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◆◆◆フニャディ・ヤーノシュ以降 Hunyadi János
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
欧州FAQ目次


 【Link】


 【質問】
 フニャディ・ヤーノシュって誰?

 【回答】
 Hunyadi János は中世ハンガリーの英雄です.

 父の代以前の経歴は全く不詳でして,おそらくワラキアの土豪がトランシルバニアに逃れてきたものと思われ,人種的にも恐らくはルーマニア系ではないかと思われます.
 歴史上に名前が登場するのは,父ヴァイクがヴァイダフニャド(今のルーマニアのフネドワラ)の城を拝領してからで,フニャドのを意味するフニャディなる姓もその時以来と思われます.

 さて,ヤノシュは,若くして当時のハンガリー王にして神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され,イタリアに伴われ一時傭兵隊長として活躍,ハンガリーに戻って後は異例の出世を遂げ,トランシルバニア侯テメシュ県知事等となる.
 ジギスムントの死後はウラースロー一世の下,対トルコ戦の指導者としてバルカンの各地で奮戦したが,バルナで国王が戦死するという大敗を喫する.

 その後ハンガリー王国の摂政となる.
 1456年押し寄せるオスマン軍をナーンドールフェーヘルヴァール(今のベオグラード)にてカピストラノ司教の率いる十字軍とともに迎撃,奇跡的な勝利をおさめるが,戦後,戦場に流行った悪疫に倒れて世を去った.
 因みにハンガリー王マーチャシュ・コルヴィヌスは彼の次男.

 本当かどうか知りませんが,教会が正午に鐘を鳴らすのはベオグラード戦の勝利を記念して,と一般に言われています.

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


 【質問】
 フニャディ家はどこから来たの?

 【回答】
 フニャディ家ですが,フニャディ・ヤーノシュシュの父の代にワラキアから逃れてきたワラキア貴族だそうで,フニャディの姓はフニャドの地を領地として与えら時に授かったものだそうです.
 人種的な問題を究明するならばアルバ・ユリアのフニャディ家の墓の骨を調べたらと思いますが,当時の彼らはおっしゃる通りイシュトヴァーン王冠に属する領土の貴族である以上,ハンガリー人だとしか思ってなかったのでしょうね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 フニャディ家の出自に関しては色々な説があります.

 当時のハンガリー人歴史家のヘルタイ・ヤーノシュは,フニャディ・ヤーノシュはジグモンド王とルーマニア人農民の娘との間に生まれた非嫡出児だったと書いています.
(これは彼が非嫡出児だと貶めるためではなく,国王の御烙印であったと彼を誉め称えるための記述です).
 デーチ・シャームエルは,フニャディ・ヤーノシュはジグモンド王とマーリア王妃の間にダルマチアで生まれた嫡出児だと主張しています.
 他の記述によればヴェロナの Scaliger 一族の血を引いているということだし,コルニデス・ダーニエル等によればポーランドのコルヴィン一族の末裔だということです.
 別の意見ではホッローシュ(大烏の)ないしフニャディ=セーケイあるいはフニャディ=オラー(オラーはルーマニア人という意味)という姓の一族の末裔だと主張しています.
 プライ・ジェルジュはルーマニア人公が先祖だと主張しています.
 トゥローツィやガレオッティ,トベロ,アエナス・シルヴィウスはトランシルヴァニアのルーマニア人だったのではないかと考えています.

 しかし近代になってテレキ・ヨージェフ伯爵は,周到な反証を挙げてこれらの仮説を否定しました.
 彼はブダイ・フェレンツやカズィンツィ・フェレンツ,ペーツェイ・ヨージェフらと同じように フニャディ・ヤーノシュは 無名のハンガリー人貴族の出身だったと考えていました.
 ナジ・イヴァーンも同じ考えです.
 その後レーティ・ラースローとチャーンキ・デジェーは,フニャディ家は恐らく,アルバニア人,ルーマニア人,ブルガリア人,セルビア人等の血が混ざったルーマニア人の家系の出身だったのではないかと主張しています.
 ま,未だにフニャディ家の出自は決着は付いていないのですが(要するにフニャディ家の出自に関する文書の証拠が何も無いので,推測するしかない),少なくともハンガリー側の研究では ハンガリー人にとっては 全く嬉しくはないはずのルーマニア人の血が入っていたという可能性は否定されていないということですね.

 フニャディ家についてわかっている(=文書の残っている)一番古い先祖はシェルブないしショルブと,ラドゥルという兄弟です.
(ラドゥルの方はいかにもルーマニア人的な響きの名前ですね.)シェルブないしショルブはトランシルヴァニアのヴァイダ(太守かなぁ...?)として国王から城を賜ります.
(だからここから記録が残っているのでしょうが.
 フニャディ家はこのとき突然ハンガリー史に登場します.
 フニャディ家のそれ以前の歴史は全くの謎です).
 その城がフニャドヴァール (Hunyad-vár) ないしフニャド・ヴァーラ (Hunyad vára) です.
(vár は「城」で,vára は「~~の城」です.)
 ヴァイダのフニャド城があるというので,この村はヴァイダフニャド (Vajdahunyad) と呼ばれるようになりました.
 この地名のルーマニア語名はフネドワラ (Hunedoara) です.
 当時のハンガリー語のvの発音が実はwだったということがわかります.
 つまり,当時のハンガリー人は「フニャド・ワーラ」と発音していたのですね.

 で,シェルブないしショルブの子どもが,長男のマゴシュ(ハンガリー語で「高い」という意味です),次男のヴォイク(ヴァイクと同じでハンガリーの初代国王イシュトヴァーンの幼名と同じです.これはハンガリー人の名前.ヴォイクにはブティという別名もあったらしい),三男のラドゥルでした.
 次男のヴォイクはモルジナイ・エルジェーベト(後に彼女はチョルノコシ・ヤロスラーヴの妻となります.夫と死別したのかな?)と結婚して,彼らの子どもが
長女(名前不詳.成年後セーケイという姓の男性の下に嫁いだ),
長男ヤーノシュ(後にハンガリー摂政,マーチャーシュの父),
次男ヤーノシュ(後にセレーニュシェーグの太守),
次女マーリア(成年後アルジェシ・マンズィッラに嫁ぐ)
でした.
 で,この長男のヤーノシュがシラージ・エルジェーベトとの間に設けた子どもが長男ラースロー(ベルグラード[ベオグラード]長官)と次男マーチャーシュ(後に国王)でした.

 マーチャーシュは最初ポディーブラット・カタと結婚しますが,後にナポリ国王の娘,ベアトリーチェ王女を妃にします.
 で,マーチャーシュは嫡男に恵まれず,ポーランドのヴロツワヴ市のブルジョアの娘との間に設けたヤーノシュだけが唯一の息子です.

 息子はコルヴィン・ヤーノシュと名付けられ,後にクロアチア=スラヴォニア=ダルマチア太守,オッペルン公爵になります.
 彼はフランゲパン・ベトリックスと結婚し,長男クリシュトーフと長女エルジェーベトの2児を設けますが,2人とも幼く夭逝しています.
 これでフニャディ家の血は途絶えます.

 フニャディ・ヤーノシュがジグモンド王の御烙印だという伝説は,それまで全く無名の一族だったフニャディ家がヤーノシュの代になって,ジグモンド王の厚い信頼を得て,あっと言う間に出世し,なんと最後には国の副王,摂政にまでなってしまったので,実は国王の隠し子だったのではないかという勘繰りが生まれたためでした.
 もちろん,真相はそうだったのかもしれません.
 またルーマニア人出身説を取れば,ルーマニア人側は
「それは当然ルーマニア人だったから客観的に彼は優秀だったから出世したのだ」
と主張するでしょう (^"^;).

しい坊 : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 ヤノシュ・フニャディのジグモンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント)のご落胤説というのは,彼の在世中からあったそうですね.
 そうとでも考えないと理解不能の出世ぶりだったのでしょうね.

 マーチャーシュ王の時代に御用学者がフニャディ家をローマ貴族の末裔だとかいう系図を作ったらしいですが,秀吉が天皇のご落胤という話を作らせたのと通じるところがありますね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 封建時代には多分,世界共通の現象なのでしょうね.
 ある人物が優秀だとすると,それは偶然ではない,やはり,そういう高貴な血が流れていたんだということで,皆も納得するのでしょう.
 支配者本人も自分でも
「やはり俺は只者ではなかったのか」
と納得するでしょうし....

 現代でも,例えば米国のパウエル現国務長官(なんで外務大臣って訳さないのかは謎)が共和党の大統領候補として取りざたされた時に,黒人である彼のルーツが色々なマスコミで調査されて,報道されましたが,その報道が事実ならば,確か,ユダヤ人の血も,英国王室の血もちゃんと入っていたそうです (^^;).
(記憶違いだったらごめんなさい.)

 ちなみに,血統って,調べてみると,相当有名な家系とでも,探せば,意外と少ない親等数で誰もが繋がっているものなのですよねぇ....
 多くの場合は単にミッシングリンクの部分に関する情報が見つからないだけで.
(だから人類皆兄弟 (^^;)!)

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マーチャーシュ王って誰?

 【回答】
 「ハンガリーの水戸黄門野郎」こと,マーチャーシュ Mátyás 1世は,15世紀ハンガリーにルネサンスをもたらし,中世ハンガリーの最盛期を築いた国王(在位1458~1490年)
 オスマン帝国軍との戦いで名を馳せた,かの摂政フニャディ・ヤーノシュ Hunyadi János の次子で,1443年,トランシルヴァニアの街コロジェヴァール(現ルーマニア領クルジュ・ナポカ)に生まれる.
 つまり,1458年に即位したときは,まだ17歳だったことになる.

 即位前までは,父親と兄の死後,ハンガリー王ラースロー5世に幽閉されていたのだが,マーチャーシュを国王に擁立したのは,かつて彼の父親を支持していた中小貴族達であった.
 即位後,マーチャーシュ一世は,官僚を養成し,中央集権化を進めて国内を固め,財政改革による増収をもって軍備を強化.
 傭兵から成る常備軍「黒軍 フェケテ・シェレグ Fekete sereg」を置いた.
 これは亡き父,フニャディ・ヤーノシュ の傭兵軍を手本としたものであろうか.

 これを背景に,進出するオスマンと戦い,またオーストリア,ボヘミア方面にも領土を広げ,ハンガリーの黄金時代を現出.
 ワラキア公ヴラド3世(いわゆるドラキュラ公)が,弟のラドゥと国内離反貴族に追われ,トランシルヴァニアに逃げ込むと,オスマン帝国に内通したとしてヴラドを捕らえ,幽閉したのもマーチャーシュ一世である.
 彼は十字軍を放棄するための口実としてヴラドを利用し,このために幽閉中もヴラドの残虐性をことさら広めたといわれる.
 つまり,ヴラドが串刺し公だの何だの言われるようになったのは,半分くらいはマーチャーシュ王のせい.

