手榴弾を窓から戦車へ投げつけるというもの.

 もう一つは,木製の舗装材料を被せた煉瓦を,道路を挟んで地面に置く.
 遠目からはこれは地雷のように見えるので,戦車は停止する.
 すると停車した戦車に対して,アパートやオフィスに潜んでいた武装蜂起グループが,火炎瓶や手榴弾を窓から戦車へ投げつけるというもの.

 さらに一つは,絹布を道路に敷き,その上に石鹸水を撒くというもの.
 T-34戦車は滑って操縦不能になり,戦車同士で衝突したという.

 これらの戦術にソ連軍は数日間,対処法を見つけ出すことができなかった.

 地方都市では,僅か一度の戦闘で,反共産政府勢力に支配された.
 いくつかの地域では守旧派との戦いとなったが,守旧派は敗北した.

 南部の町ペーチでは午前半ばまでに,大学の軍事学教授が議長を務める「国民委員会」の手に落ちた.
 AVOペーチ署長は,外出禁止令を出そうとしたが無視され,本部を青年隊に引き渡して国外へ高飛びした.

 デブレツェンでは正午までに,公共の建物から赤い星がなくなり,「革命社会主義委員会」が地方自治体を掌握したと宣言した.

 北東部の工業都市ミシュコルツでは,警察署を包囲したデモ隊に,AVOが発砲.
 AVOはハンガリー軍に応援を求めたが,軍はデモ隊側に合流し,AVOに対して降伏を要求した.
 AVOは降伏し,隊長とその部下1名が殺害された.

 オーストリアの国境から12km東にある町,モションマジャローヴァールでは,AVO本部に到着したデモ隊に対し,AVOは機関銃で掃射.
 52人が死亡し,86人が負傷.
 デモ隊はいったん四散したが,数分後にはわずかな武器を持って戻ってきた.
 AVO隊員は殆どが逃亡しており,指揮官のシュテフコ・ヨーヂェフ大尉他3人だけが捕らえられ,リンチに遭って,隊員2人が死亡.
 シュテフコと部下1名は重傷を負って,駆けつけたハンガリー軍兵士により病院に搬送された.

 この日,ハンガリーに派遣されていたミコヤンとスースロフは,ナジ・イムレと会談した.
 ナジ政権の閣僚には,モスクワによって選ばれた守旧派がまだ幾人も残っていたが,彼らを解任してナジが自分で閣僚を選ぶことに,ミコヤンとスースロフは合意した.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete

ブダペシュト,ボラーロシュ Boráros 通りにおいて破壊されたT-34戦車
こちらより引用)

mixi, 2016.11.20


 【質問】
 ハンガリー1956年革命4日目の戦闘について教えられたし.

 【回答】
 ソ連軍戦車が防御陣地へ移動したのは前夜も同じだったが,この日はソ連軍戦車が巡回を開始しても,僅か数回の銃声がブダペシュトの端で鳴り響いただけだった.
 外出禁止令は解除され,市民は食糧を買うことができた.

 とはいえ,ブダペシュトの路上には依然としてソ連軍戦車350輌が待機していた.
 ナジ・イムレは内閣の人員刷新を発表し,改革派の政治家を何人か入閣させたが,大して関心を呼ばなかった.

 正午,ソ連軍の戦車と砲兵は,一列縦隊になってキリアーン兵舎とコルヴィン横丁に向かった.
 これまでで最も激しい戦闘が起こった.
 武装蜂起勃発前から兵舎にいた,工兵隊の新兵900人は,そのときブダペシュトの他の場所に配置されており,マレーテル・パール大佐の下には,150人未満の兵員だけだった.
 彼はコルヴィン横丁の幾つかの武装蜂起グループから人員の増援を受けた.
 また,戦車が6輌あった.
 ソ連軍の砲火は,兵舎の窓ガラスの殆どを破壊し,ハンガリー兵と武装蜂起グループを多数戦死させ,大通りに面した建物6棟を破壊した.
 ソ連側は兵員6名が戦死.
 ハンガリー兵は戦車4両を破壊.
 武装蜂起グループは補給品を積んだ大型トラック1両に火をつけ,装甲車1両を機能不能にさせた.

 ソ連軍にとって深刻だったのは,補給品の欠乏だった.
 ゲリラの標的になるので,市内の店から食料品を調達することもできなかった.
 もっとも,それはソ連軍を戦闘不能に陥らせるほどではなかった.
 武装蜂起グループの急進派は,ソ連軍の即時撤退とハンガリーの中立宣言を叫んでいたが,現実的とは言えなかった.

 ナジはカーダール・ヤーノシュに,ミコヤンとスースロフとの間の停戦交渉に当たらせた.
 交渉は深夜にまで及んだ.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.1242-256
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete

mixi, 2016.11.20


 【質問】
 ハンガリー1956年革命5日目の戦闘について教えられたし.

 【回答】
 午前6時頃,更なる野砲と弾薬を準備したソ連軍戦車50輌以上が,ブダペシュト内の大通りにて攻撃配置についた.
 反乱者の拠点,1~2ヶ所が落ちれば,ハンガリー人の士気は衰え,希望を捨て,暴動は簡単に収まるだろうというのがソ連軍の考えだった.

 この攻撃には,何よりも秩序回復が大事だと考えるヤンザ国防相,まだモスクワに忠誠を誓うトート参謀長の圧力により,ハンガリー陸軍も加わる予定だった.
 しかし指揮官以下からの命令不服従に遭い,結局,ハンガリー軍は攻撃には参加しなかった.

 一方,知らせを受けたナジは急遽,フルシチョフと電話会談し,「攻撃を開始したなら自分は辞職する」と繰り返し伝えた.
 フルシチョフは態度を軟化させ,「辞職する必要などない」と請け合った.

 しかし,ソ連軍には作戦中止は完全には伝えられなかった.
 当初兵力の3分の1が引き揚げたのちに攻撃を開始した.
 コルヴィン横丁~キリアーン兵舎において,マレーテル大佐の部隊と2時間ほど戦闘となったが,どちらの拠点もソ連軍は占拠することはできなかった.
 戦車3輌が失われた.

 13時20分,ラジオで停戦が伝えられた.
 ハンガリー駐留のソ連軍特殊部隊指揮官ラシチェンコとその補佐官マラシチェンコ中将は,戦闘を拒絶したことでハンガリー陸軍を,それを管理する意思が欠けていることでハンガリー共産党を非難した.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.1242-256
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#28_.D0.BE.D0.BA.D1.82.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F

ピョートル・ニコライ・ラシチェンコ
(wikipediaより)

mixi, 2016.11.20


 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)のきっかけは何だったの?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 10/23のブダペシュトにおける学生デモが,直接のきっかけ.
 デモは
・ナジ・イムレの政権復帰
・ソ連軍撤退
・言論・出版の自由
・複数政党制
などを求めた.
 デモが起きたのは,ソ連がポーランドで渋々ながらゴムウカの政権復帰を認めたことを,ハンガリー国民は,ソ連が全体として東欧を手放そうとしていると誤解し,熱狂したためで,学生デモから大規模な一般大衆デモへと発展した.

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.240
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
http://homepage2.nifty.com/ekondo/rekisi2/easteurope.html
http://palop13a.hatenablog.com/entry/20050723/p1

【ぐんじさんぎょう】,2016/06/09 20:00
を加筆改修


 【質問】
 1956.10.23のデモが「ナジ・イムレの政権復帰」を要求したのは何故?

 【回答】
 ナジ・イムレが「体制内改革派」だと思われていたから.

 ナジは1953.7.4から1955年4月まで首相を務めた.
 もちろん,ソ連の命令による.
 彼は,危機的状況にあった経済と政治をいわゆる「新路線」に向けようとし,
生活水準や消費・賃金水準の引き上げ,
農業の集団化中止,
農業と軽工業に対する投資,
手工業者の個人営業の公認,
行政の分権化・国民参加,
教育の自由化,
法の支配,
政治犯への恩赦と強制収容所の廃止,
宗教への締め付けの緩和
などの綱領を打ち出した.

 しかしスターリニストのラーコシ・マーチャーシュは,党機構を依然として支配しており,意図的にナジの「新路線」を妨害した.

 また,おそらくは偶然の一致だったが,1955年のソ連の外国貿易縮小が,ナジの「新路線」をいっそう困難にした.
 これまでよりも多くの財貨と新規の信用が必要になったまさにその時,ハンガリーに対するソ連からの原材料と資本財の供給が減少したからである.

 1955年2月,ソ連でマレンコフが追放されると,マレンコフを後ろ盾としていたナジも4月に失脚.
 首相を解任されたばかりでなく,国会の議席も失い,党の政治局と中央委員会からも追放され,大学の教職と科学アカデミーからも追われ,11月には党から完全に追放された.

