c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ 本館サイト・マップへ
◆UK FAQ
<欧州FAQ・目次
「Blogs of War」◆(2013/05/16) IBM and BT to launch new UK cybersecurity apprenticeships
「D.B.E. 三二型」◆世界で一番小さな自称国家シーランド公国潜入
「Defense News」◆(2012/11/01)Hammond:
Budget Cuts Will Force Global Industry Restructuring
「Defense News」◆(2012/11/01)Hammond:
Keep Both Carriers in Royal Navy Service
「kojii.net」■(2012/03/06 06:30) イギリスを馬鹿にするなぁ
「MURAJIの戯れ言so-net blog版」◆(2010/06/04)名誉革命の見事さ
「Youtube」:新・英国旗 / New Union Flag
「VOR」◆(2012/10/16)スコットランドは独立に向けて
「国際インテリジェンス機密ファイル」◆(2012/11/15)加瀬英明『イギリス,衰亡しない伝統国家』を読み解く
「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/13)◆ Deal on new nuclear near, says Davey
| Telegraph
英国の原子力発電所,フランスと中国企業の参入が間近
「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/22)◆ UK signs nuclear power deal with China,
France | Al Jazeera
中国がフランスとともに,英国原発に資本参入,英国署名
「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/22)◆ UPDATE 1-英が仏電力公社と原発建設契約を締結,最低電力価格を35 ...|Reuters
「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/23)◆ China, France sign deal to construct
nuclear powerreactors in UK | Press TV
中国の原発企業は,英国原発開発で,フランスと協力協定を締結
「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/23)◆ nuclear power plant gets go-ahead | BBC
中国原発企業,英国政府が認可した原発プロジェクトに参入
「ロイター」◯(2012/10/28) 日立が英原発建設会社ホライズン買収へ,700億円規模
「ワールド&インテリジェンス」◆(2012/10/26) 英国王立防衛安全保障研究所JAPAN事務所
『SHIPS OF THE ROYAL NAVY』
『世界の艦船』の巻頭広告で,西山洋書が展示してたものを購入.
出版社変わって改訂版ですね.
内容,大して変わらないけど(当たり前),お値段的には円高もあって\8000程と割と手ごろ.
どうも向こうの出版事情はあまりよろしくないようで,ここ数年,おフネ絡みの出物が不作です.
今年うれしかったのは,他に『RUSSIAN WARSHIPS I THE AGE OF SAIL』,英国海軍のWWU建艦史を綴った『BUILDING FOR VICTORY』の3冊くらいですね.
――――――ゆうか ◆u8WC078ef5ch in 軍事板,2010/09/27(月)
青文字:加筆改修部分
『イギリス史』(川北稔編,山川出版社,1998.4)
『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』全11巻(ピーター・サルウェイ著,慶應義塾大学出版会 (2011/05〜)
『パクス・ブリタニカのイギリス外交』(君塚直隆著,有斐閣,2006.11)
『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』(指昭博編著,ミネルヴァ書房,2012/07/31)
『ヘブンズ・コマンド』(ジャン・モリス著)書評――大英帝国,絶頂期へかけあがる:「読み人」
【質問】
イギリスがフォークランドを手放さない理由を教えてください.
【回答】
マイミクのzyesutaさんのmixi日記で,興味深い記事が載せられました.
二つの島の明暗:zyesuta in mixi
〔日記が荒らされないよう,URL省略〕
この記事を見て思ったのは,何故イギリスがアルゼンチンに占領されたフォークランドを,海軍部隊がわざわざコンテナ船を徴用してまで取り返しに行ったのかという事です.
それは南極領有権問題が大きく関わっているのではないかと思うのです.
南極における領有権主張の一覧 - Wikipedia
南極は現在アルゼンチン,チリ,オーストラリア,ニュージーランド,イギリス,フランス,ノルウェーなどが領有権を主張していますが,1959年の南極条約により各国の領有権は凍結されています.
南極条約 - Wikipedia
ただし先占がなくても,一定の範囲で領域の取得を認めるとするセクター主義は,南極条約上では否定も肯定もされているわけでもないので,各国の領有権は決して放棄しているわけでもなく,凍結しているだけなのです.
さらに南極には,石油や天然ガスなど手つかずの資源が沢山眠っています.
となれば各国が,南極の基地や拠点を持って,いつでも領有する用意を作らねばなりません.
実際イギリスなどはその動きを強めています.
英,資源争奪戦に備え南極で領有権主張へ:中部経済新聞社
となれば,南極に近いフォークランドは,英本土と南極の英基地との重要な中間拠点としての機能を果たすのです.
さらにフォークランドの海域には,石油も出るのが調査でわかったので,英豪資源大手のBHP社がフォークランドで石油・ガス鉱区の40%を取得しました.
当然アルゼンチンは激怒,南極問題と絡んでまた緊張が走っています.
BHPがフォークランド諸島沖で権益取得,アルゼンチンは英に抗議へ:ロイター
これに対抗してアルゼンチンも,国民の何人かを選抜して南極で出産させるなど,南極への野望を強めています.
アルゼンチン領南極 - Wikipedia
再びフォークランドで戦火が吹く可能性も,決して否定出来ません.
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年07月06日19:43
【質問】
BAEシステムズって何?
【回答】
BAE Systems plcは,1999年に「ブリティッシュ・エアロスペース」と「マルコーニ・エレクトロニック・システムズ」が合併してできた,イギリスの防衛航空宇宙企業.
子会社を通じて航空機・軍用機・戦車・潜水艦などを製造しており,ユーロファイター・タイフーンの製造にも関与している.
軍事技術に深く関わっているため,株式は上場されてはいるものの,現在でも英政府が,買収拒否権のある「黄金株」を保有していると言われている.