 マーチャーシュ一世は,その功績と公正な統治から「正義王」と称えられた.
 だがしかし,ウィーンを得た後,神聖ローマ帝国への更なる進出を企図するも,1490年,ウィーンにて急死.
 その死後,大貴族の勢力が再び強まり王権は弱化.
 「黒い軍」も軍紀が著しく乱れ,彼の覇業は一代限りのものとなってしまった.

 なお,マーチャーシュ1世は身分を隠して,しばしば国内をまわったと言い伝えられ,その逸話がいくつもの民話に登場する.
 例えば,大剣を両手で自在に操ったという豪傑キニジ・パール Kinizsi Pál は,王が「お忍び」中,水車小屋で休んでいるときに,大きな岩を盆の代わりにして水を差しだし,これが縁となって臣従したという.

 【参考ページ】
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/theb02/02889.htm
マーチャーシュ[1世] とは - コトバンク
ヨーロッパ三昧|マーチャーシュ王(中世ハンガリー王国)
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012/3/30),p.33-35

ハンガリーの1000フォリント紙幣
右側の肖像画がマーチャーシュ王

mixi

▼ フニャディ・ヤーノシュの次男,オペラにもなった悲劇の長男フニャディ・ラースローの弟,フニャディ・マーチャーシュ王ですね.
 ハンガリーの“水戸黄門”で,ハンガリー・ルネサンス文化を花開かせた,ハンガリー最高の国王です.
 コルヴィヌスというラテン語名はフニャディ家の家紋に大烏(カラス)が使われたいたために,ラテン語ではマティアス・コルヴィヌスと名乗ったものです.
(そこでポーランドで生れた非嫡出子にはコルヴィンという姓が付けられています.)

 ルーマニア人はフニャディ・ヤーノシュをヤンク・デ・フネドワラというルーマニア人貴族で,マーチャーシュ王はマテイ・コルヴィンというルーマニア人の国王だと主張していますし,セルビア人も彼はセルビア人だったと主張しています.
 本当のことは調べようがありませんが,元々トランシルヴァニア出身だったので,彼にルーマニア人の血が一部交じっていたとしても不思議ではありません.
(ただ,ルーマニア人貴族というのは存在しなかった.)
 当時はまだフランス革命による民族意識の登場の前でしたので,当時の人間は自分のことは自分が所属する国家の国民だと考えるのが普通で,仮にマーチャーシュ王にルーマニア人やセルビア人の血が混じっていたとしても,本人の意識はハンガリー人だったことでしょう.

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分

 マーチャーシュ王の世直し伝承も面白いですね.
 周囲の人間にとっては織田信長の如き理解不能の人物だったように思えるのですが,どういった経緯であのようなお忍びで国内を回ったという伝承が生まれたのか興味のあるところです.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 マーチャーシュ王の全国漫遊は(例えば,農民の若者の姿に身を窶して悪人をこらしめた『コロジュヴァールの悪代官』物語とかですが),水戸黄門の全国漫遊同様,史実ではないようです.
 このマーチャーシュ王の伝説は後世の農民達が作り出したようですが,実際にはマーチャーシュ王の時代には,国王専属の傭兵部隊である黒軍(フェケテ・シェレグ)の維持費や,コルヴィナ文庫の充実費用,その他のために,非常に高額だったと言われています.
 それなのにマーチャーシュの人気が高いのは,彼の黒軍等による中央集権化により,(彼の治世下だけの一時期ですが)下克上の群雄割拠の戦国時代にピリオドを打ち,農地が荒らされることも,戦乱で命が脅かされることもなくなったためだと分析されています.
 高い年貢を支払っても十分見返りがあったということで,要するに,現代の北欧のような“高福祉高負担”社会を実現したためだと考えられています.
(想像するに,ギシュクラ・ヤーノシュさんはこのことはご存じだろうなと思います.多分,ハンガリー史がご専門なのでは?)

しい坊 : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 ラースロ5世(ラディスラウス・ポストゥムス)がフニャディ一派に叔父のウルリク・ツィレイを殺害された報復に,フニャディ兄弟をブダに呼び寄せて,捕え,兄のラースローを処刑した時点で,フニャディー兄弟の母(フニャディー・ヤーノシュの奥方)であるシラージ・エルジェーベトとその兄であるシラージ・ミハーイが率いるフニャディ一派が武装蜂起し,ラースロー5世はマーチャーシュを連れてプラハに逃げます.
 プラハでラースロー5世は結婚式の準備中に急死(死因は最近,急性白血病と判明.当時は毒殺の噂が流れた)してしまいました.
 マーチャーシュはボヘミア王国の摂政だった,ボディエプラディのイジーにそのまま捕えられますが,イジーの娘と結婚することを条件に開放されたのでした.

ギシュクラ in mixi,2014年06月15日 23:31


 【質問】
 コルヴィヌスってラテン語ですか? それともハンガリー語ですか?
 -usならラテン語みたいだけど.

 【回答】
 ラテン語です.
 Corvinus.
 ハンガリー語風に言うときは Korvin と書きますね.
 マーチャーシュ王を偉大なルーマニア人の国王だとするルーマニアでは,マーチャーシュは(Iancu de Hunedoara の次男) Metei Corvin と表記されることが多いようですが,ハンガリーでは(Hunyadi János の次男)Hunyadi Mátyás が一般的ですね.
 で,彼の息子は Korvin János です.

 中世の欧州の公用語はラテン語でしたから,通常はマーチャーシュ王も(ここはうろ覚えなので綴りに自信がない...)Rex Matthias Corvinus のように表記されていたのではないでしょうか?

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マーチャーシュ王のオーストリア侵攻について教えてください.

 【回答】
 一時期,マーチャーシュ王はヴィーンを占領して,ハンガリー王国の首都と宣言しました.
 1479年にはオロモウツの和約により,シレジア,モラヴィア,ラウジッツの領有とボヘミア王位を認められ,実質的なオーストリア大公に選出されました.
 ウィーンを陥落させたときが,ハンガリー最大の版図となりました.

 このように,
彼はトルコとの戦いをおろそかにし,専らヴィーン攻略に熱心だったために,一部の家臣に暗殺されそうになりました.
「敵はトルコなのに,なぜオーストリアを攻略しようとするのだ?」
というわけです.
 しかし,どうやらマーチャーシュはハンガリー一国では到底巨大なオスマン・トルコには勝てないと判断し,自らが神聖ローマ帝国の皇帝になり,全欧州を率いてトルコと対決しようとしていたのだと思われます.

 残念ながら,彼はヴィーンで客死してしまいました.
 一節では王妃ベアトリックスに雇われた刺客が,マーチャーシュが大便をしていた便槽の中に潜んでおり,真下から剣で突き刺したのだという話も聞いたことがありますが,ほんとかなぁ(^^;)?
 マーチャーシュ王は欧州最大の図書館,コルヴィン文庫を作ったり,中央集権化のために独自の傭兵部隊の黒軍(フェケテ・シェレグ)を作ったりと,非常に先進的な国王で,日本の水戸黄門と豊臣秀吉,織田信長を併せたような傑出した人物でした.
 彼が夭逝しなかったらハンガリー史や欧州史は変わっていたかも....

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベアトリーチェ王妃,なんか物凄く評判の悪い人物のようですが…?
 私はマーチャーシュ王を毒殺したという俗説を聞いたことがありますし,コルヴィン・ヤーノシュも彼女に殺されたという俗説があるそうです.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 まぁ,ベアトリックス王妃はナポリ王アラゴニアのフェルディナンドの娘であったわけですから,当時,ルネサンス文化の中心地であった先進地域から,ハンガリーのような野蛮で辺鄙な国に輿入れさせられたベアトリックスは不幸だったのではないでしょうか?
 マーチャーシュはルネサンス文化の導入に熱心でしたが,所詮はブダ山の王宮の中だけであり,一歩王宮の外に出れば,ただの田舎でしたからね.

 また,印欧語族であるイタリア語を母語とするベアトリックスには,日本語のようなハンガリー語は苦痛だったのではないでしょうか (^^;)?
(夫とはラテン語で会話していたのかしら?)

 しかも,子宝に恵まれず,亭主はポーランド人の町娘との間に勝手に御烙印を作ってしまうし....
 正室としてのベアトリックスが,コルヴィン・ヤーノシュを憎んだというのもわかりますね....

 非常に美しかったので,マーチャーシュは完全に尻に敷かれていたという説もありますが (^^;).

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分



 【反論】
>しかも印欧語族であるイタリア語を母語とするベアトリックスに
>は,日本語のようなハンガリー語は苦痛だったのではないでしょうか (^^;)?
>(夫とはラテン語で会話していたのかしら?)
には,かなーーり疑問があります.

 近代国民国家以前の段階では,そもそも「王様も農民も同じハンガリー人」という意識など存在しません.
 身分・階級格差こそが重要であって,したがって当時は王族から農民までが使う「ハンガリー語」なるものが存在しなかったのではないか?
 つまり身分によって言語がまったく違っていたのではないか?
(英国で庶民が話すコックニーといわゆるRPが違うことを思い出せば,昔の状況の一端がかいまみられると思いますが)

 そもそも,ベアトリックスが輿入れしても,「ハンガリー」(なんて概念そのものがなかったわけだし)の農民と会話する必要がないでしょう.
 農民と王族が同じ人間だという観念は希薄だったでしょうから.
 当時のハンガリー王国は,人民が主権者である近代的な共和国じゃなくて,王国,つまり土地と農民は王の家産だったわけです.
 身分・階級こそが重要な要素であって,農民と王族はまったく別世界.
 農民は王族の家産ですから,農民が何を話していようが,王族の関心の対象外だったでしょう.

 宮廷ではそもそもラテン語を使っていたでしょう.
 どうしても庶民と話す必要があるときは通訳を介したでしょう.
 そもそも王族が庶民と直接話せるわけがありませんからね.
 逆にいえば,「王族・貴族」という身分なら,いわば「国境をまたいで」通婚することができた.
 欧州の王族が親戚関係でつながっているのは,決して国際的な関係ではなく,あくまでも家産時代の身分関係の名残りです.

世界史板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
> ところで,上の文にはかなーーり疑問があります.

 そうでしょうとも (^^).
 前にも書いたように,できるだけ文章を短くするために,重要な部分をはしょっていますから.
 でも,それでもこんなに長い文章になってしまっています (^.^;)ゞ.

> 近代国民国家以前の段階では,そもそも「王様も農民も同じハンガリー人」という意識など存在しません.

 近代国民国家としての“民族”を基盤とした“ハンガリー人”意識,つまり国民意識は19世紀にならないと形成されなかったでしょう.
 しかし“国”(くに),すなわち居住“地域”としての“ハンガリー人”意識はあったと思います.
 かつてローマ帝国の版図に居住していた者は,誰もが誇りを持って“ローマ人”だと名乗りました.
 これは国民国家としてのローマ人という意識でも,民族としてのローマ人意識でもありませんでしたよね.
 でも,(その実態がなんであれ),一応“ローマ人”という概念自体はあったわけです.