 だがもちろん,経済を悪化させた張本人であるラーコシに経済を立て直せるはずもなく,ハンガリー国民はさらに窮乏させられることになる. 

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.235-236
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-047.html
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-5855.html
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-78.pdf

mixi, 2016.6.9


 【質問】
 ラーコシ体制はそんなに酷かったの?

 【回答】
 おそらく,建国以来1000年にわたるとされるハンガリーの歴代の国家指導者の中でも,ワースト10にランキングされるだろうくらいには酷かった.
(ワースト1は言うまでもなく,矢十字党のサーラシ)
 なにしろ,無謀な超工業化の推進により経済を崩壊寸前に追いやったばかりでなく,農業国であり食糧輸出国だったハンガリーに飢餓をもたらそうとしたのだから,尋常ではない.
 ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás ら「モスクワ派」のスターリン崇拝はことのほか極端で,スターリンのやったことは何でも真似ると言われていた.
 スターリンがやったように,「好ましくない」社会層は残酷に弾圧された.
 人口が1000万人に満たないこの国で,130万人が投獄され,投獄抜きの即決裁判で銃殺された人間も2300人に上る.
 共産党員でさえ,1950年には85万人いたうちの半数が拘置所,強制労働収容所に入れられ,3 年後に追放されるか,あるいは死亡した.

 ナジ・イムレ追放後もまた酷かった.
 教条的なスターリン主義への復帰宣言は,党内部のエリート層のあざけりのマトとなった.
 1935年2月,フルシチョフがスターリン批判を行うと,ハンガリーのそのエリート層は,ライク・ラースローの名誉回復をラーコシに迫る.
 だがそこで,ライク粛清を秘密警察のせいであるかのようにほのめかしたことで,ラーコシは秘密警察や党幹部の怒りを買う.
 1956年7月に,ポーランドのポズナンで労働者の反乱が起こると,その伝染を恐れたラーコシは,ナジと数百人の知識人の逮捕,そして幾つかの新聞の禁止を提案する.
 ハンガリー共産党はおろか,ソ連の指導部でさえ,この措置は火に油を注ぐものだと考え,ミヤコンとフルシチョフがラーコシを説き伏せ,彼にソ連で年金生活を送らせることにした.

 ただ,ソ連がラーコシの後継者としたのは,ラーコシのお仲間である「モスクワ派」のゲレー・エルネーだったので,党からも国民からも信用を得られず,また,実際に改革はスローテンポ極まりないものだった.
 政治学者のジョゼフ・ロスチャイルドは,もしソ連がラーコシの後継者にゲレーではなく,ナジを選んでいたなら,政治の嵐は収まったのではないか(つまり,1956年革命(ハンガリー動乱)は起きなかったのではないか)と見ている.

 それにしても,ワースト10のうちたぶん3人が共産主義者(ラーコシ,ゲレー,それにクン・ベーラもワースト10入りだろう)というのは,どういうのだろうな.

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.235-240
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo/yugo12.htm
http://webegyed.com/history-04.html
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/20631/1/05UMEKAWA,%20Yoshiko.pdf

mixi, 2016.6.9


 【質問】
 ハンガリー事件についての,日本社会党の反応は?

 【回答】
 ここでも例によって,党内左派と右派とが対立している.
 右派がソ連の帝国主義的体質を批判する一方,左派は当初,ハンガリー事件を「チトー主義の勝利」と積極評価していたものの,すぐに急旋回して,ソ連軍介入を正当化するに至った.
 その正当化の「論理」は,ハンガリー人を「我々よりももっと程度が低い」「神経質な国民」「百姓国」などとけなす,醜悪なものだった.

 【参考ページ】
『ハンガリー事件と日本』(小島亮著,現代思潮新社,2003.5.30),p.90-102

【ぐんじさんぎょう】,2011/04/19 20:10
を加筆改修


 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)に対する日本共産党の姿勢は?

 【回答】
 日本共産党では,これについて当初は様々な論争がおこったが,宮本顕治が党中央委員会の多数派を占めるにいたり,ソ連の武力介入を機に,ハンガリー動乱を「反革命」と決めつけた.
 この路線への反対派は,1958年の第7回党大会を機に共産党を追放されることとなる.
 要するに,事実を調査・分析した上で党としての態度を決めたのではなく,初めに党内抗争ありきで,共産党の自己都合により「反革命」呼ばわりしただけ.

 その後の1987年に刊行された『日本共産党の六十五年』では,
「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は,社会主義の大義,民族自決権に反する干渉行為であった」
と豹変.
 そして,容認できないものだったが,当時はその認識をもっていなかった,と言い訳している.
 これは,1964年の親ソ派除名以降,日本共産党が反ソとなったからであって,要はこれも党内派閥抗争の産物.
 その証拠に,ハンガリー事件をめぐる党内闘争で除名された党員の,除名撤回の動きさえない.
 宮本顕治がハンガリー1956年革命を「反革命」と決めつけたことについても,1987年時点で日本共産党自らが批判してもいない.

 党の都合で事実さえ曲げようとする点では,今もって日本共産党も中国共産党も北朝鮮労働党も何ら変わりがないと言えよう.

 一方,ソ連の軍事介入を非難したのは,当時「青年共産同盟」にいた黒田寛一だった.
 黒田はソ連軍の介入を擁護する社共と絶縁,「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し,その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し,新左翼の先駆けとなった.
 もっとも,新左翼とやらが結局のところテロを起こしたり内ゲバをやったりというものでしかなかったことを鑑みるに,黒田らは要するに「"反政府"なら何でもウェルカム」というものでしかなかったんじゃないかな?という気がする.

 【参考ページ】
小島亮『ハンガリー事件と日本』(中公新書,1987)
http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-529.html
http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/hangari%20to%20nihon.htm
http://akizukieiji.blog.jp/tag/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%8B%95%E4%B9%B1
http://www014.upp.so-net.ne.jp/senku/kozo.2.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-12/2008011212_01faq_0.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kojima.htm
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080103/p2

mixi, 2016.6.30

宮本顕治の論文「ハンガリー問題をいかに評価するか」
(『前衛』1957年2月号)


 【質問】
 大内兵衛って誰?

 【回答】
 大内兵衛(おおうち ひょうえ,1888年8月29日~1980年5月1日)は,大正・昭和期の日本のマルクス経済学者.専攻は財政学.
 洲本中学,五高を経て東京帝国大学経済学科を首席卒業した後,大蔵省の書記官を経て,1919年に東大に着任,財政学を担当した.
 在任中は労農派の論客として活躍したが,1920年森戸事件に連座して失職し,数年後に復職した.

 ハンガリー事件に際しては,以下のように発言し,ソ連軍侵攻を正当化している.

---------------------------
(なぜハンガリー民衆は行動を起こしたのかという話題に対して)
大内 それについては,民衆というものの性質が問題になる.
 民衆の政治的発達の程度というものが非常に関係がある.
 同じ民衆といっても,イギリスとアメリカと日本とハンガリアとでは,非常に違うと思う.
 ハンガリアの民衆はそういう国と比べたら,その政治的訓練が相当低い.
 (中略)
 われわれよりももっと程度が低かったということがあると思う.
---------------------------
---------------------------
(ハンガリー民衆の蜂起は,ハンガリー社会主義内部の欠陥のためではなかったかという話題に対して)
大内 それはもちろんある.
 それがなければ火はつかない.
 しかし,内部的な原因がどのくらい大きかったかは別の問題ですよ.
 それがそんなに大きくなくても火はつくよ(笑声)
---------------------------
---------------------------
大内 ハンガリアはあまり着実に進歩をしている国ではない.
 あるいはデモクラシーが発達している国ではない.
 元来は百姓国ですからね.
---------------------------

 いずれも下掲書,p.96-97(原出典;座談会「歴史のなかで」--『世界』1957年4月号)

 このトンデモ発言をさして追及された様子もなく,1980年に没.
 こんなヤツが日銀顧問にまでなっていたとは……

 ちなみに今でも東大には,「大内賞」というのがあるそうな.

 【参考ページ】
『ハンガリー事件と日本』(小島亮著,現代思潮新社,2003.5.30),p.96-97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%85%B5%E8%A1%9B
http://www.bunshun.co.jp/todai0815/todai07.htm
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/1096.html
http://www.zen-kanshiren.com/article/contribution/zuisou/310.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/04/21 20:50
を加筆改修


 【質問】
 ハンガリーにおける1990年の非共産党政権誕生は民主化なの?

 【回答】

 共産党の一党独裁を支持するものではありませんが(というか,一党独裁には絶対反対),1990年にハンガリーで起こったことを“民主化”と呼ぶことには反対です.
 客観的に“体制転換”とか“政権交替”という用語を使うべきだと考えています.“民主化”という用語は予断を与えます.