2000年には反重力研究を開始しているあたり,ブリテン脳は同社でも健在.
【参考ページ】
http://kotobank.jp/word/BAE+Systems
http://apollodreamfactory.blog87.fc2.com/blog-entry-1434.html
http://www.baesystems.com/japan(公式サイト)
http://www.sjac.or.jp/common/pdf/kaihou/200702/070201.pdf
http://japan.irca.org/inform/issue29/60second.html
http://tt9119.blog63.fc2.com/blog-entry-67.html
http://journal.mycom.co.jp/column/defence_industry/014/index.html
http://www.astroarts.co.jp/news/2000/03/29bae/index-j.shtml
【ぐんじさんぎょう】,2011/05/31 20:00
を加筆改修
【質問】
英国警察の警察官は拳銃を携行するようになった,という話を聞きましたが,現在の拳銃の携行事情はどうなっているのでしょうか?
【回答】
http://en.wikipedia.org/wiki/British_police
のUse of Fire armsの章によると……
北アイルランド,空港,各施設と特殊業務以外では通常武装しない.
ロンドンの警官の7%が火器使用の訓練を受けている.
ただし,厳重に定められた規定が許すときしか携行できない.
迅速に対応できるよう,火器運搬車両がある.
しかし,銃器犯罪増加に対応して2000年から,武器を通常携行するパトロールが許可された.
2004年からテーザー(近距離で発射できるスタンガン)が導入されている.
しかし,巡査レベルに至る常時携行武器は,伸縮警棒と催涙ガススプレー.
また,
http://www.uknow.or.jp/be/s_topics/100faqs/qa12.htm
によれば,
Q.警察はどんなときに銃を携帯できるのですか?
A.通常,制服警官は暴力から自衛するために警棒を携帯しています.
イングランド,スコットランド,ウェールズでは,「公認拳銃所持警官」(Authorized Fire arms Officer)として知られている特別訓練を受けた警察官にのみ,上官の許可を得た場合にかぎり拳銃が支給されます.
警官が武装犯に直面しそうなときや,攻撃される危険のある人を保護するために配置されたときに,拳銃携帯の許可が与えられます.
警官は自分や他の人々の生命が危険だと考えたとき,最後の手段としてのみ発砲してもよいことになっています.
各公認拳銃所持警官は発砲決定について個人的に責任を負い,法廷でこの行為の正当性を立証するように求められるかもしれません.
イングランドとウェールズのほとんどの警察隊が,火器事件に対して迅速に初期対応できるように,武装対応車両(鍵をかけた箱に入れて火器を携行するパトロールカー)の制度を採用しています.
北アイルランドでは,警官は保身用に拳銃を携帯しています.
なお,上述のテーザーですが,
http://www.taser.com/law/product_info/
によれば,TASERM26から,TASERX26に変更されるようです.
【質問】
英国の歴史教育の状況は?
【回答】
http://www.bk1.jp/review/0000470211
英国では世界史といっても,対象になるのは基本的に自国の歴史と,周辺の西ヨーロッパの歴史のみなのだという.
ゆえに英国では,北京と東京の区別がつかないし,日本と中国の区別がつかない連中がわんさかいるという.
そして,これに彼ら固有のヨーロッパ中心主義の根深い人種差別感情がブレンドされるので,いつまでたっても英国では人種差別は無くならないのだと述べられている.
詳しくは同ページを参照されたし.
【質問】
英国が無敵モードになったのは,いつごろからですか?
【回答】
古代ローマ帝国時代には殖民都市としてロンドンを作られ,
北欧辺りからやってきた海賊には敗北.
フランスから来た王には占領され,
ジョン欠地王がフランスに負けまくってマグナカルタ,
モンゴル帝国には斥候として没落イングランド貴族がこき使われ※,
100年戦争でも結局敗北.
しかし!
この欧州ののび太状態だったU,Kはその後,イスパニア艦隊を撃退,
東南アジアあたりでオランダとの抗争を制し,
インドでは諸王国を破り,
支那をアヘンで滅ぼし,
江戸時代の日本との局地戦も勝利し,
第一次大戦と二次大戦はずっこけそうになりながらも,なんとか戦勝国としてゴールイン,
強いイギリスとしてのイメージは確固たるものに!!
※ヴィーナー・ノイシュタットでモンゴル軍の偵察隊が撃破されたとき,捕虜になったモンゴル兵の中にイングランド人がいた.
尋問すると,その男はジョン失地王に反抗してイングランドを追い出され,十字軍に加わって消息不明になっていた貴族だった.
【質問】
100年戦争以後,まったく戦争に負けていない(勝利条件を満たしたという意味で)イギリスってすげえよな.
なんでこんなに戦争に強いのだろう?
【回答】
国論を統一し,軍事と政治を戦略に沿って整備できる環境が整っていたこと.
比較的宗教及び貴族領主の力が弱く,王権に沿った統一的行動が取れたこと.
スコットランド及びウェールズに統一された強力な王権が出現しなかったこと.
ヨーロッパ・大西洋経済圏にコミットしつつ,政治的には一定の距離を保てるだけの場所にいたこと.
比較的早期に議会政治を始め,一握りの阿呆が国全体に悪影響を及ぼすという君主政治の欠陥を排除できたこと.
エリザベス1世以降,蓄財に励んだことで軍備を整えられたこと.
局地戦での敗北がたまたま国家の敗北に結びつかなかったこと.
その他色々.
【質問】
チャールズ1世って誰?
【回答】
チャールズ Charles 1世(1600〜1649)は,イギリス国王ジェームズ1世の第2子で,1625年,即位.
国の財政が苦しくなっているにもかかわらず,スペインのカジス遠征など外征を行い,また,国民に強制献金を命るなど専制政治を行って,議会と対立.
