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◆◆英軍
<◆UK
<欧州FAQ・目次
(画像掲示板より引用)
BAE Systems
同社公式(英語)
CRS@空挺軍 in mixi (2010年09月16日)◆
Buckingham Palace Marching Band Playing the
Imperial March
大英帝国の行進曲ですね わかりません
「D.B.E. 三二型」:イギリス空軍は紅茶を一滴もこぼさずに宙返りすることができる/情報源STAR LIGHT PARADE
「D.B.E. 三二型」(2010/04/01)◆イギリスの珍兵器・失敗兵器
「Defense News」◆(2012/05/15)U.K. Defense Achieves Rare Balanced Budget
「Defense News」◆(2012/06/23)U.K. Pulls Viking Vehicles From Service Until Reset Funded
「Defense News」◆(2012/09/18)Report Warns of Widening Gaps in U.K.'s Maritime Surveillance
「Hush-Kit」◆(2012/11/30)British aircraft
production totals
イギリス機の生産数リスト.
ジェット機で一番たくさん作られたのは,なんと最初のジェット機ミーティア
「kojii.net」■(2011/03/07)いい意味での英国面
「Kojii.net ココログ別館」◆(2010/12/02)英艦無敵號・輝煌號
「LA Times」◆(2013/05/12) 'Star Wars' sequel to shoot in Britain
「Military Technology」◆(2013/05/29) UK military aircrews receive advanced personal equipment
「net bunker」:核戦争の最大の懸念は放射能ではなく紅茶不足,50年代の英公文書 国際ニュース : AFPBB News
「Strategy Page」◆(2013/04/18) WARPLANES: RAF Droid Drivers Become Legit
「Strategy Page」◆(2013/05/09) WARPLANES: British Reapers Can Now Call Home
「Strategy Page」◆(2013/05/10) AIR WEAPONS: Britain Wallows In Hellfire And Brimstone
Undergroundkent(英国の地下戦争遺跡)
「VOR」◆(2013/04/02) 英国で核兵器に反対する大衆抗議行動
「VOR」◆(2013/06/05) 英国 オウムがショック死 空軍から2200ポンドを勝ち取る
「裏日本観察学会」:ニコニコ動画どう?:イギリスが開発したダメダメな兵器
英国国防省(英語)
「週刊オブイェクト」◆(2010年10月20日)イギリス軍縮計画SDSR
「東京の郊外より・・・」◆(2013-03-25) 米英軍幹部:70年ぶりの大戦略会議
「ニコニコ動画」:イギリス軍人に学ぶ,正しい飛行機の誘導の仕方
「三十路のくせになまいきだ!」(2010/07/09)◆イギリス軍人に学ぶ,正しい飛行機の誘導の仕方
「三十路のくせになまいきだ!」(2010/07/09)◆これを見習った自衛官
「ワレYouTube発見セリ」:RAF Battlefield helicopters 1
「ワレYouTube発見セリ」:Red Arrows Tribute (英空軍アクロバットチーム,レッドアローズ)
「ワレYouTube発見セリ」:英空軍,EH-101マーリン輸送ヘリ
『Soldier: The Autobiography』(General Sir Mike Jackson著)
「おやびん」ことGeneral Sir Mike Jacksonが自叙伝を出版したようです
レビューに面白い話がありましたので紹介.
[quote]
It was 1971 when I first met Mike Jackson. I was a corporal attached to 1st Battalion the Parachute Regiment in Palace Barracks, Northern Ireland. He was battalion adjutant in the rank of captain. The next time we met was some 18 years later in that same barracks. By then I was the captain - and he the brigadier. No, we were not in uniform, in fact he was playing a very hard game of rugby and I was a mere spectator. He was running down the wing at the time when an opponent bundled him off the field of play. He landed right beside me. "Hello Ned, good to see you again" he said and promptly got on with the game.
私が最初にMike Jacksonに会ったのは1971年でした.
私は北アイルランドで英国軍パラシュート部隊で伍長を勤めてました.
当時の彼は大尉で大隊の副官でした.
18年後に再び彼に会いました.
その時は,私は大尉であり,彼は准将になってました.
私たちは軍の制服を着てませんでした.
なぜかって? そう! 彼はラグビーの試合中で,私はその観客だったんです.
彼がトライを決めて目の前に転がり込んできました.
すると
「いやー,久しぶりだねネッド(レビュー者名).元気?」
と言うと,試合に戻っていきました.
[/quote]
ちなみにおやびんは北アイルランドで「血の日曜日」を経験したそうですよ.
当時中佐で現場の副指揮官だったらしい
―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年01月28日23:38
【質問】
英国が核兵器を廃絶することはありえるのか?
【回答】
当たり前の話ですが,英は絶対に核兵器を手放しません,
北鮮も同じく核を絶対手放しません.
話し合いで何とかなると考えているのは「お気の毒」な方です.
2006/12/4,ブレア首相は下院で「将来の核抑止力」と題する白書を発表し,次世代の核兵器システム開発を継続して行ってゆく方針を表明しました.
「英国が核兵器を維持することは重要」
とし,200億ポンドかかるとされる新システム開発を継続する意向です.
現在英国は核兵器システムを原潜4隻で保有しています.
2024年に寿命がくる現在の原潜の後継システムを何にするか?という議論が起こっています.
一部報道によれば,現在1隻あたり200発の核弾頭を搭載していますが,これを160発に減らすとともに,原潜を現行の4隻態勢から3隻態勢に減らすとの見方もあります.
⇒搭載弾頭が減るから原潜を減らすというのは,全く理解できないですね.
運用に便利な4隻態勢を崩すことはないでしょう.
ちなみに英下院は労働党の一部議員を除き,核抑止力の重要性を十分認識しており,政府のこの方針が支持されるのは間違いないです.
労働党でブレア首相の後継者と目されているブラウン財務相は
「北鮮が核兵器を保有するなどしている状況下で,一方的な核軍縮は無意味」
と語っています.
ただし,
http://www.ft.com/cms/s/ef616118-83bb-11db-9e95-0000779e2340.html
および
http://www.nytimes.com/2006/12/05/world/europe/05britain.html?ref=world&pagewanted=print
によれば,規模は縮小される模様.
源泉は4隻体制から3隻体制に,弾頭数は200から160に減らせないかどうか検討されるという.
以下引用.
核弾道弾を搭載している現行の4隻のバンガード級原子力潜水艦(Vanguard class nuclear-powered submarine)が2022年までに全艦退役するので,後継艦を建造し,2024年から逐次就航させて行く.
新潜水艦健造経費は,150億~200億英ポンドであり,大部分は2012年から2027年にかけて支出される.
この間,国防費総額の3%を占めると予想され,核関連経費全体では,この間の国防費総額の6%を占めると予想される.
また,潜水艦の隻数を3隻に減らし,それでも常時1隻を外洋に配置する現行の態勢を維持できるかどうかを検討する.
仮に3隻に減らせるとなれば,健造経費は10億~20億英ポンド削減できる.
ちなみに,潜水艦による核抑止は,航空機や陸上核弾道弾による核抑止に比べて2.5倍も安上がりだし,これらより敵の攻撃に対し脆弱ではない.
水上艦艇による核抑止は経費は同じくらいだが,より脆弱だ.
現在使用している核弾道弾は,米国製のトライデント(Trident)D5弾道弾を延命させて,2040年代まで使えるようにする措置を講じる.
そのための経費は約2億5,000万英ポンド.
なお,核弾頭の数は現在の200から160未満にまで減らすことも検討する.
要約:太田述正コラム #1548 ( 2006.12.5 )
なお,2006年12月5日付,読売新聞によれば,英国政府の白書「英国の核抑止力の未来」では,「ならず者国家」の支援を受けたテロリストによる核攻撃まで想定した幅広い議論を展開しているという.
【質問】
トライデント廃止論とは?
【回答】
http://nofrills.seesaa.net/article/112691522.html
最初の記事は,英軍の退役将軍達によるトライデントを廃棄せよ,という呼びかけですね.
更新にかける金があったら,他のことに回せよと.
元ネタはこちら
http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/letters/article5525682.ece
クラスター弾に引き続き,またしてもタイムズへの投書ですね.
気になるのはこの御三人は陸軍出身で,トライデントは海軍が運用しているということですね.
英軍にも陸対海という対立があるんですかね...
もう一つはこちらのガーディアンの記事
http://www.guardian.co.uk/world/2008/dec/20/british-nuclear-fuels-sells-awe-management-stake
テクニカルでよく分からんかったのですが,トライデントの核弾頭を製造している会社の経営権が,米国の私企業に移った,というような話みたいです.
英国は本当に独自に核武装しているのか,そうじゃないんだったらやめちまえ,みたいなお話.
〔略〕
トライデントの更新が決定されたのはブレア政権のときですけど,政治のほうでも意見が割れて,下院の投票では与党労働党からけっこう増反議員が出たんですよね.
だから,英軍の中の人にもトライデントは不要だと考える人がいても不思議ではないです.
【珍説】
英国と日本では軍隊の存在感も違いますが,もっとも大きいのは軍隊の性格です.英国の軍隊のうち,空軍,海軍,海兵隊は「ロイヤル」の名を冠している.つまり王家の軍隊です.
でも,陸軍だけは「ブリティッシュアーミー」という名称になっている.
これは議会制民主主義を確立する過程で国民ないし,議会が王権と戦った歴史が背景にあって国土防衛にあたる陸軍だけは「国民軍」を名乗っている.
(中略)
英国の国王は,議会に諮らずに宣戦布告することができるし,麾下の空軍,海軍,海兵隊に対して解散を命じることができます.
林信吾 in 『週刊朝日』2007/4/13号
【事実】
>英国の国王は,議会に諮らずに宣戦布告することができるし
えっと,コレ,英国大使館厳重抗議モンだと思うのですが.
