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◆◆◆オスマン帝国侵入以降 Oszmán Invázió
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
欧州FAQ目次

※ 並びはほぼアルファベット順


 【Link】

『身分社会と市民社会 19世紀ハンガリー社会史』(ケヴェール・ジェルジ著,刀水書房,2012/11/30)


 【質問】
 ハンガリーは
オスマン帝国やハプスブルクの属国だったの?

 【回答】

 ハンガリーは一時期国土の中央部,領土の約3分の1をオスマン帝国に占領されていた時期がありましたが,ハンガリーがオスマン帝国の属国になった事実はありません.
 バルカン諸国と混同されていませんか?

 当時のハンガリーはまず,大きく,「ハンガリー王国」と「トランシルヴァニア(エルデーイ/ジーベンビュルゲン)公国」に分裂しており,ハンガリー王国の南部がオスマン帝国の占領下にあったわけです.
 つまり事実上ハンガリーは三分割されていたことになります.

 しかし,オスマン帝国がいた地域はあくまでも“占領地”であり,ハンガリーそのものがオスマン帝国の軍門に下ったわけではありません.

 もっとも当時のハンガリー王国はハプスブルク家の王朝でしたので,ハンガリー史ではハンガリーの重心は専らハンガリー人の民族王朝のトランシルヴァニアを本来のハンガリーとみなしていますが.

 なお,オーストリア=ハンガリー二重君主国成立以降は,政治・経済の重心は明らかに帝都ヴィーンから,王都ブダペストに移りつつありました.
(だからこそ,アフロユーラシア大陸最初の ― パリよりも古い! ― 地下鉄はヴィーンにではなく,ブダペストに建設されたのでした.)

 ハプスブルク家にとっても,現在,ドイツ選出の欧州議員であるオットー・ハプスブルク大公はオーストリアの皇位継承権は有していませんが,理論上,ハプスブルグ・オットー大公はハンガリーの王位継承権は有しています.
 体制転換後,ハンガリーの民族主義政党の一部がオットー氏をハンガリーの国王ないし大統領に招聘しようとしたのですが,オットー大公は
「私はドイツ選出の欧州議員に留まっていることの方がハンガリーの役に立てる」
と拒否したそうです.

 オットー氏はドイツ人ですが,帝王学はきちんと学んでおり,ハンガリー語にも(ドイツ訛りがありますが)堪能です.
 この前,小田急線沿線でオットー氏と遭遇したのですが,彼が英語で挨拶してきたのに対してハンガリー語で返事をしたら,彼は驚き,嬉しそうに
「おお,あなたも“同胞”[honfita'rsam] でしたか (^^)!」
と叫ばれました.
「いえ,生っ粋の日本人です (^^;)」
と答えましたが,“同胞”と言っても,彼だってドイツ人じゃないの (^^;)!

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分

三分割時代のハンガリー
こちらより引用)


 【質問】
 モハーチの戦いって何?

 【回答】
 1526年8月29日にハンガリー・ブダ南方のモハーチ Mohács 平原で起きた,ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍との戦闘です.
 迎え撃つハンガリー軍3万(援軍3万が来るはずだったが,その前に行動を始めてしまった)に対し,スレイマン1世は兵力約7万以上,大砲300門.
 オスマン帝国軍は兵力,戦術共に優り,ハンガリー軍は一方的に壊滅して2万人以上が戦死,国王ラヨシュ2世も落馬・溺死しました.
 それでもKIA(Killed in Action)のうちと見なせないこともありませんので,厳密さを特に要求されないときは,かわいそうですから戦死と言ってあげてください.

▼ ちなみにこのときにオスマン軍の手によって,ヨーロッパに初めて唐辛子が持ち込まれたのだとか.
 ちなみに唐辛子はアメリカ大陸原産の植物でして,コロンブスが1493年に最初にヨーロッパに持ち込んでおります.
 その後,インドもしくはアレクサンドリア経由でオスマンに持ち込まれ,ハンガリーなどバルカン諸国にモハーチの戦いの際に持ち込まれました.

 【参考ページ】
http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/Balkan.htm
http://www.hungarytabi.jp/stepbystep/sbsminadu.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Ottoman.html
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi3.htm
http://www.hungarian-history.hu/lib/warso/warso19.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-ue/travel/turkey_200604/ottoman/suleyman.htm

 【関連リンク】
http://www.youtube.com/watch?v=W0yK2PLlGBk
http://www.youtube.com/watch?v=bOwyXZhR-jw

【ぐんじさんぎょう】,2008/10/31 22:00
に加筆修正


 この動画の作者,モハーチの地形を全く知らんのだろうなぁ・・.

 ドナウ河畔の丘陵地帯ではあっても,こんな山みたいな場所は一箇所もないのは,グーグルアースでもすぐわかりそうなものなのだが・・.

 今の戦跡公園の写真は
http://hungarystartshere.com/gallery?group=O11372
で,これは発見された戦死者の集団埋葬地である.
 以前,晩秋に訪問したことがあるが,
「この場所には手をつけてはならない」
と言われていた場所であったという話を聞いた.

 発掘した写真を見たことがあるが,遺体が折り重なっていて,まさに死屍累々という言葉がふさわしい.
http://mek.oszk.hu/01900/01918/html/index187.html
 しかし,これでも伝えられる戦死者の数からすれば少なすぎるとのことで,主戦場がどこであったのかは,いまだに不明とのことである.

 ちなみに現在のモハーチはブショーヤラーシュ(ハンガリー風なまはげ??)祭りで有名です.

 私も古戦場を訪れましたが,丘陵といっても非常に緩やかなものでした,現在はセルビアとの国境の向こうまで一面の畑地になっていますが,1526年当時は,平らなな場所といってもドナウが何度も流れを変えた結果,旧河道がくぼ地になっていたり,川岸に近い方は葦原の茂る沼沢になったりした場所が入り組んでいるような場所でした.
 また,恐らくは視界をさえぎる低木も存在したようです.

 あまり,大軍の激突するにふさわしい場所とも思えませんが,ここを戦場に選んだのは数に劣るハンガリー側でした.

 ハンガリー軍の総司令官はカロチャ大司教トモリ・パールでしたが,彼は小競り合いの経験はあったものの,大軍を率いての合戦の経験は乏しかったようです.
 国王ラヨシュ2世とトモリに従うハンガリー軍は2万5千~8千,本来はこれにトランシルバニア候サポヤイ・ヤノシュ率いる軍8千~1万3千,クロアチア太守フランコパン・クリシュトフ率いる5千の軍が加わるはずでした.
 しかし,オスマン軍の進軍速度は思ったよりも速く,軍を集結させるよりも,オスマン軍と接触する方が早い見込みになってしまいました.
(サポヤイに関しては,オスマンに内通し,軍を進めさせなかったという説もあります.
 彼は元々,自分には国王の資格があると考えており,先代のハンガリー王ヴワディスワフ2世の時代に中小貴族の支持を得て,国王が嫡子なく死亡した場合はハンガリー人が王に選ばれる旨――もちろん候補者がサポヤイであることは言うまでもありません――の国会の決議を得ていました.
 その野望は,国王に嫡子ラヨシュ2世が誕生したことで先送りになっていたのです.)

 軍の集結が不可能と判明した時点で,ハンガリー軍としては北部へ撤退し,サポヤイ軍と合流するという作戦を取ることも可能でした,
 しかし,その場合はブダを捨て,ポジョニ(ブラチスラヴァ)か,あるいは更に北の現在のスロバキアあたりまで撤退しなければならなかったものと思われます.
 結局,作戦会議はハンガリー軍の勇敢さを頼んで,現兵力で約6万のオスマン軍を迎撃することに決定しました.
 大司教トモリが熱弁を振るった結果のようです.

 で,結局ドナウ河畔でオスマン軍を迎撃することになったのですが,本来なら河を渡るところを叩くべきだったのでしょうが,それもできず,夜襲もかけず,より高い場所のオスマン軍が布陣することを許し,挙句は真夏のさなかに午後に至るまで戦端を開かず,いたずらに体力を消耗し,戦闘開始となったら,敵陣に猛突撃をかけた挙句に包囲され壊滅的な打撃を受けました,
 戦死者は1万6千,国王ラヨシュ2世も撤退途中に,湿地地に足を取られた馬から落馬して陣没(下敷きになって溺死),ハンガリー王国は事実上ここに滅亡しました.

 戦闘の経過などを読んでいるとハンガリー好きとしては,なさけなくて涙が出てきます.

ギシュクラ in 2008年10月27日00:02~28日 23:45

モハーチ戦前後のハンガリー騎兵
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ハンガリー王国のブラチスラヴァ遷都について教えてください.

 【回答】
 ハンガリー王国の首都だったブダは,1529年にオスマン帝国に包囲され,1541年には完全占領されました.
 そのため,ハンガリー王国はブラチスラヴァに遷都.
 1536年から1784年までハンガリー王国の首都となりました.
 その間,1542年にはハンガリー議会も移転.
 1563年から1830年までは歴代ハンガリー王戴冠式が,聖マルチン大聖堂で行なわれました.
 1741年にはマリア・テレジアもこの教会で戴冠しています.