 昔の社会主義時代のハンガリーを知っている人なら分かっていることですが,1960年代以降ハンガリーの共産党(ハンガリー社会労働党)は率先してハンガリー社会の民主化を進めてきていました.
 すでに 1968年に市場経済を導入していますし,1970年には選挙の複数立候補制を導入しています.
 そして 1989年に東欧圏が次々と民衆の抗議運動で崩壊して行く中,ハンガリーだけは共産党自らが自発的にハンガリー社会労働党を解党.
 新たにハンガリー社会党を組織し,自発的に国民に“大政奉還”をしたものでした.

 1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは,今の日本のマスコミでは到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.

 ハンガリーの体制転換は,ハンガリー社会労働党(共産党)自らが率先して国民に大政奉還した歴史的事件です.
 世界史上,一度共産党が政権を奪取した国で自ら自発的に政権を手放した最初で,唯一の例ですよね.
 無血でハンガリーの大政奉還を実現させた当時の共産党の改革派達の努力には頭が下がります.
 特に,ハンガリーの改革のポジュガイ・イムレは最大の功労者で,本来ならば新生ハンガリーの初代大統領になるべき人物でした.

 しかし,改革者の常として,最後はゴルバチョフ同様に石を持って追われました.
 非常に悲劇的な人物です.
 あと数十年経てば,必ずやハンガリー史は彼の貢献を再評価するでしょうが,失意のポジュガイには何の慰めにもなりませんね....

 ポジュガイはハンガリーの政治家に過ぎませんが,ゴルバチョフと並んで世界史を替えた男だと考えています.
 そういう意味ではもっと注目されていい.

 1990年の総選挙でMDF(ハンガリー民主フォーラム)が政権を取り,日本では民主勢力が政権を取ったと報道されましたが,
その実態は非常に偏狭な民族主義的,かつ権威主義的な保守反動政権で,なんと社会主義時代にすらパージされなかったジャーナリスト達を次々と追放し,汚職まみれで,国庫を破綻させました.
(MDF政権下の4年間でハンガリー
した対外借金は,それまでの40年間に社会主義政権がした借金よりも多かったと言います.)
 世界でも有数の生産性を誇ったハンガリーの農業は破綻し,東欧圏で随一の経済を誇ったハンガリーの経済はがたがたになりました.

 で,その体制転換で国家存亡の危機の時に“民主的国会”
では,国章に王冠を入れるか入れないかで大モメして審議ストップしたそうです.
 約1年に渡って国章問題で他の問題そっちのけ.
 友人のハンガリー人に聞いた話ですが.

 ちなみに最終的に王冠入ったそうで.
 ハンガリーは共和国なのにね.

しい坊(黄文字部分)他 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 ちょっと読者のかたがたに誤解を与えそうな記述です.
 これについて異論がありますので問題を提起させていただきます.

1.
 1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」ではありません.
 ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向を反映した候補者が複数出馬してきたからといって,「民主化である」とはいえないのでしょうか.
 同様の例はハンガリーに限ったことではありません.
 結局,反体制党は生まれませんでした.
(だから体制党が改革を独占できた)

2.
 1968年の新経済メカニズムの導入は,個人営業の自由という観点からは評価できるが,これは何も民主化を主眼としたものではなく,経済的な効率性を優先したものである.
 その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り,対外債務が増大した.
 政府は国民の要求する西側並の生活・消費水準を維持するため,これ以後多額の負債を抱えることになる.

3.
 MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく,自己の権力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含めて)の破綻をうけて,解体を余儀なくされたのである.
 しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した.

4.
 しい坊さんは「大政奉還」といわれるが,徳川慶喜はこれによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍隊と最大の領地)を手にする戦略であっただけのこと.
 来るべき自由選挙をひかえ,自己の権力基盤を保全するには,時流にのった政策を採るのが合理的でしょう.
 「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉の策」と解すれば,駿府への蟄居を余儀なくされた最後の将軍とポジュガイの扱いは仕方がないでしょう.
(私は個人的に同氏に対しては,後述の政治家よりは高い評価を置いています.)

5.
 国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々;
 Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について,「最初は人民蜂起であったが,後に右翼暴動へと転化した」と発言.
 Horn Gyula(外相,後に首相):56年動乱時に労働者防衛隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民との間におきた銃撃戦に参加.現在この件について法廷に証人として出席を余儀なくされる.

6.
 ホルン社会党政権下では,旧体制時代の党組織に関する情報の開示を禁止する法律が制定されました.
 この情報が全面的に開示されれば,民主化へと国民を導いた体制党の人々で,お困りの方がいるはずでしょう.

>1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで
>は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.

 共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理解されなかったのでしょうか?
 ラジオ局は国営です.
 責任者は党の幹部,少なくとも息のかかった人間です.
 体制側がより多くの国民の支持を得ようとします.
 とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば,権力者が国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です.
 自己の管理下で自己批判をやらせるのは,パターナリステックな権力機構の常套手段です.
 同時期のハンガリー映画にもよく青年たちの逸脱行動,家族問題,権力への反抗,国民の遠慮のない政治討論シーンが出てきます.

 しい坊さんは身をもって体験されているのが他の人にない強みです.
 反論もあわせてご意見お聞かせください.

ABC : 世界史板,2001/12/17
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
> 1.1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」ではありません.

 その通りです.


>ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向を反映
>した候補者が複数出馬してきたからといって「民主化で
>ある」とはいえないのでしょうか.

 もちろん,完全な民主主義ではないですが,やはりこれは民主化と言っていいのだと思います.
 ハンガリーではご存じの通り,すでに1956年にソ連軍の軍事介入を受けて,甚大な人的被害を受けています.
 また,1968年にはワルシャワ条約機構軍がチェコの改革に対して軍事介入しました.
 ブレジネフは“制限主権論”というイデオロギーを持ち出してきて,ソ連が兄弟諸国に反革命が芽生えようとしている時には,兄弟国を救援する義務と権利があると主張しておりました.
 そういう国際的なパワーポリティックスの環境の中では,全ての改革は慎重に押し進める必要があったと思いませんか?
 急進的なことをやって軍事介入されて,よりスターリン主義的な傀儡政権が樹立されてしまっては元の木阿弥だし,政治としては本末転倒でしょう.

 面白いことにハンガリーの民主化を目指す改革は,日本では『讀賣新聞』のような保守的な新聞が高く評価しておりましたが,『朝日新聞』のようなリベラルな新聞は『天声人語』などでも執拗に,
「これは下からの民主化ではない.本物ではない」
と批判を繰り返しておりました.
 しかし,当時の民主化の程度において,ハンガリー以外の国はハンガリーの足元にも及ばなかったことは ABC さんもお認めになるでしょう?
 僕は当時,『朝日新聞』の記事には非常に腹を立てていました.
 自分らは安全圏にいて勝手に言いたいことを言っている.
 どうして彼らがソ連に介入されない範囲で,必死で民主化の努力をしていることを評価できないのだ,とね.
 当時の世界情勢でハンガリーが複数政党制などを導入できたわけがないのですから.

 すでにハンガリー社会労働党は70年代には党の実権を少しずつ本来の,憲法で“国権の最高機関”と提議されている国会(衆議院)に移しつつありました.
 当時のハンガリーの党の指導者たちはソ連の顔色を窺いながら,かつソ連に軍事介入の口実を与えないように,必至で綱渡りをして,少しずつ民主化の改革を断行していっていたのです.
(日本の政治家たちと違って,彼らは言葉通り“命を懸けていた”のです.)
 そういう意味で僕は,あのプロセスを“民主化”と呼ぶことにためらいはありません.

 なお,野党の存在は認められてはいませんでしたが,選挙に立候補するには選挙区の有権者らからなる候補者指名集会で立候補者として認められればよく,実際に党員以外の候補者も立候補しました.
 しかし,これらの“無所属”議員が国会の多数派を占めることはありえず,また,立候補してもどうせ当選しないだろうというので,複数の候補者がいた選挙区はどんどん少なくなっていってしまったために,ハンガリーは,確か1980年頃だったでしょうか,再び選挙法を改正して,複数の立候補を義務付けたのでした.
 これも,まだ野党が認められていない以上は“真の民主主義”とは言えませんが,ソ連からの軍事介入を避けながら,少しずつではありましたが,民主主義の実現の方向へ進んでいっていた証しだと考えます.

>同様の例はハンガリーに限ったことではありません.結
>局反体制党は生まれませんでした.(だから体制党が改
>革を独占できた)

 そういうことの積み重ねで,結局,80年代末には野党が復活したではありませんか?
 最初の野党であるMDFの設立にあたってはポジュガイら,ハンガリー社会労働党内の改革派が参加していたことは ABC さんなら当然ご存じでしょう?
(固有名詞をど忘れしましたが,“何とかの集会”と呼ばれている歴史的な会合のことですね.)
 MDFは“真の民主主義には対抗政党が必要だ”というハンガリー社会労働党の改革派たちによって設立が助けられたのです.