Tono in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
林氏の言い分ですと,英国空軍,英国海軍・海兵隊は国王の私兵であるがごとくの言い分ですが,そんなコトはありません.
大体,宣戦布告だけ行ったって,戦費の調達は議会の議決が無ければ行えないのですから.
戦費の調達のみならず,平時の予算も議会を通さねばなりません.
王権そのものがクロムウェル死して後の王政復古により,議会が王へ保障したものであることを考えれば,議会に無関係に国王が軍をどうのこうのできるはずがない.
この後,対談の中で潮氏に対して,
「やはり潮さんの発想はどうも古い感じがする」
と言ってますが,英国軍が国王の私兵であるかのような認識を持っている林氏は,17世紀で止まってますね.
ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
何十年住むより,ちゃんと資料読んだ方が有効ということですね.年の功より亀の甲.
以下,英国大使館(日本語版)より
条約を締結する権限,宣戦布告と講和を行う権限,外国の国家および政府を承認する権限,領土を併合・割譲する権限は,女王の大権の下で『政府』が有しています.
外交権が国王に属する,という主張なら分かるけど.
in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
実際,17世紀で止まっている部分というのはイギリス政治では多く存在します.
イギリス軍やイギリス人の女王への忠誠というのも非常に強いですし,女王に使われることに幸せを感じないイギリス人もなかなかいないでしょう.
なんで,クロムウェルの後,あっさりと王が戻ってきたのか,
指摘している方の言い方だと,あそこでそれまでの王権が消えたかのようですが,そうはイギリス人は考えません.
同時に自分は「民主主義の父」なる国に住んでいると自負しています.
だから,イギリス式民主主義に対する非難にも過剰なほど反応します.
「女王には支配されてたいけど,民主主義は最高のものを持ちたい」
という,なんというか妙な国なんですよ,イギリスって.
また,大屋准教授のブログ「おおや日記」内,2007年04月03日付記事,「続々・ひたぶるにうら悲し」によれば,おおよそ以下のように指摘されている.
.Royalなんて単なる名称.陸軍内の組織にはRoyalを冠しているものが多い.
また,the Royal Air Forceの前身は海軍のRoyal
Naval Air Serviceと陸軍のAir Battalion.
林信吾理論が正しいとすると,創設時は国民・国家のものであった陸軍飛行部隊は1918年に国王に取りあげられてRAFの一部になったということになる.そんなわけあるかい.
さらに,軍事費は陸海を問わずnon-civil expenseであって,租税をもって充てるというのがイギリスの伝統的な考え方であったらしい.
つまりカネの面から見れば,すべて国家の軍隊であり,国王の軍隊ではない.
・国王が「解散を命じることすらでき」るなんてこともない.
海軍はthe Naval Discipline Act 1957が規律しており,議会と法律の支配下にある.
陸軍・空軍もそれぞれthe Army Act 1955,
the Air Force Act 1955が規律している.
(さらに,2006年に成立したthe Armed Forces
Act 2006がこれら3法律を廃止して統一的に組織・運営等について定めたらしい)
・「英国の国王は,議会に諮らずに宣戦布告することができる」かについては,額面としては正しいが,国王が自由にそうできるというのとはまったく異なる.
議会と無縁に,国王が勝手に宣戦布告できるわけではない.
理論的には国王が法案に対して拒否権を発動する可能性があるが,最後の同意拒否は1708年.
イギリスの場合は「幹」となる憲法典がないこともあって,「慣習」に頼る割合が度外れて大きい.
つまり実際にはできない.
・イギリスについては文章化されたルールだけを見てモノを言ってはならない,というのは勉強してるとほぼ最初に叩き込まれる話だと思うのだが,どうやら林信吾氏にはその心得がないようである.
ちなみに,アイザック・アシモフの短編小説群の中には,外国にはまったく行った事がなく,それどころか自宅の書斎から殆ど一歩も出ない学者が探偵役で出てくるものがある.
この学者氏,にもかかわらず,およそ世界中の出来事で知らないものはない.
この学者は言うまでもなくフィクションだが,ホホイのごとき,それとは真逆の人間がノンフィクションの世界の中に存在するというのだから,まさに「事実は小説よりも奇なり」.
▼ ただし,「議会が王権と戦った歴史が背景にあって」までは正しいのでは?
Wikipedia英語版には,陸軍だけ王立が付かないのは,歴史的に陸軍は議会の軍隊であって国王の軍隊ではなかったからと説明されています.
その証拠に1689年の権利の章典で,平時に常備陸軍を編成するためには議会の許可が必要であることが確認された,と書いてあります
(その後には,「とはいっても実際にはRoyalを関している組織は多い」と大屋氏と同じことが補足してありますが).
Wikipedia日本語版もおおむね似たような説明です.
大屋氏の批判はもちろん,このあたりの歴史的経緯を踏まえた上のもので妥当ではありますが,名前が違うのは歴史が違うから,という林氏の主張も的を得ていると思いました.
林氏の場合は,そういう昔の経緯を無理やり今の状態にこじつけようとするから,珍説になっちゃうんでしょうけど.
バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
▲
【参考サイト】
http://www.historylearningsite.co.uk/british_constitution.htm
英国女王
(引用元:『サウスパーク』)
【珍説】
ひとつだけ指摘するなら,組織が誰のものかを論じるのに,編制や予算ではなく名称からはじめてはいけないと,どこの誰が決めたのでしょう.
【事実】
現代の全ての近代的国家は,立法と行政を通じて全ての(公的)組織をコントロールしているから.
以上,証明終わり.
【質問】
英国の将軍とかの爵位がよく分かりません!
【回答】
イギリス貴族には ・家族名 ・爵位名(複数可) ・呼びかけ(口頭での敬称)の3つがあり,正しく使い分ける必要があるので注意.
ナポレオンを破ったウェリントン公爵Duke
of Wellingtonの家族名はWellsleyで,Arther
Wellsley, the 1st Duke of Wellingtonがフルネームになる.
口頭での呼びかけはDuke of Wellington.
これが侯爵なら,呼びかけはMarquiss 伯爵,子爵,男爵への呼びかけは全てLord.
仮に,本名ジェームズ・ドラモントJames Delamonteという人物がEarl
of Shetland シェットランド伯爵に任せられている場合,本人への呼びかけはLord
Shetland シェットランド卿.
娘がAnnだった場合,肩書きはLady Ann Delamonte
レディー・アン・ドラモント.
口頭の呼びかけはLady Ann レディー・アンとなる.
男子の場合は,長男ならLord Peter Delamonte,次男以下はMr.
William Delamonte.
(ただし文書ではHonourable William Delamnte)
爵位というのは本人の身に専属するので,妻以外の家族には及ぼされない.
シェットランド伯爵の娘がLady Ann Shetlandと呼ばれることは決してない.
妻はCountess Shetland シェットランド伯爵夫人と呼ばれる.
ただし,爵位名と家族名が同じ場合は当然同じになる.
Earl Russel ラッセル伯爵の本名がJohn Russelの場合,娘はLady
Ann Russelと呼ばれる.
しかしこのRusselはあくまで家族名.
(爵位名が家族名の場合ofが入らない)
シェットランド伯の娘レディー・アンが平民のMr.
Henry Smithと結婚すると,レディーの称号は残り,Lady
Ann,Lady Ann Smithと呼ばれる.
平民Miss Mary BrownがSir Henry Smithと結婚した場合は,Lady
Smithと呼ばれ,本人の洗礼名は呼ばれない.
英国の男爵の爵位は通常 Lord~と表記される.詩人バイロン男爵,テニスン男爵はそれぞれLord
Byron,Lord Tennyson.Baronは普通,大陸ヨーロッパの男爵を指す.
ナイト勲爵士,准男爵baronetはともにSirと呼ばれる.
ナイトは一代かぎり,准男爵は世襲だが,どちらも貴族ではない.
従ってSirを「卿」と訳すのは不適切.「卿」は貴族Lord専用の訳語とすべき.
そもそも准男爵というのは,近世になってから作られた新しい制度.
17世紀に入ってから,James 1世が,王室費が足りないので金出す香具師に爵位を売ろうとしたら,本物の貴族連中にゴルァ!されて,
「なら貴族じゃない肩書ならいいだろ」
って売り出したのが始まり.
准男爵の歴史はここが要領よくまとまってる
http://en.wikipedia.org/wiki/Baronet
・ジェームズ1世の准男爵売り出し価格は「兵士30人分の給料の3年分」
・功績により准男爵を授けられた有名人は作曲家のエルガー,物理学者のストークス,ピーター・パンの作者J.M.バリーなど.ギネス家の当主は代々の准男爵.
・いちばん新しく創設された准男爵はサッチャー首相の夫,故デニス・サッチャー氏.
なお,第二次大戦後,政治家,学者,裁判官などの功績に対して一代貴族(男爵)を与える制度ができた.
その他無数の煩瑣な約束があるが,英国でも社交欄担当のゴシップ記者とベテラン執事くらいしか正確なことは知らないらしい(笑).
しかし複雑なだけに,肩書きを正しく表記すると,非常にもっともらしく感じさせることができる.
ただし,准男爵やナイト勲爵士が貴族ではないというのは,英国ではわかりきった常識.
(英国といっても,サッカーの試合で暴れるフーリガン連中の知識レベルまでは責任もてないが(笑))
このページなどは簡単で要領よくまとまっている.
http://www.literary-liaisons.com/article038.htm
英国の将軍
faq59g.jpg
faq59g01b.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
英国では,戦争のときには貴族が率先して志願する,というのは本当か?
【回答】
それほどではないにしても,貴族に対しては庶民より高い行動規範が求められていることは確かである.
しかし,日本人は英国貴族に対し,そもそも大変な誤解がある,という.
貴族には守られねばならない暗黙の了解が幾つもあってめんどくさいし,また,質素な生活をせざるをえない貴族も多い.