 その後,コッシュートたちの革命政府とともに,議会もデブレツェンに移動し,革命政府の敗北後は一時期議会は廃止.
 1861年に再開された際はペストでの開催でした.
 会場は国立博物館だったそうです.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/05/11
青文字:加筆改修部分

 ちなみに,ハンガリー語ではポジョニュ Pozsony 市と言いますが,ドイツ語ではプレスブルク市で,元々はドイツ人が住民の多数派だったのではないかしら?
 次に多かったのがハンガリー人で,当時,果してスロヴァキア人がいたのかどうか....
 現在のスロヴァキア語の“ブラティスラヴァ”は1918~1920年頃に,「むかし,ここら辺にブラティスラヴァという町があったらしい」という伝説に基づいて命名されたようで,後日,全然別の場所からブラティスラヴァの遺跡が発見されたということを聞いたことがあります.
(真偽のほどは定かではありません)
 どちらにせよ,現在のスロヴァキア共和国の首都のブラティスラヴァ市は,チェコスロヴァキアが建国されるまではスロヴァキア人達は“プレシュポロク”と呼んでいました.
 当然,語源はドイツ語名のプレスブルクだと思います.

 なお,現在の西ハンガリーである地方をハンガリー語ではドゥナーントゥール(ドナウの彼岸.ラテン語訳は Transdanubia)と呼んでいますが,通常の解釈ではドナウ川が南北に流れる地域(首都ブダペシュトのある地域)から見て,「ドナウ川のあちら側」と解釈するのが自然ですし,ハンガリーでも一般的にはそう説明されていますが,実は,首都のあったポジョニュ(ブラティスラヴァ)から見てドナウ川のあちら側,すなわち南岸という意味でそういう名前が付いたのだという説も聞いたことがあります.
 真偽は定かではありません.

しい坊 : 世界史板,2001/11/01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オスマン帝国に入ってた方のハンガリー王国の王位は,誰が持ってたんでしょうか?
 もしかしてスルタンが兼ねてたとか?

 【回答】
 半可通の説明で申し訳ないのですが・・・.

 正統の王位はラシュ2世の戦死により,ハプスブルク家のフェルディナンド1世のものでした.
 これはハプスブルク家とヤゲヴォ家の協定によるものです.

 一方,対立王であるサポヤイ・ヤーノシュは外国人統治者の選出を除外する「ラーコシュ原」の決議というものを根拠にして王を称しました.
 この決議は,ヤゲヴォ家の先代のヴワディスワフ(ウラースロー1世)の時代に当時の副王サポヤイ(サポヤイ・ヤーノシュの父)が,中小貴族を先導してブワディスワフの退位とサポヤイの即位を要求させた結果,妥協の産物として出来たものだそうです.
 そしてオスマン帝国は当初,サポヤイ・ヤーノシュを王ととして支援していました.

 彼の息子のヤーノシュ・ジグモンドの代にハプスブルク家の攻勢を受け,オスマン帝国の来援を請うた際,オスマン帝国軍は国の中央部を占拠し,これ以降,ハンガリー領がハプスブルク・オスマン帝国そしてオスマン帝国保護下のサポヤイ家の3分割状態になるわけです.
 その後ヤーノシュ・ジグモンドはハプスブルク家との協定でハンガリー王の称号を辞して,トランシルバニア公兼ハンガリー分離地区宗主の称号を得ています.
 オスマン帝国の支配地域については王位というものは基本的に誰も称していないはずです.

 専門の方の解説をお願いいたします.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/12/12
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハイドゥクについて興味があります.
 現代はバルカン半島にもいるようですが,近世のハイドゥクはみんなハンガリー人ですか?

 ハイドゥクの実像についてこのようが記述がありますが,本当ですか?

「ときには義賊といえるケースもあったが,大部分が山奥に住み着いて民家を略奪し,墓を盗掘したり賭博や飲酒をしたりすることに時間を費やした.
 彼らの眼中には政府もなく,祖国もなく,仁義や道徳もない.
 彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく,秤を争って金と銀を分配し,派手な衣装をひっかけて斗酒を飲み,肉の塊を丸ごと飲み込むかと思えば,女を拉致してかわるがわる強姦した後,道端に捨てる肉盗行為以外にはすることがない.」

 【回答】
 16世紀,ハンガリーのオスマン帝国占領地域に出現した武装勢力としての「ハイドゥク」は,主にハンガリー人やスラヴォニア人から成っていたが,17世紀には退潮した.
 その後,オスマン帝国の衰退とともに,支配下にあったルーマニア,ブルガリア,ギリシャ,セルビアなど各地に野盗の類が出没するようになり,そうした連中も「ハイドゥク」と呼ばれるようになったので,全バルカン的な現象になった.
 そのためハイドゥクや類似の匪賊(ギリシャのクレフト,トルコのケレール等)の民族構成はルーマニア系,スラヴ系,ギリシャ系など多岐にわたったが,出身階層としては農村社会で問題を起こしてアウトローになった者が多かったようだ.
 遊牧民がどうとかいうより,堅気の社会へのアンチとしての太く短く生きる生活様式だろう.

世界史板

 ハンガリーでハイドゥ民というと,ボチカイ・イシュトヴァーンの反乱時ぐらいから記録にあらわれますが,オスマン軍に追われたり、領主の圧迫から集団で逃れた農民が匪賊化したものと言われています.
 彼らはボチカイの援助要請に応えてハプスブルク家と戦い,ボチカイの勝利に貢献したことによって,軍事的な奉仕義務を持つ自由身分の農民とされました.
 武装した家畜輸送業者というの市場町に住むようになって以降の話ですね.

 彼らはその後もハンガリーで対ハプスブルク家反乱が起こるたびに戦闘に参加しているものですから,ハンガリーの抵抗の象徴のようになっているのでしょう.

 余談ですが,クロアチアのクリス城(昔ハンガリー王国の南の防衛線だった)で,今でもハイドゥクの末裔が「羊の丸焼き」を食べさせるお店?をしているそうです.

ギシュクラ・ヤーノシュ◆4yzbf0MFE in 世界史板


 【質問】
 そういえばハンガリーの昔トルコが占領していた区域にはモスクの建物は残存しているけれどムスリムの信仰を持ちつづけた人たちというのはいるのだろうか???

 【回答】
 本当に不思議ですよねぇ.
 ハンガリーは,あくまでも国土の一部(3分の1)がトルコに占領されていただけで,実質的なハプスブルク領だった(名前だけの)「ハンガリー王国」と(名前は違うけれども),実質的なハンガリーであった「トランシルヴァニア公国」も存在していたわけですから,ハンガリー以南のバルカン諸国(諸国というよりは諸地域か?)とはだいぶ事情が違ったようですけれども.

 イスラムやバルカンは全く専門外なので,お詳しい方がいらっしゃったら,ぜひ,ご教示いただきたいのですが,とりあえず僕が習った範囲でお答えしますと,オスマン・トルコは占領地においては宗教的には非常に寛容だったと言われています.
 自分らの信仰のためにモスクは建てましたが,キリスト教徒の住民にイスラムを強制するようなことは一切(?) なかったようです.
 要するに税さえちゃんと収めれば,あとは自由にさせておいてくれたようです.
 ですから,ハンガリー人のイスラム教徒というのは全く存在しておりません.

 バルカンの(ハンガリーはまだバルカンには含まれません)セルビア人やクロアチア人,アルバニア人の間にはイスラム教徒も多いようですから,その違いがなぜ発生したのかは存じません.
 ここら辺(なぜハンガリーではイスラム化が行われず,バルカンではある程度のイスラム化が進行したのか)ぜひ知りたいところです.

 ちなみに,“バルカン”の範囲に関しても難しい問題があるようです.
 セルビアがご専門の柴さんは旧ユーゴスラヴィアの版図からクロアチア,スロヴェニアまでバルカンに含められているようですが,歴史的にオーストリアに支配 (?) されていたスロヴェニアと,(オーストリアに支配されていた)ハンガリーに支配されていたクロアチアはバルカンには含まれないのではないかというのが僕の考え方なのですが.
 ま,これなんかは典型的な研究地域の違いによる見解の相違なんでしょうけどね.
 真相はどっちの要素もあるということなんでしょうけど....

 それからバルカンの諸民族の間ではトルコは単に憎まれているだけですが,確かにハンガリーでもトルコとの戦いによる被害は甚大だったのですが,先程も述べましたように,トルコは宗教的に寛大で,しかも風呂好きのトルコ人はハンガリーのあちこちに狂ったように温泉を堀まくり,今では温泉大国ハンガリーの貴重な観光資源ともなっております.
 また,“薔薇愛でるパシャ”として有名だったブダの統治者ギュル・ババもハンガリー人には愛されており,『ギュル・ババ』というオペレッタは人気があります.
 ブダペストの高級住宅地の薔薇ヶ丘はギュル・ババの薔薇栽培地に由来しております.

しい坊 : 世界史板,2001/10/22
青文字:加筆改修部分

 ハンガリーがなぜちっともイスラム化しなかったかは確かに不思議ですね.
 私もそっちが専門というわけではないので,推論でお答えします.

 まず,ハンガリー人イスラム教徒が全くいなかったわけではありません.
 所謂「デヴシルメ」でもって宮廷や軍に入り改宗した人々がいます.
 また,強制ではなく改宗した人々もいるにはいたようです.
 たとえば,ペーチ出身の歴史家ペチェヴィー・イブラヒムとか,トランシルヴァニア出身でイスラム史上初めて活版印刷を始めたイブラヒム・ミュテフェッリカなどが知られています.

 ところが,以上挙げたような人々はみんなイスタンブールに行っていて,「オスマン人(トルコ人,ではありません)」に混じり込んでいるから,おそらくその子孫はハンガリーに残らなかったのだと考えられます.
 逆にいえば,バルカンのうち旧ユーゴやアルバニアにイスラム教徒が多いのは,土着の農民層に(土着のままの)自発的改宗者が出たために,イスラム教徒が残ったのだと言えます.

