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◆Spain スペイン
欧州FAQ目次


 【link】

「Slashdot」◆(2013/05/27) 重たすぎて浮上できないスペインの新潜水艦「S-81」
> スペインが建設費に6億8千万ドルもかけた総重量2,430トンの潜水艦であるが,75から100トンの重量超過のため,一度潜水すると浮上できないのだそうだ

SUR(South Spain News)

Tenerife News(スペイン)

「VOR」◆(2012/05/18) スペイン王妃 英国女王即位60周年昼食会出席を取り止め
>取り止めの理由として,英領ジブラルタルが暗礁海域の領有を求めた事と,記念日の祝賀にジブラルタル連隊の軍楽隊が招かれた事を挙げている.
>ジブラルタルは1713年のユトレヒト条約により英に譲渡され,1830年には英の海外領土の地位を獲得.
>1967年に行われた住民投票では英国市民権を保持する事に賛成しているが,そこには英の支援があったと言われており,このあとスペインはジブラルタルや英との関係を悪化させている.

「VOR」◆(2012/09/06)スペイン分裂の危機?
> スペインの小さな地方自治体サン・ペドロ・デ・トレリオが,「自由カタルーニャ領」の創設を宣言し,
>カタルーニャ自治州全土に支持を呼びかける.
> インターファックス通信が伝えた所では,分離主義者にとって躓きの石となっているのは自治州の
>公共空間,学術空間で使用が禁じられているカタルーニャ語だとしており,サン・ペドロ・デ・トレリオは
>分離宣言をした後,直ちにカタルーニャ語の使用制限を撤廃するよう議会に働きかけている.
> 地方自治体はカタルーニャ州議会に対し,民族独自の銀行,税務署,司法省,財務省の創設を提案.
>主権問題についてはサン・ペドロ・デ・トレリオは国民投票の実施を提案しており,スペイン政府に対する
>完全な独立宣言は,これから2ヶ月の間になされる見込み.

「VOR」◆(2012/11/26)スペイン・カタルーニャ州の選挙で分離独立派が勝利

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/22)スペイン  バスク,カタルーニャで強まる自立を求める動き

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/11/27)スペイン・カタルーニャ  州議会選挙で「独立派」が過半数 ただし,穏健独立派の州与党は大幅議席減

「中東の窓」◆(2013/03/12) 欧州への不法移民(スペインの飛び地問題)

「ワレYouTube発見セリ」◆Material del Ejercito Espanol (スペイン陸軍)

「ワレYouTube発見セリ」◆Spanish Army 2007

「ワレYouTube発見セリ」◆Team Aguila (スペイン空軍アクロバットチーム,アグラ)

『スペイン・ポルトガル史 新版世界各国史16』(立石博高編,山川出版社,2000.6)

 古代からの流れを押さえた上で,近代史に重点を置いて理解したいという人にお勧め.
 イベリア半島の文化的・思想的な土台から,近代の独裁体制や冷戦との関わり,民主化への動きとクーデターなどの動向と背景要素が,しっかり分かる.
 初めの章で,古代から現代までの概略が一気に語られ,その後の章から詳しい解説に入るので,全体像を把握した上で理解していける.
 図表や巻末資料など,データ面がやたら充実してるのもいい.
 保守とカトリックと体制が,ほぼイコールで結ばれる様になった経緯など,遥か昔の流れが近代まであと引きすぎてワロタ.
 こういうの読むと,日本の左翼的運動とか東大占拠とか,随分平和だったんだなと,改めて思うわ.
 70,80年代にクーデター問題が頻発して,国会に拳銃や軽機が持ち込まれる国は違うね.

――――――軍事板,2011/01/30(日)

 【質問】
 カスティーヤ語/ガリシア語とは?

 【回答】
 イベリア半島の北の果て,イスラームの手が及ばない場所に犇き合っていたのが,ロマンス系諸語とバスク語でした.
 カスティーヤ語はロマンス系諸語の中でも,柔軟性に富んだ言語でした.
 他のロマンス系諸語が,ラテン語の冒頭のf-をそのまま保っていたのに対し,カスティーヤの人々は,バスク語の影響を受けたのか,f-を実際には/h/と発音し,その発音はそれから弱くなり,完全に消滅してしまいました.
 こうして,小麦粉を意味するFarinaはharinaとなり,最初英語やドイツ語の様に発音されていたhは綴りのみとなり,現在では全く発音されていません.
 Hispano-Suizaも,「イスパノ・スイザ」です.
 この発音法は,リオハ地方で11世紀から見られ,ラテン語のf-は最早発音されていませんでした.

 この発音法は次第に広まっていきますが,文学では長い間f-は残っています.
 15世紀末にカスティーヤ語の最初の文法が,唯一の書き言葉の語形として,h-の語形を認めています.
 これは16世紀にf-もh-も用いないと言う風に変わりますが,後に15世紀末の状態に戻りました.
 現在ではサンタンデールとオビエドの間の小地方や,ポルトガルの国境からスペインの南西半分の一部で,/h/の昔の気音の痕跡が残されているに過ぎません.

 カスティーヤ語がレコンキスタに乗って広まり始めた時,11~13世紀の間に,カスティーヤ語はピレネ山脈の向こうの影響を受けました.
 それはサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の新しい道である「フランスの道」が出来て,フランス方面からの巡礼が容易になった為です.
 従来のピレネ山脈の山又山を越えるのと異なり,此路はロンスヴォーの峠を越えると,後は山を通らずに平地を通る様になります.
 この為,女子供でも巡礼が出来る様になり,この地にクリュニー女子修道院が建設され,そこではフランス語若しくはプロヴァンス語が用いられる様になります.
 こうしてカスティーヤ語は,フランス語の影響を大きく受ける事になります.
 更に,その後スペイン王とフランスの王女との婚姻もあり,中世を通してフランス語の影響はずっと続く様になりました.