1642年秋,清教徒革命が勃発し,ネーズビーの戦いで敗れて以来劣勢に陥り,最期は議会軍に敗れて裁判にかけられ,国家の敵として処刑された.
【質問】
クロムウェルって誰?
【回答】
オリバー・クロムウェル Oriver Cromwell
は,1642年に清教徒革命において活躍し,英国に共和制を敷いた人物.
素人の集団であった軍隊を,信仰でむすばれた士気の高い騎兵「鉄騎兵」へと鍛え上げて王党軍を撃破し,国王チャールズ1世を捕らえて処刑後,議会と軍との対立激化により,彼は武力で議会を解散し,1658年に護国卿(ロード・オブ・プロテクター)と名乗って独裁政治を開始した.
彼はオランダやスペインと海上の覇権をめぐって戦い勝利を収め,その後のイギリスの海上覇権の基礎を築いたが,内政においては厳格な清教主義に基づいて劇場の閉鎖や賭博,売春の禁止などを行ったため,国内で不満を招いて政局不安定の内に病没した.
【ぐんじさんぎょう】,2009/7/27 01:40
に加筆
【質問】
イギリスでクロムウェルの勢力が勝ったのは,そしてしばらくは権力を保持できたのは何故でしょうか?
【回答】
クロムウェルは「新型軍」と呼ばれる職業的軍隊を編成し,統一的動きの取れる軍隊で,個々の武勇に頼る国王軍をネーズビーで打ち破り,議会側に勝利を呼び込んだ.
しかし,方向性の違いから独立派として長老派と対立し,チャールズ1世処刑後,共和制(コモンウェルス)を成立させ,後に護国卿(ロード=プロテクター)として独裁政権を樹立するが,綱渡り的政策の為,クロムウェルは政権を維持出来なかった.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ウェストミンスター宮殿の前にクロムウェルの銅像が今もあるのはなぜ?
王族から見れば,国王ぶっ殺して共和制にした謀反大逆人でしょ?
【回答】
帝国の確立者・果断な政治家としての側面が評価されてたから.
問題の銅像が立てられたのは,1899年のクロムウェル生誕300年を記念して.
提唱者は自由党有力政治家・前首相のローズベリ.
要するにクロムウェルはリベラル・インペリアリズムの先駆・象徴として持ち上げられた.
もちろん強い異論もあった.
一つは保守党.
理由はクロムウェル=大逆人.
一つはアイルランド系議員.
理由はクロムウェル=アイルランドの鉄槌.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ジョン・ミルトン Jonh Miltonは,清教徒革命のとき,何をやっていたの?
【回答】
イギリスの詩人ミルトンは,父の影響によって敬虔な清教徒だったので,彼は1644年の清教徒革命でクロムウェルを支持し,外国語担当秘書官という共和国公職に就き,外交文書を作成する傍ら,共和制擁護者として論争の最前線に立ち,国王処刑の正しいことを弁護しました.
しかし,過労のため両目を失明し,さらにクロムウェルが急死して王政復古が成ると,一時身柄を拘束された.
友人等の奔走もあって釈放されたが,彼は公職を退き,以後,口述での執筆活動を行った.
【質問】
トマス・シデナムって誰?
【回答】
トマス・シデナム Thomas Sydenham (1624〜1689)は,イギリスの内科医としては17世紀最大の実地医家であり,「イギリスのヒポクラテス」といわれた人物.
オックスフォードのモードリンカレッジに学んだのち,兄弟とともに議会党について,国王チャールズ1世軍と戦った後,復学して医学を学び,1656年結婚してロンドンで開業.
医療にアヘンチンキを使い,貧血に鉄を,またマラリア治療の特効薬としてキナ皮を発見し,キニーネを普及させた.
【質問】
イギリス帝国がインド亜大陸や支那に侵略を開始したとき,本国から遠い現地陸軍への兵站・補充は間に合ったのでしょうか?
【回答】
インド支配は,現地の国と同盟を結んだり敵対したりを繰り返しながら,数世紀をかけて完成したもの.
イギリスが本格的に進出したころは,ムガール帝国は衰退して多くの国が群雄割拠していた.
インドに限らず植民地戦争では,現地の同盟者を得たり,現地で徴募した兵隊をヨーロッパ人が指揮する形になるのが普通.
金さえ出せば兵隊は集まる.
士気は低いが,敵も同じようなもん.
清との戦争の場合は,海からの攻撃に翻弄された側面もあるし,政府が腐敗していて有効な対策を打てなかった面もある.
また非ヨーロッパに対しては武器が優勢だったというのもある.
【質問】
英国植民地出身の兵士は,なぜ英国のために戦うことができたのか?
【回答】
英国への忠誠心がそれほどなくても,国王に対しては並外れた愛着心を抱いていたからだという.
以下引用.
ユニオン・ジャックがはためいていたイギリスの植民地で,時代や場所に関係なく共通していた唯一とも言うべき原則は,国王への忠誠心であった.
君主制と帝国は互いに欠く事のできないものだった.
ある意味では,20世紀に入って帝国を支える柱が外れてしまうと,帝国の一体性にとって,君主制の持つ重要性はそれまで以上に大きくなった.
このことから,比較的取るに足らないようなエドワード8世※の結婚問題が,1936年に非常に重視されたことも説明できる.
当時は,国際的な危機が高まる中で,戦争になった場合,イギリスの安全保障は自治領が自発的に援助を提供するかどうかに大きく左右されていたのであり,君主制の威厳や植民地での忠誠心が弱まることは危険を意味した.
海外に住む臣民の忠誠心や想像力の中で,国王が握っていた影響力は驚くべきものだったようだ.
オーストラリア総督のノースコート卿は1904年に,オーストラリア人はイギリスや大英帝国に対してどっちつかずの態度をとっているが,実質的に誰も見たことのないイギリス国王に対しては並外れた愛着を抱いている,と説明した.