以下引用.
英国貴族が今どういう生活をしているかは常識で考えたら誰でも分かることである.
立憲君主国で民主主義国のイギリスで,貴族という位だけはあっても,貴族だけが3世紀前の生活をしていることなどありえず,普通の庶民,市民と同じ生活をしている.称号があるから貴族と呼ばれるだけのことだ.
〔略〕
それでは,当のイギリス人にとっての貴族像はどんなものなのだろうか.
じつは,日本人が抱いている貴族に対する憧れとは全く異なる物なのである.
一言で言えば,貴族というのは特殊な世界で,貴族は大変だ,ご苦労なことだ,と思われているのである.
英国貴族には貴族としての義務があって,「戦争のときには貴族が一番最初に志願しなければいけないんだそうですね」などと聞きかじっている人もいるが,それほどではないにしても,貴族に対してはより高い行動規範が求められていることは確かである.
貴族と一般庶民との最大の違いは,庶民が国を守るために自分の身を捧げなくても誰も何とも言わないし,お腹をすかしているときにパンを盗んでも,モラルの上では何にも言われない.
しかし,もし国が滅びそうになっているときに貴族が自分の身を捧げなかったら,あるいはもしお腹がすいているという理由で貴族がパンを盗んだら,大変な非難を受けるだろう.
国民の規範たれ,などと堅苦しく言われているわけではないが,伝統的に,王室を守って国の柱石になる,というふうな意識が残っている.
もちろん,貴族の中にはそうした意識の低い人もいるし,悪いことをする人もいる.
しかし,貴族の家庭の躾や教育には伝統的にそういう面がある.
アメリカのテレビ番組「ダイナスティ」に出てくるような,あるいは日本で想像されているような華やかで上滑りの,毎日パーティに行って,毎朝遅くまで寝ていて,義務もなくマナーもなく,召使をたくさんこき使って楽に暮らしているのが貴族だと考えたら間違いである.
彼らの生活はもっと質素で厳しい.成金貴族もいないわけではないが,そういう家族は決して尊敬されたり,憧れの的になったりすることはない.
貴族という事に関連して日本人から良く受ける質問がある.
イギリスは階級社会だから,下の階層にいる人はさぞ上の階層に行きたい,貴族になりたいと思っているでしょうね,というものである.
これについては,必ずしもそうではない,という程度にしか答えられない.
なぜかといえば,民主主義国であるにも関わらず,イギリスが階級社会として今まで残ってきた理由は,貴族だけが得をしたり,上流階級だけがいい思いをするようなことがなかったからである.
現在では原則的にはどの階級も平等であり,経済的に特権を持つことはない.
意識の上で階級制度は残っているが,これは無視しても差し支えないくらいのものだ.
極端に言えば,労働者階級は労働者階級として,中産階級は中産階級として,貴族階級は貴族階級として,どの程度もある程度まで自分の階級に満足していたから階級がそのまま残って来た,ということなのである.
もし満足していなかったら,よその国と同じように革命が起こって王政も貴族制度もなくなっていたことだろう.
イギリスは,かつて世界に君臨し,世界中から富を集めてきたというバックグラウンドがあるし,イギリス自体が豊かな国で,長い間の富の蓄積があったために,それぞれの階級が満足してきた.
欲を言えばきりがないけれども食べていくのに困らないし,仕事もまあまあだし,夏休みもちゃんと取れるからこれでいいのではないか,というふうに考える.
貴族階級は貴族階級で昔に比べればずいぶん苦しくなったし,屋敷の維持も大変だけれども,でもまあ,昔の特権を考えても仕方がない,というふうにそれぞれが考えている.
一方で,労働者階級の息子がとても頭が良くてケンブリッジ大学に進学したいと言っても,親が
「まあ,やめたほうがいいよ.うちあたりで何も大学に行って苦労することはないじゃないか」
などと言うのである.
親が子どものお尻を叩いて,いい大学に行かせ,できたらい家の娘と結婚させて,階級を上げて貴族になりましょうなどと考えている人はまずいないと言っていい.
何を苦労して上のクラスに行かなきゃならないんだ.行けば行くほど義務が増えて,小うるさいことがあって,食事にはいつもネクタイを締めていなくてはならず,何かするとすぐに「貴族のくせに」とみんなに非難される.いいことなんか何もないじゃないか.
そんな苦労をするくらいだったら,パブでのんびりビールでも飲んで,庭仕事をして暮らしているよ,というのが平均的な労働者階級の考え方だと思う.
私なども「へーえ,日本人で貴族と結婚した人」とびっくりされることはあっても,貴族になってよかったわねとか,それはすばらしいわねと言われたことは一度もない.
〔略〕
貴族の中にも貧乏な貴族もあるし,お金持ちの貴族もある.
昔から続いている古い貴族の中には,今でも悠々と自分の土地からの上がりで食べていける貴族もあるが,ほとんどの貴族は,土地とお城があればあるほど,それを維持していくのは大変だというのが現状である.
貴族の中にある幾つかの暗黙の了解みたいなものの一つは,王室にたいする忠誠心である.
イギリス人は貴族でなくても忠誠心を持っている国民だが,貴族の場合には特にそれが強い.
もう一つは,イギリスの伝統を守るということである.
イギリスの伝統を守るということの中には,自分の屋敷や畑,土地,絵,家具,そういったものを簡単に処分しない事も含まれる.
自分の家の名前を大事にすると同時に,自分の家に先祖代々から伝わってきた物をできるだけ自分の手で守っていこうと努力する.これが自分の国を守ることでもあるし,地方を守ることでもあるし,また自分の名前を守ることでもあると固く信じている.
〔略〕
貴族の邸を維持するのは非常にお金がかかることである.
貴族の邸が売りに出るときというのは,ひたすら維持費が出せないという理由からである.
大きな邸や館では,電気代だけ,あるいは暖房費だけでも1ヵ月に数万ポンドもかかるといわれる.
こんなに維持費がかかる邸を維持していくために自分の家に伝わる絵を一枚売るとか,銀の食器を全部売るとかして費用を捻出しなければならなくなる.
しかし,できるだけ売るのを避けよう,売らずに頑張っていこうと努力している人たちが多い.
そのために1年のうち少なくとも半年は邸を公開して,入場料をとって一般の人たちに見せたりする.
その収入は無税になる.そういう特別な税法があって貴族の邸は守られている.
ただし,公開している間は自分たちは住めない.
だから,邸の後ろのほうの小さい部屋に住むか,別に小さな小屋を建てて住んで,主家をいわば公衆に売り渡してしまう.
もちろん自分たちのためにも使えるから実際に売り渡してしまうのではないが,このように邸や庭を美術館とか博物館みたいにして人々に公開し,ついでにその地域でできた物産を売ったりする人もいる.
ときには,貴族の奥様が自ら案内して案内料をとることもある.
それにしても,これは全部,自分の土地や邸を守るためにやっていることである.
というように,貴族といっても何もしないで遊んで家を維持していける人はほとんどいない.
仮に自分の屋敷を公開するにしても,そうやって一生懸命働いている.
パーティとか競馬とかいう催し物には華やかに着飾って出かけるが,それ以外のときは普通の人と同じように,自分の家においてであろうと,外へ出ていくのであろうと,やはり仕事を持って暮らしているのである.
古い貴族の家系であろうと,20世紀になって貴族になった家系であろうと,現在では貴族として得をすることは財政的には一つもない.
貴族でも税金は同じであるし,むろん年金がつくわけでもない.
貴族院に出席して政治を討議している人達は時間給というか日当というか,給料が出るが,しかし非常に安い給料である.
〔略〕
ついでに,男性の貴族にとって一番大切なことは何かと言えば,危機に瀕してパニックに陥らないことだろう.危機に瀕してなおかつユーモアの精神があることだ.
ユーモアの精神はイギリス人にとって貴族から労働者階級まで不可欠の物であるが,特に貴族の場合,死ぬか生きるかというような瀬戸際に来ても,それをちょっと捻って笑い飛ばす心の余裕が望まれる.
マークス寿子著「大人の国イギリスと子どもの国日本」
(草思社,1992/7/20),p.157-164 & 167
ただし,やり過ぎるとただのモンティ・パイソンになってしまうので注意.
【質問】
エゲレス人はティータイムのためなら,戦闘中の砲撃さえ中止するって話,ヨタだよね?
【回答】
ヨタとは言えない可能性が高いかと.
たとえば他の業界の話ですが,こんな話があります.
映画「エイリアン」シリーズは撮影作業の多くをイギリスで行っており,役者の多くはイギリス在住のアメリカ人などを登用したそうです.
一方,撮影やセット制作のスタッフはイギリス人が大半なのですが,作業が軌道にのってきたところでお茶になってしまうので,たびたび作業の妨げになっていたそうです.
組合の規定でティータイムの時間が決まっているそうで,アメリカのスタッフは
「お茶係を殺したところで,翌日には別の係の者が運んでくる」
とコメントを残しています.
エイリアン2 メイキングDVDより.
http://www.geocities.jp/jgill37jp/index.htm
また,
「イギリスの病院に行ってはいけない」:NHSの問題点(4)
より.
[quote]
医療スタッフがTea timeを理由に患者を待たせることは日常的である.
10人あまりの患者がおとなしく座っている待合室の横を,紅茶を注ぎにいった医師が,それをこぼさないようにと大事そうにマグカップを持ってゆっくりと通り過ぎる.
産院に入院している妊婦の陣痛が強くなったが,平日の昼間にもかかわらず,midwife(助産婦)が全員休憩時間に入っていたために,一人残された夫が立ち会って自ら臍の緒を切る.
いずれも私が実際に見聞きした話である.
[/quote]
こんなとこだとは思わなかった!
【質問】
英国人はどれだけ紅茶に拘るのか?
【回答】
紅茶のブレンドと言うのは,地酒や地ビールと同じで,その土地の水に合わせたブレンドが為されるそうです.