>その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り,対
>外債務が増大した.政府は国民の要求する西側並の生
>活・消費水準を維持するため,これ以後多額の負債を抱
>えることになる.

 これは明らかに異論があります.
 ハンガリーの対外債務が増大したのは 1973年の石油ショックのためです.
 世界中で物価が高騰した時に社会主義国ではその価格差を価格に転化しなかったために,その差額(逆ザヤ)を政府が負担することになり,雪だるま式に対外債務が増大していったのです.
 問題は新経済メカニズムの導入の失敗によるものではなく,石油ショックによる世界的な超インフレに脅えた党が,新経済メカニズムの推進に尻込みをしてしまったことにあったと思います.
 しかし,ハンガリー政府は70年代末になると,再び新経済メカニズムのアクセルを大きく踏込むことになりました.

 なお,1980年代を通じて,東欧諸国における国民1人辺りの対外債務はハンガリーが一番多かったのですが,西側の銀行団の融資においてはハンガリーに対する条件は非常に良かったのです.
 ハンガリーは債権国としては世界の中でも非常に高い評価を受けておりました.
 その理由は,ハンガリーは債務を常に完全に履行していたからです.
 例え物価が上がることになっても,外国からの借金はきちんと返さなければいけないという考えは,国民一般にも浸透していたと思います.

>3.MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく,自己の権
>力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含め
>て)の破綻をうけて,解体を余儀なくされたのである.

 これはSzDSz(自由民主連盟)等,体制転換後政権に就いたグループの主張ですね.
 しかし,これは明らかな誤りです.
 政権奪取を試み,実現した政党がそのように主張することは当然ですが,我々第三者は,特に研究者は80年代のハンガリー社会労働党内の権力のメカニズムをきちんと把握し,理解しなければならないと思います.

 MszMP(ハンガリー社会労働党)の中にスターリン主義的な者はほとんどいなかったと思います.
 基本的には(ソ連の圧力さえなければ)民主化することに異論はなかったと思います.
 しかし,その程度と限度に関して“温度差”がありました.
 改革派のポジュガイ・イムレやネーメト・ミクローシュ,コーシャ・フェレンツらに対してしばしばベレツ・ヤーノシュらは“保守派”と呼ばれていますが,これはあくまでもポジュガイらとの比較の上の話であって,彼らとて,例えばソ連のブレジネフのような保守派とは違っておりました.
 恐らく両派の最大の違いは,“複数政党制および政権交代無くして民主主義無し”と考えるか,“共産党の一党支配だけは確保しなければならない”と考えるかの程度の違いだったと思います.
 要するに,“完全な民主主義”か“コントロールされた民主主義”かという思想の違いだったと言っていいでしょう.

>しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した.

 これも明らかに事実とは異なっています.
 “保守派の頑強な抵抗とともに分裂した”のではありません.
 事前に周到に準備されていた作戦によって,“保守派に頑強に抵抗させて”“離党させた”のでした.
 ここら辺の経緯は非常にスリリングで面白いものでした.

>4.しい坊さんは「大政奉還」といわれるが,徳川慶喜はこ
>れによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍
>隊と最大の領地)を手にする戦略であっただけのこと.

 徳川慶喜は日本が欧米列強の植民地とならないためには早急に国内を民主化・近代化しなければならず,また薩長との内戦をすれば,無用な血を流すことになるだけではなく,欧米列強に付け込まれる危険が高いと考え,日本の体制転換のリーダーシップをとって,自らが大統領になろうと考えたのだと思いますが,それのどこがいけないのでしょうか?
 優れた政治家であるならば,自分がその改革を実行したい(また,自分ならそれができる)と思うのは当然でしょう?
 僕は彼のおかげで日本は救われたと考えています.

>来るべき自由選挙をひかえ,自己の権力基盤を保全する
>には時流にのった政策を採るのが合理的でしょう.

 そこに根本的な勘違いがあるのです.
 自由選挙を“来るべきもの”にしたのは党内改革派たちだったのですから.
 ご存じだとは思いますが,ハンガリーにはポーランドのような反体制運動グループなどは存在しておりませんでした.
 それはハンガリーの民主主義が不完全なものではありながら,多くの国民はハンガリーが置かれた状況を理解していたのと,そこまでの抵抗運動を組織するほど絶望的な抑圧体制ではなかったからです.
 現在政権を取っている政党の指導者たちは,自分らが旧体制中にずっと反体制運動で戦ってきていたと主張していますが,それはウソです.
 彼らは反体制的な思想は持っていたでしょうが,基本的にはほぼ全員が“体制内反体制派”でした.
 ハンガリー人らはハンガリーの状況に満足しきっていたのです.(腹立たしいほどに!)
 世界中どこでも,政権を取った勢力は,それまでの,旧体制下注の自分らの行動を美化するものなのはご存じでしょう.

 だからこそ,反体制運動というか,批判勢力は,ハンガリー社会労働党の中の改革派らがお膳立てしてやらなければならなかったのです.
 ポジュガイらが必死で彼らを守り,マスコミの報道の自由を確保したのではなかったですか?
 しかし,一度政権を取ったからには「我々は,我々が打倒した共産党のお蔭で政権に就けた」等と告白するわけにはいかないではありませんか?

>「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉
>の策」と解すれば駿府への蟄居を余儀なくされた最後の
>将軍とポジュガイの扱いは仕方がないでしょう.
>(私は個人的に同氏に対しては後述の政治家よりは高い
>評価を置いています.)

 体制転換や革命のような事態において,ポジュガイや徳川慶喜のような功労者たちが(ゴルバチョフも含みます),このような理不尽な扱いを受けることは,よくあることで,仕方がないことだとは思っています.
 しかし,その時の評価が理不尽なものであることには変わりはありません.

 ポジュガイやネーメトたちが“風見鶏”で,自分らの権力が危うくなったときに,改革者のフリをして,権力の維持を狙ったというのはウソです.
 これはSzDSzが雇った米国の大籐両選挙などでも活躍している広告会社の戦術でした.

 1989年春の段階で,ポジュガイのことを“風見鶏”だと考えている国民は1人もおりませんでした.
(厳密に言えば,きっとそういう国民も多少はいたに違いありませんが.)
 それが,米国の広告会社の宣伝の結果,1989年の秋には圧倒的多数の国民が
「ポジュガイは汚い共産主義者のくせして,世の中の風向きが変わると,さっさと改革派面をするようになった権力欲の亡者だ」
と信じるようになりました.
 これはおかしい.
 だって風向きを変えたのはポジュガイだったのですから.
 春の段階ではポジュガイの一挙一動に国民は感激し,心配していたものです.
「よく言った!」,「そこまで言ってしまって大丈夫?」,「頑張れ!」
 それが,秋になると誰もそのことを覚えていなかったのです!
 これには僕も驚き,呆れました.
 春には熱烈なポジュガイ支持者だった者達も,秋には口汚くポジュガイを罵りました.
 僕が「春には君はこう言っていたじゃないか?」と言っても,誰もが「自分はそんなことは思ったことも言ったことも絶対にない!」と言い張ったものです.

 ポジュガイの民主主義指向は筋金入りのものです.
 彼は1970年代半ばに文部大臣になったのですが,その時若手の研究者らを集めて,研究プロジェクトを発足させました.
 細かいことは忘れましたが,社会状況だったか,カリキュラムに関するものだったかの調査研究でした.
 その時ポジュガイは研究者らを集めて,
「調査報告は遠慮ないものにして欲しい.
 党に遠慮することはない.
 党に都合が悪いことでも正直に書いてくれ.
 私が知りたいのは真実のみだ.
 諸君らの報告書は私以外は読まないことを約束する.
 安心して報告してくれたまえ.」
と告げたのでした.
 当時,僕の大学の学寮で同室だった友人はそのプロジェクトに参加していたのですが,その晩,熱くポジュガイに心酔したことを僕に語ってくれました.
 まだポジュガイの地位が磐石ではなかった時代です.
 その結果,党の政策担当のアツェール・ジェルジュの逆鱗に触れ,彼の策謀で,ポジュガイは実権のないハンガリー愛国人民戦線の議長に祭り上げられてしまったのですが,ポジュガイはそれにもめげず,愛国人民戦線を実質的な民主化の組織として再編成し,機関紙であった日刊『マジャル・ネムゼト』を最もリベラルで,評価の高い新聞にしたのでした.