 そんな柔軟な言葉であるカスティーヤ語でしたが,書き言葉としては出遅れました.
 アラゴン方言やナバラ方言で書かれた文献が,10世紀のラテン語テクストの注釈,アラゴン方言は,リオハ地方のサン・ミリャン・デ・ラ・コゴーリャ修道院の『サン・ミヤンの註解』,ナバラ方言はブルゴス南東のシロス修道院の『シロス註解』であり,写本する修道士が,難解な語彙を各方言で説明しながら註解したものです.
 因みに,これにはバスク語版もあります.

 これに対し,カスティーヤ語の文献は11世紀の公証人のテクストであり,文学テクストは,1140年に書かれた『我がシッドの詩』で,これは14世紀の写本で残っているだけです.
 13世紀,賢王と言われたカスティーヤのアルフォンソ10世は,カスティーヤ語を文学言語の勝利者と認定し,これがカスティーヤノ・ドレチョ,即ち「正しいカスティーヤ語」と呼ばれ,抒情詩の言語になっていきます.
 しかし,15世紀までは抒情文学の世界を支配していたのはガリシア語でした.
 アルフォンソ10世自身も,散文にカスティーヤ語を優遇し,カスティーヤ語に優位を与えながらも,王自身はガリシア語で自分の詩作品を書くのを好んでいたりします.

 そのガリシア語は,最初の文献が1227年に書かれていましたが,13世紀から既に徐々にカスティーヤ語に浸食され始めました.
 但し,その後200年間の間,詩と抒情文学の言語として生き残っていました.
 そして,その言葉はポルトガルとその周辺地域だけで無く,スペイン,プロヴァンス,北部イタリアにその愛好者を生み出します.
 ところが,15世紀半ばから300年以上もの間,ガリシア語で書かれたあらゆる文献は消え,18世紀末頃には消滅寸前の言語となってしまいました.
 その後,中世詩研究を通じて社会の上層階層にガリシア語は見出され,19世紀に再び命を吹き返しました.

 20世紀に入ると不安定な時期もありましたが,ガリシア語は現在,イベリア半島北西部のポルトガルの上側にあるガリシア自治州で主に話されており,その他アストゥリアス,レオン,それに差モーラ地方の堺を接するいくつかの地域で話されています.
 1978年,スペイン憲法でガリシア語は再び息を吹き返し,カスティーヤ語と同じ権利に於て,ガリシア語をガリシア自治州の公用語と認めました.
 公式統計では,ガリシア自治州の住民の80%,凡そ250万人がガリシア語を話しています.
 実際に,サンティアゴ・デ・コンポステラ大学ではガリシア語が公用語であり,国営テレビは毎日ガリシア向けにガリシア語で特別番組を放映し,1985年7月25日からは,ガリシア・ラジオテレビ局が全面的にガリシア語で放送しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/06 23:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カタロニア語とは?

 【回答】
 スペインという国には,ガリシア語よりも多くの使用者を持つ言語があります.
 それがカタロニア語です.
 カタロニア語の起源は,マルカ・ヒスパニカ(スペイン辺境領)の言語であり,元々,この地方はフランスのルシヨン地方を含み,イスラームスペインとフランク王国の間に位置していました.
 この言語は,厳密な意味でのカタロニア君主国,これはバルセロナ,ジロナ,タラゴナ,リィエイダの4県から成っていますが,それを越えて,バレンシア地方,アンドラ公国,バレアレス諸島,更に1659年にフランスに併合されたピレネ=オリアンタル県の殆どを占めるルシヨンを含んだ地域で話され,またサルディーニャ島のアルゲーロは言語的にはカタロニア語に属しています.

 カタロニア語もレコンキスタにより,海岸に沿って南に非常に早い時期に広がり,アリカンテに達しました.
 バレアレス諸島は13世紀からカタロニア語が根付き,14世紀からサルディーニャ島のアルゲーロの近くに植民地を維持していました.

 最も古いカタロニア語の文献は1171年ですが,文学言語としてのカタロニア語は,13世紀ラモン・リュリの作品によって残されています.

 現在,カタロニア語は450万人に依って話されており,1975年にはカタロニア地方の公用語となりました.
 今日,地中海岸にはカスティーヤ語の進出が目覚ましく,バレンシア地方,特にアリカンテや他の海浜リゾート地が浸食されてきていますが,バルセロナを中心にカタロニアは普及し,バルセロナ南部のタラゴサ地方では70%がカタロニア語を話し,バルセロナの北では80%に達しています.

 なお,カタロニアでは,アンドラの西にバスク語起源の名称を持つ,アラン渓谷という飛地的な場所があります.
 此処では,カタロニア語もバスク語も話されておらず,ガスコーニュ語の変種であるオック語の方言アラン語が話されています.
 このアラン語は,1990年6月28日にカタロニア語とカスティーヤ語と共にアラン渓谷の公用語となりました.

 フランスのカタロニア語は,ピレネ=オリアンタル県で話す人が最も多く,他にアルゲーロに点在しています.
 ピレネ=オリアンタル県のそれは,15世紀末にカタロニアがカスティーヤに併合された後もずっと維持され,フランス語がこの地に影響を及ぼすのは19世紀に入ってからです.
 この頃,つまり19世紀には子供達の4分の1は未だカタロニア語を話していました.
 しかし,20世紀後半になると,北アフリカからの引揚者やロワール川北部の年金生活者達がこの地に移住してきた関係で,フランス語化の歩みは早まり,現在のところ,この地域のカタロニア語は,田舎の老人達の言語として残るに過ぎなくなりつつあります.

 但し,この言語を初等教育から行おうという,明確な方向性も打ち出されており,1976年にBressola幼稚園がペルピニョンに設立されたのを皮切りに,1982年からペルピニョン大学では,カタロニア語の充実した教育課程を開設しています.
 それでも,フランス側のカタロニア語は,ピレネ山脈の反対側の充実ぶりと比べると,お寒い限りの状況です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/06 23:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 スペインの「地域諸語」とは?