 では,なぜハンガリーでは農民層に改宗者が出なかったのか?
 うーん,なんででしょう.(笑)
 支配者としてのイスラム教徒の流入が少なかったこと,オスマン支配下にあった時代が比較的短かったこと,などが考えられるかもしれません.
 あるいは,「バルカン」のオスマン領諸地域ではキリスト教徒の貴族階層は消滅してしまうのですが(なぜ消滅したかは議論の余地があります),ハンガリーではハプスブルク支配地域に逃れたり,トランシルバニア公国(オスマン宗主権下で存続していた)に逃れたり,あるいはオスマン支配を受け入れたりして,貴族が消滅しなかったことも関係あるのかも.

>セルビア人やクロアチア人,アルバニア人の間には
>イスラム教徒も多いようですから

 セルボ・クロアート語を話すイスラム教徒たちは,とうとう「ボシュナク人」というひとつの民族になってしまいましたけどね.
 現代において言葉だけでなく宗教でもって民族を分けた結果として,興味深い事例になってしまったんじゃないでしょうか.

世界史板,2001/10/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「Va'sa'rosneme'nyi」 Ëötvös Jo'zsefって何ですか?

 【回答】
 “Vásárosnaményi”ですね.
 よくは知りませんが,エトヴェシュ (Ëötvös) 男爵家は旧ベレグ・サトマール城県の大貴族(華族)で,その戦功によりマリア・テレジアから男爵の爵位を授かったエトヴェシュ・ミクローシュが,わかっている一番古い先祖です.
 “Vásárosnamény”とは現在のサボルチ・サトマール県にある「ヴァーシャーロシュナメーニュ」という市で,恐らくは昔,彼らの領地があった所なのではないでしょうか?
 要するに「ヴァーシャーロシュナメーニュの男爵エトヴェシュ・ヨージェフ」ということだと思います.
 で,こういう修飾語を付けるのは,色々分家があり,例えば,他に“シャールヴァールの男爵エトヴェシュ家”とかがあったりするからです.

しい坊 : 外国語板,2001/11/03
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベニョフスキ・モーリツって誰?

 【回答】
 有名な冒険家のベニョフスキ・モーリツ Benyovszky Máté Móric Mihály Ferenc Szerafin Ágost 伯爵ですね.
 史料に残っている中では,日本を訪れた最初のハンガリー人です.

 1746年にニトラ県ヴェルボーでベニョフスキ・シャームエル伯爵とレーヴァイ・ローザの間に生まれました.

 元々ベニョフスキ家はカーロイ・ローベルト王の時代に陰謀に巻き込まれ,ポーランドに亡命していたのが,ジグモンド王の時代にベンヤミンシュとウルバーンの兄弟がハンガリーに戻ってきたのでした.
 で,戦勲を上げて,再びジグモンド王から貴族の称号を受けて,ヴァーグ川の近くに所領をもらったのでした.
 で,ベンヤミンシュがベニョフスキ家を名乗り,ウルバーンがウルバノフスキ家を名乗ったのでした.
 ま,どちらにせよ,恐らく元々はスラヴ系の家柄だったのでしょう.
(そうでなかったら,多分,ベンヤーミンフィ,ウルバーンフィとか名乗ったはずですから.)
 当時は国家の帰属意識しかなかった時代なので,彼らの民族意識がどうだったのかはわかりませんね.
 モーリツも“ハンガリーの貴族”という意識しか持っていなかったでしょうから.
 恐らく近世にはハンガリー人意識になっていたと思います.

 1762年,七年戦争(1755~1763)に短期間従軍した後,ポーランドのセペシュ Szepes に住むために軍から離れ,そのため1764年,脱走容疑で告発されました.
 翌年,判決確定前に,彼はポーランドの叔父のもとへ逃げ,ロシアによって王位に据えられたポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに対する反乱組織に関与.
 1768年7月に逮捕され,カムチャツカ半島に流刑にされました.

 1771年,同地で他の囚人と共謀して看守らを殺害して脱獄し,帆船を奪って日本,フランス領マカオ,マダガスカル島を経由して,1772年7月,フランスに渡航.
 ペニョフスキが阿波国徳島藩の日和佐(現徳島県美波町)に来航したとき,徳島藩は江戸幕府に咎められることを恐れて上陸を許さず,無償で水と食料・燃料を与えて追い返しました.
 このとき,彼は長崎のオランダ商館長宛の手紙を徳島藩に渡しましたが,これが「ロシア帝国が松前近辺を占拠する準備をしている」という根も葉もないものでした.
 幕府は書簡の存在を秘匿したものの,工藤平助・林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなりました.

 ちなみに,オランダ商館長はペニョフスキを「ファン・ベンゴロ」とオランダ語読みし,このことからペニョフスキは日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになりした.
 「はん・べんごろう」の「はん」は恐らくオランダ語の van だったんでしょうね.
 貴族だから.

 フランス宮廷においてルイ15世に対し,ペニョフスキはマダガスカル島をフランスの植民地化することを提案.
 ルイ15世は彼に爵位を与え,マダガスカルにおける軍事と交易とを委任する知事に任命しました.
 1774年,彼はマダガスカル島に上陸して開拓事業を開始.
 要塞や道路,集落,病院などを建設しました.
 そして
原住民に推挙されて,マダガスカルの王になっていたはずです (^◇^;).

 彼はまた,アメリカの独立を支援しました.

 1785年,Foulpointeのフランス人貿易決済官を逮捕しました.
 フランス海洋省はこの一件や,アメリカへの協力に怒り,1786年にマダガスカル島へ派兵します.
 同年5/23,フランス軍の奇襲攻撃により,
マダガスカルで亡くなったのでした.

 ちなみに日本語版wikipediaはペニョフスキについて,誤りではないかと思われる記述を含む,かなり悪意に満ちた内容となっています(2016.6.25アクセス)
 これがどのような典拠に依っているのかは,記述がないので不明です.

しい坊 : 外国語板,2001/11/04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハンガリーとハプスブルク家との間の独立戦争(1848-49,直訳すると『自由の戦い』)はなぜ起きたのか?

 【回答】
 フランス2月革命の余波がハンガリーに押し寄せ,ハプスブルクはそれを潰そうとしたことから.

 1848年,フランス二月革命.ヨーロッパを覆った革命の波は,改革の努力をただちに法的に実現させるための,またとない可能性を提供した.
 1848年3月3日, たまたま1847年以来開会中であった貴族議会において演説したコッシュート・ラヨシュは,ハンガリーの完全な自治を要求.
 1848年3月15日には,ブダペストにおいて青年達のデモが行われ,議会は農奴の解放,法の前での平等を宣言.政治的自由が実現され,ハンガリーとエルデーイの両貴族議会にかわって,統一された国民議会が設立されたのである.
 1848年3月31日,ハプスブルク家はハンガリーが独立の内閣を持つことを認めた.その結果,バッチャーニを首相とし,蔵相コッシュートを実質的な指導者とするハンガリー内閣が成立,ペシュト・ブダに中央政府が置かれる.
 こうしてハンガリーはハプスブルグ帝国の枠内で完全な自立性を達成し,ハプスブルグの大公の一人,イシュトヴァーン副王を国家元首に迎えたのである.

 このコッシュート・ラヨシュ Kossuth, Lajos (1802-1894)は現オーストリア領のMonokの生まれ.
 彼は,議会審議を取り上げる手書きの新聞を発行し,1841年からはペシュト・ヒールラップ紙の編集者として,ハプスブルグ帝国内では最初の近代的政治ジャーナリズムを生み出した.
 1847年には,彼は小地主層を代表する民族運動者として下院議員に当選,下院の自由主義勢力は革命的な性格を強めたのである.

 しかしハプスブルグ宮廷と,その周囲に集まった軍人達は,旧来の中央集権的封建権力の喪失を受け入れることが出来なかった.
 彼らは,ハンガリー国内で,少数民族を抑圧したため,国内での民族対立が激化していたことを利用.1848年9月,イェラシッチ・クロアチア知事を動員し,クロアティア人・スロヴェニア人の武装勢力をハンガリー本土に侵入させ,そして,法的根拠を無視しつつバッチャーニ政府を辞任させた.
 ハンガリー議会は,法律に定められた諸権利に依拠しつつこれに対抗し,執行権力を『全国祖国防衛委員会』(コッシュート・ラヨシュが委員長になった)の手に委ねた.
 彼らは武力攻撃の撃退に成功した.
 しかし1848年10月,ウィーン政府がハンガリーに対して宣戦を布告.ヴィンデッシュグレーツ司令官指揮の下,ハプスブルグ帝国で動員可能な全兵力10万名以上がハンガリーに殺到.ハンガリーのマジャール化政策に反発していた少数民族も,ウィーン政府につく.
 1849年1月,オーストリア軍がブダペシュトを占領する.
 ハンガリー立派は,コッシュートを首班とする臨時革命政府を組織して,デブレツェンへ首都を移し,抵抗を続けるのである.

 1849年の早春までにデブレツェン政府は兵力の集結に成功,反攻に転じた.
 1849年4月19日,ハンガリー国会がハプスブルク家の王の廃位を宣言.コッシュート・ラヨシュを執政に,セメレ・ベルタランを首相に選出.
 1949年5月21日,コッシュートを指揮官とする臨時革命政府軍がブダペストを奪還.
 さらに,奥軍は優秀な若き指揮官ゲルゲイ・アルトゥールによって国外に叩き出され,エルデーイも,ポーランド人のベム・ヨージェフ司令官によって解放される.