 僕自身が最所にポジュガイに直接会ったのは彼が来日した時でした.
 確か 1983年か84年のことだったと思います.
 まだ誰もがソ連東欧圏の崩壊を予想していなかった時期です.
 2人だけになった時に彼はこう言いました.
「私は昔は敬虔な共産主義者だった.
 共産主義こそ正しい思想だと信じて疑わなかった.
 しかし,1960年代になると色々な矛盾に気付き,悩むようになっていった.
 しかし,1970年代はまだ共産主義は本当は正しいのだが,その実現方法が間違っていると考えるようになっていた.
 だが,今では確信を持って共産主義の思想そのものが誤っていると考えるようになった.
 私は間違っていたのだ.
 共産主義は非倫理的な思想だ.
 このような体制が存続するのを許すわけにはいかない.
 私はこの体制を変革するために全力を尽くす覚悟だ.
 このような非倫理的な体制は恐らく21世紀まで生き残ることはできないだろう.
 21世紀には世界にはもはや共産主義国家は残っていないはずだ」
と.彼ははっきりと明言しました.
 もちろん,ハンガリー国内で政治家である彼はこのような明言はしておりません.
 そんなことをしたらたちまち失脚して,彼の改革の夢は挫折するからです.
 彼がなぜ初対面の僕にそんなことを打ち明けたのかはさっぱりわかりませんが,彼は僕を信用していたのでしょう.
 最初に会ったときに
「前からあなたにはお目にかかりたいと思っていたんです」
と言って手を握ってきましたから,何らかの情報を持っていたのでしょうね.
(どういう情報なのか,ちょっと興味がありますが.)

 その後彼は野党の組織化に手をつけます.
 まず,ドナウ川に建設予定のダムが環境を破壊すると主張する環境保護市民運動を実現させます.
(社会主義国でこのような徒党を組むことは御法度でした.)
 やがて環境保護運動のような市民運動が容認されるようになると,手をつけたのが政治的な反体制運動の組織化でした.
 その最初の“作品”がMDF(ハンガリー民主フォーラム)だったのです.
 東欧の多くの野党(現与党)が「党」という名前ではなく「フォーラム」とか「運動」とか「クラブ」とかいった名前であるのは,「党」と名乗ると弾圧される恐れがあったからです.

 ポジュガイらはネーメト首相らと手を携えて,次々と民主化政策を打ち出していきました.
 ついにポジュガイは1956年のハンガリー動乱を,公式には“反革命”とされていたのを“革命”と宣言しました.
 国民は拍手喝采をしながら「これでポジュガイも終わりか?」と心配したものです.
 彼の盟友で映画監督のコーシャ・フェレンツらは1989年の春の段階でポジュガイに離党を強く勧めました.
 コーシャは主張しました.
「お蔭様で野党がどんどん力をつけてきている.
 しかし君がこのまま社会労働党に留まっていては,やがて君も共産主義者として国民から切られてしまう恐れがある.
 それよりは今,離党して新しい政党を作って民主化を指導すべきだ」
と.

 それに対してポジュガイは
「政治家としての私の運命はどうでもいい.
 些細なことだ.
 それよりも大事なのは,いかに流血なしでこの国を民主的な国家に軟着陸させるかだ.
 政府は改革派の手にあるが[首相はネーメトでした],党はまだ保守派が握っている.
 また,労衛隊[武装した党の民兵組織]はまだ武装解除されていない.
 いまここで党を割って出ては労衛隊が武力鎮圧に出るかもしれない.
 ハンガリー人同士が血を流しあうことは絶対に避けなければいけない.
だから私は党に留まる」
と答えたのでした.
「また,今党を割って改革派が出ては,せっかく改革派の手にある政権を保守派に引き渡すことになってしまう.
 また,党は膨大な資産を持っているが,これは本来は国民の財産だ.
 それまでも保守派に渡してしまうことになる.
 それは避けなければならない.」
(ここら辺のやりとりはポジュガイとコーシャから直接聞いたものです.)

 そこでポジュガイやコーシャ,ネーメトらはある策略を巡らします.
 彼らが党を割ってでるのではなく,保守派が党を割ってでるように仕向けようと言うものです.
 それが秋の党大会でした.
 改革派の慎重な根回しで,ハンガリー社会労働党の党大会では突然,ハンガリー社会労働党の解党と,ハンガリー社会党の新設が議決されたのでした.
 そしてハンガリー社会党は共産主義ではなく,西欧的な社会民主主義を標榜する政党となったのでした.
 突然のことで怒り狂ったそれまでの党の書記長たちは(名前をど忘れして思い出せない (^◇^;)! なんとか・カーロイだったかな?あとベレツですね)先を考えずに党を離党して,新たにハンガリー社会労働党を組織したのでした.

 これは劇的な無血宮廷クーデターの勝利だったのです.
 そして私の言う,史上初めての共産党自らの“大政奉還”が実現したのです.

>5.国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々.
>Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について,「最初は人
>民蜂起であったが,後に右翼暴動へと転化した」と発言.

 これはハンガリー社会労働党の公式見解です.
 別にネーメトのものではありません.
 また,このような発言は“いつ”“どのような”環境においてなされたのかをきちんと判断してからでないといけません.

 例えば,ポジュガイが必死で守ったマスコミですが,ここは自由民主連盟の支持者が多く,ポジュガイがマスコミに介入できないことを逆手にとって,物凄い量のえげつない反ポジュガイ・キャンペーンを行っておりました.
 例えばポジュガイが“風見鶏”であり,本当は民主主義者ではなく,がちがちの共産主義者だと国民に印象づけるために連日のように“数年前” (=まだこのような民主化の気運が高まっておらず,共産党の支配が磐石であった時代)にラジオの記者がインタビューした
「あなたは共産主義者ですか?」
「...そう...です...」
という内容を繰り返し報道し,ポジュガイが嘘吐きだという印象を与えていました.
 しかし,ちょっと考えてみればわかるように,当時のネーメトやポジュガイが「56年は革命だった」とか「私は共産主義者ではない」等と発言できたはずはないのです.

>Horn Gyula(外相,後に首相):56年動乱時に労働者防衛
>隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民
>との間におきた銃撃戦に参加.現在この件について法廷
>に証人として出席を余儀なくされる.

 一般的には西側ではホルンもネーメトらと同じ改革派のリーダーとみなされていますが,個人的にはちょっと疑問に感じています.
 彼こそ“風見鶏”だったのではないかと考えています.
 ちなみに,ポジュガイも,ネーメトも,ベレツさえも(!) 非常に気さくな人柄ですが,ホルンは権力者の臭いをぷんぷんさせており(個人的に会ったときの印象です)あまり好きではありません.

 ただし,彼の56年当時の行動は別に批判される筋合いのものではないと思います.
 56年動乱当時は非常に混乱しており,実際に右翼勢力が暴動を煽っていたのは事実です.
 そして街では蜂起者による虐殺が横行していました.
(警官が建物の上の赤い星に串刺しにされて晒されていたり,逆さ吊りにされて殺された党員の焼け焦げた死体に唾を吐きかけている写真等は,日本でもよく目にすることができます.)
 従って,真面目な青年が労働者が主人の社会を守ろうと銃を取って“反革命”の者達と戦ったとしても,それはそれで理解できることでしょう.

>6.ホルン社会党政権下では旧体制時代の党組織に関する情
>報の開示を禁止する法律が制定されました.この情報が
>全面的に開示されれば民主化へと国民を導いた体制党の
>人々でお困りの方がいるはずでしょう.

 当然“困った”人は多かったと思いますが,個人的にはそうすべきだった(=開示すべきではなかった)っと思います.
 憎しみの連鎖は断ち切らなければなりません.
 ハンガリーにおいては国民全員が“共犯者”だったのですから.
(不思議なことに1990年以来すっかり人々の記憶から消えてしまっていますが,ハンガリーの社会主義体制が崩壊するまではハンガリー人たちはいかに自国を誇りに思い,自惚れていたことか!)

 全てを公開した東独では国民の過半数がシュタージの協力者だったということになって,東独市民の大きなトラウマになっています.
 しかし,秘密警察のスパイがそんなにいたはずはないのです.
 恐らくは,相手が秘密警察の者だとは知らずに付き合っていて,茶飲み話等で話した内容が報告書に記載され,警察の記録上は(本人は全然気付いていなかったのに)“協力者”とされていたような場合が大部分ではないかなと個人的には想像しています.
 弱みを握られて,情報提供を強制させられた人もいるでしょう.
 また,(そういう強制で)協力者だと自覚していても,あえて当たり障りのない情報のみを手渡して,友人・知人を守った人達もきっと多いでしょう.
 しかし,一方的にこのような情報を公開してしまっては,友人や知人・親戚の間の疑心暗鬼を増幅し,人間関係を壊すだけです.
 50年後とかに公開を義務付けるようなことはあってもいいと思いますが,何でもかんでも出してしまえばいいというようなものでもないでしょう.
 原理主義的な民主主義,原理主義的な情報公開は,必ずしも人々の幸福につながるわけではないはずです.