 【回答】
 公用語の他に,スペインには地域諸語と呼ばれるものがあります.
 カスティーヤの西に位置した旧レオン王国にも,独自の言語がありましたが,中世が終わると次第にその使用範囲は狭められ,都市部では非常に早くからカスティーヤ化されてしまいます.
 この為,この地域で通用していた言語はレオン方言となり,サンタンデールの西,レオンの一部,カセレス地方の一部に見られます.
 サモーラとサラマンカ地方には,ポルトガル語を話す村があり,ポルトガルの中にあるミランダ・ド・ドーロ,リオドノール,グアドラミルの各地では,逆にレオン方言を話す村が存在しています.
 これに対し,旧レオン王国の中央部は完全にカスティーヤ化してしまい,僅かに語彙の残滓が残るに過ぎません.

 このレオン方言の特徴は,f-の存在で,例えば「小麦粉」を意味するのは,カスティーヤ語ではharinaですが,レオン方言ではfarinaとなり,f-が復活します.
 また,カスティーヤ地方に近い所では,子音は維持されましたが,「空豆」を意味するjabaと言う語の中での様に,実際に[h]の様に有音で発音されたり,カスティーヤ語のjotaの様に,アルファベットの無性軟口蓋摩擦音,つまり,喉の奥を息で擦る様にして出すハ行音と混同する位まで強められたりしています.

 カスティーヤの東には,アラゴン王国がありました.
 しかし,この地域もまたカスティーヤ語により浸食を受け,狭い地域にアラゴン方言として押し込められました.
 アラゴン王国は,レオン方言と共に,ラテン語の子音f-をずっと保ちました.
 そして,15世紀末,イザベル・デ・カスティーヤとフェルナンド・デ・アラゴンが結婚して2つの王国が1つに統合された時,同じ単語の発音が,アラゴンではf-で始まり,カスティーヤでは子音を抜いて母音で始まっていました.

 これについては,カトリックの王達の公式詩人であるペドロ・マルクェッロがウイキョウと言う植物に関して,こんな詩を残しています.

―――――――
Llamala Castilla ynojo
qu'es su letra de Ysabel
llamala Aragon fenojo
qu'es su letra de Fernando

「カスティーヤではイノッホと言う
イザベルが言っている様に
アラゴンではフェノッホと言う
フェルナンドが言っている様に」
―――――――

 結局,この両者の争いは,カスティーヤ語が制し,宮廷ではカスティーヤ語が用いられていく様になりました.
 結婚5年後には,フェルナンド自身が恐らく既にイザベルの話し方,書き方を採用する事を選んでいます.
 実際,彼の父親への手紙の中で,f-無しで書かれた言葉を用いているのが見て取れ,徐々にカスティーヤ語に染まっているのが判ります.
 ただ,完全にカスティーヤに染まる事に躊躇いがあったのか,フェルナンドは手紙の最後に必ず,obediente fijo(従順なる息子)と言うアラゴン方言を必ず入れて,自分のサインをする様にしていました.

 スペイン南部にはアンダルシア方言があります.
 この方言の成立は,他の方言とは異なり,中世から近世に掛けて作られたものです.
 北からやって来た人々が再び居住し,モサラベのアンダルシアは13~16世紀にかけてレオン・カスティーヤ王国の影響を受けます.
 しかし,アンダルシアには独自の文化があり,カスティーヤ語をそのまま受容れる事はありませんでした.
 特に,アンダルシア方言には,カスティーヤ語と異なり,「夕食」を意味するcenaや「焼く」あるいは「煮る」を意味するcocerなどのcと,「血」を意味するsangreや「縫う」を意味するcoserのsの発音が混同して行われている事です.
 因みに,カスティーヤ語ではcは英語のthと同じ発音をします.
 即ち,ウエルバ,セビリア,コルドバでは,ce,ci,zをs[s]で発音し,アンダルシア南部全域では,sonをz[th]で発音する訳です.

 このアンダルシア方言は,15世紀に征服が終わったカナリア諸島にも広がり,また,スペイン系ラテンアメリカの多くの語彙にも取入れられています.
 と言うのも,多くの場合,遠征隊が出発したのはアンダルシアの港からだったからです.

 時に1492年と言えば,世界史的にはクリストファロ・コロンボが米国を発見した年であり,スペイン語が新世界に進出した年です.
 しかしスペイン的には,1492年という年は,アンダルシア人アントニオ・デ・ネブリーハによるカスティーヤ語の最初の文法書が出版された年であり,これはカスティーヤ語がスペインの言語として定着した年とも言えます.
 また,グラナダ陥落の年であり,イザベル女王によるユダヤ人追放の年でもあります.

 1492年3月31日,イザベル女王はユダヤ人達に改宗するか,それとも4ヶ月後に国から出て行くかの二者択一を迫りました.
 これにより約20万人と言われる通訳,医者,資本家,職人,それに農民でさえもこの国から出て行き,彼らは地中海の周辺,ギリシャ,トルコ,シリア,エジプトにまで移住し,自分たちとともに話していた言語をその地に持ち込みました.
 その結果,ユダヤ・スペイン語は後に述べる様なスペイン語の大変革に影響される事無く,15世紀末のカスティーヤ語の状態で,ヘブライ語,アラビア語,イタリア語,トルコ語,1870年には更にフランス語の影響を受けていきました.
 アラビア語の影響を受けて,モロッコではhaketiya,オラネではtitiauniと呼ばれ,19世紀に再びカスティーヤ語化されます.
 また,レパントではdjudezmoと呼ばれました.

 一方で,ラディン語と言うものもありました.
 こちらはヘブライ語の聖書テクストを,カスティーヤ語に翻訳する為に,ラビ達によって用いられていた,一種の直訳的言語であり,文語であって話し言葉ではありません.