インド人兵士も,イギリス人将校に対しては無関心だったり,曖昧な態度をとったりしたが,国王へは心からの忠誠心を示し,さらに国王=インド皇帝から直々に褒賞されたり,話しかけられたりすれば,熱狂したようである.3
(訳注)
※ 1894〜1972.36年に即位したが,離婚歴のあるアメリカ生まれの女性との結婚を決意し,同年に退位.国外に退去した後,ウィンザー公として結婚した.
(原注)
3 例えば,D.Omissi, The Sepoy and the Raj, The Indian Army 1860-1940, Macmillan, London, 1994の107ページ以降を参照.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.192
1914年,そうした脅威が現実のものとなったとき,植民地がイギリスの勝利に果たした貢献は,経済的に,また,とりわけ戦場において巨大であった.
第1次大戦ではイギリスの海外帝国から250万人以上が出兵し,その約10人に1人が戦死した.
1918年までの西部戦線では,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ人の部隊がおそらく,イギリス軍の中で最良の組み合わせであった.
同,210-211
セポイ
(画像掲示板より引用)
【質問】
イギリス帝国がその最盛期でも,欧州大陸になんら領土を獲得できなかったのはどうしてですか?
やはり主力は海軍で,陸戦に不向きだったということもありますか?
【回答】
つ ハノーヴァー,ジブラルタル
基本的には大陸の領土に興味が無いから.
防衛上の観点からは,オランダやベルギーを独立させて緩衝国としておけばいいし,あとはインド航路が安全であればいい(スエズ運河開通以後)
必要に応じて(ナポレオン戦争,第一次世界大戦),大陸に陸軍を派遣してはいる.
【質問】
ピータールーの虐殺とは?
【回答】
男子普通選挙実現等を要求する集会を,騎兵隊が武力鎮圧した事件.
英語版ウィキペディアによれば,1819/8/16,工業都市マンチェスターのセント・ピーターズ広場(St
Peter's Fields)で,民衆6〜8万人が集会を開き,男子普通選挙実現と,穀物価格カルテルを認める穀物法廃止等を要求.
当局は,yeomanryを投入し,この集会の解散と首謀者の逮捕を図ったが,失敗.
更に軍隊が投入され,サーベルで斬られたり,馬に踏みつけられたりして民間人11名が死亡,400名以上が負傷.
この事件は,1815年のワーテルローの戦いになぞらえて,ピータールーの虐殺
Peterloo Massacre と呼ばれるようになり,チャーチスト運動への伏線となった.
【質問】
エーモンド・デ・ヴァレラとは?
【回答】
北アイルランド問題がこじれた原因で最大なのが,このアホ政治家.
イースター放棄にも参加した筋金入りの独立論者だが,理想主義者で融通が無かった.
マイケル・コリンズが都市ゲリラ戦(テロ)をやってる最中に,アメリカに渡ってアイルランド支持を得ようとしたが相手にされず.
それを「お前らがギャングみたいな戦いをしているからだ!」とIRAに八つ当たり.
その後,デ・ヴァレラ率いる執行部の指示でIRAは正規戦を挑んで大敗する.
度重なるテロにイギリス政府が音を上げて,北部三州を分離したアイルランド独立案を提示しても,彼は突っぱねる.
アイルランド側でこの案を強く支持したのがIRA指揮官のコリンズだったと言うのが,歴史の皮肉.
その案がアイルランド議会で承認されると,大統領のクセに同志を率いて議会から脱会,内戦を引き起こす.
この内戦は,その前の独立戦争よりも凄惨で,未だにアイルランドでは内戦の歴史検証はタブー視されている.
内戦は政府軍の勝利で終わり,降伏したデ・ヴァレラは短期服役後,恩赦で釈放されて政界復帰.
その後は,新生国にありがちな政治不安に乗じて「愛国者」「イースターの英雄」と言うだけで再び大統領に就任.
そして徹底的な反英路線を続ける.
決定的な馬鹿はWW2中の中立政策.
チャーチルは,北部三州のアイルランド帰属を条件に連合軍側への参戦を求めるが,デ・ヴァレラは
「何で恨み積もるイギリス人と組むのか?」
と突っぱねる. ここで北アイルランド問題は永久決着が付くはずだったのに・・・
そして大戦後,マーシャルプランからも除外され,イギリスからは報復関税を喰らい,アイルランド経済はどん底まで落ち込む.
失業者多数と呼ばれた「北アイルランド」より悲惨な生活だった.
今の好調なアイルランド経済になったのは,ECに参加し,「恨を越えて」イギリスと北アイルランド問題に取り組み始めた冷戦後の事.
信念一途なのも良いけど,組織の指導者はまず「部下に腹一杯飯を食わせる事」を第一に考えて貰わんとナァ.
ただ,一つだけ弁護すればデ・ヴァレラには,一国の指導者に祭り上げられるような魅力と,戦時中いくらか親英的な中立政策(まあ単に親独よりマシ程度かもしれないが)を実施する分別があった.
【質問】
サッチャー首相は,どんだけ度胸があったの?
【回答】
例えばこんなエピソードが.
英軍の特殊部隊SASの任務に要人警護がある.
で,その為の訓練をする訳だが,警護の対象になる要人にも訓練に参加してもらうのがルールなんだそうだ.
ある時サッチャー首相と閣僚の一人が訓練に参加したそうな.
二人がテロリストに拉致されたとの想定で狭い部屋に閉じ込められているところへSAS隊員が突入.MP5を乱射して,二人の周りに配置されたテロリストにみたてた人型の標的を穴だらけに.
その間サッチャー首相はみじろぎはおろか瞬き一つしなかったそうな.