 ですから,国王や貴族(現代では「国民」と訳されている natio も当時は王 [király]・華族 [főnemes]・士族 [köznemes]・聖職者 [pap] といった支配階級しか含まなかったわけです)が当時の“国民”としての“ハンガリー人”であったにせよ,ハンガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”というか“ハンガリー国人”[magyarországi] 意識はあったと思いますよ.
 「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言ったレベルでのことですが.

 また,近代的国民意識とは質が違いますが,ある種の部族意識としての“マジャル人”[magyar],“ルーマニア人”[oláh],“セルビア人”[rác],“スロヴァキア人”[tót] のような自覚も確かに存在していたはずです.
 もっとも,当時は“ルーマニア”とか“スロヴァキア”といった国家が存在してわけではありませんから(これらの国家が登場するのは19世紀,20世紀になってからです),厳密には,“ロムン人”とか“スロヴァク人”と呼ぶべきなのかもしれませんが,う~ん,そうすると,日本語は屈折語になってしまう (^^;).

> 身分・階級格差こそが重要であって,したがって当時は王族から農
> 民までが使う「ハンガリー語」なるものが存在しなかったのではな
> いか?つまり身分によって言語がまったく違っていたのではない
> か?(英国で庶民が話すコックニーといわゆるRPが違うことを思
> い出せば,昔の状況の一端がかいまみられると思いますが)

 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったからと言って,彼らの母語が違っていたわけではないでしょう.
 公文書は当時のカトリック世界での公用語であるラテン語で記述されていましたが,実際に日常で使われていたのはハンガリー語のはずです.
(すでにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していなかったはずです.←ロマンス語の問題も専門外 (^^;).)
 ハンガリー語の場合は,世界の言語の中でも驚くほど方言差が小さい言語です.
 一番異なっているのは,現在の東北ルーマニアにあるモルドヴァのチャーンゴー人[csángó] の方言ですが,それでも他の言語の方言の差違とは比べ物にならない.
 ですから,当時のハンガリーでは支配階級と被支配階級の言語はほとんど変わりがなかったはずです.

 実際,ポーランドのヤゲウォ家のラースローがハンガリー国王になったときは,ハンガリー語がわからず,家臣が何を尋ねても,ポーランド語で「ドブジェ」(良きに計らえ)としか答えなかったと言うので,馬鹿にされています (^^;).
 つまり,ハンガリー人の家臣は国王に母語であるハンガリー語で話しかけ,国王は母語であるポーランド語で答えていたという事実が伺えます.
 本当に意思疎通が必要であった時には,共通語であったラテン語でたどたどしく会話したものと想像されます.

 19世紀からヨーロッパで熱病のように広まった国民国家の原理は,非常に重要な要素ですが(日本人はしばしばその重要性を認識できない),同時に,それを絶対視してしまうのも問題だと思われますが.
(現実に国民国家以前も,それぞれの国内居住諸民族は自分らの民族名を名乗っていたわけですしね.
 あれらの民族名称は別に近代になってできたわけではありません.)

> そもそも,ベアトリックスが輿入れしても,「ハンガリー」(なん
> て概念そのものがなかったわけだし)の農民と会話する必要がない
> でしょう.農民と王族が同じ人間だという観念は希薄だったでしょうから.

 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ.
 単に国王や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」という意識がなかっただけで.
 しかし何もなかったわけでもないでしょう.

 事実,マーチャーシュの父君であるフニャディ・ヤーノシュは,当時のハンガリー南端のナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグラード)の会戦では,当時の欧州としては初めて,領地の農奴達に武器を渡して
「祖国のために一緒に戦おう!」
と訴えて(もちろん,戦に参戦した者は自由農にするとかご褒美を用意しましたが)勝利を収めています.
 だから,なんらかの共通意識はあったはずです.

> 当時のハンガリー王国は,人民が主権者である近代的な共和国じゃなくて,王国,つまり土地と農民は王の家産だったわけです.

 その通り.

> 身分・階級こそが重要な要素であって,農民と王族はまったく別世界.

 その通り.
 そのことは日本人にはなかなか理解しにくい事実ですが,同時にあまり過大評価しすぎるのも問題だと思います.

> 農民は王族の家産ですから,農民が何を話していようが,王族の関心の対象外だったでしょう.

 まさにマーチャーシュ王の漫遊伝説を見ても,必ずしも無関心であったわけではないようです.
 やはり上手に国家を運営して行くためには民意は重要ですから.

 封建時代の支配階級が単に強欲な簒奪者で,民衆をただの財産としかみなしていなかったというのは,近代史学の偏見ではないかと危惧しています.
 日本の江戸時代でもそうでしたが,西洋でも貴族が特権を享受しているのは,民衆のよき生活に対して責任があるからという思想からだったと理解しています.
 農民はお国のために年貢を納める.
 貴族は年貢は収めないが,お国の一大事の時には逸早く国王陛下の下に馳せ参じて,自らの“青い血”でお国のために“血税”を払うものだと考えられていたはです.
 それがなければ,庶民の国王に対する熱烈な敬意・慕情の念等は説明がつかないでしょう.

 実際,1918年にハンガリー評議会連邦共和国の成立前のハンガリー人民共和国の初代大統領となったカーロイ・ミハーイ伯爵もその回顧録で大貴族というものが,一般に信じられていたように私利私欲の塊ではなく,いかに民草の幸福を願って努力していたかということが説明されています.
 彼の回顧録にある欧州の大貴族(華族)のネットワークや,様々な貴族文化の話は,結構“目から鱗”的なことが書かれており,非常に面白いです.

> 宮廷ではそもそもラテン語を使っていたでしょう.どうしても庶民と話す必要があるときは通訳を介したでしょう.

 それは全くの誤解だと思います.
 ラテン語はあくまでも仲介語です.
 それはヴァチカン市国でも公用語はラテン語ですが,日常的にはヴァチカン市民はイタリア語を話しているのと同じことです.
 現在,スロヴァキアでも公用語はスロヴァキア語だけですが,実際には市長から市会議員までハンガリー人しかいない自治体も多く,この前までは討論もハンガリー語で行い(だってハンガリー人しかいないのですから),議事録もハンガリー語で作成し,その後,国家の公用語であるスロヴァキア語版も作成されていました.
 スロヴァキアの国語法ではそれを禁じ,討論も議事録もスロヴァキア語以外は認めないということになり,EUでも問題視されましたが....
(その後どうなったんでしょうね?)

> そもそも王族が庶民と直接話せるわけがありませんからね.

 日本の帝(みかど)と違い,実際はそんなでもなかったようですよ.

> 逆にいえば,「王族・貴族」という身分なら,いわば「国境をまた
> いで」通婚することができた.欧州の王族が親戚関係でつながって
> いるのは,決して国際的な関係ではなく,あくまでも家産時代の身
> 分関係の名残りです.

 “通婚することができた”ということではなく,日本の天皇家と同様に,貴族となる家柄が決まっていたということなのではないでしょうか?
 だから,ヨーロッパの新興国家も国王を自民族から出さず,欧州の名門王家に頼んで,国王になってもらうことが一般的だったわけです.

しい坊 : 世界史板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分



 【反論】
>しかし“国”(くに),すなわち居住“地域”としての“ハンガ
>リー人”意識はあったと思います.かつてローマ帝国の版図に居住し
>ていた者は,誰もが誇りを持って“ローマ人”だと名乗りました.

 それは粗雑な議論です.
 だから,そうした意味で「ハンガリー人」とか「ローマ人」とか考えてる集団の境界が
(1)明確かどうか,
(2)帰属意識が単一かどうか
をいっているんですが?
 そりゃ中世にも「ハンガリー人」という漠然とした意識を持った集団は存在したでしょうが,それが「ハンガリー王国」の「領域」全体にひろがっていたわけではありませんし,ひろめようという民族主義的な意思も統治者にはなかったでしょう.
 また,「ハンガリー人」という意識を統治階級が持っていたとしても,それが農民にも共有されていたわけではない.

>これは国民国家としてのローマ人という意識でも,民族としてのローマ
>人意識でもありませんでしたよね.でも,(その実態がなんであれ)
>一応“ローマ人”という概念自体はあったわけです.

 だから,それが今の民族概念とはまったく違うのだから,そこに民族概念を投影して語るのは無意味だといっているのですよ.

>当時の“国民”としての“ハンガリー人”であったにせよ,ハンガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”というか“ハンガリー国人”[magyarországi] 意識はあったと思いますよ.

 ずばりいって,そんなものはないでしょう.

 あなたはフランス革命以降の近代意識で過去を見ようとしているだけです.

 そもそも「同じハンガリー人」と考えるための前提条件としては,同じ人間であるという意識が必要です.
 ある一定地域の人間が,身分の違いを超えて「同じ人間」だと考えることが必要なのです.

 ところが,古代ローマにしても,中世ハンガリーにしても,身分こそが絶対的であって,それを超えた「貴族も農民も同じ人間」という意識は無いか,きわめて希薄だったのです.
 身分の違いに関係なく同じ人間だ,という思想は,まさにフランス革命前夜の段階のヒューマニズムの基本的な思想であって,中世にはそんなものはないのです.

>「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言ったレベルでのことですが.

 ソースはありますか?
 近代意識で過去を投影してはいけません.

>また,近代的国民意識とは質が違います
>が,ある種の部族意識としての“マジャル人”[magyar],“ルーマニ
>ア人”[oláh],“セルビア人”[rác],“スロヴァキア
>人”[tót] のような自覚も確かに存在していたはずです.

 自覚があったのなら,どうしてハンガリーの民族国家形成があんなに遅かったのですか?
 なぜ東欧の民族的自覚の形成にヘルダーが存在する必要があったのですか?

>もっとも,当時は“ルーマニア”とか“スロヴァキア”といった国家が存
>在してわけではありませんから(これらの国家が登場するのは19世
>紀,20世紀になってからです),

 民族意識も民族主義も民族国家も,すべて19世紀の産物です.

>厳密には,“ロムン人”とか“スロヴァク人”と呼ぶべきなのかもしれませんが,

 だから,スロヴァク人という意識を持った人間が,現在,スロヴァキア人とされている人間のすべてを包摂していたわけじゃないといっているんですが?

> 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったからと言って,彼らの母語が違っていたわけではないでしょう.

 違っている可能性のほうが高いのです.
 たとえば,英国.
 11世紀には農民がアングル語やサクソン語で,支配者がノルマン語.
 13世紀ごろには支配者がオイル語.

 英国にしてからがそうですから,人間移動や侵略活動が激しかった欧州大陸では,支配層と被支配層では母語がまったく違っていたでしょうね.

>公文書は当時のカトリック世界での公用語であるラテン語で記述されていまし
>たが,実際に日常で使われていたのはハンガリー語のはずです.

 そもそも「ハンガリー語」という概念そのものが近代の産物ですから,14世紀の段階で「ハンガリー語」という概念を持ち出しての意味がありません.

>(すでにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していなかったは
>ずです.←ロマンス語の問題も専門外 (^^;).)