ですから,英国でお土産にBrooke BondのPrince
of Walesを買ってきて,日本で飲んでも実は余り美味しくなかったりと言う現象が起きます.
これは,欧州の方は硬水なのに対し,日本の水は軟水であり,ブレンドが軟水用に成っていない為だからとか.
また,飲み方でも欧州の場合は,大抵がミルクを先に注いで,その上から紅茶を注ぎます.
この為,色味,味,コクなどはミルクが入っている事が前提です.
そのミルクも,欧州市場向けの場合は低温殺菌牛乳でないといけません.
Liptonの紅茶のテイスティングや袋詰めの工場は,主にSri
Lankaにありました.
(後に国営化,今は民営化され,民族資本が経営している)
しかしSri Lankaは熱帯ですから,こうした低温殺菌牛乳の調達には非常に苦労するそうです.
Earl GreyのEarlは伯爵と言う意味.
これは1830年にホイッグ党から久々に英国首相となったCharles
Greyから来ています.
彼が首相だった1830~34年に,中国の武夷山から摘まれたお茶と言う触込みで齎され,正山小種と言われたそれは,英国にはブラックティーとして紹介され,仄かに松の香りが漂うものでした.
Grey伯はこれを気に入り,Twiningsなどの茶商に購入を依頼します.
最初はその正山小種が輸入されていたのですが,需要に供給が追いつかず,後に,Twiningsが本物の正山小種に似たものとして,普通の中国茶葉にベルガモットオイルを使って香りを付けたのが,Earl
Greyと命名されました.
でもって,正山小種はLapsang Souchongと呼ばれます.
そのLapsang Souchongは,松で燻蒸したもので,松ヤニの香り,口の悪い人に言わせると,正露丸のクレオソートの香りが漂うもので,非常に好き嫌いの分かれるものです.
Earl Greyが嫌いな人は,先ず嫌いなお茶になるでしょう.
このお茶は,元々福建省の最も北側に当たる武夷山桐木村で摘まれた茶葉から作られたものでした.
この村には可耕地が少なく,村民は日々の糧を得る為,宋代の末期から自生している茶の木の葉を摘取って緑茶に加工して,それを商人に卸して生活していました.
紅茶を作り出したのは,明代末期から清初期の事.
その茶葉が英国に輸出されていたのが,18世紀から19世紀にかけてだったそうです.
この桐木村で作られた茶葉は天然品で,この茶葉の事を「生成の品基」と呼び,それ以外の茶は人工的に栽培されたもので,「作成の外山」と呼ばれていました.
ところが,余りにこの「生成の品基」の人気が高かった為に常に品薄となります.
そこで商人達は,「作成の外山」の茶葉を加工して正山小種紅茶として輸出した訳です.
で,この茶葉の方が絶対量が多いですから,何時の間にか偽物が本物になってしまいます.
其の上,正山小種品種の風味を知っている英国人が代替わりすると,名前だけ残り,本物がどんなものだったのか,本当の味はどんなものだったのかと言う記憶が忘れられ,失われてしまったのです.
更に清末期以降,相次ぐ戦乱によって原料茶葉の出荷が止った事もあり,益々偽物が氾濫していった,と.
本来の正山小種紅茶は,揉んだ茶葉が自然発酵し,それを止める為に火入れをする際,松の木を燃やして乾燥させた際に,乾燥室内部にその煙が侵入して,仄かに松の香りが付くのですが,Lapsang
Souchongと呼ばれるそれは,一旦出来上がった紅茶を水に一度浸し,それを燻煙する様にしています.
正山小種紅茶の香りは本来,竜眼と言う茘枝に似た果物の香りなのですが,硬水で茶葉を煮出すと,淡い香りしか漂いません.
まして輸送により4ヶ月も経っているので,更に香りが希薄になっていたと思われます.
英国の消費者達は,その香りは本来もっとするものだと考え,本当の香りのする茶葉を東インド会社に求め,東インド会社は中国の輸出業者へ,輸出業者は,生産者達へそれぞれ要求を伝えていきました.
で,生産者は考えた.
「元々,この茶葉にはこんな香りしか付かないが,もっと強い匂いって何なんだ?」
と考えた末,彼らの出した結論は,燻煙で付いた松の匂いをもっと増やすという事になった訳です.
斯くして,燻煙された茶葉が英国に齎されます.
人々は,「こんなものか?」と思ったのでしょうが,そこはそれ,中国の武夷山と言う,紅茶の原産地から齎された神秘的なお茶です.
結局,彼らはそれを有り難がって飲む事になりました.
即ち,消費者,中間流通業者,生産者の三者に誤解と錯覚があったのが,悲劇の元なんですけどね.
因みにLapsang Souchongは英国では,最も気取った時に注文する紅茶だそうです.
何か笑えますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月02日18:56
【余談】
1850年,ScotlandのGlasgowにIreland難民の両親の下に,一人の男の子が誕生しました.
難民ですから,当然暮らしは貧しかったのですが,そのうち父親は一生懸命働いて小金を貯め,小さな食料品店を開きました.
その中で育った男の子は,嬉々として商品を並べ,売ったりする事に興味を示します.
或時,彼が卵を客に売っていた親父に言いました.
「オカンにタマゴ売りをやらせたらええんちゃうん.オカンの手は小っさいから,タマゴが大きく見えるやん」(Ireland人なので大阪弁でお送りしております)
成る程と考えた親父も偉い.
こうして,彼も商売の手伝いをする事になりました.
彼が店に立つ時には,Scotland人にはScotland語で話しかけ,Ireland人にはIreland語で話しかける事で,客の信頼を勝ち取っていきます.
誰しも,自分の育った国言葉で話しかけられるのは心地良いものですから.
こうして商売のイロハを学んだ彼は,更に学校に通う為,近所の文具店で働き,その給料を学資に充てました.
やがて文具店を辞め,給料のもっと高いシャツを作る店に転職し,売込み用の生地の見本帳を作成する仕事を始めます.
13歳の時,毎日憧れて通っていた港で,大型帆船の進水を見て一大決心をし,両親を説き伏せて,蒸気船のキャビンボーイに転職しました.
週給は8シリングと,結構賃金が高かったのも魅力でした.
そんなある日,15歳になったばかりの頃,港にNew
York行きの船を見かけます.
船賃18ドルは,今まで蓄えたお金で支払い,残りは8ドルしかありませんでした.
それでも,彼は新大陸に一歩を記したのでした.
この時,彼は信用出来そうなIreland訛りの男を見つけ,こう持ちかけます.
「あんさん,船ん中にわての知り合いがぎょうさん居てまんねん.紹介したら礼してくれへんか?」
「よっしゃ,ほんまに10人以上連れて来れたら1週間宿代は只にしたる!」
これが米国に於ける彼の最初の仕事でした.
1865年の事,当時は南北戦争終結直後で経済状況が悪化していましたが,それでも彼は持ち前の才覚で,Virginiaのタバコ農園で働き,後にSouth
Carolinaの農園で運転手になるなど,3年間,ひたすら働き続けました.
そして3年後,New Yorkの百貨店の食料品売り場で働く口を見つけます.
彼は水を得た魚の様に働き,仕事熱心で昇進も早く,このまま続けるとその百貨店でも経営者に成る事も出来たかも知れません.
しかし19歳になると,彼はあっさりその地位を投げ捨て,再びGlasgowに帰って行きます.
Glasgowに戻った彼は,直ぐに新しい荷馬車を準備し,両側に店の名前を入れ,それに乗って帰宅しました.
荷台には,母親の為に一樽の小麦粉とロッキングチェアが載っており,懐には商売資金の500ドルが忍ばせてありました.
21歳の誕生日に,彼は親父から独立して自分の食料品店を持ちました.
扱い品は,父の店と同じくチーズ,ハム,ベーコン,バター,卵と言ったIrelandの産物で,店員は彼と手伝いの少年,それに猫1匹でした.
彼は宣伝の才に長けていました.
彼のモットーは,「商売は身体と宣伝が資本である」と言うもの.
店に掲示板を掲げ,地方新聞の連載漫画や面白い絵,値札もスマートなものを造り出します.
例えば,店頭にペンキで描いた大きなハムの看板を掲げます.
これが夏になると暑さでペンキが滲んで柔らかくなり,さも脂がのった本物のハムに見える様に工夫したり.
はたまた,一頭の泣いている豚を背負っているIreland人の絵を描き,Ireland人の台詞に,「このブタ,身寄りがおらんねんて.で,家族は全部彼の店にいるんやて.可哀想やさかい,わてが連れて行ってやりますねん.」…非常にブラックユーモアというか何というか.
その広告が評判を呼ぶと,今度は良く太った2頭の豚のしっぽにリボンを結び,脇腹には「○○屋の孤児」と大きく書いた旗を立てて,2人のIreland人の格好をした男達と共に,町中を練り歩きました.
彼らは,警察署の前にだけは行くなと厳命されていましたが,人混みと豚の力に負けて,警官の目に付いてしまい,人集りによって,荷馬車が通行出来なくなって遂に警官の出動と相成ってしまいました.
当然,警察からは大目玉を食らったのですが,この事件は新聞に書き立てられ,更にこの店は有名になってしまいました.
彼は更に宣伝の方法を考えます.
店の入口に凸面鏡,出口に凹面鏡を置いて,入口の鏡に「私は○○の店に入る」と書いておいて,凸面鏡の効果で客の姿は細長く痩せて見える様に,出口の鏡には「私は○○の店から出て来た」と書いてあって,凹面鏡の効果で客の姿は健康的に太って見える.
当時は,痩せは不健康だと思われていたので,この効果は絶大でした.
更に,彼は太った若い女性を何人も雇い,「私は○○の店で買い物をします」という駕籠を持たせて町中を歩かせ,彼の店で食品を買うと健康的になると言うイメージを大衆に植え付ける事に成功しました.