発砲がおわってみると,男性閣僚が恐怖のあまり部屋の隅にうずくまってガタガタと震えてるのを見たサッチャーさん,
「さっさと立ちなさい,このバカ」
と叱りつけたとさ.
ちなみにサッチャーは,イラン大使館占拠事件をSASが解決して以来SAS大好きで,この時,サッチャーは防弾チョッキを着ないことで,SASに対する信頼を示した,とか.
しみじみ漢だねえ,サッチャー.
【質問】
「威風堂々」って6つもあるの?
【回答】
あるの.
「威風堂々」(原題”Pomp & circumstance”)はイギリスのエドワード・エルガーが作曲した.
エルガーはすべての曲を一括して作曲したわけではなく,それぞれの曲の楽譜に書かれた献辞の相手が別々で異なることからわかるように,年代的に独立した曲として個々に仕上げていった.
そしてたぶん,自分が作曲したオーケストラ用のマーチ類の総称として,”Pomp
& circumstance”を名付けたと思われる.
1901年に初演された1番から,1907年の4番までは五月雨式に,それからだいぶ飛んで1930年に5番が完成,長らくこの5曲が「威風堂々」としてアルバムにもおさめられてきた.
1934年にエルガーが没したあと,6番のラフな草稿のみが残され,アンドルー・ペインの手になる補筆も作られたが,未完の譜面のみが残された.
ところが1996年に大英図書館書庫から,新たに主旋律まで記された草稿が発見され,これをしおに世紀をまたぐ形で補筆が進展,
2006年,アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団の手になる初演までこぎつけた.
日本では翌年大友直人指揮の東京交響楽団が初紹介.
なお,この曲を1901年の英国王エドワード7世戴冠頌曲と解説する向きがあるが,国王はエルガーに作曲を依頼した戴冠式頌歌に,1901年の初演以来爆発的人気で,毎度アンコール続出の第1番のいいところを混ぜてほしいと希望,
彼が最終歌「希望と栄光の国」に1番中間部(ようするにサビですな)を入れこんだ事による混乱だと思う.
とにかくこっちのほうは,今でも英国の第2国歌的扱い.
ただ,日本でも最初にこの戴冠式頌歌のほうが,先に紹介されたと思われるので,これに「威風堂々」とネーミングしたセンスは,誤訳どころかなかなかのもの.
それをうぃきっぺで瑣末な揚げ足とって難癖付けてるのがいて,ほんに24時間だけでなく,山猫ストもやってほしいわあ,うぃきっぺは.
有名すぎて困る1番
一番の陰,でもいい味出してる2番
★きょうのぽいんと
エドワード7世が即位した1901年には,1番しか出来上がっていない.
ゆずこせう in mixi,2012年01月20日08:37
青文字:加筆改修部分
【質問】
英国のマイナー言語について教えられたし.
【回答】
さて,ケルト語と言うのは,元々中欧で話されていた言語でしたが,それが他の民族の移動に押され,遂に欧州の西の果てにやって来た訳です.
その中でもアイルランド島と大ブリテン島で生き延び,13世紀頃から前者はアイルランド語として,後者はゲール語として分化していき,更に200年後,ゲール語は更にスコットランドのゲール語と,マン島語に分れました.
但し,分化したのは話し言葉だけで,書き言葉は元々のゲール語のままでした.
ゲール語は書き言葉となっていた為,物語として多くが残っています.
2〜3世紀に彷徨える騎士フィンとオシーン,どちらかと言えばこれはフィンガルと息子オシアンの名の方が知られていますが,の話とか,8〜11世紀にかけて,ノルウェーから来たスカンジナビア人とアイルランド人との戦いを描いた物語が有名です.
これを発掘したのが,スコットランドの若い教師であるジェイムズ・マクファーソンで,18世紀の末にこれらの物語を英語で出版して,脚光を浴びました.
この本はいずれも,スコットランド北部の山間地方で発見した,非常に古いゲール語のバラードの翻訳とされていました.
1760年に.『スコットランド高地地方で集められた古代詩集の断章』が出版され,翌年に,ジェイムズ・マクファーソンによってゲール語から翻訳された,フィンガルの息子何編かの詩編を含む全6冊の叙事詩『フィンガル』が出版されました.
更に,2年後,この内の第3集のみ『テモラ』と題されて刊行されました.
作者は,3世紀の戦士オシアンであるとされ,彼が老いて盲目となってから,父や祖先の武勲を歌って自らを慰める詩人とされています.
このオシアンの詩の出版は,当時の文壇に非常なセンセーションを与えました.
バイロン,ウィリアム・ブレイク,コウルリッジ,ワーズワースと言った詩人はその詩の影響を受け,チュルゴーとディドロは,英語での出版後,直ぐにフランス語に翻訳しています.
ゲーテ,シラー,レッシング,クロップシュトック,アンドレ・シャニエ,シャトーブリアン,スタール夫人,ミュッセ,ラマルチーヌはオシアンを手本とし,スタンダールもその作品を楽しんで読んでいます.
文学者だけで無く,画家,例えばアングル,ジェラール,グロ,ジロデも絵の主題をオシアンから得,作曲家であるベートーヴェン,ブラームス,ハイドン,メンデルスゾーン,シューベルトもオシアンをモチーフに作品を書いています.
更に,ナポレオンは戦線に赴く際には,必ずイタリア語訳のオシアンの詩集を携えていきました.
当然,このオシアンの詩集なるものの,作品の正当性が問われる事になりました.
特にサミュエル・ジョンソンからは疑いが提出され,それは英国文学界に波紋を拡げる事になります.
実はオシアンは,マクファーソンによって作られた偽作でした.
とは言え,実際に彼は古い写本の断章を見つけ,スコットランド高地地方を廻って,太古の時代から語り継がれてきたオーラルヒストリーを収集し,そして,それを手本にオシアンを作り上げた訳です.