 であれば,オイル語かゲルマン系の言語の可能性がありますね.
 すくなくとも王家がハンガリー語を話す必然性はありません.

>ハンガリー語の場合は世界の言語の中でも驚くほど方言差が小さい言語です.

 現在の話を持ち出して,過去を投影しても意味がありません.
 そもそも方言差が少ないのは「本来はハンガリー民族を構成すべき人達の母語のうち,通じないものを捨象して,さらに,アッチラ伝説によってハンガリーという言語孤島の国家をつくったことで,方言差が少なくなる方向に動いていった結果だともいえるはずです.
 すくなくとも朝鮮語など,そうして「方言差が少ない言語」ができた例がありますから.

>ですから,当時のハンガリーでは支配階級と被支配階級の言語はほとんど変わりがなかったはずです.

 地域方言の差が少ないから,社会方言の差が少ないとは,これまたいかに?
 そもそも現在「方言」とされているものはロマン主義運動の結果,それぞれの地域の農民の言語を「方言の標準」と規定したものであって,支配層がかつてどういう社会方言を使っていたかは,現在残っている文献だけでは判断できないことが多いのです.

> 実際,ポーランドのヤゲウォ家のラースローがハンガリー国王に
>なったときは,ハンガリー語がわからず,家臣が何を尋ねても,ポー
>ランド語で「ドブジェ」(良きに計らえ)としか答えなかったと言う
>ので,馬鹿にされています (^^;).

 これって,ロマン主義運動で「国民の歴史」を作っていったときにできた作り話です.
 そもそもラースローの母語はポーランド語ですらなかったわけですから.

>つまり,ハンガリー人の家臣は国
>王に母語であるハンガリー語で話しかけ,国王は母語であるポーラン
>ド語で答えていたという事実が伺えます.

 そもそも母語が何で,身分が違うものが意思疎通が必要だというしい坊さんの思いこみは,近代ロマン主義思想の産物であって,中世にはそれこそ王族内や貴族同志でも「母語」が異なっていたでしょう.
 だからこそ媒介として書面語としてのラテン語が重要だったわけですから.

>本当に意思疎通が必要で
>あった時には共通語であったラテン語でたどたどしく会話したものと想像されます.

 通訳を介したでしょう.
 これは歴史学では常識になっています.

> 19世紀からヨーロッパで熱病のように広まった国民国家の原理は非
>常に重要な要素ですが(日本人はしばしばその重要性を認識できな
>い),同時に,それを絶対視してしまうのも問題だと思われますが.

 おやおや,しい坊さんは政治学とか社会学が苦手ですね.
 読み取りができていないようです.
 私は絶対視しているんじゃなくて,民族原理で中世を解釈するあなたのやり方に疑問を投げかけているんですよ.
 なんでも民族主義で解釈しているのはしい坊さんのほうです.

 ある土地に住む人間がすべて「同じ***人」という意識を昔から持っている,母語は同じはずだ,というあなたの主張はまるっきり近代国民国家の原理を中世にも投影する.
 それは誤りだといっているんです.

>(現実に国民国家以前もそれぞれの国内居住諸民族は自分らの民族名
>を名乗っていたわけですしね.あれらの民族名称は別に近代になって
>できたわけではありません.)

 きわめて粗雑な議論です.
 民族(nation)と部族(tribe)の違いを混同したうえに,時代の前後関係を転倒させていますね.
 ナショナリズムがどういう風に形成されたかをご存知ないみたいですね.

 いいですか?
 過去のある支配集団が名乗った「部族名」は確かに存在した.
 そして,ロマン主義運動によって,それを近代の民族名として流用し,その民族が歴史的に古くから連綿と存在することにしてしまった.
 それが,あなたのいう「近代になってできたわけではない」という主張の実態です.
 前後関係を転倒させてはいけません.

> 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ.単に国王
>や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」という
>意識がなかっただけで.しかし何もなかったわけでもないでしょう.

 何もなかったでしょう.
 すくなくともロマン主義運動によって作り出された農民を理想化したナショナリズムに直接つらなる意識は存在しなかったでしょう.
 後でむりやり歴史としてくっつけたことは事実ですが.

>事実,マーチャーシュの父君であるフニャディ・ヤーノシュは,当時
>のハンガリー南端のナーンドルフェヘールヴァール(現在のベオグ
>ラード)の会戦では,当時の欧州としては初めて,領地の農奴達に武
>器を渡して「祖国のために一緒に戦おう!」と訴えて(もちろん,戦
>に参戦した者は自由農にするとかご褒美を用意しましたが)勝利を収
>めています.だから,なんらかの共通意識はあったはずです.

 そもそも「祖国」なんて概念はフランス革命で初めて形成された概念なのであって,そういう概念を18世紀以前に使った,なんていう話があるとしたら,それはすべて後世の創作だと言えるでしょうね.

 つまり,創作された話をもとにして「事実」の証拠にしても無意味なわけです.

> その通り.そのことは日本人にはなかなか理解しにくい事実です
>が,同時にあまり過大評価しすぎるのも問題だと思います.

 でも,近代以前に身分を越えた何らかの「祖国意識」があった,などとあくまでも強弁するしい坊さんは,ハンガリーなどにみられる,強烈なナショナリズム史観に毒されているだけでしょう.
> まさにマーチャーシュ王の漫遊伝説を見ても,必ずしも無関心であったわけではないようです.

 あのね.それは近代の頭で理解しようとするから,そういう風に読めるだけのこと.

>やはり上手に国家を運営して行くためには民意は重要ですから.

 こういう思想は,まったくの近代の,社会契約説の発想.
 近代以前には「民意」など必要がなかった.
 しい坊さん,あなたは「家産」という言葉の意味がわかっていないんじゃないの?

> 封建時代の支配階級が単に強欲な簒奪者で,民衆をただの財産とし
>かみなしていなかったというのは,近代史学の偏見ではないかと危惧しています.

 こういう議論の発展のさせ方が粗雑だといっているのです.
 国家が民意によって成り立っているという発想こそが,近代社会契約説の思想です.

 中世には中世の流儀があるということが,
「中世は領主が人民を収奪しているだけの暗黒社会だった」
と私がいっているという議論のすり替えはやめてくれませんか?

 家産制で,民意など必要とせず,身分が重要だった,というのは,当時の社会の事実を説明しているだけであって,それを悪いときめつけているように解釈してしまうあなたの発想こそが,まさに共産党史観に毒されています.

>日本の江戸時代でもそうでしたが,

 それは誰のトンデモ学説ですか?(わら

>西洋でも貴族が特権
>を享受しているのは,民衆のよき生活に対して責任があるからという
>思想からだったと理解しています.

 これは全然違います.
 これは,近代になって,社会契約説が発達して,領主が人民を家産として支配することができなくなったが,なおかつ階級が保存されたことの代償として生まれた「ノーブレスオブリージュ」の思想であって,中世にはそんな発想はありませんでした.
 そもそも人民は主権者ではなかったわけだから,領主が人民に責任を果たす必要などありません.

>農民はお国のために年貢を納める.

 ここでいう「お国」とは,領主とその家族のことです.
 観念的な国家のことではありません.

>それがなければ,庶民の国王に対す
>る熱烈な敬意・慕情の念等は説明がつかないでしょう.

 社会契約説を前提にすると,そういう説明しかできないでしょう.
 前提が間違っているのですよ.

>実際,1918年
>にハンガリー評議会連邦共和国の成立前のハンガリー人民共和国の初
>代大統領となったカーロイ・ミハーイ伯爵もその回顧録で大貴族とい
>うものが,一般に信じられていたように私利私欲の塊ではなく,いか
>に民草の幸福を願って努力していたかということが説明されています.

 1918年なんて近代の話.
 それが中世にもそうだったという証拠にはまったくなりません.

>彼の回顧録にある欧州の大貴族(華族)のネットワークや,様々
>な貴族文化の話は,結構“目から鱗”的なことが書かれており,非常
>に面白いです.

 貴族文化そのものが,近代になってから構造転換していることが分からないと話になりません・

> それは全くの誤解だと思います.ラテン語はあくまでも仲介語です.

 そんなことありません.
 貴族にとってラテン語でも会話することは常識でした.
 あなたはDlugossiの記録とか読んだことはありませんか?

 国王も農民とおなじ言語を母語として使っていた,というあなたの説こそがまったく誤解ですな.

>それはヴァチカン市国でも公用語はラテン語ですが,日常的には
>ヴァチカン市民はイタリア語を話しているのと同じことです.

 同じではありません.
 ヴァチカンといってもしょせんは近代社会に組み込まれているのですから,14世紀のハンガリーと比較するのは間違っています.

>現在スロヴァキアでも公用語はスロヴァキア語だけですが,実際には市長か
>ら市会議員までハンガリー人しかいない自治体も多く,この前までは
>討論もハンガリー語で行い(だってハンガリー人しかいないのですか
>ら),議事録もハンガリー語で作成し,その後,国家の公用語である
>スロヴァキア語版も作成されていました.

 だから,それはあくまでも近代,現代の話ですね.
 中世とは何の関係もありません.

> 日本の帝(みかど)と違い,実際はそんなでもなかったようですよ.

 もし同じ「ハンガリー語」に属するとしても社会言語の違いを無視してはいけないでしょう.
 しい坊さんは,ロンドンのコックニーと英語標準語が同じ英語だと思われますか?(わら

> “通婚することができた”ということではなく,日本の天皇家と同
>様に,貴族となる家柄が決まっていたということなのではないでしょうか?

 同じことです.
 だから,なんでも「母語が通じるかどうか」で考えるしい坊さんの思考が意味がないといっているんですが?

> だから,ヨーロッパの新興国家も国王を自民族から出さず,
>欧州の名門王家に頼んで,国王になってもらうことが一般的だったわけです.

 だから,母語が通じるかどうか,同じ民族かどうかなんて,意味がないってことなのよ.
 わかる?

世界史板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
> どうやら,しい坊さんは政治学は苦手のようですね.

 はい,政治学は専門ではありません (^^).
 すでにこの掲示板で述べているように,歴史学も専門ではありません.
 ついでに言ってしまえば,社会学も,地理も,考古学も,心理学も(超心理学も),数学も,物理学も,化学も,民俗学も,民族学も,人類学も,文学も,音楽も,どれも専門ではありません.
 僕が唯一責任を持って発言できるのはハンガリー語のことのみです.

> それは粗雑な議論です.

 すみません,粗雑で (^.^;)ゞ.
 粗雑なのは重々承知しております.
 前にも何度か書いておりますが,できる限り,文章を短くしたいと考えており,あえていくつかのことには目をつぶって,はしょって書いている場合が多いからです.

> そりゃ中世にも「ハンガリー人」という漠然とした意識を持った集団は存在したでしょうが,

 いたはずだと思います.
 それが実態としてどういう集団を指していたのかは別にしてですが.