 スペインから追放されたユダヤ人達は,イタリアで最も歓迎されました.
 ヴェネツィア,ローマ,ナポリも勿論,特にリヴォルノやフェラーラで歓迎されました.
 ユダヤ・スペイン語で初めての『聖書』翻訳は,1553年のフェラーラで行われたものです.
 当時,オスマン・トルコに属していたサロニカでは,ユダヤ人がある時期に人口の半分以上を構成し,30のシナゴーグが存在していました.
 これらのシナゴーグは,今となっては影も形もありません.
 第2次世界大戦の変化の中で,殆どが消滅した為です.

 現在,ユダヤ・スペイン語はほんの僅かな2言語併用者によって,欧州のいくつかの国,イスラエル,そしてニューヨークの少数の人達によって,何とか生き延びているに過ぎません.

 ところで,レコンキスタが終わり,戦乱に明け暮れた社会が落ち着いてくると,17世紀初頭に,カスティーヤ語は劇的な変化を遂げます.
 15世紀末の段階では,いくつかの子音が舌の先の[s]とか[z]が用いられていたり,[ts]や[dz],それにフランス語のchから取入れた発音の[∫]や,[Z][dZ]と言う様に,子音には6つの発音がありました.
 それが,舌の先の[z]が舌の先の[s]に統合され,[ts]や[dz]は歯と歯の間の[θ]に変化し,[∫]や,[Z][dZ]は喉の奥のホタjと呼ばれる[x]の都合3つの子音に移行したのです.
 それだけでなく,新しい文法では,ラテン語の総てのf-は規則的にh-に置き換えられ,bとvの区別は殆ど付かなくなりました.
 これは,この安定の時代に武官が衰退し,逆に商家や文官が伸張してきた事によるものと説明されています.

 今までのカスティーヤ語は,王家の言葉として記録されていたのが,新しい階級の台頭により,庶民の言葉が記録に入ってきた訳です.
 以前は粗野と見做されていた言葉は,新しい地位を獲得し,1630年頃には推奨される唯一の発音として認められていく様になります.

 この頃のスペインは,正に黄金時代を謳歌していました.
 フランスやイタリアではロペ・デ・ベガの劇が上演され,洗練された社会階層ではカスティーヤ語が学ばれ,スペイン語の語法が欧州諸言語の中にどっと流れ込んできています.
 例えば,フランス語の綴り記号であるセディーユは,その名前をスペイン語の綴りから借用しています.
 こうして,欧州でもスペイン語は言語的征服を始めた訳です.

 当時,シャルル・カン,つまりカール5世は,こんな事を話しています.
 「ご婦人方にはイタリア語で,殿方にはフランス語で,神様にはスペイン語で話しかけるのが好きだ」と言っていた.
 まぁ,バリエーションがあるので本当に彼がそう言ったのかは判りませんが.

 この16世紀と言う世紀は,宮廷がバリャドリードからマドリードに移った頃です.
 1560年に地方の一寒村だったマドリードは,あっという間にスペイン王国の王都となり,人口が急増していきました.
 この地に住んだ人々の多くは,北からやって来た人々で,従来の言葉は駆逐され,カスティーヤ語が通用する様になりました.

 1605年,セルバンテスは,有名な『ドン・キホーテ』を執筆します.
 この時,セルバンテスのドン・キホーテは,Don Quixoteと表していました.
 当時はまだ,ホタjota/x/が一般的では無かったので,従来の言語体系で書いた訳です.
 これはフランス語でch(シュ)と発音されていましたから,フランス語ではQuichotte(キショット),イタリア語でも同じ発音ながら,Chisciottoとなっています.
 スペイン王立アカデミーがホタの使用を明示したのは,1815年のOrtogarafia(綴り字法)の第8版からです.
 これ以後,xをjに置き換える事が指示され,Mexico(メキシコ)は,Mejicoになり,QuixoteもQuijoteに代えられました.

 現在,スペイン語と呼ばれる言語は,スペイン,バレアレス諸島,カナリア諸島と,メリリャやセウタの様なアフリカにあるスペインの飛地の合計4,000万人,そして,中南米を中心に21カ国の公用語として用いられ,合計2億6,000万人以上の人が話しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/07 22:50
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モサラベ語とは?

 【回答】
 711年にイベリア半島に上陸したアラブ人により,殆どの地域はその勢力下に入り,この地域はアラビア語とロマンス語の2言語併用地域になります.

 そしてロマンス語は,モサラベ語と言われる言葉へと変化していきます.
 モサラベとは,アラビア語で「アラブ人に支配された」を意味する過去分詞を適用したもので,モサラベ教徒と言うのは,キリスト教徒でありながらも,アラブ人に支配された地域に暮らしていた人々の事を指します.
 アラビア語が,行政と文化の言語であるのに対し,モサラベ語は古風な語形のまま,専ら話し言葉の中で用いられていました.
 民衆の話し言葉だった事から,モサラベ語に関する如何なる資料も現在では存在していません.
 と言うのは,レコンキスタにより,キリスト教徒の勢力が増してくると,彼らは再キリスト教化された地方に移住したり,意識的にモサラベ語を放棄する事により,カスティーリャ語に置き換えられていった為です.
 手に入れられる情報は,ラテンアラビア語の語彙集などイスラーム起源のものでしかなく,しかもそのアラビア語は,ラテン語から派生した母音と幾つかの子音の表現に,旨く順応しなかったので,不完全な再現しか出来ませんでした.

 現在,モサラベ語の痕跡は,ポルトガル領にあるドーロ川の北に位置しているミランダ・ド・ドーロ地方のみに,僅かに残っているに過ぎません.

 これに対し,アラビア語起源の地名は,スペインに於て1,500以上あります.
 有名な地名としてGuadalajaraは,「水の流れ」を意味するwadと「石」を意味するhajarの合成地名で,タヘ川の近くである都市である事から,「石の川」を意味する都市名にされたものです.
 英国領土であるGibraltarは,711年にスペインに上陸したアラブ人の羊飼いの長タリクに因んだ,Djabal al-Tariqから来ています.
 Zaragozaは,ラテン語のCaesarea Augustaをアラビア語化したものです.
 ハイブリッド型は,例えばGuadalupeは,「狼の川」と言う意味ですが,これはアラビア語の「水の流れ」を意味するwadと,ラテン語の「狼」を意味するlupusから成っている言葉です.
 この他,スペイン語には地名を含め6,000に及ぶ語がアラビア語起源だったりします.