このオシアンは,先述の通り成功を収め,英国は元より,フランス,イタリア,ドイツ,米国で成功しました.
そして,マクファーソンの生前に10カ国語に翻訳され,彼は金持ちになり,有名人となり,下院議員に当選して政治活動を行い,死後はウェストミンスターに葬られる事になります.
ところで,スコットランドでは昨今再び独立運動が盛んになっていますが,言語面についてはアイルランドよりも長く英語に抵抗を続けた訳ではありません.
11世紀以降,スコットランド王国の貴族に英語が取入れられ,ゲール語が母語であったスコットランド王は1093年に死去してしまいました.
民衆の中では,ゲール語は13世紀,先ず低地スコットランドで衰退を始め,1300年には人口の大部分が英語化されてしまいます.
ゲール語を話す人々の割合は,その後どんどん下がり,近代初期には西部諸島と高地スコットランドのみがゲール語を母語にしていたに過ぎませんでした.
1773年になると,高地スコットランド人の多くが,カナダはノヴァスコシア州のケープ・ブレトン島に移住します.
こうして,ゲール語は海を越えました.
1931年の段階で,この島の人口の3万人がゲール語を維持していました.
しかし,1951年には僅か7,000人までに減り,その後も更に減り続け,消滅するのも時間の問題になっています.
大ブリテン島でも,その数は減り続けています.
1801年にゲール語を話す人々のカーブは下降線を辿り続け,1901年には231,000人までに減りました.
しかも,アイルランドと同じ様に,大多数のスコットランド人は2言語併用者であり,ゲール語のみの使用者は,1,000人以下に過ぎなかったりします.
さて,スコットランドの自治運動が進展する事でゲール語が復活するのか,興味深い所です.
同じ様に消滅しかかった言語に,コーンウォール語があります.
こちらは,1780年に死去したドリー・ペントリーズ及びその世代の人々が,コーンウォール語を母語にした最後の話し手でした.
1808年の調査では,1人として話し手を見つける事が出来なかったのです.
元々,コーンウォールも広い地域を領有しており,デヴォンやサマセットもその領域に含まれていました.
しかしローマの征服後,東部地方の全域がサクソン人に占領されました.
7世紀から始まったサクソン人の支配に対する戦いの間に,アーサー王と円卓騎士,湖上のランスロ,トリスタンとイゾルデの物語が編まれます.
これらは今日では英国やフランスの物語とか,ワーグナーの歌劇などで有名ですが,実はコーンウォール発祥の物語だったりします.
伝統的には,これらの伝説は,全ケルトの地に口承で伝えられた長い詩を対象としています.
13世紀以降,これらケルト起源の伝説は,英語とフランス語に翻訳され,その新しい版によって今日まで伝えられた訳です.
コーンウォールがイングランドの支配下に入ったのは,10世紀末です.
島嶼ブルトン人は,エクセターを追われてからはテイマー川以西,今のコーンウォールの地に封じられてしまいます.
11世紀にはノルマン王朝支配下で3言語が併存していました.
但し,フランス語がノルマン人の土地所有者によって話されて最も高い地位を占めており,次が英語でこれが中流階級の言語,コーンウォール語は民衆の言語でした.
その後5世紀の間,英語がフランス語に代って指導者層の言語に取って代わられた後も,底辺の人々の言葉はコーンウォール語です.
しかし,英語が徐々に浸食し,その使用が励行されるに従って,16世紀初頭にはコーンウォール語のみの話者は珍しくなり,18世紀末には,この言語は消滅しました.
その後,20世紀初頭に民族主義が昂揚するに従って,コーンウォール語は復興を遂げます.
1988年からは,"Delyow derow"(『樫木の葉』)と言う雑誌が年3回,刊行されました.
これは,中世の言語を基本として統一された伝統的な綴りを用いてコーンウォール語で書いてある雑誌で,他にも,こうした本,教科書,辞書で,既に消滅したコーンウォール語を復活させています.
ただ,一端消滅した言語を復活させるのは,非常に難事業です.
特に,時代時代によって語形が多様に変化しているので,どれを正式なコーンウォール語の綴りとするのかについては,まだ定まっている部分は少なかったりします.
この為,中世版,15〜16世紀版,英語化された18世紀末の最後の話し手によって話されていたコーンウォール語の形態で確立された,第3の綴りもあったりするので,非常に混乱状態です.
また,ラジオでは1週間に15分の2言語放送があり,1年に1度,クリスマスを主にコーンウォール語で歌やダンス,ちょっとした詩をテレビで30分間放送しており,少しずつですが失われた言語を復活させようと言う動きが出て来ています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/20 23:12
さて,グレートブリテン島巡りも,佳境に入って,今日はマン島とウェールズの話.
スコットランド,ウェールズ,アイルランドに囲まれたアイリッシュ海に浮かぶマン島は,内政面では独自の議会を持ち法律を有する歴とした独立国ですが,対外政策面では英国に依存しています.
そう言う意味では,すごく複雑な地域ではあります.
この島は,ケルト系の住民が紀元前後に入り,9世紀になるとゲルマン語を話すバイキングの支配を受けます.
11世紀には再びバイキングの支配を受けるのですが,こちらはアイルランドに定住し,ケルト化したバイキングによる支配です.
13世紀末まで,この島を支配したのはノルウェー人でした.
但し,この地域にやって来たのは伝統的に男だけで,女は連れてこなかったので,ケルト語は,母親によって継承されてきていました.
その後,マン島語の利用は徐々に減り続け,19世紀初頭になると,悪化の一途を辿り始めます.
1871年の調査では,人口の約30%がマン島語を習慣的に話していたのですが,1901年になると,マン島語を話す事が出来たのは僅かに970名しか残っていませんでした.