> それが「ハンガリー王国」の「領域」全体にひろがっていたわけではありませんし,

 ここら辺はどうなんでしょう.
 恐らく,当時は今のように厳密に民族と国籍 (?) を区別していなかったので,いわゆるマジャル族に属する人々がハンガリー人を名乗ったこともあるでしょうし,自分が住んでいる国からハンガリー人を名乗った場合もあると思います.
 あまり区別は厳密ではなかったのだろうと想像しています.
(ちょうど今の米国で,移民が自分をアメリカ人だと名乗ることもあるし,ハンガリー人だと名乗ることもあるようなものではないかしら?
 時代も,背景も全然違いますが.)


> ひろめようという民族主義的な意思も統治者にはなかったでしょう.

 いなかったと思います.
(もっとも僕がそう思っているだけで,本当のことは知る立場にはありませんが.)

> また,「ハンガリー人」という意識を統治階級が持っていたとして
> も,それが農民にも共有されていたわけではない.

 貴族達が,自分らをハンガリー人だと名乗っていたのと同じ意味では共有されていたはずはありませんね.
 最初から農民を排除する概念だったのですから.

> 今の民族概念とはまったく違うのだから,そこに民
> 族概念を投影して語るのは無意味だといっているのですよ.

 “現代の民族概念”を投影するという意味ではおっしゃる通りです.
 でも,現在の民族概念を投影しているつもりはないのですが.
 要するに,問題は,当時のああいう集団のことを表わす適切な現代用語としてのターミノロジーが存在しないことなのではないでしょうか?
 だからそれぞれが自分の定義で理解して,意見が違うと主張し合う事になってしまう....
(世の中の多くの学術的な論争の多くは,この定義の問題に過ぎないような気もします.
 特に文系の場合は.)

>> ハンガリーに居住していた人達はみな“ハンガリー人”というか“ハンガリー国人”[magyarorsz?i] 意識
>
> ずばりいって,そんなものはないでしょう.

 それは考え方の相違だと思います.

> あなたはフランス革命以降の近代意識で過去を見ようとしているだ けです.

 そのつもりはないんですけどねぇ....
 と言うか,むしろ,日頃は,フランス革命で形成された国民とか民族とかいう概念を過去に投影すべきはないと主張しているつもりなんですけど.
 この掲示板ではそういう発言はしていなかったかもしれませんが.
 それは,単にその必要性を感じなかっただけだったからですが.
 基本的にはこの掲示板は「ハンガリーってどうよ?」―「こうよ」というやりとりの場だと考えていました.

> そもそも「同じハンガリー人」と考えるための前提条件としては,
> 同じ人間であるという意識が必要です.
> ある一定地域の人間が,身分の違いを超えて「同じ人間」だと考え
> ることが必要なのです.
> ところが,古代ローマにしても,中世ハンガリーにしても,身分こ
> そが絶対的であって,それを超えた「貴族も農民も同じ人間」とい
> う意識は無いか,きわめて希薄だったのです.
> 身分の違いに関係なく同じ人間だ,という思想は,まさにフランス
> 革命前夜の段階のヒューマニズムの基本的な思想であって,中世に
> はそんなものはないのです.

 おっしゃりたいことはよく理解できているつもりです.
 しかし,それこそ,近代的な歴史学の概念ではないのでしょうか?
 ひとつの制度,あるいはシステムとしてはそういうことだったのだと思います.
 しかし,現実の日常生活の中では,そういう具合に割り切れなかったのではないと素人としては個人的に感じているのですが?
 ダメですか?

> >「ここは何という在所かね?」「ハンガリーだよ」と言っ
> >たレベルでのことですが.
>
> ソースはありますか?

 ありません.
 個人的な想像です.でも,個人的にはそういう“感覚”は多分,あったと思います.
 人間って,時代や文化や宗教が違っても,本質的な所ではそんなに変わらないものだと思っていますから.

> 近代意識で過去を投影してはいけません.

 そのつもりはありません.
 結果としてそれがうまくいっているのかどうかは(お互い?)自信はありませんが....

> >また,近代的国民意識とは質が違いますが,ある種の部族意識とし
> >ての“マジャル人”[magyar],“ルーマニア人”[olá],
> >“セルビア人”[rác],“スロヴァキア人”[tót]
> >のような自覚も確かに存在していたはずです.
>
> 自覚があったのなら,どうしてハンガリーの民族国家形成があんな
> に遅かったのですか?

 それは,フランス革命の影響を受けるまでは,ハンガリー王国のハンガリー人達がハンガリー人を主体とする国民国家を作ろうとはしていなかったからでしょう.
 で,同時に影響を受けた他の諸民族も,ハンガリー人同様に,自分達を中心とする国民国家を作ろうという熱病に浮かされてしまった.
 ハンガリー王国は元々多民族国家であったために,国民国家を作ろうとしたときに収拾がつかなくなってしまったのだと思います.

> > 支配階級と被支配階級で共通した近代的な国民意識がなかったか
> >らと言って,彼らの母語が違っていたわけではないでしょう.
>
> 違っている可能性のほうが高いのです.
> たとえば,英国.11世紀には農民がアングル語やサクソン語で,
> 支配者がノルマン語.13世紀ごろには支配者がオイル語.
> 英国にしてからがそうですから,人間移動や侵略活動が激しかった
> 欧州大陸では支配層と被支配層では母語がまったく違っていたで
> しょうね.

 英国は元々住民の侵入や移動が特に多かったはずだと理解しておりますが?
(そのことが本来屈折語であった英語の孤立語化にも影響を与えていたと考えられているのでは?)

 で,例えばハンガリーの場合ですが,では,実際にはハンガリーではどういう言語が話されていたのでしょうか?
 僕はハンガリー語や,ドイツ語,ルーマニア語,セルビア語,スロヴァキア語,その他だったと(要するに,現在もあの地で話されている言語ですが)考えていますが?

> そもそも「ハンガリー語」という概念そのものが近代の産物ですか
> ら,14世紀の段階で「ハンガリー語」という概念を持ち出しての
> 意味がありません.

 ん?14世紀?
 何の話をしているのかわからなくなってしまいました.
 それはともかく,“ハンガリー語”というのが近代の概念だというのは初耳です.
 じゃあ,ハンガリー語は突然,19世紀になって降って沸いたのでしょうか?
 少なくともハンガリー語はウラル祖語時代から綿々と続いていたはずですよ.
 別に「それをハンガリー語と呼ぶな!」とおっしゃるのであれば,それはそれでも構いませんが,ならばどう呼べばいいのでしょう?
 ちなみに,ハンガリー語の自称である magyar が古来の呼称であることは,ハンガリー語に一番近いヴォグル人が自らを manysi と呼んでいるのと同じ語源だと考えられていますが?

 別にそれを「ハンガリー語」と呼ぼうが,「マジャル語」と呼ぼうが,それが今のハンガリー語に当たる言語であるという事実は変わりないと思いますけど?

> >(すでにあの時代にラテン語を母語としていた人は存在していな
> >かったはずです.←ロマンス語の問題も専門外 (^^;).)
>
> であれば,オイル語かゲルマン系の言語の可能性がありますね.
> すくなくとも王家がハンガリー語を話す必然性はありません.

 ハンガリー人系王朝の王達がハンガリー語を話さなかったと考える積極的な理由は僕には見当たりません.
 同様に,ハプスブルク家の王朝がドイツ語を母語としていたであろうことも別に疑う必然性も感じません.
 実際,オーストリアはすでに18世紀頃から帝国の公用語をラテン語からドイツ語にしようと画策しておりましたからね.

 国王であれ,農民であれ,誰であれ,いずれかの言語は母語であったはずで,農民は当然,自分らの所属する民族の言語を母語として話していたでしょうし,王族の場合も,やはり自分の出身世界の言語を母語としていたはずです.
 もちろん,米国の例を見れば分かるように,出身民族の言語と本人の母語が同じとは限りませんが.そのこと自体は理解しているつもりですけれども?

> 現在の話を持ち出して,過去を投影しても意味がありません.
> そもそも方言差が少ないのは「本来はハンガリー民族を構成すべき
> 人達の母語のうち,通じないものを捨象して,さらに,アッチラ伝
> 説によってハンガリーという言語孤島の国家をつくったことで,方
> 言差が少なくなる方向に動いていった結果だともいえるはずで
> す.,すくなくとも朝鮮語などそうして「方言差が少ない言語」が
> できた例がありますから.

 朝鮮語のことも専門外なので何とも言えませんが(なんと“専門外”の多いことよ (^^;)!),なんでここに唐突に“アッチラ伝説”が登場するかさっぱりわかりません.
 また,おっしゃる通り,ハンガリー王国にも国民国家意識が昔はなかったわけで,そこで言語の統一のような力が働いたとも思えませんが?
 現にハンガリーでは少数民族の言語もそのまま残って共存していましたしね.
 ルーマニアのモルドヴァ地方で話されているチャーンゴー方言は,チャーンゴー人が一度もハンガリー王国に帰属していたことがなかったために,最も現在のハンガリー語の標準語とは遠い言語なのですが,それでも十分に現在のハンガリーの言語と意思の疎通ができます.

> 地域方言の差が少ないから,社会方言の差が少ないとは,これまたいかに?

 そうではなくて,ハンガリー語の内部では地域の方言差がほとんどないように,社会方言の差もほとんどなかったと考えるのが妥当であろうということです.

 誤解があると困りますので,念のために申し添えておきますが,僕はハンガリーの宮廷でハンガリー語だけが使われていたと主張しているのではありません.
(ただ,ハンガリー語が多数派だったろうとは考えています.)
 ですから,あくまでもハンガリー語内部での社会方言の差のことを言っているのです.
 もちろん,「ハンガリー語等がハンガリーの宮廷で使われていたはずはない」と断言されるのであれば,この問題に関してはこれ以上議論しても平行線をたどると思いますが.

> そもそも現在「方言」とされているものはロマン主義運動の結果,
> それぞれの地域の農民の言語を「方言の標準」と規定したもので
> あって,支配層がかつてどういう社会方言を使っていたかは現在
> 残っている文献だけでは判断できないことが多いのです.

 その点はおっしゃる通りだと思います.

> 中世にはそれこそ王族内や貴族同志でも「母語」が異なっていたでしょう.

 それはその通りだと思います.異論はありません.

> だからこそ媒介として書面語としてのラテン語が重要だったわけですから.

 それも,その通りだと思います.

> 通訳を介したでしょう.これは歴史学では常識になっています.

 そうなんですか.
(別に通訳を使っていたとしても不思議ではありませんが.
 でも,当時の貴族達は多くがラテン語はできたはずですよね?
 ならば,どうしてわざわざ通訳などが必要だったのでしょう?)
 とにかく歴史学は専門ではありませんので,そのような“歴史学上の常識”があれば,これからもどんどん教えてください.
 感謝します.

> 私は絶対視しているんじゃなくて,民族原理で中世を解釈するあな
> たのやり方に疑問を投げかけているんですよ.なんでも民族主義で
> 解釈しているのはしい坊さんのほうです.

 そうしているつもりは全くないのですが....
 う~ん,困りましたねぇ.
 かと言って,僕がいくらそのつもりはないと言っても「そんなことはない!」とご主張されるのでしょうから....
 ま,解釈の相違ということで,ご納得いただけませんでしょうか?