 こうした中,ハプスブルグの反革命指導者達は,妥協を模索するよりも,むしろ外部からの援助によって,ハンガリーを抑えつけるといる意思を固めた.
 彼らの呼び掛けに応え,十分な準備の後,1849年6月,20万名のロシア干渉軍がカールパート山脈を越えた.パスキエヴィッチ大公司令官に率いられたロシア軍とハイナウ司令官指揮下のオーストリア軍からなる大軍勢は,ハンガリーの抵抗を打ち砕いたのである.
 1849年8月13日,軍司令官ゲルゲイ・アルトゥール指揮下のハンガリー臨時革命政府軍は降伏.ここにハンガリーの独立運動は失敗に終わった.
 ハンガリー臨時革命政府軍の指揮官13名と政府を主宰していたバッチャーニ・ラヨシュは処刑.コッシュート・ラヨシュはオスマン帝国へ逃れる.
 1849年以降,ハプスブルグ帝国はハンガリーから法的自立性を剥奪し,そこを占領地として扱いつつ,絶対主義的に統治された統一的ハプスブルグ帝国に融合した.
 抑圧とドイツ化政策に対しては,ハンガリー国内では静かないわゆる消極的抵抗が広がり,国外では,コッシュート指導下の政治亡命グループが活発に活動した.

 ピンチの後にチャンスあり.
 1859年,イタリア独立戦争が起こり,ソルフェリーノの戦いにおいて,オーストリア軍はフランス・イタリア連合軍に敗北.オーストリア帝国内の諸民族は,イタリアの動きに刺激され,再び自治を求め始めた.
 同年,ハンガリーの独立に執念を燃やすコッシュートは,フランスにおいてナポレオン3世と秘密会談を行い,同盟を模索した.が,成果は得られず.
 しかし1866年,今度は普墺戦争においてオーストリアがプロシアに敗れた.
 ここでハプスブルグは,遂に妥協に追い込まれる.1860年代にいたると,かつて『反逆者』と呼んだハンガリー人達と妥協を模索するようになったのである.ハプスブルグを交渉の場に引き出したデアーク・フェレンツ指導下の自由主義者達は,1848年の諸成果の大部分を再び回復することに成功した.彼らが譲歩したのは,事実上,国家の独立性の点だけであった.
 1867年のいわゆる
『妥協(Kiegyezes)』
 はこうしてもたらされ,この体制がハプスブルグ帝国最後の数十年間における枠組みを決定した.

 この結果ハプスブルグ帝国は,同ランクの2首都(ウィーンとブダペシュト)を有する二極構造の二重制国家連合に変わった.
 フランツ・ヨーゼフは,戴冠式をマーチャーシュ教会で行なった.
 各首都には帝国構成国(オーストリアとハンガリー)各々の議会が置かれ,統治者は,ウィーンで採択された法律には皇帝として,ブダペシュトで採択された法律には王として署名した.
 法律は二つの別々の政府によって執行された.
 ただし,外交と国防が共同であり続けた他,もちろん経済の基本的土台(関税,通貨,経済秩序)も共同であった.

 コッシュートは,なおもハンガリーの独立および市民的自由という,彼の理想を辛抱強く運動し続けながら,アメリカ,英国)およびイタリアで人生の残りの45年を過ごし,追放者のまま亡くなったのだった.

 【参考ページ】
http://www.europe-z.com/tabi/hu199605/h06.html
http://www2.gol.com/users/huembtio/intro/intro_4.htm
http://hungaria.org/projects.php?projectid=7



 【質問】
 ハンガリーとハプスブルク家との確執は,いつ頃からなのか?

 【回答】
 これは古くからあり,トルコによるハンガリー占領時代には対トルコ戦略を巡って,ハプスブルグ支配地域とエルデーイ(トランシルヴァニア)公国が対立した他,1707-1711年にはラコーツィ・フィレンツ2世の軍が,ハンガリーにおける王位回復を目指すハプスブルク軍と戦っている.
「600人以上の少女を殺し,処女の生血の風呂に入った」
と伝えられる「血の伯爵夫人」エリザベート・バートリにしても,最近の推測では,彼女の密かな反ハプスブルク,親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる.

 『ハンガリー大百科事典』(アカデミー出版,1994)には,バートリ・エルジェベト(エリザベート)は以下のように紹介されている.

 エチェディ=バートリ・エルジェーベト (ecsedi Bathori Erzsebet).
 1560年,サボルチ県 (Szabolcs varmegye) ニールバートル郡 (nyirbatorijaras) ニールバートル村 (Nyirbator ) 生れ,
 1614年8月21日,ニトラ県 (Nyitra varmegye) ヴァーグーイヘイ郡 (vagujhelyijaras) チェイテ村 (Csejte) [現在スロヴァキア共和国東スロヴァキア道 (Zapadoslovensky kraj) トレンチーン郡 (Tren inokres) チャフティツェ村 ( achtice)]没.

 エチェディ=バートリ・ジェルジュ (ecsedi Bathori Gyorgy)(1571年以降生) とショムヨーイ=バートリ・アンナ (somlyoi Bathori Anna) の娘.バートリ・イシュトヴァーン (Bathori Istvan) (1555~1605)の妹,ナーダジュディ・フェレンツ (Nadasdy Ferenc) (1555~1604) の妻 (1575年より).

 結婚により5人の子供(2男3女)を生む.
 娘のアンナ (NadasdyAnna) は高名な詩人のズリーニ・ミクローシュ (Zrinyi Miklos)の叔父のザラ県知事ズリーニ・ミクローシュ (Zrinyi Miklos)の妻となる.
 娘のカタリン (Nadasdy Katalin) はホモンナイ=ドルゲト・ジェルジュ (Homonnai Drugeth Gyorgy) の妻となる.
 バートリ・エルジェーベトは早く夫を亡くし,その後未亡人として城と数百ホルドの領地を含む荘園を管理し (1 hold=1,600ネージセゲル=約0.57 ha),外国を渡り歩く学生らの援助をした.

 一部の資料によれば1609年にベンデ・ラースロー (Bende Laszlo)という名前の貴族との再婚を望んだが,彼女の遺産の自分らの取り分を心配する親戚らによって妨害されたという.
 この時から彼女に対する中傷誹謗攻撃が始まる.
 従兄弟のバートリ・ガーボル (Bathori Gabor) が,彼を失脚させようと謀るウィーン宮廷の一部の勢力との対立を深め,対ハンガリー戦の準備を進めていた1610年12月30日に,バートリ・エルジェーベトは,彼女がチェイテの城で農奴の若い娘らを拷問に掛け,一部の者を殺害せしめたという容疑で逮捕された.
 裁判の記録によれば彼女は精神に異常をきたし,それらの殺人を行なったということになっている.

 これらの告訴を最初に考え出したのは副王トゥルゾー・ジェルジュ (Thurzo Gyorgy) であった.
 1611年1月にトゥルゾー副王が裁判長を務める裁判所は彼女の無実を証明しようとした従僕を断頭の刑に処し,2人の女中を焚刑に処し,バートリ・エルジェーベト本人はチェイテの居城に幽閉した.
 彼女は貴族世論や国王の支持を取り付けて再審を求めたが,副王はこれに抵抗した.
 バートリ・エルジェーベトはほどなく不可解な状況の下で死亡した.

 その後伝説は彼女を血で湯浴みをする怪物として描くようになった.
 しかし最近の推測では遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は政治的な理由による思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり,彼女の密かな反ハプスブルク,親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる.
 彼女が犯したとされている犯罪のうち,確実に彼女の犯行だと証明されたものは1件もない.

 彼女を描いた有名な文学作品には
ファーイ・アンドラーシュ著『2人のバートリ・エルジェーベト』(Fay Andras: A ket Bathori Erzsebet) (1827),
シュプカ・G著『呪われた女 (Supka G.: Az atkozott asszony) (1941)
などがある.

 参考文献:
 レクサ・D『バートリ・エルジェーベト』(Rexa D.: Bathori Erzsebet)(1908),
 ナジ・L『悪名高きバートリ一族』(Nagy L.: A rossz hirq Bathoryak)(1984),
 ペーテル・K『チェイテの女城主,バートリ・エルジェーベト』(Peter K.: A csejtei varurnQ) (1985),
 サーデツキ=カルドシュ・I『バートリ・エルジェーベトの真実(Szadeczky-Kardoss I.: Bathori Erzsebet igazsaga) (1994).

 [Magyar Nagylexikon, III. kot., Bah-Bij, Akademiai Kiado, Budapest, 1994]

しい坊 : 世界史板,2002/01/15
青文字:加筆改修部分

 エルジェベート・バートリの娘の嫁ぎ先を見ると,クロアチアの大貴族ズリーニ家があるんですが,こことナーダシュディ家は謀反の容疑で同じくクロアチアの大貴族フランコパン家ともども当主が処刑されています.

 トルコから国土を奪還して後のハプスブルグ家の旧来の,マジャール貴族への締め付けは相当なものだったようで,対トルコ戦の英雄であったズリーニ・ミクラーシュ(シゲトヴァールで玉砕戦をやった人の孫,優秀な軍人で詩人)が首謀者となった独立運動が起きます.
 不幸にしてミクラーシュは狩猟中の事故で死亡(手負いの猪に襲われた)し,弟のペーテルが後を継ぎますが,発覚し処刑されてしまいます.
 ペーテルの娘がラコーツィ・フィレンツ1世の妻で,後にクルツ軍(対ハプスブルク反乱軍)の将テケイ・イムレの妻になり,今はウクライナにあるムンカーチの城に立て篭もる女傑ズリーニ・イロナ.
 その子がやはり反乱軍の将となるラコーツィ・フイレンツ2世です.
 ハプスブルグ家から見ると反逆者の系譜という感じですね.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/01/14
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「バートリ家」について知っている方はいませんか?