1957年になると,マン島語の話し手は片手の指で数えられるだけになり,1974年,マン島語を母語とする最後の住民,ネッド・マッドラルが97歳で死去すると,完全にマン島語は消滅してしまいました.
とは言え,コーンウォール語が近世に消滅し,綴り方が様々に氾濫しているのに比べ,マン島語は,つい40年ほど前まで話者が生きていましたから,消滅してからの時間は然程経っていません.
独自の言語であるマン島語を復興させようと,マン島語協会なる団体が,1955年と1970年に行われた20時間分の生録音から教育プログラムを作る事にして,現在,それを教育する事で,辛うじてマン島語の消滅を免れています.
これまた,コーンウォール語と対照的に,ウェールズ語は,英国の歴史の中で特権的な地位を持っていました.
その歴史は6世紀に遡り,欧州諸国でも最も古く長い文学的伝統に培われ,数世紀に亘って威信を保ってきています.
特に,1534年にヘンリー8世がローマカトリックからの分離を決断した事から生まれた英国国教会の『聖書』『祈祷書』はウェールズ語で訳された事が,ウェールズ語に権威を与えています.
これにより,1750年までは英国国教会で使われる唯一の言語で,宗教教育教本も16世紀半ばからウェールズ語で印刷されていました.
また,裁判の言語も長い間ウェールズ語が使われています.
とは言え,ウェールズ語の衰退は,ウェールズがイングランドに占領された1282年以降,南部と南東部で英語に取って代わられ始め,16世紀チューダー王朝がウェールズに公式に英語を導入し,総ての役人が英語を理解するように強制されるなどの理由で,庶民の言語としては残りますが,上層階級からは徐々に消えていく言語となります.
1750年以降は国教会の中でも,ウェールズ語と英語の併用となった事から,それから1世紀を経ると南部ではウェールズ語は絶滅の危機に瀕し,それに代って英語が大量に流入する事になります.
19世紀末には悪化の一途を辿り,20世紀初頭になると加速度的に衰退していきました.
1901年の段階では,人口の半分に当たる93万人が,まだウェールズ語を話していたのですが,1981年には人口の20%である50.8万人に減り,ウェールズ語単一言語使用者は,全人口の1%にも満たない状態に追い込まれています.
但し,公式には1967年のWelsh Language Actにより,連合王国の公用語の一つとしてウェールズ語は認められており,一応,公文書をウェールズ語で書いても差し支えない状態にはなっています.
ただ,法律の条文の中において,立法者は「may」を用いており,「shall」は用いていません.
つまり,ウェールズ語で「公文書を書いても良い」とは言っていますが,「公文書を書く義務がある」とはならなかったりします.
ここら辺が,イングランド人の狡猾な所です(ぉ.
こうした制限はありますが,1978年以降は2言語併用の道路標識が設置され,日常的に多くのラジオやテレビがウェールズ語の放送を行っています.
1982年11月には,ウェールズ語のみの放送局であるS4Cが創設され,ゴールデンタイムを中心に1日に平均5時間,再放送を含めて学校番組を放映しています.
また,小学校では現在ウェールズ語を第1言語とし,英語を第2言語として教育を受ける事も出来ます.
(勿論,その逆も可能です.)
ところで,古ケルト語派の特徴として挙げられるのが,インド・ヨーロッパ語族の言葉なのに,子音の/p/が無いと言う事で,また,ゲルマン語には/f/があるのに,古ケルト語派には無い事です.
例えば,ギリシャ語ではparaと言われていた「前」や「横」を表す前置詞は,古ケルト語ではareと評されます.
また,「父」を表す単語は,ラテン語でpater,ゲルマン語(英語)ではfather,古アイルランド語ではathirとなり,現在のアイルランド語でも,athairとなります.
但し,地域的に深く見ていくと,古ケルト語から派生した言語は色々と進化しています.
アイルランド語が最も原型に近く,「4」は現代アイルランド語では,ceathairで/p/が無いのですが,ウェールズ語の場合は,pedwar,ブルトン語でもpevarと/p/が入ります.
「5」はアイルランド語ではcuig,ウェールズ語だとpump,ブルトン語でpempです.
言語学上は,ウェールズ語やブルトン語,コーンウォール語をP-ケルト語と呼び,アイルランド語ではQ-ケルト語(アイルランドでは,QはCとなる)と呼ぶようになっています.
因みに,アイルランドの守護聖人であるセント・パトリックですが,アイルランドでは,彼の事は,Patrickではなく,Cothraigeと呼びます.
これも読み替えの例で,セント・パトリックは390年頃にウェールズで生まれた人です.
ウェールズでは,P-ケルト語の習いに従って,Patrickと書いていましたが,アイルランドでは,その/p/を/k(c)/に自然と変化させた訳です.
P-ケルト語とQ-ケルト語が分れた理由は,彼らの移動した年代にあります.
最初の移動を行ったケルト語族の中では,インド・ヨーロッパ語の/p/は非常に弱く発音し,/h/の様にしか使われていませんでした.
例えば,樫の木を意味するperkwusの中のkwは非常に弱い/h/であり,何時しか,この非常に弱い/h/は西に向けて移動した最初のケルト人の中からは失われていきます.
この一派が,現在のアイルランド,スコットランドやマン島のゲール語となります.
数世紀後,今度はその場に留まっていたケルト語族達も西に向けて移動します.
しかし,それまでにインド・ヨーロッパ語の/kw/から派生した/p/を手に入れていました.
この為,ブルトン語,ウェールズ語,コーンウォール語にこの/p/が見られるようになったのです.
そして,それぞれの地域に根付く内に,様々に細分化され,アイルランド語とスコットランド・ゲール語は非常に異なっています.