>共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理
>解されなかったのでしょうか?

 ちょっとびっくり.
 日本や米国も含めて,どんな体制でもマスコミの報道の自由はガス抜きだと権力が判断できる範囲でのみ保障されているのではなかったのですか?
 そんなことはどこでも同じことです.
 別に社会主義体制下でも,資本主義体制下でも同じことだというのは常識でしょう?
 湾岸戦争の時に『イマジン』が英国で放送禁止になったのは有名な話ではありませんか?
 あるいは今回のニューヨークの世界貿易ビル事件でも,米国ではさっそく放送禁止曲がリストアップされましたよね?
 また,日本でも,今日でも報道されない,できないニュースがどれ程あることか!

 当然,東欧諸国では程度の差こそあれ,西側よりは制限がきつかったのは事実です.
 しかし,それでも日本よりもずっと立派な報道番組が多々あったのです.
 例えば社会問題を扱ったドキュメンタリーは,日本では単にその個人の悲劇として描写されることがほとんどです.
 本当はその裏には社会制度,すなわち体制の問題が潜んでいるのですが,今の日本ではそのことには触れることはできません.
(60年代まではそういう良質な,本質に迫るドキュメンタリーもたくさんありました.)
 しかし,ハンガリーのドキュメンタリーの場合は,その問題が制度上の構造的な問題だという結論まできっぱり述べていたのですよ.
 別に“ガス抜きのプロパガンダ”だとおっしゃっても結構ですが,なら,それよりも情けない日本の報道の現状はどうおっしゃるのでしょう?

 強調しておきますが,僕はハンガリーでは報道や言論の自由が素晴らしく保障されていたなどとは一言も言っておりません.
 制限はあった.
 しかし,その制限は多くの日本人が,冷戦構造の下,西側における反共プロパガンダのステレオタイプに描かれているようなものとは違っていたという事実のみを述べているに過ぎません.

>ラジオ局は国営です.

 “国営”という用語をどのような意味で使っておられるのでしょうか?
(“国営”と“国有”も違いますしね.)
 BBCやNHKを“国営”と呼ばれるのであれば,確かにハンガリーの放送局は“国営”と言えたと思いますが.
 しかし,ヨーロッパでは西欧も含めて,ほとんどがそうでしょう?
 ハンガリーの放送局の制度をどの程度理解した上でそうおっしゃっているのでしょうか?
 それとも「社会主義国だから放送は国営のはずだ」→「社会主義国の放送は国営だ」という論理なのでしょうか?

>責任者は党の幹部,少なくとも息のかかった人間です.

 国営放送に限らず,事実上の国営の特殊法人である某国の公共放送のN●Kの会長が某自●党の息の掛かった人物であることは公然の秘密でしょう?
 例えば,大河テレビドラマの『徳川慶喜』が放映された理由は?
 今回のアフガニスタン空爆報道にしても,自衛隊派遣問題にしても,様々な問題を抱えた件に関して,他の民放と比べて,某国営放送の姿勢だけが突出して与党寄りだということは衆目の一致することですよね?
 別にどちらが正しいとか言っているわけではないのです.
 “国営放送”というのは所詮,そんなものなのです.

>体制側がより多くの国民の支持を得ようとします.

 より多くの国民の支持を得ようとしない体制があれば,ぜひ教えてください (^◇^;)!

>とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば権力者が
>国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です.

 西側ではもっとソフトに立ち振舞っていますね.
 つまり単により“上手”なだけですが....
 でも,やはりライオンの尻尾を踏むと,その時は....
 で,ハンガリーと同じように 1968年を体験したチェコの体制は,どうしてハンガリーのようにソフトには立ち振舞わなかったのでしょうか?
 ということはハンガリーの事例は全然“当然”ではないということになりはしませんか?

>自己の管理下で自己批判をやらせるのはパターナリステック
>な権力機構の常套手段です.

 しかし,ハンガリーよりもずっと家父長主義的だったソ連や中国ではそれほどの自己批判すら許されてきませんでしたよね?
 矛盾しませんか?

 ちなみに共産主義体制は一般的には(当の社会主義国でも!)“家父長主義的”と見なされていますが,ハンガリーの社会労働党体制の場合は多少違っていたと思いますよ.
 何しろ,日常生活で党は全く前面に出ていませんでしたからね.
 街を歩いても,日本人が想像するような横断幕や標語,指導者の写真等は一切掲示されていませんでしたしね.
 組織や企業の幹部になるためには党員でないと難しいという一般認識はありましたが,実際には,それはある種の都市神話で,党員でない幹部というのは結構いました.

 しかし,「報道による体制批判が禁じられていた」と書けば「それは共産主義体制の常套手段です」となり,「報道による体制批判も許されていた」と書けば,やはり「それは共産主義体制の常套手段です」となるわけで,要するに結論が先にあるということなわけですね?

しい坊 : 世界史板,2002/01/14
青文字:加筆改修部分

 なお,政治学者ジョゼフ・ロスチャイルドによれば,カーダール政権時代の評価は,
「カーダールは,1956年に権力についてから30年の間に,革命を裏切ったソ連の従僕から真の賢者へと,自分に対する評価を一変させた.
 そのような人間として彼は,モスクワからはその忠誠心と国民を落ち着かせたことで信頼され,西側からは経済的プラグマチズムと政治的穏健さを尊敬され,国民からは共産主義の凶暴さを和らげ,ソ連の圧力をかわしたことで評価された」
「知識人の異端派に対する政策は,東欧の基準からすれば,かなり寛容になった」
「新経済メカニズム(NEM)は多面的,多方向的であり,ハンガリー経済の包括的で積極的,構造的で全面的な立て直しであった」
「この新経済メカニズムによって,複雑で創意に満ちた,比較的効率の高い,しかしその一方で外国貿易に高度に依存した国民経済が形成された」
「1960年代と70年代には国有セクターの中央計画体制と,『第2経済』の自由経済活動を和解させる有望な方式と観られたカーダールの新経済メカニズム(NEM)が,結局は失敗に終わったという暗澹たる事実である」
「個人的に最も野心があり,政治的に最も多元主義的・西欧的で,グラスノスチ支持だったのは,かつてカーダールによって大衆組織の『共同戦線』=人民愛国戦線の議長という,一見して無力な閑職に降格されたことのある前文化相ポジュガイ・イムレである.
 しかしポジュガイは,見たところ権限のないこの職を活用して,穏健ではあるが依然として中央集権的なカーダールのレーニン主義の外枠をはるかに超えて進む用意のある改革派の強力な集団を育成した」
といったところ.
(ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.308-311 & 357-362)

 【再再反論】
> 一般的には社会主義国の農業は非常に効率が悪いと
> 考えられるのが常識ですが,ハンガリーの農業生産
> 協同組合の小麦生産の効率は確か,米国と世界の一,二
> 位を争っていたはずです.

 誠に申し訳ないのですが,私の手元にある統計資料では1~2位どころではありません.
 まあ,「東欧の優等生」ではありますが.
 政府の容共プロパガンダとは言いません.
 思い込みは誰にでもあります.
 一般の方々の誤解を避けるためにも客観的データの提示が必要と思い 提示させていただきます.
 皆さんもご覧ください.
(下表参照)

1976-80年代ハンガリー及び欧州諸国における主要農産物の平均収穫量(q/hektar)

(国名) (小麦) (大麦)(トウモロコシ)(ジャガイモ)(テンサイ)
ハンガリー 40.5 32.5  48.6  142    338 
オランダ  58.8 46.0  54.7 354    480
イギリス  50.2 41.2  20.0  301    332
フランス  46.0 38.1  50.2  246    447
西ドイツ  47.0 41.7  55.7  278    467
オーストリア39.6 37.5  66.5  241    471
デンマーク 50.0 38.4   ――   241    390
チェコ   40.4 37.3  44.6  166    331
東ドイツ  41.8 37.8  39.1  176    269
ブルガリア 38.1 31.7  40.3  107    289
ユーゴ   32.8 22.2  40.7   90    423
イタリア  25.9 26.8  65.3  173    463
ルーマニア 27.0 30.0  33.7  148    249
ギリシア  25.3 24.0  51.4  159    567
ポーランド 29.2 27.8  39.0  177    280

出典:A magyar mezogazdasag europai osszehasonlitasban. Bp..,1985.KSH. 22-24

ABC : 世界史板,2003/05/21
青文字:加筆改修部分

> 1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで
>は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.

 どの程度をして「辛辣」というのか,あなたの主観的判断なのだから,みなさん納得できないわけです.

 というか,この一文こそが,しい坊さん,あなたの「自由」の基準が共産主義権力の基準であるのではないかという疑念を強くしているのです.