27歳になると,益々彼の才能は溢れ出て,終にはScotlandの大銀行が出している1ポンド紙幣と同じ大きさ,デザインそっくりの紙幣をも出してしまいます.
王室の紋章の下に店の名前が書かれ,発行者の名前も彼の名前でした.
その紙幣には,「Ireland産のハムとバター,卵の市場.私の経営する店は何処でも,ハムとバターに関しては15シリングで提供出来る」と書かれていました.
当時,ハムとバターを他の店で買うと1ポンドはしたので,これは大幅な値引き広告.
しかも,1ポンド紙幣と同じデザイン,大きさで,他店を皮肉ると言う事まで遣って退けました.
1880年代になると,彼の店の名物は,Christmasに作る「チーズのお化け」でした.
彼は作る前から,
「雌牛800頭6日分の牛乳で作ったチーズ.乳搾りの女性の数は20人」
と前宣伝を仕掛け,更にこのチーズには金貨を沢山入れて,その現場を大衆に公開しました.
これをカットした日には,あっと言う間にチーズは売り切れになってしまいます.
「チーズの中に金貨を入れるのは違法」
と言われると,ビラでこう告知しました.
「チーズからもしも金貨が出て来たら,私の店にお返し下さい」.
「もし金貨を飲み込んだら死んでしまう.販売を中止しろ」
と警察から指導が来たら,
「私の店のチーズには金貨が入っていて,飲み込むと窒息する危険があります」
と言う,警察からのご注意と言う広告を新聞に出し,更にチーズは売れるという結果を生みだしました.
彼の考えはこうでした.
「御店が2店になったら,利益は2倍や.御店の数が増えるだけ利益は増える」
その考え通り,1号店開店から3年目に2号店が出来,半年後には3号店が出来ました.
そして10年後には,店の数は20軒以上となり,800人以上の従業員を雇う一大企業に成長していました.
因みに彼の座右の銘は,
「商売ほど楽しいものは他にない」
ですが,もう一つ,鉄則にしているものもありました.
「生産物は問屋からではなく,作っている人から直接購入する」
です.
直接仕入れる事で,新鮮さは失われる事がありません.
しかも,良品か否かは自分の目で確かめる事が出来ます.
こうして彼は,Irelandに出かけて農産物を仕入れた他,米国から大量のベーコンを,Denmarkからは質の良いバターを仕入れたのです.
その彼の名前ですか?
彼の名前はThomas Lipton.
今,日本人でも誰でも知っている,あの黄色いTea
bagと赤字に白抜き文字のブランドの人です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月03日21:44
昔は,生協もこうした活動をしていたのに,今は全く食品商社ですねぇ.
一体,何処でどう間違えたのか,初心に帰れと生協には言いたい.
1880年代に入ると,英国では紅茶を日常的に飲む習慣が定着し,消費量も年々増加していきました.
茶商たちは,取扱い店舗を増やそうと懸命で,Thomasの店にも目を付けました.
彼も従来の父親の扱い品目とは異なる紅茶を扱いたかったのですが,先ず彼は:,紅茶の利益率を計算してみました.
彼は実際にLondonの紅茶取引の中心街で茶葉を購入し,人件費,運送費,経費其の他を差し引いて,一体どのくらいで利益が出るのかを試算してみたのです.
すると,一般の小売店が1ポンドの茶葉を2シリング6ペンスで売っているのに対し,1シリング7ペンスでも十分に利益が出る事が判りました.
更に,彼の店で紅茶を売る際に,少しでも付加価値を付ける為,Tower
Tea Co.のWilliam Long,Thomas Longと言う二人のブレンダーをヘッドハンティングして,オリジナル茶葉のブレンドを作り,これをTowerと言う商品とLondon
Brokenと言う商品として販売しました.
1シリング7ペンスの紅茶は,1889年の販売開始と同時に英国内にセンセーションを巻き起こしました.
それは安く,それでいて香りも良く,味も最高という三大要素を全て含んだものだったからです.
また,彼は紅茶の売り方にも工夫を施しました.
今までのお茶の売り方は,大きな箱から茶葉を客の注文に応じて取り出し,カウンターの奥で量り売りすると言うもので,客はその量が正確か否か判断出来ない上に,客が立て込んでくると時間が掛かってサービスが十分に行き届かない所がありました.
其処で彼の店では,予め茶葉を1ポンド,半ポンド,4分の1ポンドの量に計って袋詰めしておくと言う方法を採りました.
これなら,客が押し寄せても直ぐに対応出来ますし,客は誤魔化しとかを気にする必要がありません.
しかも袋にはブレンド名,茶葉の品質などの情報を印刷する事も出来ますし,一々箱を開けて湿気に晒して,新鮮さを損なう必要もありません.
斯くしてこのアイデアも大ヒットし,売上が急増する事になりました.
彼のアイデアは留まる所を知りません.
同じ紅茶でも水質によって香り,水色,味が異なる事が判ると,地域毎にその水質に合ったブレンドをすると言う事を遣って退けます.
これまた,自分の生まれ育った土地に愛着を持つ人々にとっては,Thomasの店の紅茶以外は紅茶ではないと言う刷り込みを与える結果になりました.
更に,紅茶の袋にはブランド名を印刷するべく,印刷所を設立して,其処で袋の印刷を一手に行い,20カ国語の文とポスターを作って茶葉と共に送り出したり,狭い地区では数百人の男に中国人の扮装をさせ,胸と背にブランドの名前を書いた看板を付けさせて町中を更新させたりもしています.
しかし,一つ物足りない所がありました.
それは,幾らブランドを確立しても,彼のモットーである生産者からの直接仕入れではなかった事でした.
1890年夏,彼はAustraliaへの航海の途次,セイロン島のColomboに立ち寄ります.
丁度,Londonの銀行家から,この島の茶園が売りに出されているとの情報を得た為です.
彼は到着の翌日から早速,Candyとその北側に拡がる茶の栽培地区を訪れ,1000mの高地に拡がる茶園を見学します.
そして,現地を見て彼は,この茶園への投資の将来性を確信し,10万ポンド以上を投資して,島の南東部Uvaにある3,000エーカーの茶園の買収を手始めに,各地の茶園を買収した上,Colomboに,ブレンドとパッキングの工場を設け,其処から世界中に紅茶を輸出する体勢を整えました.
この生産地でも彼のアイデアは尽きる事はありません.
工場では,生葉を摘取る以外の人力は極力省き,機械化を進める事で,大量生産を可能にし,しかも品質の優れた茶葉を作り出す効率化が進められ,結果的に,何処の紅茶よりも安く,衛生的で品質の安定した良質茶を作る事が出来る様になりました.
また,茶摘みの工程も,従来はタミルの女性達が急な斜面や足場の悪い土地で,摘取った茶葉を頭から吊し背負って運ぶ危険な作業を行い,実際に事故が多く効率も悪いものでした.
其処で彼の茶園では,山頂から工場までロープウェイを敷設して,大量にかつ安全に運べる体勢を整えました.
こうして帰国したThomasの事業は益々発展を続け,遂に彼は億万長者にのし上がります.
しかし,この儲けは全部事業の拡大に注ぎ込み,私生活には殆ど使いませんでした.
事業は工場,倉庫,流通,店舗,印刷に拡大し,従業員も1万人を超え,Glasgowを本拠にするのも不便になり,本社機能をLondonに移し,自分の事業を会社組織に変更しました.
それでも生活は質素で,屡々,邸宅に戻らずに店のカウンターの中で寝込む事もありました.
因みに,彼は生涯独身を貫きます.
あるとき彼の友人が,彼に何故結婚しないのか,問うた事があります.
彼の返事はこういうものでした.
「いやぁ,紅茶の値段が嫁はんを養うのには安おますさかいな.」
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月04日20:44
1890年,LiptonはCeylonの茶園で目ぼしいものを買収し,1894年には自社工場をColomboに建てて,ブレンドと製茶を行い,此処から英国に輸出する事にしました.
その時に彼が用いたキャッチフレーズ,"Direct
From The Tea Garden To The Tea Pot"は,英国国民に大反響を呼び,Liptonブランドの紅茶は,売れに売れ,自社の茶園では賄いきれない程になりました.
其処で,やむなく,Londonのティーオークションで茶葉を手に入れたり,Colomboのオークションで茶葉を手に入れたりしました.
1893年には,IndiaのCalcuttaにも買い付けの為の支社を設立し,茶葉の確保に努めていました.
それより以前の1883年,彼は米国に紅茶を輸出します.
その手法は,英国の様な小売店での展開ではなく,市場の大きさを見込んだ,卸売りとしての代理店を持ち,其処から末端に拡げるという手法をとりました.
Chicagoに置いた米国のLipton代理店には注文が殺到し,その評判を聞いて,全米に支店を持つ大小売店チェーンや商人たちから紅茶扱いの申し込みが殺到しました.
更に,効果的にLiptonブランドを宣伝する為に,Chicago万国博に自社の紅茶を出品し,見事に金賞を得た事で,名実ともに,世界のブランドとして,Liptonの紅茶は認められる事になります.
Liptonが英国政府に支払う紅茶の輸入税は常にトップで,その輸入量は誰にも追い抜かれる事はありませんでした.
その記録を更新するのは何時もLiptonだった訳です.
さて,そんな自他共に認める大金持ちのLiptonですが,生活は質素で,散在をする訳でもなく,紳士としての嗜みである賭け事やら馬鹿騒ぎには一切参加しませんでした.
と言っても,世捨て人でも変人でもなく,服装は何時もお洒落で,人には親切であり,貧者には特に進んで施しを与える様な人でした.
1897年,英国ではVictoria女王即位60周年記念日に,皇太子妃の名で貧しい人々に求職を出すロイヤルディナーが計画され,皇太子妃はその資金の一部として100ポンドを寄付した,と「Times」に報じられました.