 【質問】
 「バートリ家」について知っている方はいませんか?
 中欧の歴史を語るうえで欠かせない一族だそうですが,日本では吸血鬼女の「エリザベート・バートリ」しか知られていません.
 どなたか教えていただけませんか?

 【回答】
 イシュトヴァーン1世の娘婿で2代国王となるペーテル・オルセオロのところへ送り込んだグズとケレド(なんかドイツ人の名前とは思えないのですが・・・)の兄弟を家祖とする.
 子孫でクン・ラースローと呼ばれたラースロー4世の家臣ブリキウスが著しい戦功をたて,王からバートル(強者)という名を授かったのがバートリ家 Báthori-család の家名の起こり.

 ハンガリー史の表舞台に登場するのは,モハーチ戦以前の副王バートリ・イシュトヴァーン7世(ポーランド王になった同名の人物の祖父)からではないでしょうか.
 彼はハプスブルク家と関係を深め,援軍をドイツ帝国議会に乞いますが空しい努力に終わりました.
 そのうえ,対立するサポヤイ・ヤーノシュによって副王の座を追われました.
 モハーチ戦の後,彼はラヨシュ2世の未亡人マリアの側に立ち,ハプスブルク家のハンガリー王位獲得に貢献しました.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分

 7世の息子,バートリ・イシュトヴァーン8世は,ハンガリー王位についたサポヤイ・ヤーノシュの熱心な支持者となり,ハプスブルク家のフェルディナント1世の即位に反対.
 1529年にはトランシルヴァニアの総督(ヴォイヴォド)職についたが,1532年死去.


 その息子,バートリ・イシュトヴァーン9世(ポーランド名ステファン・バトーリ)は,神聖ローマ皇帝の下で外交官役を務め,1571年,ハンガリー王ヤーノシュ・ジグモンドの死後,三身分議会によってトランシルバニア公に選出される.
 しかし,ヤーノシュの後継者にはベーケーシ・ガーシュパールが就く取り決めがあったので,内戦勃発.
 9世はこれに勝利して,ベーケーシを国外に追放した.


 その後,ポーランド・リトアニア共和国で,国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さずに死去し,王位が空位となったことから,1573年,先王の妹で唯一の王位相続人であったアンナをポーランド王およびリトアニア大公に選出した上で,9世を彼女と結婚させることが決まる.
 1576年,9世はアンナと結婚して妻と同じくポーランド王およびリトアニア大公となっ
たので,トランシルバニア公位を兄のクリシュトーフにゆだねる.
 国王在位中はロシアのイヴァン4世と抗争,リヴォニアを確保した.
 1586年,フロドナ城で急死.

世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分

 バートリー・イシュトヴァーンのあと,バートリー・ジグモンド,アンドラーシュ,ガーボルと3人(ジグモンドは2回)のトランシルバニア公を出しています.
 残念ながら,この内,ジグモンドはトルコとの関係を切り捨ててハプスブルク家と同盟しましたが,国内は大混乱.
 嫌気がさした彼は国をハプスブルク家のルドルフ王に国を譲り渡そうとし,国内を大混乱に陥れ,しかも気が変わって復位したという困った御仁です.

 ガーボルはエルジェベートの同時代人ですが,この人もあまり有能な人物ではなく,最終的にトルコから戻ってきたベトレン・ガーボルに公位を追われた末,配下の手にかかって死亡しています.
 エルジェベートの事件の当時,ハプスブルク家側がガーボルを暗殺しようとした計画があったそうで,彼女の罪状もでっち上げではないかと言われているというのは,別項に書かれたとおりです.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分

バートリ家の紋
(wikipediaより)



 【質問】
 モンゴル語やトルコ語には「バガトル」(強者,勇者)という単語がありますが,ハンガリー語のバートルもこれと同じ起源の言葉ですか?
 ちなみにロシア語には「ボガトゥィリ」という単語がありますが.

 【回答】
 古トルコ借用語です.
 他に「海」を表す"tenger" 「斧」を表す"balta"等,古トルコ借用語はクマン人の言語から入ったものも含めると現在でも200語以上が使われています.
 オスマン・トルコ語からの借用語で現在使われているのは20-30語程度ですけれども.

 現存する資料でbatorの語が最初に現れるのは1138年ですので,やはりマジャル人のカルパチア盆地定住前の借用語だと考えて良いと思います.
 もっともマジャル人のヨーロッパ移住の際に,トルコ系部族も行動を共にしていますので,そちらからの借用である可能性もありますけれど.

 竹内先生のトルコ語辞典に,bahadir(iは点のないiですが)「英雄」はペルシア語起源であるとありますね.
 ハンガリーで出ている歴史・語源辞典のbatorの項の説明によると,この形のトルコ語の単語はトルコ語ではなく,モンゴル語からペルシア語に入り,そこからトルコ語に「帰って来た」語であるということです.
 トルコ語とモンゴル語に共通する語彙については,アルタイ語族説に従う人は「アルタイ祖語」に由来するものだと言うし,アルタイ語族説に否定的な人はトルコ語からモンゴル語に入ったと言いますね.
 上の語源辞典のbatorの項を書いた人も,後者の説に従っているわけです.

世界史板,2002/02/24
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ズリーニ・ミクローシュって誰?

 【回答】
 ズリーニ・ミクローシュ/ニコラ・ズリンスキ Zrínyi Miklós / Nikola Zrinski はニコラ・シュビッチ・ズリンスキの曾孫.
 1620.5.1,チャークトルニャ Csáktornya に生まれる.
 エステルゴム Esztergom の大司教,パーズマーニ・ペーテル Pázmány Péter の下でハンガリー語とハンガリー文学を学ぶ.
 1635~37年,オーストリアとイタリアに遊学し,そのバロック様式の影響を受ける.
 三十年戦争の最中であった1645年,モラビアに侵入したスウェーデン軍に対し,私兵を率いて戦い,捕虜2000を得る.
 皇帝フェルディナント三世からクロアチア人部隊の隊長に任じられた後,裕福なクロアチア人貴族の娘,エウゼビア・ドラシュコヴィッチ Eusebia Drašković と結婚するために帰国.
 1646年には,反オスマン闘争を開始.
 1647年,クロアチア総督に任命されるが,ウィーン宮廷と対立.
 ハプスブルク支配が反トルコ闘争を妨げていると考え,中央集権的王国を唱道し,オスマン朝の支配に対するハンガリー民族の闘争をよびかけていたためである.
 1661年,ウィーン宮廷の反対を押して対オスマン戦争に入り,1663‐64年にいくつもの勝利を収めた.
 1664.11.18,チャークトルニャにて死去.

 彼の曾祖父のオスマン帝国軍に対する戦いに題材を取った叙事詩『シゲトの危機』 Szigeti veszedelem (1645~46執筆,51発表) が有名で,ハンガリー叙事詩文学の祖といわれている.

 【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/ズリーニ
http://www.szelence.com/zrini/index.html
http://turul.info/magyarok/zrinyiahadvezereskolto
http://mult-kor.hu/zrinyi-miklos-tragikus-halala-vadkanbaleset-vagy-merenylet-20141118

ズリーニ・ミクローシュ肖像画
こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/22 20:00
を加筆改修

 狩猟中に猪に襲われて死去したそうです.

ギシュクラ in mixi,2016年04月17日


 【質問】
 ズリーニ・ペーテルって誰?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 ズリーニ・ペーテル Zrínyi Péter(クロアチア語読みではペタル・ズリンスキ Petar Zrinski)(1621~1671)は,ズリーニ・ミクローシュの弟.
 オスマン帝国との戦いにおける歴戦の将.
 また,語学にも堪能であった.

 三十年戦争に従軍.
 1649年,スルニャ Slunja の戦いにおいてトルコ軍を敗走させる.
 1654年,オスマン帝国軍とヴェネチア同盟軍との戦闘に従軍.
 墺土戦争(1663-1664)では,兄ミクローシュと共に,ズリーニウイヴァール Zrínyiújvár 包囲戦においてオスマン軍と戦う.
 1664年,神聖ローマ皇帝・レオポルド一世とオスマン帝国との間に和議が結ばれたため,ハンガリーからオスマン勢力を駆逐できなかったことに失望し,クロアチア人貴族とハンガリー人貴族から成る陰謀グループに入る.
 このグループは,オスマンやハプスブルクを含む外国勢力を,「聖イシュトバーンの地」から排除することを目指した.
 彼らは目的を果たすため,外国勢力と結びつこうと動いた.
 フランス,スウェーデン,ポーランド=リトアニア,ヴェネチア,果てはオスマン帝国とさえ接触した.
 しかし,どの国もこの問題に介入しようとはしなかった.
(そら,そうだよなあ.こんなに節操がなくては…)
 1670年,クロアチア人部隊を率いて叛乱を起こそうとしたが,失敗.
 叛乱を煽動しただけに終わったが,しかし,ペーテルらは反ハプスブルクの陰謀を企んでいたとして逮捕された.
 逮捕された貴族たちは2000人に上った.
 1671年,義兄であり,また,同志でもあったフラン・クルスト・フランコパンらと共に処刑された.