 ここに英国Economist社が1986年に出版した World human Rights Guide と言う本があります.
 これには,世界160か国あまりについて,国内旅行,平和的集会,信仰の自由など40項目にわたる自由権について,自由,制限あり,不自由,まったく不自由の4段階で評価して,100点満点で得点をつけています.

 当時,オランダ,デンマークなどが98点とトップで,日本は拷問,女性の社会的平等などで悪い評価を得て先進国の中では低い88点でした.
 最低はエチオピアの13点,次が北朝鮮の17点です.

 ハンガリーは当時で55点でした.
 これはソ連圏のポーランド41点,チェコ36点,あるいは「社会主義」ユーゴの50点,中国23点,キューバ24点,ベトナム25点よりはマシで,共産国家では文句なしのトップですし,いわゆる資本主義陣営に属する台湾の49点よりはマシですが,韓国59点,タイ57点よりは下です.
 そして,各項目では,平和的集会・結社の自由,拷問からの自由,国家イデオロギー教育からの自由,平和的野党結成の自由,複数政党制と秘密投票による選挙権などは「絶対不自由」と評価されています.
 さらに「独立したラジオ,テレビ局」はなく,完全に国家統制ですが,「やや自由な番組も若干数存在する」.
 出版についても「ほとんどは国家が所有,統制し,少数の独立出版は,かならず検閲を受け,もし国家イデオロギーに反したものは,処罰される」とあります.

 また,米国の人権団体Freedom Houseが毎年発表している自由度報告書でも,ハンガリーは1989年以前までは,7段階の自由度評価で,最高が1として,5をさまよっていました.
 もちろんソ連圏ではトップですが,韓国,台湾と同じ点数で,日本の2点とはかなり開きがあります.

 つまり,1989年以前のハンガリーは,国際的な評価としては,決して自由な国家とはいえませんし,当時先進国では最低水準の日本とは比べ物にならないくらい自由がなかったことは明らかです.

 しい坊さんがいくら「個人体験」を主張しても無駄です.
 というか,これらの評価は,しい坊さんなんかよりもはるかにハンガリー経験も長く,法学や政治学や社会学の素養のある人たちがまとめた結果なのですから.

 つまり,しい坊さんは,ハンガリー語や歴史そのものについてならともかく,ハンガリー政治や人権状況,経済について語るには不足があるということです.

世界史板,2003/05/22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハンガリーにおいて,
ポーランドのような規模の反体制運動グループが存在しなかった(できなかった)理由を教えてください.

 【回答】

 まず,教会は既にラーコシ時代から教会所有学校の国有化,ミンゼッティをはじめとる教会関係者の不当逮捕,粛清,脅迫によって弱体化されていました.
 また,56年革命の記憶は,権力の側の緩やかな監視にもかかわらず反体制運動への関与を躊躇させました.
 そして,68年からの新経済メカニズムの導入と脱イデオロギー的政策は一定の自営業を認められた国民をして,第二経済(ヤミ経済)における資産形成と個人生活の充足への追求にエネルギーを費やすことになり,労働者,市民は体制側によって骨抜きにされてしまったのです.
 反体制運動が党以外で生じるのは,物価引き上げからくる生活不安と,制限主権論の撤回を示唆したゴルビーの登場後のことでした.

 体制転換に対する社会的態度について,Hirschmanは各国の特徴次のように類型化しています.
1.離脱型:ハンガリー.国家生活から第二経済への離脱(消極的抵抗)
2.抗議型:ポーランド.労組「連帯」に体現される体制への抗議(積極的抵抗)
3.忠誠型:東ドイツ.党国家への忠誠.(抵抗の放棄)

 したがって,ポジュガイのような良識派が反体制運動の組織化において,重要な役割を果たしたことは認めますが,ハンガリー人の消極性を「共犯」と断罪することは適当ではないと思われます.
 そのようなハンガリー人を「腹立たしいほど状況に満足しきっている」と思われるのは御自由ですが..

ABC : 世界史板,2002/01/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 メッジェシって誰?

 【回答】
 メッジェシ・ペーテル Medgyessy Péter(1942~)はハンガリーの政治家で経済通.

 ブダペストのカール・マルクス大学で経済博士号を取得.
 1966年から財務省で様々な役職を勤める.
 悪名高いボクロシュ・パッケージを修正した人物.
 その傍ら秘密警察のエージェントとして働いていたことを,後に本人も認める.
 内務省の秘密警察の密告者として,外国のスパイをチェックして報告していたという.
 ちなみにコードネームはD-209.
 1982年に副財務相就任.
 1987年,財務相に就任し,市場経済移行までの税制を確立.
 1988年,経済担当副首相就任.
 1990年からハンガリーの様々な銀行のCEOおよび総裁を務める.
 1996~1998年,財務相再任.
 2002.5.27,総選挙の結果,社会党の後ろ盾を得て首相就任.
 同年6月,
旧体制時代に密告者をしていたことが発覚し,首相にふさわしくないということで,ハンガリー政界は喧々諤々となるも,結局辞任はせず.
 2004.8.19,連立内閣を構成する自由民主同盟との経済政策などをめぐる対立から,首相辞任.

Puska's ◆GiKmJoo.(赤文字部分) & ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU(黄文字部分)他 : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 防諜部門の密告者だった過去って非難されるような事なのかな?
 要は外国のスパイから国を守ってただけでしょう?
 「共産主義=絶対悪」のようなおめでたい頭してないと,批判のしようがないような気がする.
 単に新政権に対する野党の嫌がらせじゃない?

 【回答】
 まあ,国防の観点からするとそうなんですが…
 密告者だったというのが,倫理的にどうなのかと感じる人もいるわけです.
 同じ組織の別部隊には,もちろんハンガリー市民をチェックして密告するエージェントがいて,反体制の人々を密告していたわけですし…
 旧東ドイツの場合,統合後刑事告発されてたくさんタイーホされてませんでしたっけ?

 ハンガリーでは体制変換後,最初の政府がドイツの真似をしなかったので,現社会党には,やましい過去を持つ人がうようよいるとのこと.
 その中でメッジェシ氏が一番クリーンだという話もあります.
 マルクスの唱えた共産主義は問題無くても,実際に存在したのは単なる全体主義国家だったのですよ.
 それを理解してますか?
 ちなみに私はFIDESZ支持派なので,さっさとつぶれて一議員になってくれれば,もとエージェントでもなんでもいいですが,任期をまっとうして,ハンガリー経済までつぶさないでほしいです.

ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分

 「要は外国のスパイから国を守ってただけ」と,そこまで果たして単純化できますかな?
 たしかに政略的なネガティブ・キャンぺーンの一環として行われている要素はありますが,それでは当時のD-209(メッジェシ)が大学入試失敗後に,現在の通貨価値で30万フォリントもの大金を国庫から得て,どんな外国のスパイから「国益」を守ったというのでしょうか?
 彼は国会で最初に関与事実を否定し,翌日「あっさりと」認めましたが,今度はロシアのKGBから「国益」を守ったと弁明しました.
 東欧諸国の秘密警察が,KGBの中央機関で養成されたり,その指示で動くのは自然なこと.
 ルーマニアのような反ソ体制下ならまだ可能性はあるものの,現実問題としてはいかがなものですかな?
 「共産主義=絶対悪」とはユーロ・コミュニズムや人間の顔をした共産主義などの幅広いスターリニズム以外の形態を念頭においておられるのだと思いますが,あの当時のハンガリーは政治体制はそこまでいってませんよ.

 まあ,ロシアやルーマニアのトップも元秘密警察だから,同レベルとして考えればうなずけますがね.

 もっとも,社会党のなかでも政治から距離を置いていた経済官僚の必要性は認めますがね.
 D-209も当初はそういうクリーンなイメージが好まれて首相に担ぎ上げ出されただけに残念だな.

世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分

 古くはナチスのゲシュタポ,そして,社会主義時代のKGB.
 ハンガリーの人はスパイとか,密告者に関してトラウマというか,先天的な嫌悪感があるんじゃないすかねえ.

 でも,現在もブダペストは西側,アラブ系,ロシア系,中国系とスパイが溢れているスパイ天国な罠.

 スパイ天国と書いて,「おさかな天国」の歌詞で歌っちゃったよ(w

rtl-ckm : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分

 なんでも追求していた青年民主同盟党首のポコルニ・ゾルタン氏も,自分の父親が旧体制時代に密告者だったことを知って辞職したそうで・・・.
 東独のように徹底的に追求していないのがいいのか悪いのか・・・.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分

 ただ,ポコル二の父の場合は56年革命に参加したことでカーダール政権下で投獄され,教職に復職も党の度重なる圧力のもとで密告者になったわけで,高額の給与を与えられつつ,自らの自由意志でエージェントになったD-209のケースと同列に扱われてよいのか?という気がしますね.
 むしろ本人に直接には責任のない親の過去の責任をとって党の一線から退いたポコルニの政治姿勢と,現在でも「英雄論」をかざして共和国首相の座にとどまり続けるメッジェシが好対照をなしているところが際立って見えますね.
 東独のようにとはいいませんが,公人としての現職政治家については明らかにすべきだと思いますね.
 何といっても現行の情報公開を禁止する法律が,社会党首班のホルン政権下で生まれ,ホルンのファイルがその過程で前代未聞の「紛失」となったことを考えれば,市民の触れられたくない過去を保護するというよりは,党の特権幹部の政治的地位を保護するように機能しているとしか思えないのですが...