 アラビアの支配は,地域によっては800年と言う相当長い間行われました.
 コルドバには蔵書豊富な図書館,ギリシャ哲学と同様に,インドから入ってきた数学を,アラブの学者が伝導する研究センター等が設置された事で,イスラム文化の中心になっていきます.
 この地では,アビセンナ,つまり,イブンシーナーやアベロエスなどの学者も活躍しています.
 レコンキスタが行われて,キリスト教徒により1085年にトレド,1118年にサラゴサが征服された時には,モサラベ教徒は既にその地でアラブ化しており,まだ大勢のアラブ人も住んでいました.
 12世紀にはライムンド司教が,トレドに翻訳家の学校を創設し,13世紀にはアルフォンソ賢明王が宮廷にキリスト教学者は勿論,アラブの言語と科学に精通したユダヤ人学者を招いています.
 特にユダヤ人学者達は,アラブの占領初期に,コルドバの総督達がアラビア語に訳させていたグレコ・ラテンの総ての学問を,再びアラビア語からカスティーヤ語に翻訳するのに貢献しています.

 ところで,現在のスペイン語の基礎になっているのはカスティーリャ語です.
 8世紀初頭のイベリア半島は,アラビア人の侵略を受けるまで,それぞれの地域がそれぞれの言語を有しており,10世紀の半ば頃までカスティーヤ語も半島の北部,レオンの東のカンタブリア山脈に棲息している得体の知れない口語方言でしかありませんでした.
 この語の起源は,ラテン語のCastellum,つまり「城砦」から来ており,その方言の性格を良く表しています.

 カスティーヤ王国は,その後,同盟と征服を繰返す事で次第に大きくなっていき,それと共にカスティーヤ語の使用地域が拡大していきます.
 レコンキスタによってイスラームが捨てた土地には,北からやって来た人々,つまりカスティーヤ語を受容れて解放されたモサラベ教徒が入植したのです.

 1212年にラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利した事で,レコンキスタの進捗は急変しました.
 北半分を回復するのに4世紀を要したのに対し,南部の大部分を回復するには,グラナダ周辺を除けば半世紀もかかりませんでした.
 そのグラナダも1492年に陥落し,800年に及ぶアラブ支配が終わりを告げたのです.

 余談ですが,711~1492年の間,スペインは3つの一神教の宗教を受容れました.
 こう言った歴史を経ている事から,スペイン語には宗教信者に関する用語が多くあります.
 キリスト教徒を表すのはCristianosですが,Mozarabesは先ほども触れた様にモサラベ教徒を表します.
 そして,Elchesは「背教者」を意味するアラビア語を語源としており,イスラームに改宗したキリスト教徒を指します.
 Morosがイスラームを表すのは有名ですが,Moriscosはキリスト教に改宗したイスラームを指し,Mudejaresはキリスト教徒の領地に暮らし,租税を支払って,彼ら自身の宗教に従って生活する事を許可されたイスラームを指します.
 ユダヤ教徒はJudiosとなりますが,Conversosはキリスト教に改宗したユダヤ教徒を指し,Marranosは軽蔑語で,ユダヤ教徒を指すと同時に,キリスト教に改宗しながらも彼ら自身の宗教を実戦し続けるイスラームを指します.
 この語は,「禁じられた」を意味するアラビア語から来ていて,元々は「豚」を意味しています.
 「豚」はユダヤ教徒にとってもイスラームにとっても,禁忌の食べ物だったからです.

 余談はさておき,イベリア半島の現在の言語分布は,レコンキスタの産物であると説明されています.
 即ち,中央部にはカスティーヤ語となった広大な領地があり,東にカタロニア語,西に南下してポルトガル語を生み出す事になるガリシア語の地域が拡大,発展してきました.
 そして,カスティーヤ語とガリシア語を繋ぐ方言であるレオン方言,カスティーヤ語とカタロニア語の間にあるアラゴン方言は共に,アラブ人の占領を一度も受けなかった地方で,これらの方言はラテン語から派生した方言の遺産です.
 これに対し,南部のアンダルシア方言は,カスティーヤ語の移入によって分化して生まれた言語です.
 この他,イベリア半島のどの言語にも属さない,非常に古い言語のバスク語があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/04 22:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 バスク語とは?

 【回答】
 バスク語と言うのはスペイン北部,イベリア半島の付け根にある地域で話されている言葉で,その言葉が通用する地域は,スペインが5分の4を,フランスが5分の1を占めています.
 この言語の起源は,謎のままで,長らくこの言語はイベリア人の最後の痕跡だと思われていました.
 言語学の観点から,ベルベル語の様なハム・セム諸語の比較,アメリカ・インディアン諸語との比較,果ては日本語やコーカサス諸語との比較を行ってみたのですが,最近の学説では,コーカサス諸語に近いと言う事が分ってきました.

 バスク語は,ありとあらゆる言語の侵入に抵抗しました.
 ガリア人がアクィタニアの土地に,幾つか橋頭堡を築いただけで終わっていますし,ケルト語,ローマ,ゲルマンの各民族の侵入にも孤高を保ちました.
 アラブ人はこの地にまで侵入する事は無く,その後主流となったカスティーヤ語やフランス語の圧力にも,持ち堪える事が出来ました.

 バスク人は,自らの言語をeuskara或いはeskuaraと呼んでいます.
 このバスク語は,スペインでは,ビスカヤ地方,アラバ地方,ギプスコア地方,ナバラ地方の一部,フランスではバイヨンヌ地域とオロロン地域の一部で話されています.
 また,バスク語は海外にも進出しています.
 19世紀から20世紀にかけて,南米や米国への集団移住の動きは,この地に出来たバスク語コミュニティを頼ってのもので,特に米国のネヴァダ州リノやカリフォルニアに彼らは進出していきました.