 【参考ページ】
柴宜弘・石田信一編著『クロアチアを知るための60章』(明石書店,2013年),p.51
https://en.wikipedia.org/wiki/Petar_Zrinski
http://mk-vitez.com/index.php/hr/petar-zrinski
http://www.kkzrinski.de/hr/zrinski.php
http://proleksis.lzmk.hr/51109/

ズリーニ・ペーテル肖像画
こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/25 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ズリーニ・イロナって誰?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 ズリーニ・イロナ Zrínyi Ilona (クロアチア語ではイェレナ・ズリンスカ Jelena Zrinska)(1643~1703)は,ズリーニ・ペーテルの娘.
 ということは,あの「血の伯爵夫人」 バートリ・エルジェーベト Báthory Erzsébet の曾孫に当たる.
ズリーニ家家系図|wikipedia
 母親はクロアチア人貴族フランコパン家の娘であり,詩人のカタリナ.

 1666.3.1,ラーコーツィ・フェレンツ Rákóczi Ferenc 一世と結婚.
 しかし1670年,フェレンツは義父ズリーニ・ペーテルらによる反ハプスブルクのヴェッシェレーニ陰謀に加わって逮捕さる.
 彼は30万フォリント及び幾つかの城を皇帝に献上して保釈されたが,1676年,次男ラーコーツィ二世が生まれた数ヵ月後に死去.
 1682年,イロナは反ハプスブルク蜂起の指導者テケイ・イムレ Thököly Imre と再婚.
 だがしかし,テケイは,ハプスブルクのレオポルド一世と和平交渉を行っていたことから,オスマン帝国に支援を求めに行った際に逮捕さる.

 チャンス!とばかり,反乱勢力の最後の抵抗拠点,ムンカーチ Munkács の パラノク Palanok 城に Antonio Caraffa 将軍率いるハプスブルク軍が押し寄せる.
 城は包囲されたが,そこでハプスブルク軍はまさかの抵抗を受ける.
 イロナが指揮して1685–1688の3年間,城を守り通したのである.

 勇名を馳せたイロナだが1688年の降伏後,子供達と共にウィーンに移される.
 その後,テケイはハプスブルク軍の将軍を捕え,その将軍との捕虜交換で,イロナのみ夫のもとへ帰還.

 しかししかし,1699年,カルロヴィッツ条約によりハプスブルク帝国とオスマン帝国との和議が結ばれると,夫婦はオスマン帝国へ亡命.
 最初はガラタに,後にイズミットに住み,1703年,同地で死去.
 1705年には夫のテケイ・イムレも死去した.

 しかし3,イロナとラーコーツィ・フェレンツとの子,フェレンツ二世はウィーンからの脱出に成功.
 彼は18世紀初頭の反乱軍の将となったのである.

 こうして観るに,ズリーニの血族はハプスブルクにとって,常に癪の種であったと言えよう.

 【参考ページ】
http://www.slovakiaunderscope.com/ja/about/slovak-history/slovakia-18th-century/
http://www49.atwiki.jp/memotyors/pages/203.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Ilona_Zr%C3%ADnyi
http://www.tarnok.hu/Iskola/Iskola/uttoro/nevadonk/nevadonk.htm

【ぐんじさんぎょう】,2016/04/27 20:00
を加筆改修

 確か,テケイはイロナよりも相当に年下で,ラーコーツィ・フィレンツ二世は彼を相当に嫌っていたそうです.
 あと,フィレンツ二世は当初はハプスブルク家に忠実で,トカイ地方で農民反乱が起こった際に彼を担ぐ動きがあった際には,拒否しています.

ギシュクラ in mixi,2016年04月21日


 【質問】
 ペテーフィ・シャーンドルって誰?

 【回答】
 ペテーフィ・シャーンドル Petőfi Sándor(1823~1849)は,ハンガリーの著名な詩人.

 1838年のドナウ川の洪水,および親族の破産により一家は財産を失い,ペシュトの劇場の雑用係,教師,兵士などを経験する.
 1842年,初の詩集を出版.
 1844年に出版した詩集は,民俗的要素と伝統的な歌のような形式の詩により成功を収める.

 ハプスブルク家に対するハンガリー1848年革命の主要人物として活躍.
 ウィーン革命のニュースを聞いたペテーフィらは,文化人たちのたまり場だったカフェ「ピルバックス」に集合,「立て,マジャル人よ 祖国が呼んでいる」で始まる民族詩を書き,国立博物館前で
演説
 ハンガリーにおける革命の口火を切った.
 ちなみに
「ピルバックス」は今はホテルになっているが,食堂に革命当時の武器等が展示されている.

 そののち,ベム・ヨージェフ Bem József 将軍率いるトランシルヴァニア軍に加わり,ハプスブルク軍と戦うが,最期は1849.7.31,シェゲシュヴァール(現・シギショアラ)の戦いの最中に消息を絶った.
 トランシルバニアのシギショアラで戦闘終了後に撤収中,当時,ハプスブルク家を支援していたロシア軍のコサック騎兵に襲撃されて戦死したと言われてきた.
 だが,
ロシアの捕虜になってシベリアで死んだという新事実が出てきたとかいう話が出てきて,1989.7.16,シベリアにてシャーンドルの墓とされるものを発掘.(⇒more
 シャーンドルに結びつく可能性のある複数の遺体からDNAを取り出そうとして,一度は失敗した(⇒more)が,その後の調査により,ハンガリーに持ち帰られた問題の人骨が,99.2~99.9%の確率でペテーフィに間違いないとの結論を得たという.(⇒more

ギシュクラ・ヤーノシュ(黄文字部分)他 : 世界史板,2002/07/12~07/16
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベム・ヨージェフ Bem József 将軍とは?

 【回答】
 1794-1850.
 ポーランド生まれ.
 1848年の独立戦争で,コッシュートによりエルデーイ(トランシルヴァニア)のハンガリー軍の指揮官に任命される.
 当初,勝利をもたらしたが,49年,敗退し,トルコに亡命.
 彼の下で戦った国民詩人ペテーフィ・シャーンドル Petőfi Sándor (1823-49)は,彼のことを「ベム父さん」と謡っている.

 ブダのドナウ川添いのマルギット橋と鎖橋の間には,ベム・ヨージェフ広場があり,像が立っている.

(岩崎悦子訳注「ハンガリー短編集」2,大学書林,
1990/2/20,P.139-140脚注,抜粋要約)

 ブダペスト市内にある像は,負傷して片手を吊った状態で兵士を指揮している姿です.
 戦上手で「ベムの親父」と兵士に親しまれたといいます.

http://historicaltextarchive.com/sections.php?op=viewarticle&artid=522#bem
によれば,彼はタルヌフ出身なのですね.
 ポーランド出身ならばオーストリア側についても良さそうですが...特殊な事例なんでしょうかね.

(Josef Svejk ◆z4Op9cXCnM & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w
in 世界史板)


 【質問 kérdés】
 ハンガリー王立憲兵隊とは?
Mi az Magyar Királyi Csendőrség?

 【回答 válasz】
 1881.2.14,ハンガリー議会は,国土の90%を占める農村部の治安を維持するため,憲兵隊設立を制定した.
 1870年代末のハンガリー農村部は,恐慌のさなかにあった.
 まず1873年5月,ウィーンの取引所を発端とした経済恐慌が発生.
 加えて,ハンガリー産穀物の主な輸出先だったドイツやオーストリアへ,ロシア産やルーマニア産の穀物輸出が増加したことから,ハンガリー産穀物の価格が暴落.
 二重の恐慌がハンガリー農村部を襲った.

 人々は,食っていけなければ,食っていけそうなところを求めて移り住むか,食えるよう工夫するか,あるいは悪事に手を染めるしかない.
 ハンガリーから北米への移民が広がるのも,この頃である.
 また,農業の形態も変化し,ようやく三圃制をやめて,根菜を使った輪作が導入され,肥料の利用が広まり,農具や機械の革新が見られ,家畜の厩舎飼いが普及する.
 あとは治安を立て直さねばならぬ.
 それまではハプスブルク家の憲兵隊が治安維持に当たっていたが,彼らはオーストリア人やクロアチア人といった,要するに「よそ者」で,農民からは嫌われていた.
 1860年代までロージャ・シャーンドルらベチャール(義賊)が跋扈できた理由の一つに,ハプスブルク家の憲兵隊への悪感情があった.

 憲兵隊は内務省管轄だったが,隊員は国防軍の管轄下にあった.
 5人から15人の部隊からなる憲兵隊が,各地の田舎に散在.
 そして防犯や犯罪捜査,公安の任務に当たった.
 結果,軽犯罪と小規模犯罪の90%以上,主要犯罪のほぼ100%を解決したと称した.
 彼らはまた農村の生活の質を向上させることも期待されていた.
 彼らは積極的にスポーツに参加し(オリンピック出場選手も現れた),守備隊ごとに小さな図書館を開いた.

 第一次大戦が勃発すると,占領地域の後方警備が憲兵隊の任務となった.
 セルビアなどで警戒に当たった.
 やがて戦線が拡大し,イタリアが協商国側に立って参戦すると,憲兵隊の役割は増大した.
 捕虜の管理,難民の管理,物価統制逃れの取り締まり,その他いろいろ.
 その一方で戦地に召集されるため,憲兵隊は不足人員を予備役兵で補わねばならなかった.

 やがて第一次大戦が終わり,クン・ベーラの赤色革命が起きると,憲兵隊は赤軍の政治警察にとってかわられ,その何人かは人民裁判にかけられた.
 拷問や銃殺によって死ぬ者が幾人も出た.
 赤色革命が長く続かなかったのは幸いだった.

 第二次大戦が勃発すると,手続きに則り,憲兵隊は国防軍管轄となった.
 占領地後方警備のため,東部戦線にも出征し,同地でソ連軍のパルチザンと戦わねばならなかった.
 将校969人,隊員22,000人が戦地に召集され,生き残ったのは半分以下の将校,約360人,隊員,約10,000人だけだった.