Liptonもこの時,ディナーに必要な紅茶と砂糖を寄付したいと申し出ます.
この事が評判となって,ディナーの企画は広く宣伝され,London市長からもお礼の言葉が丁寧に返されました.
その答礼に市庁舎を訪れたLipton,市長に基金の集まり具合は如何かと尋ねると,未だ5000ポンドしか集まっておらず,可成り困っていると言う話が出て来ました.
ディナーには3万ポンドが必要です.
其処で彼は即座に小切手帳を出し,不足分2万5000ポンドを記入して,市長に手渡します.
しかし,彼はこれは匿名の寄付として扱って下さいと言う風に言ったのです.
こうして皇太子妃の面子は保たれ,かつ,匿名の寄付者が誰かで世間の噂は持ちきりとなります.
報道は益々過熱し,彼の下にも何度も記者が訪ねてきましたが,彼はすっとぼけ,
「ええ? わてが寄付? そんな…2万5000ポンド,ポンと貸してくれる人がいたら教えて貰いたいですわ.」
と答えてみたり.
10日に渡って報道合戦が続き,そろそろそれも沈静化仕掛けた時,Liptonは市長に,寄付者の公開を許しました.
実は彼が寄付者だった事が判り,世間は喝采し,彼の名声は益々上がり,普段広告に使う分の2倍以上の効果を上げました.
このロイヤルディナーの後,貧民に数ペンスで栄養のある食事を与えると言う,Alexandera基金が設けられ,彼はこれにも10万ポンドを寄付します.
この基金の名前は皇太子妃の事で,彼はこの事業で王室と関係を深め,1898年にはknightの称号を受ける事になります.
Sir Thomas Liptonの誕生です.
この年から彼の事業は彼の個人商店から会社組織になり,彼は会長職に収まります.
しかし会社組織になった事により,彼の手塩に掛けたブランドは法人格を持ち,自分の手を離れていきました.
以後は,悠々自適の生活を送る事になります.
が,1899年から1930年の間,彼が凝ったのが,アメリカズカップへの挑戦でした.
彼は有り余る資金を背景に,Shamrockという船名のヨットを1世から5世まで相次いで建造し,このレースに参加します.
これで1回でも優勝したのなら,話は出来すぎですがそうは問屋が卸さない.
結局,彼は1回も優勝カップを手にする事はありませんでした.
1930年,彼は80歳でしたが,Shamrock5世を駆ってレースに挑み,見事に負けました.
そして,彼はこう言い残します.
「ヨットレースの結果がどうあれ,最高のヨットが勝つ事を信じている」
と.
こうしたfair playの話に弱い米国人達は感激し,Liptonこそ英国を代表する最高の大使であると称賛して,アメリカズカップよりももっと名誉あるゴールドカップ,それは当時6000ドルもする高価なものでしたが,これは全て大衆の寄付によって集められたカップを,
「世界のベスト敗者」
と言う称号を付けて贈りました.
因みに第一次大戦中,彼は自分が普段使っている蒸気エンジン付き大型ヨットを,自費で病院船として改造させ,英国政府に寄付する事もしています.
1931年9月15日,彼は81歳で急死します.
2日前の午前中まで,会食に出て,人々と言葉を交わした後,午後に寝室で倒れている所を発見されたのです.
2日の昏睡の後,彼は息を引取りました.
葬儀はGlasgowで行われ,彼は両親の墓のあるGlasgowの貧民墓地に埋められました.
そして,当時の金額で700万ドルに達する財産を残しましたが,身寄りのない彼の遺言は,これを全てGlasgowに寄付し,病人と貧民を救う基金に充てられました.
良いお金の使い方か否かは判りませんが,これは確実に生きたお金の使い方ではないかと思いますね.
今の日本の企業経営者にどれだけこうした気概のある人物がいるのでしょうかねぇ(嘆.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月05日22:03
【質問】
【イギリス】ヘンリー王子が「特別扱い」に反発,同僚と同じ待遇でアフガン前線を志願
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1145781074/
ヘンリー王子は20歳で入ったらしいけど,1年で卒業って早すぎない?
【回答】
大学レベルの高等教育(教養+理工系専門)
+数年間の全寮生活による人格教育
+初級士官に必要な軍事教育
をおこなう米軍や自衛隊の士官学校(防衛大学校)と違って,イギリスの(陸軍)士官学校は初級士官に必要な軍事教育のみをおこないます.
リーダーに必要な教養教育や人格教育は,(エリート中等教育である)パブリックスクールで受けている,という建前になっています.
そのため,イギリスの士官学校は1年(というか,熊谷氏の本には9か月とあった記憶が)制なのです.
最近はさすがにそれでは足りないので,任官後に大学に遊学させたりしているようですが.
ソースは,かなり古いですが以前に読んだ,熊谷直著『軍学校・教育は死なず』(光人社,1988.4).
英国士官学校での訓練の一こま
(うそ)
(画像掲示板より引用)
【質問】
イギリスの国教は英国国教会なのに,なぜ従軍司祭は救世軍なんでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E7%89%A7%E5%B8%AB
に,「イギリス軍とオーストラリア軍の従軍司祭は~」と書いてたもので…
【回答】
イギリス軍の従軍司祭は救世軍だなんて,どこにも書いてないわけだが.
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Army_Chaplains_Department
ふつーに,ユダヤ教を含むいくつかの宗派の坊さんがやってるみたいなわけだが(同上).
Jewish (currently only in the Territorial
Army) or
* Church of England (including the Church
of Ireland, Church in Wales and Scottish
Episcopal Church)
* Church of Scotland (including the Presbyterian
Church of Ireland)
* Roman Catholic Church
* Methodist Church
* United Board, incorporating the Baptist
Church, United Reformed Church and Congregational
Church
オーストラリアについても英国と同様みたいだよ,従軍牧師.
「Catholic, Anglican, Protestant, and Jewish」
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Australian_Chaplains_Department
ひどいな,その日本語版Wikipedia.
Wikipediaが常に間違ってるとは言わないが,国外のことについては,その母国語で書かれたWikipedia読む方が安全だよ.
読めない言語は仕方ないけど.
軍事板
青文字:加筆改修部分
ちと知り合いの救世軍士官に聞いてみた.
――――――
正確に言いますと,救世軍だけがイギリス軍の従軍牧師を務めているわけではなく,イギリスのキリスト教の各教派が従軍牧師を出しています.
救世軍の従軍牧師は,単に礼拝を司式するだけではなく,食事や娯楽の提供を行なう中で,霊的な働きもする,というのが特色です.
現在はイギリス国内数カ所と,ドイツのNATO軍駐屯基地内に,救世軍のレッドシールクラブ(軍人クラブ)が設置されています.
救世軍が最初に従軍奉仕班を派遣したのは,19世紀末の南アフリカのボーア戦争でのことです.
その後,救世軍は世界各地のイギリス海軍の駐屯地や寄港地にレッドシールドクラブを設置しました.
この時,横浜にも設置されています.
救世軍が大規模に従軍奉仕事業を展開するようになったのは,第一次世界大戦のことです.
詳細な内容が,次のURLに記載されていますので,お読みになってみてください.
http://members.at.infoseek.co.jp/kindoochan/war_relief_work.html
http://angel.ap.teacup.com/warwork/
――――――
ついでに言えば救世軍の牧師は士官と呼称され,救世軍の士官学校を卒業しないとなれない.
階級は中尉・大尉・少佐・大佐補 Lt.Colonel
・大佐・中将・大将.
昔は少尉と中佐もあった.
英語の階級名は英陸軍に準拠.
ただし中将はCommissioner.
http://en.wikipedia.org/wiki/Officer_of_The_Salvation_Army
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
イギリスにも米軍が駐留してるらしいですが,なぜでしょうか?
かつては大英帝国として世界に君臨して,その後も戦争で負けたわけではないし,核武装国ですよね.
【回答】
調べれば分かるんですが,英国に駐留している米軍はほとんどが航空戦力なんですよ.
米軍が英国に駐留を始めたのは,WW2での欧州反抗の拠点とされたためなのですが,終戦後のソビエトとの対立による冷戦構造の構築や,NATOの結成と言った流れの中で,再び対ソ連のための拠点として英国は利用されたわけです.
かつてNATOで描かれたシナリオの中では,英国はいわば「不沈空母」としての役割をになっていました.
ワルシャワ条約軍の侵攻が始まった場合,緒戦の一撃,その後の防空戦闘や対地支援で拘束されて,西独空軍や西独駐留米空軍は有効な反撃を行えない状態になると予想されます.
米軍の支援が到着し,NATO軍が反攻に転じた際に,ワルシャワ条約軍の後方を空爆して支援を絶ち,敵OMGの突破衝力を和らげるのが,英国駐留の米航空戦力の役目でした.
また,グリーンランド,アイスランド,イギリスの間の海域(いわゆるGIUKギャップ)の封鎖を英海軍と共に行い,ソビエト海軍の潜水艦や空軍の戦略爆撃機を阻止するのも重大な役目でした.
さらにいうと,最近でもブレア首相がMD施設受け入れを米国に打診しているという話があったりします.
unknown
▼ 英国駐留航空戦力の主な戦術航空打撃戦力はF-111E/Fでした.
西側最良のディープストライカーとして,英レイクンヒース空軍基地の第48戦術戦闘航空団や,英アッパーヘイフォード空軍基地の第20戦術戦闘航空団『所属のF-111E/F』は,戦術機としてはNATO軍最大の抑止力として存在していました.