 バスク語はインド・ヨーロッパ語族が侵入するまで,その地域での主要言語の地位を占めていました.
 しかし,書かれたものは余りなく,初めて出て来たのは10世紀以降の文章であり地名です.
 バスク語で書かれた本が最初に出て来たのは,その歴史に比べると意外にも遅く,1545年に初めて著されたに過ぎません.

 現在のバスク語には,ラテン語法から多くのものを取入れています.
 例えば,8月はラテン語のAugustumが転じて,バスク語ではaboztuとなったものですし,平和はPacemから転じたbake,玉葱はCepullaから転じたkipula或いはtipula,風車や水車はRotaから転じたerrota,十字架はCruzから転じてgurutz,医者はギリシャ語起源のラテン語Archiaterから転じたatxetrerとなります.

 このバスク語,スペイン北部の極めて限られた場所でしか棲息していませんが,それでも幾つかの方言があります.
 この中で最も普及しているのが,Euskara batua,即ち「統一バスク語」と呼ばれるもので,このバスク語はフランス・バスク地方で一般的な標準言語であるナバラ・ラブール方言と,スペインで規範として最も好ましく思われているバスク語の表現形態である,ギプスコア方言の折衷案の産物です.
 因みに,スペインではビスカヤ方言が最も多くの話者を獲得していたりしますが,統一バスク語が標準語の地位を築きつつあります.
 しかし,18世紀までバスク語の文法は,フランスのフランス語の規則とスペインのカスティーヤ語の規則に従っていました.
 これが改められたのは非常に最近の事で,1919年に創設されたEskualtzaindia(バスク語アカデミー)が正書法を定めた事に始まります.

 euskaraは,東西170km,南北60kmの狭い区域に押し込められています.
 今日の使用者は,フランスで約8万人,スペインでは約40万人です.
 スペイン地域では,1975年にバスク語は公用語の地位に収まり,この地域では総ての水準で教育を広める為に,多くの努力が為されています.
 今日バスク語は,ビスカイヤ,ギプスコア,ナバラ,アラバ地方の一部で話されていますが,バスク語を話す人々の境界線は,地方の境界線と必ずしも一致していません.
 例えば,アラバ地方に位置するバスク自治共同体の首都ビトリア(バスク語ではGasteiz)では,何と16世紀以降からバスク語は話されていなかったりします.

 この地域の全人口260万人の内,バスク語を話している人々は先ほども触れたとおり約40万人です.
 1983年のバスク政府のアンケートに依れば,バスク自治共同体の3分の1の住民がバスク語を話す事が出来るとされています.
 この数字には,生まれながらにバスク語を話す人々が入っているのと同時に,学校でバスク語を学んだ人々も含まれています.
 また,2,000名のサンプル抽出による調査結果では,2言語併用者の割合は人口の4分の1に近付いているらしい事が判明しています.
 人口20万人以下の都市では,特に家族の中で住民達はバスク語を話し,店でもバスク語を話しています.
 教育面では,20世紀初頭からスペイン語と外国語の授業を除いて,総ての教育がバスク語で行われるikastolaと言われる私立学校が存在しており,1960年以降この学校の数は飛躍的に伸びている事も,話し手の創出に役立っていると言われています.

 フランスでのバスク語は,ピレネ=アトランティック県の西半分で話されており,スペインのバスク地域の約3分の1に相当します.
 スペインでは,バスク語は地域公用語の地位を得る事が出来ましたが,フランスではその様な地位を得ていません.
 但し,フランス側のバスク語は,農村の家庭で日常語として使われており,その継承が比較的順調に行っていると言われています.

 15歳以上の1,200名のサンプルに関して,1992年に行われたアンケートの結果から類推すると,「フランスのバスク」の地図に示されている地域で,237,000名の住民の内,実に55%がバスク語を話す事が出来るとされています.
 但し,地方差は勿論あり,バスク語を流暢に話す人々の大部分は,バス=ナヴァール地方,内ラブール地方,スール地方におり,これらの地方では,バスク語を話せない人々のパーセンテージが20%程度,つまり,不完全でも取り敢ず話せると言う人々が80%に達するのに対し,大西洋沿岸部は話せない人々のパーセンテージが60%弱で,取り敢ず話せる人々の数を上回っていて,そのパーセンテージが非常に低い値となっています.
 しかし,スペインのバスク地方でバスク語を話す人々の割合よりも,実は多いものとなっています.

 正に,「抵抗する言語」の面目躍如とべきものですが,あれだけ分離独立運動の激しいスペインのバスクに於て,バスク語が少数派であるというのも興味深いものがあります.
 逆に,少数派だからこそ,カスティーヤ語などへの埋没を恐れてテロに走るのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/05 22:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 歴史的に見た,イベリア半島の民族の興亡を教えられたし.

 【回答】
 欧州大陸の西の果てに,イベリア半島があります.
 実は,紀元前7世紀頃にケルト人がやって来る前まで,この地にどんな人々が住んでいたのか,実はよく判っていません.
 一応,アクィタニア人,イベリア人,タルテシア人と言う3つの民族が住んでいたのではないか,と考えられています.
 このうち,アクィタニア人の子孫であるバスク人のみが現在まで生き延びています.

 ユリウス・カエサルは,ガロンヌ,ピレネー,大西洋岸に至る地域,これは現在のガスコーニュ地方全域とフランスバスク地方の事ですが,この地域の全域に亘ってバスク人が居住していると言う事を正確に書き留めています.
 更に地名から遡っていくと,アクィタニアの地は現在のバスク地方の国境から遠くまで広がっているので,アクィタニア人は相当広範囲に居住していたと考えられます.
 例えば,ピレネーの地名の多くはバスク語が起源で,スペイン語でValle de Aran(アラン渓谷)と言う地名のAranはバスク語で渓谷を意味しているので,実際には「渓谷の渓谷」と言う意味を持っていたりします.