 戦後,西側の捕虜収容所では憲兵隊を警備兵として使う一方,共産党政権は
「プロレタリアと農民に対する残忍な行為」
を理由として王立憲兵隊を廃止.
 年金も支給されず,そればかりか元隊員は迫害された.
 約5000人がラーコシ体制の下で死亡し,約3000人がソ連の強制収容所に送られ,約1500人が西側への亡命を余儀なくされる.
 ユダヤ人迫害に加担した容疑で,現在も追われている者もいる.

 憲兵隊が復活したのは,冷戦後の1991年のことである.

 【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012),p.76-79
南塚信吾『義賊伝説』(岩波新書,1996)
http://www.csendor.com/konyvtar/irasok/english/Royal Hungarian Gendarmerie - Kiss G.pdf
http://www.zmne.hu/aarms/docs/Volume7/Issue2/pdf/01kalm.pdf
https://kuruc.info/r/2/46624/

画像右が憲兵隊の一等軍曹
雌鶏の尾羽をかたどった羽飾り付きの帽子と飾緒を着けている
画像左はカルパソマーニョシュの一等兵
画像中央は衛生の予備役少尉

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

憲兵隊用山高帽 csendőr kalap
憲兵隊によって使用された
(ただし軍憲兵(MP)はボチカイ帽を被った)
1943年以降,憲兵隊は革のアイ・シェードつきのボチカイ帽を被っることになった
ただし鶏の尾羽の飾りは,どの帽子にもつけられた
こちらより引用)

王立憲兵隊の軍靴
左は歩兵用
右は騎兵用
(こちらより引用)

憲兵隊のタンケッテ部隊
第二次大戦中,第一線で通用しなくなったCV-35は一部,憲兵隊に配備された
(こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=kvWBwd1KtxE


 【質問 kérdés】
 カルパソマーニョシュって何?
Ki az karpaszományos ?

 【回答 válasz】
 karpaszományos は,高校卒業後に1年間の軍事訓練を受けることができる制度.
 兵役制度を補完することが目的で,予科練制度とでも訳すのが適切か.
 1882年に遡るもので,志願制.
 最初は訓練にかかる諸費用は自弁だったが,1889年になって兵士並みの給金が出るようになった.
 1909年からは,訓練終了後に下士官候補生 Hadapród Őrmester となって准尉コースへ行くことができるようになった.
▼ もちろん全員がそうではなく,准尉コースへ行くことが望ましいと思われ,かつ,本人にその気がある者の場合である.
 そのコースでは,1~2年で予備役准尉に,能力によっては予備役少尉に昇進できた.▲

 そうでない者,または訓練自体を受けていない者は,軍隊に入っても軍曹 Karpaszományos Őrmester 止まりとなった.
▼ カルパソマーニョシュは,通常の下士官よりも上級とされた.▲

 第一次大戦中はこの制度はÖnkéntes 志願制と呼ばれたが,トリアノン条約による軍備制限が課せられた後は,karpaszományos という外国人にとっては馴染みのないこの名称が,カモフラージュのために復活し,予備士官養成に役立った.

 【参考ページ】
http://nagyhaboru.blog.hu/2010/08/18/egyeves_onkentesek_es_a_karpaszomanyosok
http://live.warthunder.com/post/382872/en/
http://live.warthunder.com/post/403107/en/
http://emlek-mas.blogspot.com/2009/08/karpaszomany.html

カルパソマーニョシュの二等兵(右)
画像左は一等軍曹.工兵用オーバーオールと37.Mヘルメットを着用.
画像中央は大尉.伝統的なフッサール(軽騎兵)の衣装に似た制服を着ている.この制服は士官専用.
(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)

mixi, 2017.2.18
追記,2017.3.10

 【質問】
 第二次大戦後のハンガリーにおいて,どのようにして共産党は政権を奪ったの?

 【回答】
 簡単に言えば,連立政権の中に共産党を入れてしまったのが運の尽き.
 まあ,ソ連の有形無形の圧力の下では,抵抗するのは難しかったかもしれないが.

 1945.11.4の議会選挙では共産党は17%の票しか獲得できなかったが,事前の政党共闘協定に縛られて,共産党も与党入り.
 1946.2.1,第一党の小農業者党党首ティルディ・ゾルターン Tildy Zoltán が大統領に就任した際,共産党は策を弄し,ナジ・フェレンツ Nagy Ferenc が首相に選ばれるよう計らった.
 ナジは小農業者党だったが共産党に従順で,ナジ内閣では警察や調査機関,治安維持機構を支配する内相のポストが共産党の手に渡った.
 内相となったライク・ラースロー Rajk László は,秘密警察であるハンガリー国家警察・国家保衛部 Magyar Államrendőrség Államvédelmi Osztálya(ÁVO)を設立.
 共産党はこのポストを二度と手放そうとせず,官僚機構の粛清に乗り出す.
 一方で,共産党は右派で小農業者党書記長であるコヴァーチ・ベーラ Kovács Béla の追放を同党に求め,遂には1947.2.25,ソ連当局がコヴァーチを逮捕してしまう.
 容疑は「国家に対するクーデター容疑」.
 コヴァーチに近い右派は議員辞職を余儀なくされ,5月には「コヴァーチに対する尋問の結果,共和国に対する陰謀に加担していたことが分かった」としてナジが告発される.
 そのときナジは休暇でスイス滞在中だったが,そのままスイス亡命を余儀なくされる.
 この頃までには,大臣が共産党員ではない政府省庁では,職員は共産党の同意がなければ名目上の上司の指示には従わくなる.

 1947.8.31の議会選挙は,様々な不正や脅迫の下で行われたが,それでも共産党の得票率はやっと22.3%.
 すると今度は議会が1年間停会させられる.
 その間に他の政党を解散させ,あるいは粛清し,あるいは「ハンガリー勤労者党 Magyar Szocialista Munkáspárt」と名を変えた共産党との合同を強制させた.
 1948.7.30にはティルディが大統領辞任を迫られ,勤労者党のサカシチ・アールパード Szakasits Árpád が後任に座る.

 そして1949.5.15,第3回目の議会選挙が行われ,勤労者党が作成した単一の「政府候補者リスト」が,投票総数の95.6%の支持を得たと発表された.
 新議会は直ちにソ連をまねた憲法を採択.
 これによってハンガリーは公式に人民民主主義国と命名された.
 新憲法発効の日は1949.8.20,皮肉にもこの日は祝日「聖イシュトヴァーンの日」だったという.(-∧-)合掌・・・

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.156-160
https://hu.wikipedia.org/wiki/M%C3%A1sodik_magyar_k%C3%B6zt%C3%A1rsas%C3%A1g
https://hu.wikipedia.org/wiki/Kov%C3%A1cs_B%C3%A9la_(politikus,_1908%E2%80%931959)
https://hu.wikipedia.org/wiki/Magyar_Szocialista_Munk%C3%A1sp%C3%A1rt

mixi, 2016.6.5



 【反論】
三池嵐次郎 @パプカン綾瀬エリアチーフ
@miike_ranjiro
 与えたポストがまずかっただけじゃないか.
 共産アレルギーもたいがいにしろ.

2:15 - 2017年1月13日

 【再反論】
 果たして本当に「与えたポストがまずかっただけ」であろうか?
 元tweetのリンク先をよく読めば自明のことだが,ハンガリー共産党は与えられたものを最大限生かすと同時に,他党の共産シンパにも裏から手を回すということをやっている.
 したがって,たとえハンガリー共産党に与えられたのが内相ではなく,たとえば郵政相であったり鉄道相であったりしても,党利のためにポストを最大限生かすだろうし,裏からも手を回して権力拡大にひた走っただろう可能性が限りなく高い.
 最初が内相ポストであった場合に比べれば時間はかかるだろうが,内部侵蝕を共産党が自ら止める可能性がゼロに近い以上,連立解消以外で内部侵蝕を食い止める手段は無かったのである.

 ハンガリーは極端な例だが,他の東欧各国の共産党政権を見ても,殆どが「世論の支持を得られていない少数勢力」⇒「非合法 or 脱法的に政権奪取」という過程をたどっている.
 国民から大きな支持を受けて政権についた共産政権というのは,東欧ではチトー政権くらいだろう.
(そんなチトー政権でさえ,少なからぬ数の政治犯を刑務所に送っているのであるから,共産党というものの業は深いと思わざるを得ない)

 党利党略はどんな政党にもある.
 しかれども,行き過ぎた党利党略は国民からそっぽを向かれる.
 戦前日本の諸政党が国民の信頼を失ったのも,党利党略が行き過ぎたからである.

 普通ならば,党利党略の過ぎた党は,信頼を失って少数政党に転落して権力を失うか,そうなる前に改善しようという力が働く.
 ところが党首独裁制をとっている党は,改善努力には向かわない.

 それは党首批判と同義だからである.
 批判者は党首に睨まれ,最後は党外に追い出されることになる.
 共産党の歴史は,そうやって党から追放された党員の例に満ち満ちている――と,立花隆は述べている.

 かといって,少数政党に転落したからと言って,革命を標榜する政党が,性急な権力奪取を諦めるはずがなく,結果,非合法な手段での権力奪取に向かうことになる.

 東欧で起きたことはそういうことである.
 与えられたポストの良し悪しなどという些末な問題ではないのである.