第20戦術戦闘航空団(20TFW) (F-111E,EF-111A)70年9月12日~91年10月1日
・第55戦術戦闘飛行隊(55TFS)
・第77戦術戦闘飛行隊(77TFS)
・第79戦術戦闘飛行隊(79TFS)
・第42電子戦飛行隊(42ECS)(84年2月3日~85年7月1日→66ECWの指揮下→91年1月25日~)
第48戦術戦闘航空団(48TFW)(F-111F)77年7月~91年10月2日
・第492戦術戦闘飛行隊(492TFS)
・第493戦術戦闘飛行隊(493TFS)
・第494戦術戦闘飛行隊(494TFS)
・第495戦術戦闘飛行隊(495TFS)
※エルドラド・キャニオン作戦に参加したのは48TFWからの18機(F-111F)と42ECSの11機.
※湾岸戦争では48TFWはサウジアラビア・Taif
AFBへ,20TFWは7440WG(P)としてトルコ・インシルリクAFBへ派遣された.
【参照】
世界の傑作機 No.62「ジェネラル・ダイナミックスF/FB-111」
http://www.globalsecurity.org/military/library/report/1995/andrews.htm
邪夢 in mixi,2009年03月09日21:32
▲
【質問】
何でブリテンは,自国向け装備をわざわざデチェーンするのかな?
【回答】
変なバリエーションに対応させられるメーカへの嫌がらせ.
デチューンした装備を使わねばならない自国兵士への嫌がらせ.
変な兵器で攻撃される敵対勢力への嫌がらせ.
ついでに,兵器のバリエーション増加で,薀蓄話のネタが広がり,バーやクラブですごす時間を,より有意義なものにすることが出来る.
軍事板,2010/02/25(木)
青文字:加筆改修部分
基地内のバーやクラブが有意義に過ごせるのも,デチェーンのお陰です!
お陰で酒造業界が大助かりです!!
CRS@空挺軍 in mixi,2010年02月27日22:28
【質問】
英国機のいい洋書とかあったら,情報ageて欲シー
【回答】
洋書:Dehavillan Twin Booms
本当はDehavilland Twin Boomsなのだが,なぜかamazon.co.jpだと上記の表示なのだ.
現在¥1,939
アマゾンのカスタマーレビューより;
『イギリス軍戦闘機「バンパイヤ」「ベノム」「シービクセン」の写真集.
殆どの写真が日本未公開で,デ・ハビラント社のツインブーム機の独特の姿を堪能出来ました.
特筆すべきは,全ページの殆どがカラー写真!
文字は少なめですが,写真資料としては満点なのではないでしょうか!
[後略]』
洋書:British Secret Projects: Jet Fighters
Since 1950
イギリスの本なのでポンド建てゆえ,アマゾンでも¥4,698とお高いが,なかなかの内容.
図面も多い.
ちなみにこれは「戦闘機編」.
「爆撃機編」のタイトルはBritish Secret
Projects: Jet Bombers Since 1949
こちらは刊行されたばかり.
値段は¥4,705-.
アマゾンのカスタマーレビューより;
『第二次大戦中のドイツ計画機を紹介した本は,今まで数多く刊行されましたが,戦後のイギリス計画機の本は余り多く出ていません.
本書は,大戦後のイギリスで計画された戦闘機を豊富な図版で紹介した数少ない本で,実用化されたホーカー・ハンター,E.E.ライトニング等に相当する,イギリス各社の計画機の図面,模型写真等が掲載されています.
イギリス機自体,シービクセン,ライトニング等,お馴染みの機体も充分ユニークなスタイルですが,それら実用機と同様に,各社が提示した計画機もユニークなスタイルで,もし仮に実用化されても駄っ作機呼ばわりされたのは確実でしょう.
イギリス人の発想だからユニークなのでは無く,計画段階では奇抜な案も数多く出るのは何処の国も同じ様で,計画が進むにつれて!奇抜な案は段段ふるい落とされ,当たり前の案に落ち着きます.
もっとも,イギリス機に関しては,実用機も計画機も大差無い様な気がします.
[後略]』
「Avro Arrow」(Arrowheads:著)
価格:¥2,754
カスタマーレビュー;
アブロ・アローとは直線翼のCF-100カナックの後継機として,カナダのアブロ・カナダ社で開発された,無尾翼高翼デルタ翼の超音速迎撃戦闘機です.
[中略]
本書はアブロ・アローに関する最高の資料です.開発開始から中止に至る迄の経緯が,詳しく記述されています.
写真も豊富に掲載され,細部写真も載っています.
実機のマニュアルから転載された図版も豊富です.
日本で書かれたアブロ・アローの記事 の殆どはこの本からの引用です』
軍事板,2003/03/24-
青文字:加筆改修部分
以下,情報を発掘出来次第,随時追加予定
【質問】
飛行機の尾翼なんかに書いてあるターゲット・マーク(◎など)には,なにか実用的・機能的な理由があるのですか?
また,爆撃機ヴィッカーズ・ウィニーの機体に書かれていたG-EAOUの文字は,"God
Elp' All Of Us"を意味するらしいですが,Vickers
Vulcan"G-EBET",DH-50J"G-EBFO",このへんの略語の意味がググってもわかりません.
教えてくださいプリーズ.
【回答】
胴体の中隊符号のことなら,国籍マーク左側のアルファベット2文字が中隊を示し,右側のアルファベット1文字が中隊中の個々の機体を表しています.
なお,アルファベットの"I"と"C"は紛らわしいので使っていません.
開戦後,中隊だけで用いられていましたが,実戦訓練部隊,機種転換部隊にも使用が拡大し,また,中隊数も増えたため,アルファベット2文字の組合せが不足し,アルファベット1文字と数字の組合せ,次いで,使用されていなかった"I"と"C"も使われ,最終的に1桁の数字とアルファベット1文字も出現します.
但し,2桁数字は出ていません.
なお,連隊長搭乗機は連隊が数個中隊より成っていたため,中隊符号が用いられず,多くの場合,連隊長の頭文字が用いられました.
これは1938年9月から使用が開始され,1939年9月に一度改訂,そのまま1951年まで使用されていますが,符号に関しては中隊ごとに幾度か変更されています.
余談ながら,海軍機は,尾翼に所属空母か陸上基地のアルファベットを付けています.
1文字は空母,2文字なら陸上基地を表します.
例えば,中隊符号としては….
(1938~1939)
KA(第9中隊),NQ(第43中隊),FZ(第65中隊),TW(第90中隊),NJ(第207中隊),RL(第603中隊)
(1939~)
JX(第1中隊),MG/XU(第7中隊),PH(第12中隊),FT(第43中隊),US(第56中隊),EY(第78中隊),SR(第101中隊),JU(第111中隊),ZM/NS(第201中隊),GX/NH/6U(第415中隊),Z9(第519中隊),UF(第601中隊),NG(第604中隊),FY(第611中隊),AJ/YZ/KC(第617中隊)
(1937~46)
A(空母アーク・ロイヤル),M(マルタ),O(空母オーシャン),GP(ゴスポート)
(1945~55)
A(空母インドミタブル),J(空母イーグル),R(空母グローリー),W(空母ウォーリア),FD(フォード),HF(ハルファ)
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
対潜哨戒機は,高速性より低速性能を要求されるため,また,滞空性能(燃費)上有利なため,プロペラ機の方が都合が良いそうですが,ではなぜ「ニムロッド」は4発ジェットなのですか?
【回答】
コメット4がベースだから,ニムロッドは確かに4発ジェットだ(^_^;)
ただあれは,デ・ハビランド救済のため買い取ったものであって,最初から想定して造った物では無い.
それにジェットと言っても,P3Cと性能はどっこいどっこいなんじゃないかな(未確認です)
それをまだ改修して使おっつうのだから,さすが英国.
対潜哨戒機は機体性能要求は平凡なので大抵一世代前の機体か,適当な機種を転用している.
専用の機体を一から設計した例はほとんど無いんじゃ無いかな?
経済的な面からは,米軍がP3Cから何かに乗り換える時に便乗する方が安上がりだと思うし,他国(米国含む)と共同開発して多数作る方がコストが下がるのでは無いかと思う.
【質問】
BAC TSR-2って何?
3行以上で教えて!
Mi az BAC TSR-2?
Kérem, mondja el a három vagy több sorban.
【回答】
1956年に英空軍の超音速侵攻偵察攻撃機計画 OR.339により開発が始められた航空機.
英国国内の18社あまりの航空機メーカーが設計案を提出したが,1959年1月,イングリッシュ・ エレクトリック社とビッカース・アームストロング社に対して半々の役割で開発契約が与えられ(それぞれの会社の意向は無視された形となったが),両社はBAC(ブリティッシュ・エアクラフト)社を新 たに設立し,開発にあたることとなった.
1964.9.27,試作機が初飛行.
試験飛行では高性能を見せていたが,野心的な要求内容により開発が難航した上,開発費も高騰.
1965年4月,予算超過を非難する労働党が,政権の座に就くや,開発は中止され,原型機数機は全廃棄された.
【参考ページ】
http://www.geocities.jp/protoplanes/TSR2.html
http://d.hatena.ne.jp/wrx-sti/20141106/1415277455
http://military.sakura.ne.jp/aircraft/2_tsr2.htm
TSR-2側面図
(画像掲示板より引用)
https://www.youtube.com/watch?v=DEiNvasTo1U
【ぐんじさんぎょう】,2016/10/29 20:00
を加筆改修
【質問】
アメリカのB-1B爆撃機開発が復活した時に,イギリスも取得を研究したらしいが,なんで採用にならなかったの?
【回答】
当時は緊縮財政だったので流れた.
また,アメリカの申し出を断った.
アメリカは前科持ちだからね.
F/FB-111しかり,スカイボルト空中発射弾道弾しかり.
全部イギリス独自案を引っ込めた後に,アメリカによっておじゃんになった.
もう,空軍的には核をアメリカによっかかりたくなかったんだろう.
結局,海軍がトライデント潜水艦を取得する訳だが,英議会はこれによって,核装備にかかる費用を四分の一に削減出来たと言っていた.