 イベリア人は謎の民族です.
 取り敢ず,紀元前5,000年紀頃,新石器時代に彼らが至る所に居住していた事だけは分っています.
 彼らは,イベリア碑文と呼ばれる1,000語以上の単語からなる石碑をベジエから地中海海岸に沿ってサラゴサ,そしてムルシアに至る地域に残しましたが,それらの碑文は未だ完全に解読されていません.

 タルテシア人は,グアダルキビル川の河口に住んでおり,紀元前500年頃にカルタゴ人によって絶滅させられるまで栄えていました.
 最近の仮説に依れば,エトルリア文明に関係があると考えられています.
 と言うのも,スペインの南部海岸とイタリアのトスカナ地方に実際に同一の地名や河川名があったりするからです.
 トスカナ地方には,紀元前8世紀からエトルリア文明が栄えていました.

 スペインの地中海岸には,他にカディスやマラガにフェニキア人が,カルタゴ人がカルタヘナ,マオン,イビサ島に定住していましたし,ギリシャ人はアンプリアスとアリカンテを小植民地にしていました.
 この内,マオン(Mahon)と言う都市はメノルカ島の町で,ハンニバルの兄弟で第2回ポエニ戦争の時に戦友でもあったMagonの名前をもじって作られたものと考えられています.
 余談ながら,リシュリュー公爵の軍隊が,英国人を追い払ってこの地を奪取した1756年に,リシュリュー公爵の料理人が卵とオイルと酢を混ぜた事により,この地で新しい調味料を完成させました.
 その調味料は,Mahonで生まれたのでmahonnaiseとなり,その後,mayonnaiseに転化したと言う説があったりします.

 この他,イベリア半島にはリグリア人も住んでいたと考えられています.
 これはリグリア方言の接尾辞である-ascoや-oscoが地名に鏤められている為です.
 但し,地名以外の確証は未だありません.

 このアクィタニア,イベリア,タルテシア人に代ってこの地に入り込んできたのが,英国の処でも出て来たケルト人です.
 彼らは,ガリアに定住する以前にヒスパニアまでやって来てアクィタニア人が占めていた地域の西にあるエブロ渓谷に居を定めましたが,そこで彼らはイベリア人と接触を持ちました.
 そして,イベリア人と恐らく混交し,ケルト・イベリア人になったのでは無いか,と言われています.
 ケルト・イベリア人はゴール語とは異なる古いケルト語を話しており,その痕跡は,多くの地名に残っています.

 その後に来たのがローマ人です.
 ローマ帝国によるヒスパニアの征服は紀元前218年,第2回ポエニ戦争の時にスキピオがアンプリアスに上陸して始まって以来200年続き,その中心はバエティカ地方と呼ばれた現在のアンダルシア地方で,その地域ではローマ化が急速に進みました.
 その首都であるコルドバは,紀元前169年以来パトリキと呼ばれる古代ローマ共和制の世襲貴族の植民地とされ,その周辺の住民は,次第に自らの言語を捨ててラテン語を学んでいきました.

 これとは逆に,北部の住民は激しく抵抗します.
 最も抵抗したのはバスク地方の住民達で,彼らはローマによる占領の圧力に屈せず,自らの言語を話し続けました.
 バスク人はバスク語を話さない者を,erdaldunと呼びました.
 最初のerdiは半分と言う意味なので,「半言語を話す者」と言う程度になります.
 これに対し,バスク語を話す者達は,euskaldunと呼んでいます.

 ただ,ヒスパニアがローマの支配下になったと言っても,この地は世界の果て,つまりローマ帝国の西の果てであり,他のローマ植民地との接触は殆どありませんでした.
 この為,ローマでも時代後れの語がヒスパニアでは生き延びたりしています.
 例えば,「大きい」を意味する言葉では,ローマ帝国の中心部ではGRANDISに代っていった時に,ヒスパニアでは昔ローマで使われていたMAGNUSと言う言葉が,未だ実用でしたし,現在でもスペイン語やポルトガル語では小麦の事をtrigoと呼んでいますが,これもラテン古語のTRITICUMが取入れられ,他の国ではFRUMENTUMに取って代わっているのに(例えばフランス語ではfroment,イタリア語ではfrumento),この地では古い言葉が現役で残っていたりします.
 この様に,現在のスペインやポルトガルでは,ラテン古語が語源の言葉が多く用いられています.

 ですから,キケロが,元老院でスペイン出身の雄弁家の演説を聴いていた時に,カルタゴ人の話すラテン語と同じ様に,イスパニア・ラテン語にも面食らう事になった訳です.

 とは言え,コルドバでは紀元前2世紀から紀元6世紀に至るまで,隆盛を誇るローマの街が作られていったのとは対照的に,西部や北部では,未だラテン語を知らない人々もいました.
 因みに,コルドバは詩人ルカヌス,歴史家の父とネロの家庭教師だった子のセネカ父子の出身地であり,五賢帝の1人に数えられるトラヤヌス帝は,セビリア近くのイタリカの出身です.

 ローマ人に続いて入ってきたのがゲルマン人です.
 アンダルシアにはバンダル族が,西にはスエビ族が,他の地域には西ゴート族が侵入して来ますが,この頃には地方の人々も大半がラテン化しています.
 バンダル族は,バエティカ地方に暫く留まった後,アフリカに渡ったので,この地域に殆ど影響を与えていません.
 ただ,彼らが通った痕跡をAndalusiaと言う地名に残しました.
 異説もありますが,これはPortu Wandalusiuから来ていると言う説があります.

 西ゴート王国は,バスク地方とスエビ人に占領されていたガリシア地方を除いて,現在のスペイン全土に及び,更にピレネー山脈を越えてナルボンヌにまで及んでいます.
 西ゴート族の支配は,409~711年の凡そ300年続き,制度や法律から叙事詩のインスピレーションに至るまで多大な影響を残しました.
 ただ,言語的には既に先住民も俗ラテン語やガリアから伝わった語彙に吸収されており,現在の言葉からその痕跡を見つけるのは難しくなっています.
 そして,589年に西ゴート人はキリスト教に改宗した事で,占領された人々と侵入者の間に平和と融和の時代が始まり,凡そ100年以上続きます.
 その間にトレド王国は芸術と文芸の隆盛期を迎え,特に文法と修辞学が研究されました.