> ある土地に住む人間がすべて「同じ***人」という意識を昔から
> 持っている,母語は同じはずだ,というあなたの主張はまるっきり
> 近代国民国家の原理を中世にも投影する.

 まだ誤解があるようです.
 僕が言っているのは,「○○人」という意識を共有している集団は同じ母語を話していただろうということです.
 この「○○人」というのは,例えばハンガリーにおいては“ハンガリーに居住している住民が全てハンガリー人であって,ハンガリー語を母語としていた”と主張しているのではありません.
 ハンガリーにはハンガリー人だけではなく,ドイツ人やルーマニア人も居住していましたから,ハンガリー人達は自分らの村ではハンガリー語を話していたでしょうし,ドイツ人達は自分らの村ではドイツ語を話していただろう,ルーマニア人達は彼らの村ではルーマニア語を話していただろうということに過ぎません.
 だから,近代の国民概念を過去に投影しているつもりは全くないのですが?

 彼らは自分らがハンガリーに居住している住民だという意識はあったでしょうが,自分らをルーマニア人だと思っている人間達がドイツ語を母語としていたようなことがあるとは到底思えませんが?

> >(現実に国民国家以前もそれぞれの国内居住諸民族は自分らの民族
> >名を名乗っていたわけですしね.あれらの民族名称は別に近代に
> >なってできたわけではありません.)
>
> きわめて粗雑な議論です.
> 民族(nation)と部族(tribe)の違いを混同したうえに,時代の前
> 後関係を転倒させていますね.

 ああ,わかった!
 用語の使い方の違いですね!
 僕は「民族」は nationality の訳語として使っています.
 nation には「国民」の用語を当てています.
 異論はおありでしょうが,とにかく僕が使っている「民族」は nation のことではないということだけはご理解ください.
 これらの訳語はそれぞれが色々悩んでいることだと思います.
 もしかすると
「歴史学では nation は 民族 と訳すのが常識だ」
とご主張されるかもしれませんが,確か,色々な訳語の試みが存在していたはずだと思いますし,要するに,こういう話し合いの時は,互いにその用語の定義さえ了解していれば,済むことだと思います.
(「俺の定義以外で用語を使うことは許さない」と言われてしまえば困りますが....)

> いいですか?
> 過去のある支配集団が名乗った「部族名」は確かに存在した.そし
> て,ロマン主義運動によって,それを近代の民族名として流用し,
> その民族が歴史的に古くから連綿と存在することにしてしまった.
> それが,あなたのいう「近代になってできたわけではない」という
> 主張の実態です.前後関係を転倒させてはいけません.

 つまり僕の用語を使って書き直せば,

> 過去のある支配集団が名乗った「民族名」は確かに存在した.そし
> て,ロマン主義運動によって,それを近代の国民名として流用し,
> その民族が歴史的に古くから連綿と存在することにしてしまった.
> それが,あなたのいう「近代になってできたわけではない」という
> 主張の実態です.前後関係を転倒させてはいけません.

ということになりますね?
 不本意かもしれませんが.これで話が見えてきました.
 で,失礼ですが,やはり僕の言っていることと矛盾はないように感じられます.

 あと,おっしゃられていることは,西欧における展開だと思います.
 東欧の場合はそうはならなかった.
 つまり,ハンガリーに居住している者や,ルーマニアに居住している者が“ハンガリー人”だったり,“ルーマニア人”となったわけではないのです.
 これらの国々では現在でも, nation とはその国を構成する諸民族の中の支配的な民族(nationality) を指し,その国家に居住する民族は全て nationality として区別されています.
 ですから,現代でもハンガリーにはハンガリー人という,おっしゃられる意味での nation が存在し,それを過去に遡って投影して,過去から現在まで続いているという解釈はなされていないのです.
 そういう意味では東欧諸国は,未だに西欧的な国民国家ではないのです.

> > 「ハンガリー」という概念は強固にあったと思いますよ.単に国
> >王や貴族と農奴達が同じ“ハンガリー国民(ナーツィーオー)」と
> >いう意識がなかっただけで.しかし何もなかったわけでもないで
> >しょう.
>
> 何もなかったでしょう.

 何かはあったはずだと思いますけどね.
 少なくとも自分が居住している土地が“ハンガリー”と呼ばれている所だ,自分は“ハンガリーの住民だ”という程度の意識はあったことでしょう.
 さもなければ,地名などというもの自体,存在しないはずですから.
 “ハンガリーという国がある”という意識がなかったはずはないと思いますよ.

> すくなくともロマン主義運動によって作り出された農民を理想化し
> たナショナリズムに直接つらなる意識は存在しなかったでしょう.

 だから同じことを言っているんですよ.
 そんなものは当時あったわけがない.
 どうやら,世界@名無史さんは,natio のご自分の解釈にこだわって僕の文章をお読みになられているようですね.
 繰り返しますが,僕が使っている「民族」という用語は近代国民国家の nation の意味ではありません.

> 後でむりやり歴史としてくっつけたことは事実ですが.

 それはその通りです.

> そもそも「祖国」なんて概念はフランス革命で初めて形成された概
> 念なのであってそういう概念を18世紀以前に使った,なんていう
> 話があるとしたら,それはすべて後世の創作だと言えるでしょう
> ね.つまり創作された話をもとにして「事実」の証拠にしても無意
> 味なわけです.

 当然,色々な民族の歴史には「創作」や「捏造」それから「願望による推定」などがたくさん入っていると思います.
 どの民族でもね.
 問題は日本語の「祖国」という明治になって人工的に作られた用語にもあるのです.
 古里や母国を表わす“haza”という用語は昔からあるわけで,同様にラテン語の“patria”という用語も昔からあるのだと思います.
 恐らく,世界@名無史さんがおっしゃっている,そんな概念はなかったという「祖国」は近代国民国家としての「祖国」でしょう?しかし,それまでも人々は自分の生まれ育った土地に対して何らかの愛着心や所属意識を持っていたはずです.
 で,実際,17世紀末に亡命していたラーコーツィ・フェレンツ二世は本国に“Pro Patria”と書いた旗を置くって,対墺独立戦争(自由戦争)の呼びかけを行っています.

> でも,近代以前に身分を越えた何らかの「祖国意識」があった,な
> どとあくまでも強弁するしい坊さんは,

 別に“強弁”などしていませんよ.
 近代的な意味での祖国意識などなかったに決まっているわけですから.
 だからこそ“なんらかの”という修飾語を付けているのです.
 僕が問題にしている時代の“祖国意識”というものは,別に現代のような“ハンガリー語を”話す“ハンガリー民族”に属する人々の祖国という意味ではなく,単なる国と領土の意味です.
 だから民族的(nationality の方の意味ですね.nation ではなく)には当然ルーマニア人やドイツ人もいたはずです.
 でも,自分が住んでいる国はハンガリーなんだという自覚ですね.
 何かはあったと思います.
 もちろん,それがどういうものだったのかは,タイムマシンがない以上は検証の方法はありませんが.
 ただ,
「それに類するものはいっさいあったはずがない」
と言われてしまうと,歴史学の素人としては,
「う~ん,そんなことないと思うけどなぁ (^^;)」
としか思いようがないわけです.
 もちろん,そんな感情が一切存在しなかったというのが歴史的事実であるのであれば,それはそれでいいんですけれども.
 大事なのは真理の方ですから.

> ハンガリーなどにみられる,強烈なナショナリズム史観に毒されて いるだけでしょう.

 自らの歴史を情けなく,だらしないといつも嘆いているハンガリーの史観,いわば,“自虐史観”ですが,それが“強烈なナショナリズム史観”だとも思えないんですけどねぇ (^~^;).
 少なくとも周辺諸国の史観と比べると,ずっと穏健だと思いますよ.
 ハンガリー国歌自体がものすごい自虐的な歌詞ですしね (^^;).
 もちろん,世界@名無史さんがお読みになったハンガリー史の本が,そういう強烈な民族主義的な歴史書だった可能性は否定しませんが.
 歴史の本はたくさんありますからね.
 しかし,「新しい日本史を考える会」の史観が日本で最も一般的な歴史観でもないでしょう.
> > 日本の帝(みかど)と違い,実際はそんなでもなかったようですよ.
>
> もし同じ「ハンガリー語」に属するとしても社会言語の違いを無視してはいけないでしょう.

 無視しているつもりはありませんが?

> しい坊さんは,ロンドンのコックニーと英語標準語が同じ英語だと思われますか?(わら

 定義のしかたによると思います (^^).
 ロンドンのコクニーとクイーンズ・イングリッシュを同じ英語とみなすことも可能ですし,違う言語だとみなすことも可能でしょう.
 問題は,「コクニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語だ」と言った場合の「英語」と「コクニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語ではない」と言った場合の「英語」では,同じ「英語」という用語を使っていても,指しているものが違うのです.
 ですから「コクニーとクイーンズ・イングリッシュは同じ英語か?」という質問は無意味です.
 先に,その質問者が自分の理解している「英語」の定義を示した上でないと,答えようはありません.

> なんでも「母語が通じるかどうか」で考えるしい坊さんの思考が意味がないといっているんですが?

 なんでも“母語が通じるかどうか」で判断しているつもりはありませんが?
 18~19世紀のヴィーン在住のハンガリー人華族の多くの母語がドイツ語であったことは周知の事実ですから.
 前にも書きましたけれども,強烈なハンガリー人民族意識を持っていた音楽家のリスト・フェレンツだって,ハンガリー語はろくに喋れなかったはずだ,と書いています.

> 母語が通じるかどうか,同じ民族かどうかなんて,意味がないってことなのよ.わかる?

 だから,それは近代的な国民国家の話でしょう?

しい坊 : 世界史板,2001/10/13~10/14
青文字:加筆改修部分

 マーチャーシュ王に国民の福祉とかいう意識があったかというと疑問ですが,税を生み出す農民を過度に疲弊させてはいけないという考えはあったようです.
 貴族連の農民の移動の自由を制限しようとする考えに反対してますし,自分の寵臣に対しても
「農奴を苦しめるのを止めなければドナウ川に投げ込む.」
と言ったとか,他にもこの種の話はあるそうで,それがマーチャーシュ王のお忍び世直し行伝説の元になっているそうです.
 とは言え,彼が農民のことを考えたわけではないでしょう.

>近代以前には「民意」など必要がなかった

 全く無視では農民が逃げていくか,あるいは大反乱でしょう.
 現にマーチャーシュ王の死後,そういう事態になってますね.

>そもそも標準語という発想がない時代にどうやって多言語を学ぶんでしょうか?
>階級によって,地域によって様々な方言があったんですが?