その後,時代が進むにつれ,スコットランド・ゲール語は,マン島語とは混同される事が無くなり,更にウェールズ語,コーンウォール語,ブルトン語と間違う事は無くなりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/21 23:43
さて,再びウェールズ語の話.
フランス語で数を数えるのは馬鹿のする事だ,みたいな話を,とある人が言って物議を醸していましたが,素直に10進法になっている日本の数の数え方の方が特殊ではないか,と思ってみたり.
ウェールズ語でも,似たような話があります.
まず,10までは然程大変ではありません.
1はun,2はdau,3はtri,4はpedwar,5はpump,6はchwech,7はsaith,8はwyth,9はnawで,10はdegとなります.
で,15になると,pumthegとなります.
5がpumpで10がdegですが,dがthに移行します…とは言うものの,語彙上は5+10と言う数え方になります.
次からは/p/が/b/に変化しますが,基本的には15が基底の数字となります.
16はun ar bympheg,つまり1+15で16を表し,17はdau
ar bympheg,18はtri ar bymphegとなりますが,18はもう1つ,deunawつまり,2×9で18を表す場合もあります.
19は,pedwar ar bymphegで4+15となります.
となると,20は5+15になるのか,と言えば,然に非ず.
20はugainと言う単語で表し,以後は20が基底の数字になります.
un ar hugainで1+20となり21を,dau ar hugainで2+20で22を表します.
30はdeg ar hugain,つまり,10+20で30を表します.
40になると,deugain,つまり2×20となり,60はtrigainと3×20になります.
では70もかけ算か,と言えば,今度は足し算になり,deg
a thrigain,10+60になる訳です.
この部分は,フランス語で70を表す,soixante-dix,つまり60+10と似たような数え方になります.
80は再びかけ算に戻って,pedwar ugainとなって4×20となります.
これは正にフランス語で80を表す,quatre-vingtと同じ考え方になります.
90はdeg a pedwar ugain,つまり,10+4×20と言う数え方になります.
100はcantとなり,50は100の半分なので,hannner
cantとなる訳です.
因みに,デンマーク語で数を数えると,日本人は更に混乱します.
3はtreであり,60はtresとなります.
60を表すtresと言うのは,tresindstyveの省略形です.
このtresindstyveとは,3×20の事です.
デンマーク語では,tresだけで用が足りてしまいます.
でもって,50はhalvtresとなります.
halvとは半分を意味します.
直訳すると,60÷2になりますから,30…あれ?何処をどう割っても50にはなりませんね.
某都知事なら罵倒の対象でしょうが,これは極めて奥深い単語です.
デンマーク語では,既に2つ目までの20は既定の概念で有り,「60」から最後の「20の半分」を引くと言う意味になるのです.
つまり,50を表すhalvtresとは,20×3-(3番目に掛けた20÷2)という計算になるのです.
非常に大胆な省略なのですが,そう言えば,東北地方の人の場合も,標準語が方言だと結構短い言葉になると言う話があった様な.
この省略は,序数形容詞以外に当てはまります.
序数形容詞だけは,何故か省略がNGで,「50番目の〜」を表す場合,きちんとhalvtresindstyvedendeと書き表すそうです.
同じように,デンマーク語では時刻の数え方でも,5時半というのは,「6時の半分」あるいは「6番目の時間の半分」という言い方になり,Klokken
er halv seks.と表します.
話を戻して,ウェールズ語の語彙は,サクソン語,デンマーク語,アイルランド語,英語,フランス語と言った様々な言語に養われました.
例えば,フランネルの事は,英語でflannel,フランス語ではflanelleと表します.
この単語は,ウェールズ語gwlanenから出た言葉です.
一方,ラテン語を語源とした言葉でも,ウェールズ語では全く別の意味になる場合があります.
例えば,ラテン語で「記念碑」を表すmonumentaは,ウェールズ語ではmynwentとなりますが,これの意味は「墓地」であり,plantaはラテン語では「植物」を意味するのですが,ウェールズ語に取り込まれたそれは,plantとなり,意味は,「子供」に転化しています.
地名も,ウェールズ語では特徴的なものがいくつかあります.
最も有名なのは,Llanfairpwllgwyngyllgogeecychwyrndrobwllllantysiliogogogochと言う村の名前です.
元々,この村の名前は,Llanfairpwllgwyngyllと20文字から成り立っていました.
最初のllanは「村」或いは「教会」を表し,次のfairはmair(Marie)の異形,pwllは「池」の事で,gwynが「白」,gyllは「ヘーゼルナッツ」となります.
19世紀末,此の地に観光客を引きつける為に,この名前を更に魅惑的なものにしようと,これに20文字ほど付け加えました.
Gogerychwyrndrobwllと,「激しい旋風にかなり接近している」と言うのが加わりましたが,後の人はこれを更に長くしてやろうと次のような描写を加えました.
Llantysiliogogogoch,つまり,「赤い洞窟の近くの聖ティシリオ教会」.
結果,Llanfairpwllgwyngyllgogeecychwyrndrobwllllantysiliogogogochと58文字にも及ぶ村の名前が出来上がりました.
勿論,実用的なものではありませんし,この地名をフルで書く人はいません.
現在では,Llanfair P.G.でこの村は表されています.
一頃,第三セクター鉄道を中心に,駅に日本一長い名前を付けるのが流行ったのですが,既に100年以上前にウェールズではこんな冗談のような地名を生み出したのです.
流石に,後の世になると,冗談も休み休み言えとなったのだと思いますけどね.
それにしても,10進法に慣れている我々からすると,フランス語やウェールズ語,それにデンマーク語など,欧州言語の数の数え方の方が,頭が良くないと出来ないと思うのですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/22 23:21
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ 本館サイト・マップへ
軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