オチとしては,空の核を放棄して正解だったんだろう.
軍事板,2003/03/31
青文字:加筆改修部分
【質問】
イギリス海軍の保有ヘリは?
【回答】
ウェストランド/アグスタ マーリンHM Mk.1×42機
ウェストランド/アグスタ マーリンHC Mk.3/3A×15/3機
ウェストランド シーキングHU Mk.5×15機
ウェストランド リンクスHAS3/HMA8×34/34機
ウェストランド シーキングHC Mk.4×36機
ウェストランド シーキングASAC Mk.7×13
ボーキング チヌークHC Mk.2/2A/3×32/6/8機
ウェストランド リンクスAH Mk.7×6
ウェストランド/ボーイング WAH-64D AH Mk.1×66
他にドーファン2を要員連絡用に持ってます.
2011年6月,最新のジェーン年鑑より.
早期警戒から輸送から戦闘から,ほとんど全部の任務をヘリで賄わざるを得なくなったロイヤル・ネイビーの悲哀がここに・・・(´;ω;`)ブワッ
将来的にはF-35の他,オスプレイやE-2の導入も俎上に上がってはいますね.
すでに導入決定したものとしては,アグスタ/ウェストランド
ワイルドキャット戦闘ヘリ28機(2015年頃)
ゆうか ◆u8WC078ef5ch :軍事板,2011/10/17(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
空自のC-1導入時に比較検討された,イギリスの輸送機って何だっけ?
【回答】
アームストロング・ホイットワースAW-650アーゴシーの事だな.
当時はC-130も国産機XC-1と競争になったが,結局ジェットで迅速に移動出来るとして,川崎C-1が勝った.
そのC-1の後継機(補充機)がC-130なのだから,なんとも複雑な気がするが.
ちなみにアーゴシーの得点はC-130よりも高く,特にSTOL性能は優れていた.
JATO(離陸補助ロケット)を使うと僅か400mで離昇出来たとか.
また,アーゴシーは双胴だから,空挺降下がし易いってふれ込みだった.
ウチの上司なんかは,変わったヒコーキだってんで,採用を心待ちにしていたクチだったそうだ.
しかし,すでに販売が進んでいたC-130の世界市場を喰うまでには至らず,僅か10機のみの販売記録を残しただけだった.
軍事板,2003/03/25
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦後の英軍練習機の移り変わりは?
【回答】
第二次世界大戦が終わると,軍用機の近代化に沿って,各国とも練習機の近代化が始まります.
今まで初等練習機と言えば複葉機が相場だったのに,流石に開放式座席の固定脚複葉機と言うのは,実用機が単葉引込脚が主流となると,性能的にそぐわなくなり,新しい機体が要求されることになります.
英国の場合は,固定脚ながら低翼単葉縦列複座で,密閉式風防を備えたデ・ハビランド・カナダDHC-1チップマンクが1946年に初飛行しました.
そして,英国空軍に735機,カナダ空軍に158機が生産され,英連邦を中心に各国に輸出されて1953年まで生産されました.
中間練習機としてはパーシヴァルP.40プレンティスが採用されます.
これも,1946年に初飛行した低翼単葉固定脚の機体で縦列複座でした.
しかし,これはチップマンクの倍の馬力のエンジンを搭載しているにも拘わらず,最大速度が230kmとチップマンクの222kmと大して変わりが無く,370機の生産に止まりました.
ただ,時代は急速にジェット化に進んでおり,この程度の練習機では既に性能不足は明らかでした.
そこで,ハーヴァードに代わる中・高等練習機として近代的な練習機の仕様書が纏められ,ボールトンポール社とアヴロ社の競争試作として,ボールトンポールP.108バリオールが1947年5月,アヴロアテナが1948年8月に完成しました.
両方ともエンジンはR.R.マーリン35,1,245馬力を搭載し,並列複座,機首下面に冷却器を装備とそんなに変わらないレイアウトで,大きさも重量も殆ど変わらない機体となります.
流石にジェット化の時代に一昔前のスピットファイアのエンジンを持ってしても性能不足で,マンバターボプロップエンジンへの換装も考えられましたが,結局は実現せず,バリオールが162機,アテナが50機の生産で終わりました.
この頃の英国空軍は,航空機の急速な性能向上に右往左往していた時代で,色々と試行錯誤を重ねています.
プレンティスに代わる中間練習機として1950年2月にハンティング・パーシヴァル社はP.56プロボストの開発を行いました.
この機体は,今までの初等/中間練習機よりも高出力高性能を狙った機体で,エンジンには今までとは異なり,550馬力のアルビス・レオナイズ126空冷星形エンジンを搭載し,並列複座の機体で最大速度は322km/h,巡航速度260km/hと言う性能でした.
これはチップマンクよりも強力な機体で,以前,パーシヴァルが開発したプレンティスよりも高性能でした.
ただ,この機体が出現した当時,他国では戦闘機ばかりで無く練習機までもジェット機となっている時代であり,折角の高性能でも,ピストンエンジンの機体では性能に限界があるとされ,結局387機生産されたのみでした.
ところで,英国空軍では第二次世界大戦末期にジェット戦闘機としてグロスター・ミーティアの実用化に成功し,戦後も戦闘機はデ・ハヴィランド・ヴァンパイア,ホーカー・ハンターと言った機体を矢継ぎ早に開発していきます.
勿論,こうしたジェットパイロット育成の為,1948年3月にはグロスターG.43,即ち,グロスター・ミーティアの胴体を0.76m延長して縦列複座練習機としたミーティアT.7の初飛行に成功し,1950年11月にはデ・ハヴィランド・バンパイアの並列複座練習機型であるヴァンパイアT.11を初飛行させました.
ただ,これらの機体は元々が実用戦闘機である為,相当な技術レベルにある者で無いと乗り熟すことが出来ず,また訓練時間当たりの飛行経費も大きく,戦後の軍縮機運に於て費用圧縮が叫ばれる中,無尽蔵の訓練も出来かねる状況を生み出します.
こうして,小型のジェットエンジンを搭載して,飛行時間当たりの経費を安く抑えると共に,低速,操縦性容易という点を活かしてジェットパイロット用の初歩練習機を開発する事,また金のかかるヴァンパイアトレーナーでの訓練時間を30時間以上削減する事を目的に,新たな練習機の計画が立てられます.
この仕様に対し,ハンティング・パーシヴァル社ではパーシヴァル145型という機体を提案しました.
145型は操縦性と安定性の向上を主目標とし,性能は二の次とすること,そして,機体部品は前作プロボストの機体部品をできる限り多く流用して開発期間と経費の削減を図る事を目標に設計が進められました.
その結果,プロボストの主尾翼は殆どその侭流用し,主翼の付け根部にジェットエンジンのエア・インテークが取り付けられ,胴体を再設計して中部胴体内に無人機用に開発された推力745kgのアームストロング・シドレー・バイパーASVエンジンを搭載し,ごく平凡な機体を設計します.
流石に,性能の向上に資する為,降着装置の固定尾輪式は前輪式の引込脚に改められました.
因みに,試作機にはプロボストの風防がそのまま利用されていたりします.
ただ,試作機には射出座席は無く,マジステールと異なり,与圧もついていません.
1954年6月26日に初飛行した145型は,米空軍のT-37に先んじて世界最初の量産型ジェット初等練習機という称号を得ました.
プロボストのジェット化と言う意味で,ジェット・プロボストと安直に名付けられた機体は,英国空軍に納入されると,直ぐ様評価が行われました.
その結果,ジェット・プロボストは未経験者で7時間5分,経験者だと僅か4時間55分の同乗訓練で単独飛行が出来るという操縦の容易さで,ジェット機の操縦感覚も容易に掴め,ヴァンパイア・トレーナーへの移行も容易に行える事が判明しました.
その後,T.2からは風防が枠無しのスマートなものに,射出座席が装備され,本格量産型のT.3では強化型のバイパー102を搭載して,翼端に増槽を装備したもので201機が生産されます.
T.4になると推力1,134kgのバイパー202へと換装され,出力は初期型の40%増しとなり,その結果,総重量が増加して搭載量も増し,この頃から出現した対ゲリラ攻撃機としての任務にも使え,198機が生産されました.
練習機型としての最終量産型はT.5で,機首が40cm延長されて与圧装置が追加され,主翼はプロボストの流用品から再設計されて燃料搭載量も増し,総重量が更に増加し,外部搭載量も増しています.
勿論,最大速度は,ピストンエンジンのプロボストの322km/hからT.5では658km/hと倍増しています.
パーシヴァル社はその後,BACに吸収されますが,極めて使いやすく信頼性に富むジェット練習機となっていた為,その使いやすさを利用して,T-37からA-37が生まれた様に,ジェット・プロボストを攻撃機にしようとしたのが1967年に誕生したBAC167型です.
これは,ジェット・プロボストの前部胴体と主翼を完全に再設計し,バイパーエンジンを推力1,547kgの強化型535型に換装,主翼下に8基のハードポイントを取り付けて,70mmロケット弾24発または50mmロケット弾96発,或いは500ポンド爆弾4発を搭載出来る様にして,射出座席も最新のゼロゼロ式を装備し,防漏タンクや装甲板も取り付けて,機首には7.62mm機関銃を2丁取り付けるという完全な攻撃機として再設計されたもの.
ストライクマスターと命名された機体は,対ゲリラ攻撃機としては中程度の機体ですが,多年に亘る使用実績とそれで積み重ねた使いやすさや信頼性は抜群で価格も安い…こうしたところが評価されて中東諸国や旧英領から独立してゲリラに悩まされていたアフリカ諸国,アジア諸国が発注してそれなりのベストセラー機となりました.
それにしても,当初プロボストを開発した技術陣はよもやこれが攻撃機にまでなるとは思わなかったのでは無いか,と思ってみたりして.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2013/08/11 23:51
青文字:加筆改修部分
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