 商人に関して言えば会話の練習のためのテキストが現存してるそうですよ.
(ドイツとイタリアの例ですが)
 あと,手元の本では英仏の例で,12世紀には教養ある君主は外国語の素養もなければならないとされていたと書かれており,イングランド王のヘンリー2世・神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世他,何人もの人物の名が上げられてます.
 ハンガリーの例は見当たりませんが,他国の言葉を話す君主がいたのは事実のようです.
 まあ,素人の持ってる本ですので程度は知れてますが.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/14
青文字:加筆改修部分

"プラノ-カルピニのジョン修道士の旅行記(1245-47年)"
"ルブルクのウィリアム修道士の旅行記(1253-55年)"
はヨーロッパからモンゴルのハーンに会いに行った時の記録なわけだが,
(「カルピニ,ルブルク 中央アジア・蒙古旅行記」護 雅夫 訳 桃源社)
カルピニのほうに
"バスカルトすなわち大ハンガリー"(P38),
ルブルクのほうに
"パスカトゥル人はハンガリー人と同じ言葉を使い"(P191)
"のちにハンガリー人として知られるに至ったフン人は,このパスカトゥル人の地域からやって来ました.これが大ハンガリーのおこりです"(P191)
てな記述があり.

 バスカルト,パスカトゥルは今のバシュキルであり,現在はトルコ系言語を話しているが,当時はウラル系言語が残っていたと見られる.
 ルブルクらにとって"ハンガリー人""同じ言葉""おこり"というのはどんな感覚だったのかのー.
 ちなみにダンテ(1265‐1321)より昔.

 ラテン語以外の文語:

教会スラブ語(8XX年-)
 ヤン・フス(1370頃-1415年) 聖書のチェコ語訳 チェコ語正字法を作る.
 最初のハンガリー語聖書もフス派による.

 ハンガリー王マーチャーシュ1世コルヴィヌス(1440-90年).
 イタリアなどから知識人・芸術家など招き,ラテン語でハンガリー史作ったりコルヴィナ文庫作ったりしたと聞く.

世界史板,2001/10/17
青文字:加筆改修部分

「コダイやバルトクがマジャルの民謡を集め,源流を辿るとトランシルバニアを経てウォルガ~ウラルにたどり着いた.マリ人やチュバシ人です」
と書くと
「梵阿弥はパンノニア~ウラルに跨る民主的,官僚的,均質的な國家が在ったと思い込んでる.馬鹿だね」
と書かれてしまうのか.

梵阿弥 : 世界史板,2001/10/17
青文字:加筆改修部分

  反論者は,なんか重大な資料を持ってる口ぶりだったから,それを発表して欲しかった...

世界史板,2001/10/20
青文字:加筆改修部分



 【再反論】
 キニジ・パールのように元粉屋の親父というような人物を登用してますし,あと,彼の恋人は市民出身だったはずで,まさか通訳を介してということはないように思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ :世界史板,2001/10/09
青文字:加筆改修部分

 【再再反論】
 その「まさか」があるんだよな.
 あなたが「まさか」といって,あくまでも母語が同じだったと思いこむのも,近代になっての常識で判断しているだけのこと.

 歴史書では「通訳を介した」なんていちいち記述しないものだから,あなたが分かっていないだけで,実際には通訳をいちいち介していたことが歴史学では常識になっているんだよ.

 そもそも中世世界は寡黙な世界だったわけで,今ほどは口頭による意思疎通が重要じゃなかったわけ.

 母語が同じで意思疎通しないといけないという観念は,フランス革命になって生まれた.
 それ以前には,身分が違えば言語が違って当たり前.
 意思疎通したいなら,ラテン語筆記か,通訳を通せばいいだけのこと.

世界史板,2001/10/09
青文字:加筆改修部分

 【再再再反論】
 多言語を操る人物が君主にいたというのは全部でっちあげですか?
 ルクセンブルク家のカレル4世とかの話は「ルクセンブルク家の皇帝たち」というチェコ史の研究をされておられる方の本からなんですが.
 そうなると,市販の本に書かれているその手の話は,全て後世の創作ということになるようなんですが,我々のような歴史趣味の人間には大いに困ったことですね.
 何を信じていいのやら判らないですよ.

 あと,領土の件ですがハンガリー王国の広がりを表現するのに適当な用語はなんでしょう?
 一般的にわかるような表現というのをご提示いただきたいです.
 「ハンガリー王国は土地の境界を巡ってチェコ王国と抗争した.」というような表現ならいいのですか?

ギシュクラ・ヤーノシュ :世界史板,2001/10/16
青文字:加筆改修部分



 【反論】
  そもそも,中世の段階ではラテン語以外には言語は存在せずに,すべてが空気とともに消える意味のない「俗語」であって,したがって文法も存在しないという考え方でしたから,俗語どうしが通じな いから,それを「外国語」として学ぶという発想は希薄でしょう.

 【再反論】
 “外国語”という意識はなかったでしょうね.
 だって,自国の領民の言葉だったんだから.
(ハンガリーにおいてもすでに書いていますが,ハンガリー語以外にドイツ語や,ルーマニア語,セルビア語等を母語とする住民が居住していましたからね.
 これらは近代的な国民国家の標準語ではありませんが,別に“現在のドイツ語に列なる諸方言”と言い直しても繁雑なだけで,同じことです.
 共通理解があることに対して,異論を出してもためにする反論になってしまい,意味がないと思います.)
 言葉に関しては“国”という意識はなかったはずです.
 だから“外国語”という用語は不正確でしょう.
 いい日本語がありませんが,要するに“異言語”でしょう.
 中世において(なんで“中世”にこだわるのかわかりませんが)ラテン語のみが“まっとうな”言語だと認識されていたのは事実ですし(教養語としてはギリシア語もありましたねぇ...),ラテン語以外の言語が“百姓達の言葉”として軽蔑されていたことも事実ですが,だからと言って当時の貴族や王たちの母語がラテン語であったというわけではないでしょう.
 すでに中世の文献でも
「○○は百姓の言葉を使って~と話した」
というような記述は見られていたと記憶しています.
(すみませんが,出典は忘れました.)
 それらの民族語には文法も存在しなかったというよりは(文法はもちろん存在したのですが),文法など構築する(研究する)に値しないと軽蔑されていたのが事実でしょう.
 だから,それらが言葉であるという意識自体がなかったということではないと思います.

しい坊 : 世界史板,2001/10/15
青文字:加筆改修部分



 【反論】
  近代以前には,そもそもラテン語文語だけが言語であって,それ以外の俗語・口語はすべて地域,身分によってばらばらな方言であって,ハンガリー語の標準語なんてそもそも存在しないし(文法書もない),標準語がない言語を「ハンガリー語」などという統一概念で呼ぶわけにはいかないでしょう.

 【再反論】
 ああ,これに関しては逆に言語学的なお考えがおできになっていないようですね.
 ラテン語だけが“言語”というご主張には驚きました.

 成文法があろうなかろうが,言語は言語です.
 また,記述された成文法が存在しなくても文法のない言語などは存在しません.
 文法がなかったら,言語そのものが成立できませんからね.
 言語学では“標準語”などはどうでもいいのです.
 目の前に現実に存在する言語,それが研究対象です.

 例えば岩手方言と茨城方言は微妙に発音や文法が異なっています.
 しかし,それらはやはり「日本語」として括ることができます.
 日本語という標準語が存在するかどうかという問題とは関係ありません.
 そっちは多分政治学的,あるいは歴史学的な問題ですよね.

しい坊 : 世界史板,2001/10/15
青文字:加筆改修部分

 現在の「ハンガリー」という国家とかつての「ハンガリー王国」の国家としてのありかたや,自らを「ハンガリー人」だと名乗る人々の実際の遺伝子的な構成や現代「ハンガリー語」とむかしの「ハンガリー語」が必ずしも全く同じものではないということを念頭に置いておくことは大切ですが,それで「ハンガリー人」とか「ハンガリー語」とか「ハンガリー」という“国”が過去に存在していなかったということにはならないはずです.
 中世に話されていたハンガリー語が現代ハンガリー語のように規範文法を持ったものではなく,標準語も存在しなかったという事実は,ハンガリー語が存在しなかったということとは同じではありません.
 “諸語”と言えるほどの差違もなかったはずです.
 単に統一的な標準語(規範文法)が存在しなかったということから“ハンガリー語”というものが存在しなかったと結論づけるのは乱暴です.
 むかしのハンガリー語を“ハンガリー語”と呼ぶこととナショナリズムの問題とは全く別の次元の問題です.

 当時のハンガリー宮廷の人々が(特に国王が)必ずしもハンガリー語を介しなかったであろうという事実と(それは誰も否定していません.もちろんハンガリー語ができた人も多かったはずです),本当に貴族達が magyar 語を解さず,農民と同じ magyar 語で意思の疎通ができなかったと想定することとは同じではありません.
 当時の社会では意思の疎通が(あまり)必用がなかったと考えることと,本当に物理的に互いの言語が理解できなかったと想定することは同じではありません.
「ハンガリーなどという国家がないのにハンガリー語などがあったはずがない」
というご意見もありましたが,これは日本語に引きずられた考え方ですね.
 日本語や中国語は先に国の名前があり,そこから民族名や言語名を派生しています.

 しかしご存じの方も多いと思いますが,西洋の言語の場合は多くは,民族名や言語名から国の名前が派生されています.
 従って「ハンガリー語」という用語は magyar nyelv の訳語であって,「ハンガリー」という国家の言語という意味は全くありません.
 ハンガリーという国家の存在は想定しておりません.
(否定もしていません.)
 別に国がなくても言語は存在するわけですから.言語を国民国家の公用語と規定すれば,確かにそういうものは存在しなかったということにはなるでしょうけれども,それは歴史学(あるいは政治学?)の問題であって,言語学(あるいは民俗学)の問題ではありません.

 アイヌ人はアイヌ国という国家を持っていまんせんでしたが,アイヌという民族は確かに存在しますし,アイヌ語という実態は確かに存在します.
 近代的な国民意識とは違っても,自分らが magyar であるという意識は確かに存在したはずですし(それが現在の民族意識と同じだとは誰も主張していません),ハンガリー語は断絶することなく,ウラル地方にハンガリー人の先祖達(ウラル人?)が居住していた時から連続して,途切れることなく存在し続けていたはずです.

 恐らくはハンガリー人農奴やルーマニア人農奴達はお互いの連帯感の方が貴族達に対するものよりは強かったと思いますし,現在のような(“ハンガリー人だから”とか“ルーマニア人だから”といった)民族対立はなかったはずですが,magyar 語を話す住民は自分らをmagyar と呼んでいたし,自分らの言葉を magyar と呼んでいたのは間違いないと思います.

 そして言語史料を見ても,現在の方言の差違を考慮しても,例えば,現代人の我々がタイムマシンで中世のハンガリーに行って,そこの農民や地方貴族と現代ハンガリー語で話しかけても(時代が違いますから一部通じない語彙があるにせよ)意思の疎通にそれほどの問題はなかったはずです.
 少なくともハンガリー語に関しては.
(ハンガリー王国の臣民であるルーマニア人に話しかけたら通じなかったかもしれませんが (^^;).)

しい坊 : 世界史板,2001/10/22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キニジ・パールって誰?