 結局,共産党を他の普通の政党と同じと考えてはいけないのである.
 合法・非合法を平然と使い分けるような集団を政治団体を見るのが間違いであって,炭焼党のような秘密結社と,今も根は一緒なのである.

twitter, 2017.1.14


 【質問】
 ハンガリーの王制って,正式にはいつ廃止されたの?
 第1次大戦後は空位とされて,その後は?

 【回答】
 ハンガリー史の年表で見ると,1946年2月1日に共和国宣言が出されているので,この時にハンガリー王国が正式に無くなったのではないでしょうか.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/01/06
青文字:加筆改修部分

 法制上はギシュクラ・ヤーノシュさんが書かれている通りだと思いますが,ちょっと別な見方をすれば,ミンツェンティ枢機卿が死亡した時が,名実ともにハンガリー王国が消滅した時期だとも言えると思います.

 ハンガリーは“使途王国”という特権を持ったカトリック王国でした.
 通常はヨーロッパの国王は国王となるためには,ローマ法王の認証を得なければならなかったのです.
 しかし,使徒王国であったハンガリー王国の場合は,その特権により,国王をローマ法王の代理人であるハンガリーの主座大司教公(herceg prímás) が認証することができたのです.
 で,ハンガリーの主座大司教公はハンガリー国王が任命することができました.
 要するにハンガリー国内で互選制を取っていたのですね.

 で,戦後の新憲法でハンガリーは共和国となりましたが,ミンツェンティ枢機卿が存命中は教会法上彼がハンガリー国王を任命することができたわけです.
 しかし,彼は国王を任命することなく,亡くなってしまいました.
 ところが,ハンガリーにはもはや主座大司教公を任命する国王がいないので,主座大司教公を任命することもできなくなってしまったわけです.
 実際に,ミンツェンティ亡き後ヴァチカンが任命したハンガリーの主座大司教には,「公」の称号は付いておりませんでした.
 よってこれをもってハンガリー王国は歴史から消滅したと考えることもできるでしょう (^^).

 ちなみに,現在のハンガリーの王位継承権者は,現在ドイツ選出の欧州議員を務めているハプスブルグ・オットー(オットー・ハプスブルク)大公です.
 彼はハンガリーの国王になる意志はないようですが,もちろん,もしも必要とあれば,教会法がどうであれ,ハンガリーは新たに国王を選出することではありましょうけど.
(ま,現実の政治ってそんなもんです....)

 ただし,実はハンガリーが“使徒王国”であるという公文書はハンガリーにもヴァチカンにも残っていないのですよね.
(そういう具合に聞いています.)
 同様に,フニャディ・ヤーノシュがナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)の会戦でトルコ軍を打ち破ったことに対するキリスト教世界の感謝の印として,当時のローマ法王が勅令で,それ以降正午に鳴らす教会の鐘はハンガリーに対する感謝の意味とするとしたというのはハンガリーでは有名な話ですが,これも実はハンガリーにもヴァチカンにも(余りにも昔の話なので)公文書は残っていないのです.
 ですから,今ではヴァチカン当局は
「そんな昔の史料は残っていないので,本当のことは知らん (^◇^;)!」
とお茶を濁しているらしいですが....
 でも,多分,“使徒王国”に任じられたこととか,“教会の正午の鐘の由来”等はハンガリー人にとっては当時は非常に名誉だったはずで,だから忘れなかったと考えることの方が自然だと思います.
 ヴァチカンにしてみれば,いかに安上がりに報奨を与えるかということしか念頭になかったはずで,とっくにそんなことは忘れていて当然でしょう (^◇^;).

 もしも現在もハンガリーが王国であったならば,あるいは,今は共和国ですが,ハプスブルク家の末裔を招いて王国を復活しようとすれば(個人的にはハンガリーの国王がドイツ人のハプスブルク家になるというのはどうもねぇ...),現在ハンガリーに主座大司教公がいようがいまいが,きっと戴冠式を挙げることでしょう.
 しかし,もしも主座大司教公が存在していれば,きっと,伝統に則って主座大司教公が国王を叙任する儀式も行われたことでしょう.
 ま,慣習法というのは所詮その程度のものだと思います.

しい坊 : 世界史板,2002/01/14~01/15
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ライク・ラースローについて詳しい人いたら教えてください.
  経歴とか.
 参考文献などもあれば希望.

 【回答】
 ライク・ラースロー Rajk László (1909.3..8 - 1949.10.15)は,非合法時代からハンガリー共産党の党員だったという,根っからの共産主義者です.
 スペイン内戦にも参加し,政治委員となっています.
 1944.12,矢十字党に逮捕され,処刑されるところでしたが,実兄で矢十字党副書記長だったエンドレのとりなして減刑され,辛くも命をとりとめました.
 1946.3.20,内相に任命されると,秘密警察であるハンガリー国家警察・国家保衛部 Magyar Államrendőrség Államvédelmi Osztálya (ÁVO)を組織し,民主団体や宗教団体を弾圧しました.
 「自分がやられて嫌だったことを,他人にしてはいけません」とママに教わらなかった模様.
 しかし因果応報というべきか,スターリンとチトーとの対立の煽りを食らい,共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás によって「チトー主義者」のレッテルを貼られ,1949年に逮捕され,処刑されましたとさ.

 ライク・ラースローはスターリン主義時代のでっち上げ裁判の犠牲者で,ある種の英雄的な人物とみなされていますが,実態は,共産党が政権奪取した当時の内相であり,しかも確か強烈な反ユダや主義者でもあり,それ程誉められた人物ではなかったのではないかと思います.
 1956年のハンガリー動乱の責任を取らされて処刑された“正統政府”のナジ・イムレ首相と並んで悲劇のヒーローとされていますが,ナジ・イムレにしても,共産党の政権奪取当時は(『貧窮問答歌』を髣髴とさせる)徴発大臣として農民弾圧・収奪の責任者でしたから,彼もそんなに偉い人物ではなかったのではないかな.
 だいたい,国内が混乱する中でソ連によって事態収拾のために首相にされた人物でもありますからね.
 本来はモスクワ派だったのでしょう.
 チェコ事件の時のドゥプチェク書記長と同じで,本来は保守派だったのが,民衆の革命的動きをコントロールできなくなり,その内,自分もそれらに流され,事実の事後追認を続けているうちに,自分が革命の推進者だと思い込んでしまったことに悲劇があるのだと思います.
 単に2人とも,最終的には処刑されたことで,殉教者として英雄に祭り上げられただけではないのかしら.

 ライク・ラースローは無実の罪で処刑されたということで1956年以降は名誉回復されたわけで,その息子は1980年代ハンガリーを代表するサミスダットの出版に従事しておりました.
 サミスダットと言うと,過激な地下出版物というイメージが作られていますが,実際は,単に文部省の出版監理総局から定期刊行物としての登録をしていなかっただけで,中には「新しい定期購読者名簿」とか「販売場所」とがちゃんと公開されており,サミスダットという言葉を使ってしまうとイメージだけが先行してしまう恐れがあります.
 時々,ガサ入れをされて,嫌がらせをされていたようですが(編集部員が殴られたとかいう噂もありました),所詮はその程度で当局からは黙認されていたようです.
 やはりスターリン主義時代に不当に処刑されたライクの息子ということで,当局も手を出しにくかったのでしょうし,息子の方もそれを意識して利用していたようです.
 体制が転換してから,なぜか雨後の筍のように「共産主義時代には自分らは地下活動をしていた」と主張する人物やら団体らが登場してきましたが,実際は社会主義時代のハンガリーには地下活動と言えるものは存在していなかったと思います.
 (理由は地下に潜る必用がなかったからですが.)

しい坊 : 世界史板,2001/11/03
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ライク裁判って何?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 ハンガリー勤労者党(=共産党)の有力政治家ライク・ラースロー Rajk László が,1949年に「チトーと帝国主義のスパイ」として逮捕され,行われたデッチ上げ裁判.
 ハンガリー共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás は,党員に人気のあるライクが自分の権力の脅威になると見て,濡れ衣を着せて逮捕した.
 チトーとスターリンとの決別に前後して,東欧全体に広がった共産党内の分裂の一コマ.
 内相として秘密警察を使って非共産勢力を弾圧してきた,狂信的でさえある共産主義者のライクは,スターリン主義に反対するような人間ではなかったが,拷問を受け,告発されていることに対する責任を取れば釈放すると約束されたため,1949年9月,告発されていた全てを「自白」.
 しかし約束に反し,共に起訴された18人と共に死刑判決を受け,1949.10.15,絞首刑となった.

 しかも犠牲者はライクら19人にとどまらなかった.
 2000人の中堅共産党員が即決裁判で処刑され,15万人が投獄され,35万人が共産党から追放された.
 犠牲者の圧倒的多数は,戦時中の「国内地下派」,「西欧派」,スペイン内戦の歴戦の士,旧社会民主党員,そして軍の幹部だった.
 対するラーコシやゲレー・エルネー,ファルカシュ・ミハーイ,エーヴァイ・ヨージェフは,戦後直後にハンガリーに帰国してきた,いわゆる「モスクワ派」だった.
 彼らが5年間に殺した共産党員の数は,ホルティ時代の25年間に殺害された共産党員の数を超える.

 裁判以降,ハンガリーの治安・秘密警察内にソ連の顧問団が張り付くようになった.
 これを先例として,他の中・東欧各国の秘密警察内部にも逐次,ソ連顧問団が入り込み,当該国の政府や共産党を超えた権力として当該国の粛清を指揮することになったという…

 【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.209-211
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-76.pdf
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-75.pdf
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7612/1/48-3saito.pdf

【ぐんじさんぎょう】,2016/06/06 20:00
を加筆改修


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