世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分

 私よりハンガリーの政局に詳しい友人から聞いたのですが,D-209(メッジェシ氏)を追求するためには,どんな些細なことでもごまかすわけにはいかない,という判断で,役職から身を引いて平議員になったようです.
 潔いことと評価もできますが,相手やその支持者はそんなことではびくともしない,したたかな連中であることを考えると,私にはどう評価すればいいのか難しいです.

ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ハンガリー人証明書」って何?

 【回答】
 「民族地位法(ステイタス法)」に関することですね.
 これについては,ハンガリーの日本語誌で詳しく解説された記事がありました.
 結局,周辺国政府の協力もないと実現不可能な法律なので,たとえばルーマニア人にもハンガリー系と同様の権利と援助を与えることにしたそうです.
 その記事を書いた方(日本人弁護士さん)によると,この手の法律は世界中に見受けられるそうで,ヨーロッパでは
ギリシャ,
ポルトガル,
アイルランド,
スロヴェニア,
ブルガリア,
スロヴァキア,
ルーマニアなど.

 それなのになぜルーマニアやスロヴァキアが問題にしたか?
 それは彼らは,ハンガリーがトリアノン条約で失った領土を諦めたとは信じていないから,だそうです.

 報道上きちんと伝えるべきは,
1) 他の国にも似たような法律がある
2) 領土問題を周辺国はいまだに恐れている
という二点も加えないと誤解を招くと思うのですが,朝日はどう報道したのでしょうか?
("アカヒ"に期待はしてませんが)

ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分

 朝日新聞では(1)については全く触れられていません.
 びっくりして紙面を見直してみたのですが.
 ひどいですね.
 まあ,単に記者が知らないのかも分かりませんけれど.

 結局,
「中道政権として誕生した今の政府が保守政権に変質し,今回の民族地位法はその総決算である」
とか,
「スロヴァキアやルーマニアは反発している」
とか,
「所詮はハンガリーの優越感の裏返しで,EUに加盟すれば無効になる」
とかそんなことばかりです.
 一人スロヴァキアのハンガリー人の老婦人にインタビューしていて,彼女は
「ハンガリー政府がハンガリー人として認めてくれたのが嬉しい」
と述べているのに,それに続けて証明書の所持者が恩恵に浴することの出来ることを列挙して,彼女の民族的アイデンティティーをブダペスト政府に認められたこと喜びにはその後一切触れていません.

外国語板,2002/04/06
青文字:加筆改修部分

>EUに加盟すれば無効になる

 これは,記者さん勉強不足でいいかげんな記事ですね.
 ハンガリーがEUに加盟するとき,同時に周りの国も加盟できれば話は別ですが,今度のEU拡大で,ハンガリー・チェコ・ポーランド(あとスロヴェニアとか?)だけが,加盟した場合,東方のEU境界の管理が義務になります.
 つまりスロヴァキア・ルーマニア・セルヴィア等との国境(EUの境界)をハンガリーが管理することに.
 そうすると,その外側の国籍所持者(ハンガリー系を含む)に対するハンガリー入国審査(EUへの入国)を,これまでより厳しくしなければならなくなるのです.
 だからこの「民族地位法」を成立させたのです.
 私に言わせれば,ハンガリーは民族差別が弱い国だからこそ,今までこの法律がなかったんじゃないかと思えるのですけどね.
 周りの国が同時に加入すれば良いんですけどね.

 今日の朝日の朝刊の国際面にまたハンガリーの選挙のことがちょっぴり載っていたのですが
"FIDESZが単独過半数を獲得するのは微妙なところなので,反ユダヤ主義の極右「正義と生活党」が選挙後の協力に乗り出す可能性もあり・・・"
などと書かれていて,ちょっとねえ,と思いました.

 他方,先日,近所のKOCSIMAで,久しぶりに3人の知人(みんな若い)に出会ったら,やっぱり選挙の話がでてきた.
(この時すでに彼らは結構酔っ払っている)
 一番強面でそれっぽい(偏見ですが)奴がMSZP支持者で,あとの二人が「ハンガリー正義と生活党("生命"と訳す人もいます)」の支持者だった.
 反ユダヤ主義というのは突っ込み入れなかったでど,
「外国人を排除しようという党なんじゃないの?」
と聞いたら,
「それはちょっと違う」
といわれた.
 長くなるので詳細は省きますが,
「ハンガリーを外資に頼らず,ハンガリー人の手で発達させたい」
ということらしい.

 FIDESZには,どう見てもSZDSZ(自由民主連盟)の立場らしい人もいて,そういう人やSZDSZはユダヤ系の人が多いらしい.
 つまりFIDESZがMIEPと組んでも,内部にSZDSZ寄りの人がいるので,反ユダヤを前面に出していくことはないんじゃないかというのが,ほかの日本人で私よりハンガリーの政治に詳しい人から話を聞いたあとで思ったことです.
 その人によれば,FIDESZとSZDSZが連立を組む可能性も,(この選挙では可能性は0に近いが) 将来的には,全く無いわけではないそうです.

ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/07
青文字:加筆改修部分

 ハンガリー総選挙の第一ラウンドが終わりました.
 なんと,MSZP(社会党)がわずか1%の差とはいえ,FIDESZ・MDF(ハンガリー民主フォーラム)連合をリードしました.
(もともとFIDESZはMDFと組んでいるので,単独過半数という朝日の書き方はおかしいですね)
 保守政権が続くか,それとも左派政権となるかは,2週間後ですが,FIDESZは独立小地主党党首トレジャンのスキャンダルで懲りたのか,特定の政党に協力を頼むことはせず,直接選挙民に訴える方法で,第二ラウンド(4月21日)での挽回を目指すようです.
(オルバン首相が記者会見で話してました)

 今回は,かなりの確率でMSZPが勝つでしょう.
 FIDESZは一度SZDSZとの協力が決まっていたそうですが,何かあったらしく,SZDSZは,MSZPと協力する流れになっていました.
 第一ラウンドの結果を受けて,両党の選挙協力の話し合いが,明日より始まります.
 SZDSZは喜んで協力するのではないらしく,「厳しい話し合い」と表現してました.

 第一ラウンドで,全国区比例の得票総数が5%に満たなかった党は議席確保ができない「5%条項」があり,今回これをクリアしたのは,MSZP(40%以上),FIDESZ・MDF連合(40%以上),SZDSZ(5%強)だけなので,この総選挙では,この4つ(3つの会派)の党だけが議席を持つことになります.
(MSZPとFIDESZ・MDF連合の差は約1%)

 第一ラウンドの投票率は70%を超えました.
 SZDSZは,一院制386議席のうち,恐らく10前後の議席しか持てないでしょうが,MSZPが単独過半数を取る確率はちょっと低いと思うので,MSZPに対して,いろいろ要求するでしょう.
 第3党として「キャスティングボードを握る」っていうような.

 ちなみに,今も社会党の中心にいる大部分の政治家は,一党独裁恐怖政治のころの大臣やってたり,秘密警察の人間だったりするので,そういうことを忘れていない人は,今回のMSZPの得票数を信じられない思いで見ている人もいるでしょう.
 体制変換後,そういうことをあまり厳しく追及しなかったらしいです.

 ちょっとスレ違いになってきましたので,このへんでやめときます.

ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分

 確かに信じられないと感じている人もいるでしょうね.
 体制変換後,SZDSZは旧公安関係者を公職から退かせることを強く主張していたようですが.
 [origo]はMSZPとSZDSZの選挙協力は月曜から始まって水曜にはもう終わるだろうと書いていますね.
 SZDSZのフォドル・ガーボルはもともとはオルバーンやドイチュ・タマーシュと共にFideszを始めた人で,一旦袂を分かってまた協力するというのも難しいのかも知れませんが,ハンガリー人というのはその点どうなのでしょうね.
 また,SZDSZはFidesz以上に資本主義万歳派だと思いましたがどうなのでしょうか?

 で,MIEPもTorgyan派のkisgazdaもLiebmann Katalinらの改革派のkisgazda も議席は取れないのですね.
 確かに批判が出ていたように小政党にとっては不利な選挙制度で,Csurkaが「二大政党制になっては困る」と以前言っていたようですが,それが実現するわけですね.

Ligeti Ervin ◆GiKmJoo. :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分


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