 セビリア,サラゴサ,トレドの学校では,当時教育はイシドルス・デ・セビリアの様にこの時代の最も学識のある学者によって行われており,ローマの影響を脱して自国風の文化を創り出そうという機運に満ちていました.

 西ゴート語の影響は,多くの人名に残っています.
 Adolfoはadal(「高貴な」)とwulf(「狼」)の合成語,Alfonsoはall(「総て」)とfuns(「準備された」)の合成語と言った具合,他にもAlvaro,Argimiro,Fernando,Rodorigo,Rosendoなどが西ゴート起源です.
 一方で,日常語の影響はずっと少なくなっており,特に他国では圧倒されて消滅した色の名前ではゲルマン語を受容れませんでした.

 西ゴート王国が衰微すると,次にやって来たのが711年,ジブラルタル近くに上陸したアラブ人です.
 彼らは7年を経ずして国の北に位置する僅かな地方を除いて,ほぼ半島全域を支配下に置きました.
 因みに,その支配を逃れた僅かな地域が,後にレコンキスタが始まる抵抗勢力の拠点でした.
 一部の地域を除き,ロマンス語,アラビア語の2言語併用,後にロマンス語,スペインアラビア語,古典アラビア語の3言語併用となり,アラビア語は11世紀以降,国の大半で文化の言語となって行きます.
 そして,長年に渡ったアラビア人の支配により,ロマンス語も変質し,庶民はromanisum circa latinum(ラテン語によく似たロマンス語)と呼ばれるかなりアラビア語寄りの混血ロマンス語を話すようになっていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/03 23:18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「エル・シッド」って誰?
 3行以上で教えて!
Ki "El Cid"?
Kérem, mondja meg három vagy több sorban!

 【回答】
 「エル・シッド El Cid」ことロドリーゴ・ディアス・デ=ビバール Rodrigo Díaz de Vivar(1045?~1099)は,11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の英傑.
 サンチョ2世付きの小姓となって以降,サンチョ2世のカスティーリャ王国再統一戦争にて活躍.
 サンチョ2世が1072年に暗殺されると,弟アルフォンソ6世によってカスティーリャから追放されるが,バレンシアの征服に乗り出し,1094年にバレンシアをムスリムから奪回した.

 ある叙事詩によれば,死期を悟ったエル・シッドは自ら食を絶ち,死体を保存できるように準備をし,死後ミイラとなった.
 そのミイラは馬に乗せられ,ムラビト朝ムスリム勢との戦いにおいて,レコンキスタ勢の先頭に立った.
 軍の士気は大いに奮い,レコンキスタ勢は大勝したという.
 これぞ
「死せるエルシド,生けるムラビトを走らす」
 ま,逸話臭いが.

 【参考ページ】
リプレー『世界奇談集2』(河出文庫,1987),p.46
https://t.co/de4kJWPwHC
http://reasonable.sakura.ne.jp/history/bl/ElCid.html
https://kotobank.jp/word/エル・シッド

【ぐんじさんぎょう】,2016/07/26 20:00
を加筆改修


 【質問】
 セルバンテスとは?

 【回答】
 16世紀から17世紀にかけて生きたスペインの軍人で,ナポリにて入隊し,イタリア戦線に従軍.
 レパントの海戦(1571)”では,左手を火縄銃で負傷し,一生障害の残る“傷痍軍人”になった.
 その後,本国へと地中海を海路帰還の途中,イスラム系海賊(“バーバリー”)に拉致され,収容所で5年の歳月を過ごすが,正々堂々とした収容所生活を送り,収容所長(ハンガリー人ムスリム)からも一目おかれた.
 帰国後は,無敵艦隊の兵站担当として勤務するが,無敵艦隊壊滅で失職し,徴税吏となる.
 だが,税金を預けた銀行が破産し,背負った多額の負債が返せないところから,セビリアで投獄さる.
 この牢獄で着想を得えて,彼が執筆したのが『ドン・キホーテ』である.

 【参考ページ】
米田富彦 in 「軍事情報別冊(スペイン&ラテンアメリカ講座 (7))」,平成20年(2008年) 8月28日


 【質問】
 「セルバンテス協会」とは?

 【回答】
 同志社大学/京都外国語大学・スペイン語非常勤講師・米田富彦によれば,セルバンテス協会(Instituto de Cervantes インスティトゥート・デ・セルバンテス)とは,
ドイツの「ゲーテ・インスティトゥート(ゲーテ協会)」,
フランスの「アリアンス・フランセーズ」,
イギリスの「ブリティッシュ・カウンシル」,
イタリアの「ダンテ・アリギエリ協会」
と同じような,一国が海外に向けて自国を宣伝し,自国の言語と文化を理解して,そして愛してくれる人を創る“機関”.
 短波放送,映画などを通じ,一般の多数の人の頭脳に思考回路ならぬ嗜好回路を作り上げるところであるという.
 くわしくは「おきらく軍事研究会」,平成20年(2008年) 11月20日付を参照されたし.


 【質問】
 スペインはなぜイージス艦を導入しているのでしょうか?
 地政学的な視点からの回答を希望します.

 【回答】
 一つには単純に,ある程度以上の経済力を持つ国はどこも,広域防空ができる艦を導入しつつあるってのがある.
 スペインは実績にも優れるイージスを選択したと.

 地理的にというと,カナリア諸島,セウタ,メリリャなどの飛び地領土を保有するため.
 軽空母も持ってる.
 また,スペインは要衝ジブラルタル海峡(ジブラルタルは英領だけど・・・・・)を抱えているので,相応の海軍力を整備したい事情もあるようだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


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