 【回答】
 キニジ・パール Kinizsi Pál (1446-1494)は中世ハンガリーの,半ば伝説的な武将.
 元は農村の粉屋の息子であったが,並外れた怪力を見込まれて,マーチャーシュ王に抜擢された.
 民話によると,Bakonyの森で狩猟をしていた王が,喉が渇いて水車小屋にて飲み物を求めたところ,キニジ・パールは大きな岩を盆の代わりにして水を差しだし,それがきっかけとなって召し抱えられたという.
 伝説はともかく,王は中央集権化を進め,彼に忠実な臣下を重要ポストに新しく登用することに熱心であったから,そんな抜擢組の一人であったろうことは,想像に難くない.

 マーチャーシュ王に仕えてからのキニジは,対トルコ戦で活躍.
 特にBreadfieldの戦いにて勇名を馳せた.
 これまた伝説によれば,両手に一本ずつ大剣を持ち,それを戦いにてふるったという.
 恐るべき二刀流.

 しかし1490年のマーチャーシュ王の死後,貴族層が力を盛り返し,王権が弱体化すると,王が作った傭兵軍「黒軍」は給料支払いを停止させられ,解散.
 そのため,その残党が略奪・強盗を行うようになる.
 この黒軍の討伐の任を課せられたのがキニジ・パールであった.
 彼の心中,いかばかりか.

 1494年,王とさほど時を置かずして,キニジ・パールも死去した.
 脳梗塞で倒れての急死であった.

 【参考ページ】
http://rinshi.sakura.ne.jp/txt/EastEurope2.html
http://mandarchiv.hu/cikk/490/Nagyvazsony_ahol_Kinizsi_Pal_lakott

キニジ・パール
(こちらより引用)

伝承ではキニジ将軍は,オスマン兵の死体を口に咥え,戦勝の踊りを踊ったとされる
(こちらより引用)

mixi

▼ キニジ・パールという人も面白いですね.
 元は粉屋の親父でマーチャーシュが喉が渇いて水を所望したら石臼で水を差し出したとか.
 両手で大剣を自在に操り,雄たけびは雷鳴のよう.
 トランシルバニアでのトルコとの戦闘ではバートリー・イシュトヴァーンの軍勢の危機を救い,戦勝の後トルコ兵を両手にぶら下げ,さらに口に咥えて踊りを踊ったとか・・・.
 ほとんど怪獣ですね.
 この人の奥さんは彼の腰の高さぐらいまでしかなかったそうですが,唯一彼が恐れたのが彼女だったとか・・・・.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒軍って何?

 【回答】
(1)
 黒軍 Fekete Sereg は,ハンガリー国王マーチャーシュ一世が,即位した最初の年,1458年に組織した傭兵軍.
 この時代に設置された傭兵としては大規模なものであり,中核は8000~1万名.後には3万名にまで拡大した.
 兵士達は主にボヘミア人,セルビア人,ドイツ人だったが,1480年以降はハンガリー人から成った.
 軍隊の主力は歩兵,砲兵,重騎兵であり,また,その5人に一人は火縄銃を装備していた.
 中世ヨーロッパにおいて,銃器は非常に高価であったにも関わらず.
 さらに,フス派のような戦車も有していた.

 黒軍は,あるときはハンガリー国内でフス派と戦い,あるときは神聖ローマ帝国と戦い,またあるときは,ブリードフィールドの戦いにおいてオスマン帝国軍を破り――と各地を転戦した.
 しかし,マーチャーシュ王が急死すると,次の国王ウラースロー2世は黒軍を維持する費用を許可せず,黒軍は解散となった.
 給料を支払われなかったその残兵は,国境地帯の村を略奪するようになり,これら不満分子を解体するのにキニジ・パールが駆り出されたりしている.

(2)
 現代ハンガリーにおけるマフィア組織の一つ.

(3)
 ロシア革命中,ウクライナに存在したマフノ運動の軍事組織.

(4)
 オンライン・ゲーム「WOT (World of Tanks)」におけるクランの一つ.
 たぶんハンガリー人プレイヤー達のコミュニティ.

 【参考ページ】
黒軍(ハンガリー) - Wikipedia
http://lexikon.katolikus.hu/F/fekete sereg.html
http://kovinkeve.ucoz.com/index/fekete_sereg/0-29
http://mek.oszk.hu/09400/09477/html/0012/891.html

黒軍の軍旗
(ハンガリー語版wikipediaより引用)

mixi

▼ 非常に興味深い軍隊ですね.
 チェコのフス派の強硬派であるターボル派の残党を主力にしてるのですね.
 おそらくはマーチャーシュに降参した今のスロバキアを実質的に支配したチェコ貴族出身の傭兵隊長ヤン・イスクラ・ズ・ブランディサの軍団が主体なのでしょうが,クセジュのチェコ史では,もう一つのフス派の残党であるペトルのアクサミットの配下の軍団を撃破し指揮官を処刑して配下に収めたと書かれています.
 マーチャーシュ王の死後,大貴族連が黒軍を解体(というかだまし討ち)にしてなければ,モハーチであの有様にはならなかったようにも思います.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 全身黒づくめの制服 (?) であり武器も黒かったので「黒軍」と呼ばれたとも言われていますが,なんか,かっこいいですねぇ.
 マーチャーシュがコルヴィヌス(オオガラス)王を名乗ったこともあり,イメージ的にもまさにマーチャーシュの軍隊でした.
 欧州史上でも(シャルル七世の常備軍と並んで)最も初期の常備軍だったんですよね.
 オスマン帝国に対抗する目的と,戦争が終わって野党集団になっていた元傭兵達を雇用することで国内治安も達成するという一石二鳥を狙ったもののようですね.

 マーチャーシュ王の後を継いだウラースロー二世の治世下では国庫が逼迫し,黒軍維持のための年間40万金フォリントの費用が捻出できず,黒軍の兵士達は略奪を開始したために,黒軍総大将のキニジ・パールが彼らを“成敗”せざるをえなくなったものですね.
 専らチェコ人からなる反乱黒軍はこの会戦で4~5百名の戦死者を出したそうです.
 首謀者は処刑され,勅令で黒軍は解体されましたよね.
 降伏した黒軍の兵士の内,優秀な者は,その後,国王軍,副王軍,トランシルヴァニア太守軍に仕官し,残った黒軍の残党はオーストリアやモラヴィアで「黒軍」の名で略奪を繰り返し,1493年の戦いで破れてからは「黒軍」という呼称は歴史から消えたと言われています.
 さらにその残党はフランスに渡り,そこで傭兵となり,「hommes d'armes」や「bandes noires」の部隊に加わったようですね.

 モハーチの会戦では,例え黒軍がいても,破竹の勢いのオスマン軍に対抗できたんでしょうかねぇ?
 できたかもしれませんが.最大の問題は,マーチャーシュが亡くなってから,ハンガリーが再び群雄割拠の時代になってしまい,ウラースロー二世は全国を掌握できず,ハンガリーの貴族達が一致団結できなかったということの方が大きいような気もしますが.

 いずれにせよ,マーチャーシュ王の時代はハンガリー史において最も輝いていた,エキサイティングな時代ですよね.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 Feketesereg の訳語は「黒軍」? 「黒衛軍」?

 【回答】
 別に Feketesereg (legio nigra) だけではなく,外国の用語の訳語は難しいですよね.
 それぞれが色々な試みをされているのだと思います.
 日本語の語呂の問題もありますから,もしかすると「黒衛軍」の方がいいかもしれませんね.

 ただ,僕が「黒衛軍」としなかったのは,「~衛軍」は通常“~ őrség”とか“~ gárda”の訳に当てているからです.
 悩むところです.
 日本語としての語感を大切にするか(日本語である以上は最も重要視しなければなりません),意味の正確さを大切にするか(無理矢理日本語で自然に訳してしまうと,文化の大切な違いが見えなくなってしまう),永遠の課題ですね.

 戦前の文芸誌の Nyugat についても僕などは『西』とだけ訳してしまいますが,ハンガリー史の田代 文雄さん等は確か『西方』と訳されていたと思います.
 徳永 康元先生は『西洋』だったかな?
 お2人が2文字にこだわるのは,1文字だと日本語として座りが悪いからです.
 確かにそうだと思うのですが,ハンガリーは西洋の国ですから『西洋』と訳してしまっては,当時のハンガリーの“西欧を見習え”という意識は伝わらないと思います.
 また『西方』も,ちと違うなぁと感じるんです.
 でも『西』では確かに座りが悪いし....一番いいのは2文字で「西」の意味の単語があるといいんですけどね.

 ハンガリーの政党の Kisgazda 党も,日本のマスコミ等では「小地主党」と訳されることが多いのですが,スラブ研究センターの家田 修さんなんかは
「kisgazda は小規模の自作農で不在地主とは違う」
というので確か「小農業者党」とか,何とかいった訳語をあてられていたと思います.
 確かに概念としての訳語はこれが正確なのですが,これでは kisgazda というハンガリー語では日常語の,言わば,日本語では大和言葉に当たる用語の大切なニュアンスが失われてしまいますよねぇ.
 それに対しては僕は結構アレルギーなんです.
 何がいいんでしょうね?「百姓党」かな (^^;)?

 Feketesereg の訳語についても,今後考えて行きたいと思います.
 やはり座りの問題から一番いいのは2文字で「黒」だけの意味の熟語があるといいんですけどね.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハプスブルクのエリザベート皇后(シシー)の侍従でフニャディ伯爵なる人物がいますし,戦前のハンガリーを旅行したイギリス人の旅行記にもフニャディ伯なる人物が登場しますが,これはヤノシュの兄弟の末裔でしょうか?
 オーストリアのスケート選手にフニャディ姓の人物もいますね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 歴史の方は全然専門外なので,詳しくないのですが,一応,マーチャーシュ王のフニャディ家は Hunyadi と書かれることが多く(実際には当時は揺れがあった),後世のフニャディ家は Hunyady と書かれることが多かったと思います.
(y は i の古形です.音価はただの [i].)

 エルジェーベト・アマーリア・エウゲーニア王妃(エリザベート皇后)の侍従の件は存じあげないのですが(すみません),他のフニャディ家には1607年にルドルフ王から貴族の称号を受けたフニャド城県出身のナジ・アンドラーシュの末裔の“ケートヘイ伯爵”(あるいは“キシュクレスチェン貴族”)であるフニャディ家があります.
 おそらくフニャド城県の出身だったために(あの名門フニャディ家にあやかる気持ちもあって)フニャディ姓(「フニャドの」の意味)を名乗ったのではないでしょうか?
(もちろん,同県出身者ですから,親戚関係にもあったかもしれませんが,それに関する資料はないようです.)
 ハンガリー王国の中央政界でも錚々たる人物を輩出している一族です.
 多分,侍従の方はこっちの一族なんでしょうね.
 調べれば分かると思いますが....すみません,手抜きで.

 どちらにせよ,マーチャーシュ方のフニャディ家は血統が絶えていることは間違いないと思います.

しい坊 : 世界史板,2001/10/06
青文字:加筆改修部分


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